bab88878.jpg  S.ヴォルコフの(偽書と言われている)「ショスタコーヴィチの証言」(1980:中央公論社)には、以下のような記述がある。
 もちろん語っているのは(しつこく断っておくと、偽書と言われているが)ショスタコーヴィチである。なお、ボロジンというのはボロをまとった人のことじゃなく、ボロディンのことである。

 ボロジンの音楽を、わたしはおよそのところ、ひじょうに高く評価しているが、それを支えているいわばイデオロギーには、つねに賛同しているわけではない。しかし、いまはイデオロギーなど問題ではない。ボロジンの作曲家としての才能は偉大なものであった。あれほどの才能に恵まれていたなら、西欧の作曲家なら誰でも仕事に打ちこみ、つぎからつぎへと交響曲やオペラを書きあげて、市長のように裕福な生活を送れたことだろう。
 だが、ボロジンはどうだったか。彼についての物語は、局外者には現実離れの光景と思われるが、われわれにとっては別に不思議でもなんでもない、ごく普通の、よく見受けられる光景なのである。確かに、音楽のほかに、ボロジンは化学の専門家であり、触媒と沈殿物の分野でなにかを発見して有名になったことは誰でも知っている。わたしの会った化学者たちは、それが本当に重要な発見であると証明していた。
 ―(中略)―
 しかしボロジンには、化学のほかに、「女性解放運動」の問題もあった。―(中略)―彼はまさしく女性の教育の問題に没頭し、年が経つとともに、ますます慈善事業、これもやはりもっぱら女性解放の問題にかかわる事業に専念するようになった。そしてこの事業が、作曲家としてのボロジンを破滅させたのであった。
 友人たちの回想は教訓的な光景を描き出している。ボロジンの住居は通り抜けられる廊下に似ていた。婦人や若い娘たちがいつでも好きなときに彼のところにやってきては、朝食や昼食や夕食を中断させる。ボロジンは食事もそこそこに、お茶も飲み終えずに席を立ち、ありとあらゆる依頼や陳情を処理するためにすぐに出かけるのだった。 
 ―(中略)―
 ボロジンは合間を見て、少しずつ作曲していた。もちろん、住居のどの部屋にも、どのソファーにも、それこそ床の上にも、客の誰かが眠っていた。彼は言うまでもなく、ピアノの音で眠っている人々の目をさます気はなかった。
 リムスキイ=コルサコフがボロジンのもとを訪れ、たずねたことがあった。「なにか書きましたか?」ボロジンは答えて言った。「書きましたとも」。だが、彼が書いたのは、女性の権利を擁護する手紙であった。そしてこれとよく似た冗談は、オペラ「イーゴリ公」のすでに完成した部分をオーケストラに編曲する場合にも起こった。「いくつかの断片をオーケストラ用に書き変え(ペレロジール)ましたか」「置き変え(ペレロジール)ましたとも。ピアノから机の上に置き換えたのですよ」。


 キエフが、ウクライナがたいへんな状況になっている。
 ボロディン(Alexander Borodin 1833-87 ロシア)の歌劇「イーゴリ公(Prince Igor)」。12世紀のキエフ公国の分裂時代を舞台にしている。

 未完に終わったが、リムスキー=コルサコフとグラズノフが完成させた。
 特に序曲については、ボロディンが生前にピアノで演奏したものを記憶していたグラズノフが仕上げた。

 もっとも、グラズノフは酔っぱらうと、“記憶”にもとづいて作曲したのではなく、ただボロジンのために自分で作曲したのだと白状したと、“証言”には書かれているが……。
 でも、グラズノフ自身の作品を聴いている限り、「イーゴリ公」序曲がグラズノフのオリジナルとはとても思えない。やっぱ偽書ってことか?それともグラズノフは酔うとほらを吹く癖(へき)があったのだろうか?

 シュミット/ロイヤル・フィルの演奏はスケールが大きくどしっと構えた演奏。ありそでなさそな、堂々たるものだ。
 1996録音。alto。
 序曲のほかに、「だったん人(ポロヴェツ人)の踊り」(「娘たちの踊り」を含む)、「だったん人の行進」も収められている(合唱は加わっていない)。

 なお、我が家にはソファは1つしかないことを申し添えておく。