f56e792f.jpg  先週札幌に出張した際、行きつけ、いや、かかりつけの病院に人間ドックの結果報告をかねて診察してもらった。そして隠された真の目的は、薬が底をついてきたのでそれをもらうことだった。

 今年の人間ドックでは侮辱的な言葉を浴びせられることもなく、また要再検査の項目もなく(経過観察でとどまった)、かかりつけの医師も「この調子で改善していきましょう」という話で終わるかと思ったが、ヘモグロビンA1cの値が高めで、こいつはきちんと検査した方がいい、と言われてしまった。

 「糖尿病になりたくないでしょ?」
 「言うまでもありません」
 「じゃあ、すぐじゃなくても構わないから、1度ちゃんとした検査をしましょう」
 「はい。1度ちゃんとした検査を受けてみます」

 診察を終えて待合に出ると、前に私が勤務していた課の近隣にいた人が、喜怒哀楽が不明な表情で椅子に座っていた。

 「どうもごぶさたしています」と私。
 「あっ、どうも」と、その人。
 「どうしたんですか?」
 「血糖の検査なんだわ」
 と、短い言葉のやりとりで、この人が本日体験していることは、私が1度正面から向き合わねばならない検査と同じものだということがわかった。

 ドックでの医師の問診や保健師との対話では、この私は不健康ではあるものの心配を要するものはないという雰囲気だったので、このときもけっこうリラックスしていた。しかも医師と面と向かう前に看護師に測ってもらった血圧は最高が122と、実に優秀なものだった。
 油断大敵。良い言葉だ。

 診察を終え、私は打ち合わせのため本社に行った。
 打ち合わせを終えると、早めの昼食に適した時間だった。
 朝の段階では担担麺でも食べようかと思っていたが、もはや血糖値や中性脂肪の値を上げるような食事は極力控えるべきだと、いつまで持続できるかわからない決意をした。
 その足ですぐにJR札幌駅の改札に入り、キオスクで幕の内弁当を買い、そして構内のベンチに座って食べた。ご飯を2口分残した。

 医師は、「炭水化物を取りすぎないこと。残すことに罪悪感を覚えないこと」といった。
 私は罪悪感を覚えたことはない。
 が、このときは感じた。もったいないなぁ。まだおなかはこれを要求しているのになぁ、と。
 そしてサントリー伊右衛門特茶を飲んだ。

 その日の夜も、極力炭水化物は避けた。
 翌日の朝はご飯も茶碗1杯にとどめた。
 昼は、これまた弁当だったが、ご飯を3口分残した。しかも、弁当のときはこれまで見向きもしなかった藁のようなキャベツの千切りも食べた。
 夜はご飯は食べなかった。もちろん、代わりにカップめんとか冷凍ナポリタンを食べるなんていう、おデブちゃん養成行為も慎んだ。

 こうして私の従来になかった取り組みが始まった。
 もう愚かな行為はしないぞ!今のところ……

 愚かな行為といえば、間違ってCDを購入してしまった。

 マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第3番ニ短調(1893-96/改訂1902)の演奏で、私が学生のころお薦め盤といわれていたものに、ホーレンシュタイン指揮ロンドン交響楽団、プロクター(アルト)他による録音があった。

 聴いたことのないその演奏のCDを、先日発見。
 出だしを聴いてすぐに、これは「やっちまったわい」と認識した。

 同じホーレンシュタイン指揮ロンドン交響楽団のものながら、その当時のお薦め盤とは別テイクのものだったのだ。独唱はワッツ。
 1961年ライヴである。

 それはいい。
 それまで聴いたことのないマラ3が聴けるのは大変喜ばしいことである。

 が、モノラル録音なのだ。
 しかもライヴゆえ、さらに録音状態は悪い。
 ステージは望遠鏡を反対側からのぞいたように遠く、向こうで繰り広げられていることがはっきりわからない。
 しかし、悪くない演奏だということはわかる。
 第1楽章が終わると大拍手が沸き起こる。全曲が終わったときもさらなる喝采が。
 きちんと録られていたなら、きっとすごい演奏を満喫できただろうに。

 が、今後そうそう聴くことはないだろう。
 あえてこれを聴く理由はない。
 まいった……。
 きちんと確認すべきだった。
 うっかり八兵衛だった。

 ただ、せめてもの救いは、間違ってホルスタイン物のディスクを注文しなかったことと、ボケのせいで重複購入という愚かさではなかったことだ。

 ヒストリカル・ファン向け。ブラームスの第1コンチェルトも収められている(独奏はアラウ。オケはフランス国立放送管弦楽団)。

 ARCHIPEL。

 にしても、ひどく時代を感じたけど、1961年ってそんなに大昔なのかなぁ……