f9c4c4b6.jpg   ここの赴任地では雪もほとんど融け、私も先週、冬用の靴から夏用の靴に履き替えた。

 とはいっても、首都圏の人たちが履くような靴底がツルツルのものではない。“真冬以外用”と私が勝手に命名している、底にはそれなりにギザギザの模様が入っているものだ。
 だって、ツルツルだと雨の日のタイルの上とか、とっても滑って怖いんですもの。

 さて、私が履くと、靴底はなぜ両足ともかかとの外側が減るのだろう?
 どんな歩き方のクセがこんなふうにするのだろう?
 自分ではO脚ではないと信じているが、必ず両方のかかとが外側から減っている事実は、O脚が疑われる。実に不思議だ。

 冬仕様の靴から夏仕様の靴に履きかえると、スキー靴からサンダルに履き替えるほど劇的な変化はないものの(そりゃそうだ。底のパターンが違うだけなんだから)、それでもなんとなく嬉しい。

 嬉しいといえば、朝も明るくなる時間も早くなり、夜暗くなる時間も遅くなった。簡潔に言うと、日が長くなったということ。

 それとはあまり関係ないが、「傍聞き」のあとに私が買った長岡弘樹の小説は「陽だまりの偽り」(双葉文庫)。

35138111.jpg  物忘れのひどくなってきた老人が、嫁から預かった金を紛失。だがこのことで、老人は同居 している彼女の気持ちに触れる――表題作。市役所管理の駐車場で人が転落死した。事件は役所内の人事に思いもよらぬ影響を与えた――「プレイヤー」。日常に起きた事件をきっかけに浮かびあがる、人間の弱さや温もり、保身や欲望。誰しも身に覚えのある心情を巧みに描きだした5編。

 というのが、裏表紙に書かれた紹介文。

 「傍聞き」に引き続き、これも唸った。いや、近所の犬でなくて、私が。
 コブラツイスト級のひねりだ。

 表題作のなかで老人が外出中に急に尿意をもよおし、我慢の限界寸前になる場面があるが、わかります、この危機的状況。私も飲んだ帰りになることがあります。困ったもんです。

 それはそうと、“ラ・パリジェンヌ”に続き“夢紫”も死んでしまった可能性が高いと報告したが(一応知らない人のために親切に説明すると、どちらも薔薇の株苗のこと)、年末に“サカタのタネ”に注文していたバラ苗の“ブルー フォー ユー”が先日届いた。

 私のブルーな気持ちを後押ししてくれるようなタイミングの良さと言える。

627f0124.jpg  この苗は鉢に植えられた状態で送られてきたが、もちろん自宅に帰っても庭はまだ雪山で地植えできないし、添付されてきた説明書きにも、根を痛めないようしばらくはそのまま管理せよと書かれていたので、その状態で置いておくことにした(つまり私には他に選択肢がない)。

 このイキイキとした葉、太くて生命力を感じさせる枝を見て、「おぉ、これこそがバラの本来の姿」と私は感慨無量になり、「よし、ダメもとでもう一度あの2つの枯木を蘇生することにトライしよう」と思い立った。
 ご覧なさい。植え替え前のミニ・トドワラのような風景を。

 近くに園芸店がないので、不本意ではあるが、土はまたまた百均で買った。
 今回は土の通気性を一段と高めるため、腐葉土を多めに“花の土”に混ぜて使うことにする。

 夢紫を鉢から抜き取ると、根は腐っていないし、見たこともないイモムシが自然発生していて根を食い荒らしていたということもなかった。これだけ見る限りでは、まだなんとかなりそうだ。

 細い根を切り払い、植え直す。
 にしても、ひどい腐葉土だ。百均だから仕方と言えば仕方ないが、かなり質が悪そうだ。毒が混じってることなんて……ないよね?いや、重金属の宝庫だったりして。

 ラ・パリジェンヌは根も枯れているようだ。
 根を切ってもみずみずしさはない。枝を切ってもまったくもってセルロース野郎状態。やっぱご臨終だと思いつつも、一応植え替えた。

 夢紫については、もし助かるとしても、それは台木の方だけかもしれない。バラ苗は接ぎ木してあるので、上の夢紫そのものはもうだめになっている恐れがある。あるいは、台木までも復活しないかもしれない。

 そしてまた、立て続けに2つのバラがおかしくなったのは、疑うべき要素としては、植えつけ方が悪かった、土が悪かった、部屋の環境が悪かった、などが考えられるが、どうも土のような気もしてきた(あるいは、これまた百均で買った液体肥料)。
  新芽が、ブルックナーの3番の第4楽章開始部のようにヒュルヒュル、ヒュルヒュル、ヒュルヒュル、ヒュルニュル、ヒュルニュル、ニュルニュル、ニュルニュル、ニュルヒュル、バーンバーババーブゥ~……と伸びてくるという夢のようなことが起きればいいのだが……
 いずれにしろ、助かったら儲けもんである。

51474750.jpg  ブルックナー(Anton Bruckner 1824-96 オーストリア)の交響曲第3番ニ短調WAB.103(1872-73/改訂1876-77)。
 「ワーグナー交響曲」の愛称で呼ばれることもあるが、それはこの曲がR.ワーグナーに献呈されたことによる。また、初稿ではワーグナーの楽曲からの引用か随所にあった。しかし、改訂が重ねられるうちに、引用箇所は削除されていったという。

 ブルックナーというと、伝えられている風貌や振るまいから、どう考えてもダサイおっさんなのだが、この第3番第1楽章の開始や第4楽章の開始なんかは、宇宙的というか未来的な感じがする。

 この曲の初演は、1877年にブルックナー自身がウィーン・フィルを指揮して行なわれたが、オーケストラは曲を理解できず、指揮は下手くそ、聴き手にはチンプンカンプンで、終演時にはほとんど会場に人が残っていなかったという。
 そんななか、残っていた聴衆の1人に、当時17歳ぐらいだったマーラーがいたという。
 マーラーはこの曲に、どんな革新性を感じたのだろうか?(革新性と決めつけるのは私の勝手な思い込みである)。

 チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルの1987年ライヴ。
 たっぷり引っ張ったりテンポが遅かったりというのは、チェリビダッケにとってはいつものこと。でも、この演奏、ずいぶんと響きが薄い。どうも、私が抱いている理想のブルックナー像とは異なる。
 ホールのせい?録音のせい?それとも、チェリビダッケの狙い?
 あの新着バラのように、がっしりしたのが好みなのだが……
 EMI。