「ボロディンは医大の薬学教授で50歳。これまた有能で、目をみはるほど、と言っても良いでしょう……。しかし風格の点ではキュイに劣り、これまたテクニックがお粗末なので、他の人の助けを借りなければ一行も書けません」

fbbd0324.jpg  これはチャイコフスキーがメック夫人に宛てて書いた1878年1月5日付の手紙の一部である(H.C.ショーンバーグ「大作曲家の生涯(中)」(共同通信社)より)。

 あのチャイコフスキーが有能と認めているボロディン。しかし、キュイより風格が劣るという記述は、われわれにとってちょっと意外である。

 キュイ(Cesar Cui 1835-1918 ロシア)は“5人組”の中では今日、最も地味な存在である。彼の作曲分野の中心は歌曲であり作品数も多いが、おそらくもっとも知られているのは「オリエンタル(Orientale)」である。ヴァイオリンとピアノのために書かれた24曲から成る「万華鏡(Kaleidoscope)」Op.50(1893)の第9曲で、チャイコフスキーも「スラヴ行進曲」のなかで用いているセルビア民謡「明るい太陽」が使われている。また、この曲は他の楽器用に編曲されてもいる。ちなみに、写真のバラの名も“カレイドスコープ”である。枯井戸……そんなことを連想してしまう私。井戸好きの村上春樹っぽく。
 私はキュイの作品は「オリエンタル」しか知らないが、それでもボロディンより風格があるというのは違和感がある。

 手紙が書かれた1878年というと、ボロディンは交響曲の第1番と第2番(1877初演)を既に完成させていたが、弦楽四重奏曲やオペラ「イーゴリ公」は完成していなかった。チャイコフスキーがボロディンのどの作品から評しているのかはわからないが、交響曲のことだったのだろうか?

 そのボロディン(Alexandr Borodin 1833-87 ロシア)の交響曲第1番変ホ長調(1862-67)。この曲はボロディンの出世作となった作品である。

 ベートーヴェンやシューマンの影響を色濃く残していると言われるが、それでも明らかにボロディンでなければ生み出せない音楽と言える。

 ボロディンには幼いころから音楽の才能が認められてと言うが、それがはっきりと発揮されるようになったのはサンクトペテルブルク大学卒業後、1859年に化学を学ぶためにハイデルベルク大学へ留学したときだった。
 ハイデルベルクでボロディンはピアニストのプロトポポヴァと出会った。彼女とボロディンは恋愛関係になったが、そのことがボロディンの音楽に対するスタンスに変化をもたらせた(彼女はのちにボロディンの妻となった)。
 ハイデルベルク大学を卒業した62年にボロディンはサンクトペテルブルクに戻り、同大学医学部生化学に勤務したが、“5人組”に最後のメンバーとして加わった。ボロディンが正式に作曲を学んだのはこのとき、1863年に“5人組”のリーダーだったバラキレフからが最初だった。
 
28992d8a.jpg  ボロディンの才能を見抜いたバラキレフは交響曲の作曲を勧めたが、こうして生まれたのが第1交響曲である。
 この曲の1869年の初演(1869年。その前年の1868年に試演会があった)は失敗したが、リストの目にとまり、ボロディンの名を国際的なものにした。

 交響曲第1番は出世作としてはあまりに完成度が高いものの、あまり演奏機会には恵まれていない。それは第2交響曲のような強烈な個性が弱いためだろうが、それでも非常に魅力的な作品である。

 先日アンドリュー・デイヴィス指揮トロント交響楽団による第2交響曲の録音を消化したが、同じCDに収められている第1番の演奏もとても良い。
 A.デイヴィスの演奏は、むしろ第2番のときよりも成功していると思われる。

 それはあまり土臭くやろうと気負っておらず、ヨーロッパの色合いを素直に出しているからではないだろうか?それが西欧風ロシア料理、あるいはロシア風西欧料理(どっちなんだろう?)のような、ボロディンにとっては過渡期に創作されたこの曲にぴったりとマッチしている。 

 4つの楽章から成る40分弱のこの曲、埋もれさせているのはあまりにももったいない。
 知らない人にはぜひとも一度、できるならこの演奏で聴いてほしいと真剣に思ってる私である(この曲については前にゲルギエフ盤を紹介したが、私はデイヴィスの方に心が傾いてしまった)。

 A.デイヴィスのCDは録音年が不明。
 レーベルはNewton Classics。