15ce1985.jpg  北海道新聞の朝刊に週1回連載されている「おじさん図鑑」。
 書いているのはエッセイストの飛鳥圭介氏。
 先々週のタイトルは「嫌いな言葉」だった。

 ずっと以前、おじさんはこんな文章は嫌いだということで、「~と思うのは私だけだろうか」というのをヤリ玉にあげた。鼻持ちならない気取りが透けて見える、と書いた。ひと様の文章を批判する資格などないが、好き嫌いなら言える。おじさんが嫌いな定形文がもうひとつある。
 「その結果、☓☓したのは言うまでもあるまい」
 という文章だ。


 なるほど。
 確かに「~と思うのは私だけだろうか」というのは、聞いていて「そうだよ、おまえだけだよっ!」と思わず突っ込みを入れたくなる。が、小心者の私は、それを心の奥底でつぶやくだけである。

 「☓☓したのは言うまでもあるまい」?
 確かに、それじゃあ言わなくてもいいよな……

 で、私は昨日JRで移動したわけで、その結果、車内で読書したのは言うまでもあるまい。

 浅田次郎の「蒼穹の昴」第4巻(講談社文庫)。
 前回の都市間移動の際に、計算ミスで携えた本を早々に読み終えてしまい、割り込みで急きょ購入した「珍妃の井戸」を読んだが、やっと連続ものの最終巻に入ることができた。

 人間の力をもってしても変えられぬ宿命など、あってたまるものか―紫禁城に渦巻く権力への野望、憂国の熱き想いはついに臨界点を超えた。天下を覆さんとする策謀が、春児を、文秀を、そして中華四億の命すべてを翻弄する。この道の行方を知るものは、天命のみしるし“龍玉”のみ。感動巨編ここに完結!

なのである。あらすじは。

 ところで、「~と思うのは私だけだろうか」とか「☓☓したのは言うまでもあるまい」なんていう言い回しの文章を書く音楽批評家っているよな。誰とは言わないけど。
 確かに、その人の書く評論や批評って、上から目線の姿勢がとても強く滲み出ていて、私も好きじゃない。
 これって、つまりは、私がおじさんである証拠にほかならないと思うのは、私だけだろうか?(←そーだ、そーだ!)

38725af6.jpg  ショルティ/シカゴ響によるショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第10番ホ短調Op.93(1953)。
 1990年のライヴ。

 ショルティが指揮したタコ10と、おじさんが嫌いな言葉と、中華四億の命になんら関係がないことは言うまでもあるまい。

 おじさんどころか、1912年生れのショルティがこの演奏をしたのは、あと何年かで80歳になろかというとき。もうおじいさんと呼べる歳であったのは言うまでもあるまい。

 なのに、信じられない!この若々しさ、スピード感。いったい何種類のサプリメントを飲んでたんだ?と思わずにはいられない。

 速すぎるんじゃないかとさえ思ってしまう。が、これがショルティなのだ。
 そしてピシッとした締まりと筋肉質の歯ごたえ。放し飼いで育てた国産鶏のもも肉のようだ(もちろん偽装していないやつ)。

 第9番と一緒に収められているのもいい。軽食のような(でも毒のある)第9番があったからこそ、そのあとにこの第10番の“重さ”が生きる(気がしないでもない)。

 デッカ(タワレコ・ヴィンテージ・コレクション No.10)。