17311c2d.jpg  先週に後半、北海道は低気圧の影響で広い範囲で荒れた天気となった。

 金曜日の昼過ぎに東京から北海道に戻るとき、多くの北海道路線が雪のために羽田に引き返す場合がありますと、繰り返されるアナウンスが条件を突きつけていたが、私の乗った便は困難を克服してそんな条件を呑むことなく無事到着してくれた。

 私の経験では、「引き返すかもしれない」との条件付きで飛び立ったときは、ほとんどの場合、良かったねとばかり無事目的地に着陸してくれる。
 ほとんど降りるめどがついてないなら、わざわざ離陸して「無駄足だったなぁ、はははは」と引き返すことはしない。
 トーゼンである。
 遊覧飛行じゃないのだから、機内サービスでお茶やらジュースを振舞うのはもったいないったらありゃしないでしょ?

 私の経験では一度だけ、大阪から千歳に飛んだときに、再び伊丹に引き返したことがあった。
 このときは、離陸前に何のアナウンスもなかった。なぜなら千歳空港には問題となることは何も起こっていなかったのだ。
 が、説明によると、離陸後突如千歳は大雪となり、「降りられないよ」という管制からの指示で秋田上空で待機したものの、滑走路の除雪が追いつかず、これ以上秋田の空でグルグルグルグルグルコサミンの中田喜子のひざのように回っていると、行くにも戻るにも燃料が不足してしまうということで引き返したのだった。

 これなんかは異例である。あらかじめわかっていたら欠航したはずだ。
 私は出発前に伊丹でお土産に買った日持ちのしないプリン大福を、なんとか予約が取れたホテルのフロントにプレゼントした。

 TVのニュースを見ていると、今年は小樽もすごい雪だ。
 坂道も多い街だから大変だろう。

83f01382.jpg  木樽である。
 村上春樹が文藝春秋の新年号に載せた小説「イエスタデイ」に出てくる“僕”の友人の名前は木樽という。ちなみに“僕”は谷村という。
 で、木樽の彼女の名は栗谷えりかである。

 結局はこの小説、いつもの春樹小説っぽく、過去の自分との決別であり、虚無感、喪失感がプンプンしている。

 セックスとマスターベーションについての話題が出てくるのも「またかい」って感じで、「だって村上春樹だもん」といえばそのとおりだが、なんでセックスのことに必ず触れなきゃならないのかなと、氏がセックスを取り扱う意味を対談で述べているとは読んではいるものの、私としては遅ればせながら食傷気味。
 が、それでも最後まで読まされてしまうのは(短いという問題とは別に)、さすがではある。

 東京の大学に入ることで、それまでの人生を葬ろうとした“僕”の存在とそのもがきは、ほかの春樹小説に共通するものだが、われわれ誰もがそこまで思わないにしろ、だいたいにして幼少期から青年期にかけての思い出なんて、概ねハッピーなものではない。

 より純なはずの子どものころだってそうだ。
 近所の子らと遊んでいたって、最後には余される人が必ずいたし(それは固定してはいなかったが、完全回り番でもなかった)、ジャイアンじゃないが悪がきのボス的存在は脅威の的だった。

 尾高 尚忠(Otaka,Hisatada 1911-1951 東京)の「日本組曲(Japanese Suite)」(1936)の第2曲「遊ぶ子供」を聴くと、そんなことを思い出してしまう。

 この組曲は「子供の一日」という副題が付けられて、ウィーン音楽院に提出するためのピアノ曲として作曲された。
 その後、1938年に卒業用にオーケストラ用に編曲されたが、それはワインガルトナー賞を受賞した。オーケストラに編曲する際に副題は削除されている。
 4曲から成り、各曲は、

 1. 朝に
 2. 遊ぶ子供
 3. 子守歌
 4. 祭り

である。

 このなかの「遊ぶ子供」は、無邪気な子供の先の行動が読めないような流れるような躍動感があり、また捉えどころのない浮遊する感じもする。洗練された明るいメロディーだが、どこかもの悲しさも含んでいる。
 氏のフルート協奏曲にも感じることだが、こういう曲が当時日本で書かれていたというのは驚きだし、今でも新しい音楽に聴こえる。
 
 山岡重信指揮読売日本交響楽団の演奏で。
 1972録音。ビクター。

 心理学理論の1つにエリック・バーンが提唱した交流分析(Transactional Analysis=TA)ってのがある。
 これについては少し詳しく学んだことがあるが、TAでは“三つ子の魂百まで”のごとく、幼少期でその後の自分の人生を決定付ける“人生脚本”が作られる。もちろん私たち自身はその脚本がどんなものかは知らない。
 概ね7歳までに書き上げられた人生脚本は、幼稚園、小学校という家の外の集団生活で試される。リハーサルだ。そこで証明されたり修正が加えられ、人生脚本は15歳ころには確定するという。たとえば学校に進んでも仲間はずれだとすると、その人は「私は必要とされない」というのが脚本の根っことなってしまう。

 私の脚本もいろんな挫折やら失敗が基本に盛り込まれているに違いない。
 リハーサルで「やっぱりボクはダメなんだ」と無意識のうちに納得したかもしれないし、より悪い方に脚本が修正されたかもしれない。
 暗い、恥ずかしい思いはたくさんしてきている。皆さんと同じように。あるいは皆さん以上に。
 それは今後、自虐的に追々ここで触れられることになると思う。

 小樽がどーたらこーたらと書いたが、昨日から東京に来ている。
 今回は木曜まで平河町に滞在する。
 昨日の晩に紀尾井町の居酒屋で食べたカツとじは美味しかったなぁ。