99d8051c.jpg  またまた、突然舞い込むメールの話。

 まったくもって、鉄が磁石にくっつきたがるように、スパムメールは私に読まれたがって次々と寄ってくる。
 なんでだろうな?迷惑なのに(それゆえに“迷惑メール”と言うのだろうけど)。
 でも、発想を変えれば誰にも相手にされないよりは恵まれているような気にもなってくる。

 だって、この世の中、孤独な老人が実に多い(らしい)。孤独な壮年も多い(と思う)。孤独な若者も少なくないと思うが、そういう人にとってはスパムメールも予想以上に気分転換の効果があるかもしれない。引っかからないという大前提はあるが……。あ、あと、特に老人の場合はパソコンなり携帯を操作できる、いやそれ以前に持ってなきゃならないが。

 今回、孤独な壮年の私に届いたメールは、このようなものだ。

 〈タイトル〉
 チョコチップ先生、320万円の現金を今から送金しますね。連絡繋がって安心しています。

 〈本文〉
 いやぁ先生、営業一課の高橋です。
 連絡繋がって安心しています。
 お元気にされていますでしょうか?これよりスイス銀行にて保管していました、320万円の日本円をチョコチップ先生の指定の三井住友銀行に振込ますので、指定の口座の残高確認のために下記のURLをクリックして一度目を通して下さいませ。
 http://aqh89ry79cn.info/9zy5fnn*****************

 それにしても今回の新作を少し拝見しましたが、この作品もヒットしそうですね。
またOFFの際はご自慢の自家用ボートに呼んで下さいませ、若い子連れてきて遊びに行かせてもらいますね。
 では取り急ぎ用件のみの連絡でした。


 営業一課 高橋

 このメールから、以下のようなことが明らかになった。

 1. どうやら私の股の、おっと、またの名はチョコチップ先生らしい。
 2. 今回私は何かの新作を完成させた。その何かとは読むものか見るもののようだ。
 3. しかも私は過去にヒットを飛ばしている。
 4. 私は自家用ボートを持っていて、それを自慢にしているいやらしい奴らしい。
 5. 営業一課の高橋は日本語がなっていない。
   ・「若い子連れてきて遊びに行かせてもらう」
    →正「若い子連れて遊びに行かせてもらう」
   ・「取り急ぎ用件のみの連絡でした」と書いているが、「遊びに行かせてもらいますね」など、全然用件のみの連絡ではない。 
   ・なぜ保管していた320万を唐突に振り込むのか説明がない。
   ・いきなり、「いやぁ、先生」はないだろ!

 営業一課の高橋氏は、私が察するに出版社に勤務しているように思うのだが、みなさんはどのように考えるだろう。いや、もちろん仮想世界においてである。

 現実世界では、高野史緒(たかのふみお)さんが第58回江戸川乱歩賞を受賞したという記事が何日か前の新聞に載っていた。賞金は1,000万円。いいなぁ。

 私にも3,000万とか6億くれると申し出てくれる人がいるが、そして今回だって額は落ちるが320万円を振り込んだっていう報せが来ているわけだが、それはぜーんぶうそっぱちの世界の話。とても悔しい。って、私になんで悔しがる権利があるというのだろう……

 高野史緒の作品は1つだけ読んだことがある。「ムジカ・マキーナ」である(ハヤカワ文庫)。ブルックナーなどが出てきたりして、なかなか楽しめたが、やや荒唐無稽っぽい印象を受けた。いくら小説とはいえ、ありえなさ過ぎないかいって思った次第。そういう斜に構えた読み方はご法度か?……

 今回受賞した作品は「カラマーゾフの兄妹」というもの。
 てっきり「カラマーゾフの兄嫁」かと思って、一瞬わくわくどきどきしたのだが、歳とともに読みづらくなった新聞の文字を、眼球周辺の筋肉を総動員してもう一度確かめたら“兄妹”だった。ちょっと落胆……って何を考えてるんだか、まったく。

 内容はまったくわからないが、タイトルだけで読みたくなってきた。よし、決めた!文庫になるのを待とう。いつのことになるかわからないが……

 「音楽のかわりの荒唐無稽」とプラウダ紙上で致命的ともいえる批判を受けたのは、ご存じショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-1975 ソヴィエト)。

0fe9b171.jpg  プラウダでの論文を受け、こりゃ相当やばいと感じたショスタコは、初演のリハーサルまで終わっていた交響曲第4番ハ短調Op.43(1935-36)の演奏を中止し、お蔵入りにしてしまった。その後1961年に初演されるまで幻の曲となったが、その判断は間違いなく正しかっただろう。この曲を聴けばわかるだろうが、もしこの時に発表していたら、それ以降の活動なんて全くできない状況に追い込まれただろうから(処刑されていた可能性がある)。

 第4番を欠番のままに、このあとショスタコは交響曲第5番を発表、一応の名誉回復を果たした。

 交響曲第4番は3楽章から成り、オーケストラの編成はショスタコの交響曲中最大。曲についてはこちらをご覧いただければと思う。

 当時、ショスタコはマーラーの作品を熱心に勉強しており、第4交響曲にはマーラーからの影響があると言われている。
 ただ、この曲はブツッブツッとわざと流れを断ち切ってるんじゃないかというところがあり、そこがマーラーの交響曲とは違う。また、彼の生き方がそうであったように、音楽もかなり二重人格、いや多重人格的だ。暴力的なところと繊細なところが、“計算された制御不能”のように入れ替わり現れる。

 この複雑さ、とりとめのなさは演奏によっては、ただただ混沌とした音の渦になってしまい、聴いていてビンタをはられたかと思ったら、そのあとそっと置いておかれるという、その繰り返しで、そのまま「あっ、なんだかよくわからないけど、終わったんだな」と、ジェットコースターからふらふら降りた時のようなボーッっと感が残る。
 これは虫歯の治療に通じるものがある。すなわち、口の中でキュンキュンとドリルを回されたり、突かれて激痛が走ったかと思うと、口を開けたままでしばらく放置されるのに似ている。
 このたとえが、さっぱりわかってもらえないとしたら(あなたが虫歯治療の経験が一度もない、など)、やけのやんぱちでグルグルと500円ぐらいの万華鏡をせっかちに回しながら覗いている感じ、とでも言っておこう。

 この曲では、のちのショスタコのいろいろな作品に現れる動機、メロディーも現れる。それを将来への予告と考えることもできるだろうが、逆にオクラになって演奏されるめどがたっていなかった第4交響曲の素材を、そのあとの諸作品で改めて披露したとも言える。
 さらに、第1楽章に現れるカッコウの声を模したような動機は、おそらくマーラーの交響曲第1番の存在が無関係ではないだろうし(マーラーの第1番からの“引用”というのは言い過ぎではないかと思う)、終楽章では「カルメン」(ビゼー)や「魔笛」(モーツァルト)、民謡の「カリンカ」など、いろいろな楽曲からの引用がある。

 第4交響曲にもすばらしい演奏は少なからずあるが、コフマン指揮ボン・ベートーヴェン管弦楽団による演奏は、作品全体を見渡せるという意味でもとりわけいい。
 力で押し付けてくること無く(かといって、物足りなさは皆無)、まるで思いつきのように次々と表情を変えていくカオスの渦のようなこの曲を、見事に交通整理している。場面の変化がスムーズで唐突感が緩和されている。「ウルトラQ」のオープニング画面で、文字がはっきりと見えたときの状態のよう。というのは古すぎてわかってもらえないとしたら、そう、何万円もする高級な万華鏡を覗いたときに体験できる(小樽あたりの店に展示されているのを覗くことができるわけで、私も買うまではしない)、極上の美しさの変化(へんげ)のようだ。
 スコアを追いながら聴いてみたくなる、そんな演奏なのである。
 また、曲の終わりの、チェレスタが加わる場面(マーラーの「大地の歌」の最後を意識していると言われる)の美しさも極上物だ。

20dd6807.jpg  2006録音。MDG。

  万華鏡のことを英語で加齢度スコープ、おっとどっこい、カレイドスコープというが、写真を載せたバラは“カレイドスコープ”という品種である。
 万華鏡のように、とは言わないが、開花してから散るまでの間に花色が変化していく。