03356eec.jpg  土曜日の午後、仕事から戻った私は自家用車のタイヤをヨコハマのECOSからブリジストンのICEPARTNERに交換したわけだが、つまりは夏タイヤからスタッドレスタイヤに履き替えたわけだ。

 次回のタイヤ交換が6か月から6か月半先のことだと思うとうんざりする。いや、またタイヤ交換作業をしなきゃならないということではなくて、あまりに冬期間が長いことにうんざりなのだ。

 そのこととは関係ないが、帰宅途中に百貨店の地下に寄り、そこでメンチカツを買った。
 どうしてもそこのメンチカツが食べたかったのだ。1個120円だが、スーパーで売っている衣が脂っぽくて中身の得体もよくわからない、でも100円のものとは、やはりモノが違う。

 メンチカツを持ち帰った私は、これを冷蔵庫に入れるか、揚げ物だから室内にそのまま置いといてもよいかしばし迷った末、そのまま置いておくことにし、着替え、タイヤ交換作業のために1Fに下りた。
 交換作業はちょうど1時間かかった。
 ワイパーも冬用に換えたが、助手席側のもののゴムに少し亀裂が入り、拭き取りが悪くなっている。買い替えが必要だが、冬用のワイパーブレードは夏用よりも高いのでちょっとムッとした。

 週末はなんとなくカレーが食べたかった。レトルトとかじゃなくて、手作りのカレーを、である。
 そこで、作業を終えたあと、スーパーに行きカレールゥと漬物と肉を買ってきた。タマネギとニンジンは冷蔵庫にある。ジャガイモは、私は入れない。

3f3d860e.jpg  ウチでは妻も子供たちもジャガイモ入りが好きである。が、私は外食レストランの多くの店において、カレーにはジャガイモが入っていないというかなり無謀な主張をして、イモは入れないことにしている。時間とともにとろみが強くなるのがいやなのだ。

 その代わりというわけではないが、最近になって、健康のことも考慮し、体に良いとされるキノコを入れるようにしている(といっても、過去1度しかやってないけど)。
 ただし、今はふだん子供たちは別に住んでいるが、いたとしたらキノコ入りカレーは拒否するに違いない。

 肉は豚肉の角切りに決めている。カレー・シチュー用というやつだ。
 だが、今回売っていたものはあまりに脂身が少ない。赤身ばかりだ。脂身好きじゃないが、これでは食感が悪すぎる。

 そこでやむなく、豚もものスライス肉にする。もも肉にしたのはお財布とひそひそ相談した結果だ。見苦しくパックされたトレーをあれこれ物色し、適度に脂が残っているものを選ぶ。

 漬物は、自然食志向の人なら原材料に不安があるから絶対に買わないだろうと思われる1袋100円のつぼ漬けをカゴに入れる。88円の福神漬けにも一瞬目が行ったが、福神漬けはカレー以外での汎用性が極めて低く、残った分が冷蔵庫の不良在庫になる。青じそ大根も同様だ。

 カレールゥはバーモントカレー。今回は辛口にした。
 ほかにミネラルウォーターを買う。
 レジの人が、「この人、今夜はカレーなのね」と気づくに違いないラインナップだ。

 大丈夫。私の計算では大丈夫なはずだ。
 実は財布の中には1万円札1枚と1000円札1枚しか入っていなかった。小銭はゼロ。1枚も持っていなかった。
 だから会計のときに1000円以内に収まるように計算していたのだ。これで「1,052円です」とレジ係の人に宣告され、1万円札を出し、「1万円からでよろしいでしょうか?」と問われると、責められているようで心が痛むと同時に何とも恐縮してしまう。

 同じルーを使って、同じような材料を使っても出来上がりの味が微妙に違うのが、カレーの不思議さだ。
 今回の出来はまぁまぁ。

 と最後になって気づいた。
 キノコを買うのを、入れるのを忘れたことに。

 こうして私は、エノキダケを買いに、再びスーパーに行くはめになったのだった(ほんとはシメジにしようかと思ったのだが、エノキの方が安かった)。

 なんで、カレーのことをわざわざ書いたのかというと、先日読み返していた村上春樹の「雑文集」(新潮社)の中に、

 そう、小説家とは世界中の牡蠣フライについて、どこまでも詳細に書きつづける人間のことである。

という記述があるからだ(ついでに言うと、ここにはメンチカツという言葉も出て来てしまう)。
 だから頼まれもしないのに、カレーのことを書いた。厳密にはカレーを作るための買い出しについて書いた。私は小説家を目指しているわけではないが……。
 さらには、その前にはメンチカツも買ってしまった。

 小説家じゃないから、カレーについての上の記述も詳細さに欠ける。
 本来なら、タマネギをどういう角度でどういう大きさで切ったとか、どんなオイルを使って炒めたとか、フライパンのサイズは何センチだとか、肉はどういう下味をつけたかとか、ニンジンの皮むきはどのような道具を使ったのかなど、一切書けていない。

 その次のページには、氏の「約束された場所で」(文春文庫)を執筆する際、オウム真理教の信者にインタビューしたことが書かれている。

 彼らの多くは、自分というものの「本来的な実体」とは何かという、出口の見えない思考トラックに深くはまりこむことによって、現実世界とのフィジカルな接触を少しずつ失っていった。人は自分を相対化するためには、いくつかの血肉ある仮説をくぐり抜けていかなくてはならない。ちょうどモーツァルトの歌劇「魔笛」において王子タミーノと王女パミーナが、水と火の試練をくぐり抜けることによって(メタフォリカルな死を経験して、と言ってもいいかもしれない)、愛と正義の普遍性を理解し、それを通して自己というポジションのありようを認識していくように。……

 そこで今日は牡蠣でもメンチでもバーモントでもなく、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)の歌劇「魔笛(Die Zauberflote)」K.620(1791)。
 作品についてはこちらで触れているので省略。
 しかも今日は全曲ではなく抜粋盤をご紹介。

 カラヤンのもの。私にとっては「なぜ?」って感じなのだが、手元にあるのは事実。そして、定評のある演奏である(全曲盤から序曲と15曲を選んでいる)。

 カラヤン指揮ベルリン・フィル、ダム(ザラストロ)、オット(夜の女王)、マティス(パミーナ)、タミーノ(アライサ)、パパゲーノ(ホーニク)他。
 1980録音。グラモフォン。