ece7d108.jpg  シューマン(Robert Schumann 1810-56 ドイツ)の「暁の歌(Gesange der Fruhe)」Op.133(1853)。
 5つの小品(ニ長調/ニ長調/イ長調/嬰へ短調/ニ長調)から成るピアノ曲。

 この曲は楽譜出版に際しシューマン自身が関わった最後の作品だという。

 シューマンは1854年の2月27日、家を抜け出し土砂降りの中、ライン川の河畔に向かった。妻クララとの結婚指輪を川へ投げ捨てたあと、投身自殺を図った(その少し前、年の初めころ、「天使たちから新作の口述を受けている時、虎やハイエナに身をやつした悪魔に襲われ、地獄に堕ちそうになった」幻覚を1週間にわたって見た(H.C.ショーンバーグ「大作曲家の生涯」(共同通信社)より))。
 近くにいた船員に助けられて家に運ばれたが、その数日後にはボン郊外にある精神病院に自らすすんで入った。

 その直前の2月23日に、シューマンは出版社のアーノルドに宛てて「暁の歌」について手紙を書いている。その時、楽譜も同封されていたのかどうかは私にはわからないが、手紙には8a4d2935.jpg 「Op.126のフーガは憂鬱なので出版したくない」こと、かわりに「最近書き終えたピアノ小品集『暁の歌』を渡す」こと、「これは夜明け前に感じることを描いているが、情景の描写ではなく夜明け前の感情の表現である」こと、が書かれている。

 その後シューマンは作曲できるまで回復したものの、1956年の夏には嗅覚と味覚の異常と浮腫が起こり、7月29日に亡くなった。 

 私はずいぶん前に「暁の歌」をコンサートで聴いたことがある。
 それも、曲を聴きたいというよりは、ホールの音を聴いてみたいという目的で。

 1987年10月31日。
 そのとき私はたまたま東京にいた。

 その日、サントリーホールで“国際作曲委嘱シリーズ1987”というシリーズもののコンサートが行われた。監修は武満徹。サントリーホール1周年の記念コンサートである。

70be491e.jpg  今はどうか知らないが、あの頃サントリーホールでのコンサートとなれば、当日券なんてとても買えなかったはずだ。ふつうのコンサートなら。
 が、買えた。
 演目が嫌われ者のゲンダイオンガクだったから。

 なんといっても、泣く子も逃げ出すようなプログラムだったのだ。でも、間違いなく貴重な演奏会でもあった。私は世界初演の曲を聴けたのだ。

 メインはリーム(Wolfgang Rihm 1952-  ドイツ)の「無題Ⅱ(Unbenannt Ⅱ)」(1987)。この日のコンサートのために委嘱された作品で、もちろん世界初演。
 サブ・メインとも言うべき曲は、ラッヘマン(Helmut Friedrich Lachenmann 1935-  ドイツ)の「オーケストラのための『ファサド(Fassade)』」(1973)。これは日本初演。
 どちらもバリバリのゲンダイオンガク。
 客席の私は「う~ん、これがサントリーホールの響きかぁ」と感慨無量、になるもなにも、委嘱作だか意欲作だか異色作だか、あるいはオンガクだが騒音だかよくわからないままだった。

 それでも、コンサートの第1曲目はベートーヴェンの交響曲第5番だった。
 音を聴くには最適……のはずが、井上道義が指揮する新日本フィルは、これがまたそのあとの“ムズカシイ音楽”に緊張しているせいか、どうもパッとしなかった。

 ベートーヴェン、ラッヘンマンの順でプログラムは進み、3曲目はなぜかピアノ独奏曲である「暁の歌」。
 ラッヘンマンのあと、当時は知らなかったこの曲に対し「独奏曲じゃなくて毒素曲じゃないのか」と構えて聴いたが、ふつうの曲だった。
 武満がどのような意図で、ここにこのピアノ曲を挿入したのかわからないが、不思議な組み合わせに思えた。このときのピアノ独奏は高橋アキ。

 1987年というと、もう26年も前の出来事だ。
 私も26年分老いたわけだ。

 老いたと言えばポリーニ。
 ポリーニは1942年生れだが、昔の若々しくて、ややニヤけた表情なんてちょっとエッチぽかったのに、いまやすっかりおじいさんだ。そりゃそうだ。70を越えてるわけだもんな。
とはいえ、 ポリーニのCDのボックスセットの写真と中のブックレットの写真を比べると、やはりその変化にあらためて驚く。

 そのポリーニの演奏による「暁の歌」。

 この演奏がすばらしいのかどうか、私には判断できる材料が足りないのだが、少なくとも良くないとは思わない。
 そりゃそうだよな。ポリーニだもん。
 2001録音。グラモフォン。