3e78bbac.jpg  「回想ドラマ、はじまり、はじまりぃ~」、と幕が上がるのを告げるような最初のグロッケンの2打から(私は葬式のときに導師が式場に入ってくるときに鳴らす鈴(りん)の音を思い出す)、曲の最後のすべてが終わり消滅するようなグロッケンの1打まで、あっという間に聴き終わってしまう。
 すっかり演奏に引き込まれてしまって曲が短く感じる。それほどの魅力、引力、牽引力があるだ。

 ショルティ/シカゴ響によるショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第15番イ長調Op.141(1971)。

 私は悩んじゃっている。
 この曲の録音ではザンデルリンク/クリーヴランド管(1991録音。エラート)を超える演奏はないと(もちろん名演という意味で)という確たる信念を、私は頑固じじいのように持っていたのだが、最近このショルティの演奏を聴いて、融通がきく善人に改心すべきかと悩んでいる。

 じくじく、めそめそしていない15番だ。主観的な印象のあるザンデルリンクに対し、ショルティのは-これがこの人の良いところ-客観的だ。
 全曲中でも数少ないオケの強奏箇所でもスマート。スネ夫の気に障る言いぐさのようなイヤミがない。といって、つまらないのではまったくない。この不思議触感作品を、実に知的に破たんなく一つ一つの音を紡いでくれている。この冷艶な表現が、私に、この曲に対する畏敬の念をかえって増強させる。
 子どものころにショスタコが体験したおもちゃ屋のイメージという「ウィイリアム・テル」序曲だって、さりげない。もう、昔の思い出に感傷的に浸っていられる状況じゃないってことか?

 第2楽章の最初もおどろおどろしい表情はなく、むしろほんのりと温かい。この音楽はたとえキリンが逆立ちしようとも明るいとは分類しようがない類のものだが、ショルティの表現は底なし沼的ではなく、女々しく泣くようなものではない(女性の方、すいません)。

 第3楽章も苦々しい軽妙さを伴っている。不自然な快活さ、高速度が、この曲の作為的とも言える不器用な表情を妖しいものにする。

 終楽章。速く先へ進まなきゃもう残された時間はないというかのように、切迫した速度。よどみなく淡々と進む。そして、第7番第1楽章を思い出させようとしているに違いないリズムが実に効果的に響く。
 そして、すべてが昇華する。どこまでも美しく……

 ショルティのショスタコについては、まだ8番と9番しかここでは取り上げていないが、切迫気分で言ってしまうなら、この15番の演奏が最もすばらしいと私は感じている。
 
 ただし、曲自体が不思議オーラ大放出ってもんなわけで、じゃあショルティの演奏が決定打か?これさえあれば他の演奏は忘れていいか?となると、コトはそれほど単純ではない。
 上に書いたザンデルリンク盤は、私としてはみなさんにぜひとも聴いてほしい演奏だし、ほかにも名演がたくさんある。 ということは、この曲はそこそこの演奏でもきちんと聴こえる傑作ってことになるんだろうか?
 私は10種類以上の演奏を聴いているが、ショルティ、ザンデルリンクは大推薦としても、他の演奏もどれも推薦に値する演奏だと思う(ただし、ザンデルリンクでもベルリン放送響との録音は、ちょいと満足度に劣る。また、スロヴァークが指揮したナクソス盤は、腹立たしいほどスカスカで音楽的じゃない)。
 話の収拾がつかなくなってきたので、とにかくショルティ、やってくれるぅ!ってことで……

 1997録音。デッカ。