ec541407.jpg  昨日は予定通り床屋に行った。
 帰って来て、ラティス・フェンスの支柱のうち、壊れた1箇所の束石をセメントで固めるつもりだったが、やめた。
 その理由ははかない気持ちになったから、ではなく、風がとても強く、それによって微妙に支柱がグラグラと煽られるだろうから、セメントでがっちりと固められないと判断したからだ。ついでに言えば、床屋のマスターが「素人がセメントでいろいろやっても、結局は1年でまただめになるんですよね」という、消極的な応援メッセージも心にしみた。
 が、1年でもいい。かちかちに固まってほしい。無駄だと思っても、私はやる。
 この連休中に少なくとも半日、風が収まる日があればいいのだが……

 セメントごっこの替わりに行なった作業は、枕木に防腐剤を塗ることだった。
 クレオソートが発がん性があるということで販売されなくなり、全然効果があるように感じられないケミソートを何度か塗って来たが、先日ホーマックに行くとクレオソートが売っているではないか!
33360745.jpg  しかも“環境配慮型”って書いてある。
 臭いは以前のものと同じでその点の環境には配慮されたいない気もするが、きっと安全性が増したのだろう。

 この作業はしかし、思った以上に時間がかかり、10時半くらいから始めたものの、そして途中雑草取りなんかもしたし、お気づきになった方はたいしたものだと思うが、ニラを植えかえたりして、13時になっても枕木全体の半分程度しか終わらなかった。
 だが、かがんでの作業は私の股間、私の腰にひどく負担をかけるのでここで中断。
 昼食を食べようとしたら、思った以上に手に臭いがついていて、シャワーを浴びる。
 そのあと昼食を食べたら、疲れがどっと押し寄せ、この日の作業は終えることにした。

39c48e1f.jpg が、見てみたまえ。この黒光りする枕木を。
 
 で、唐突に関係ない話を。

 荻原真氏は書いている。

 近年の演奏を聴いていると、洗練されすぎているような印象を覚えてならない。フルトヴェングラーは、彼を「百姓のような、意固地な、気位の偏った、子供っぽい、頼りなげな人間」と呼んでいたのだった。 (許光俊編著「絶対!クラシックのキモ」:青弓社)。

 そうでしょうそうでしょう。
 
 まぁ、この本自体もう出版されてからだいぶ経つので、“近年”のその後で様相が変わっているかもしれないが……

 それでも、最近クレンペラーやヨッフムのブルックナーをあらためて聴くようになって、私は先の主張に共感している。

 ブルックナー(Anton Bruckner 1824-96 オーストリア)の交響曲第9番ニ短調WAB.109(1891-96。未完)。
 クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団の演奏。
 1884年ノヴァーク版との表記があるが、これ意味不明。だってブルックナーが第九の作曲に着手したのは1887年8月のことだもの。

 「そうでしょう、そうでしょう」と大げさに納得している割に矛盾しているように思うだろうが、この演奏、どんくさいイメージがむしろない。
 昔の指揮者にこう感じるのも不思議だが、現代的に響く。そしてブルックナーってこんなに過激な音楽を書いていたのねと、あらためて認識させられる。
 それでいて、宗教的な面は失われていないし、深みもある。
 
 こういう演奏、確かに今はないかも……

b51525c0.jpg  1970録音。ワーナー・クラシックス。

 先日ヨッフムによる第3番を取り上げた記事で、ブルックナーの拍のズレについて触れた。
 クレンペラーの場合は、演奏でしばしば乱れる。この第9番の演奏でもそうだ。

 宮下誠氏はこう書いている。

 極めて本質的な問題として強調して置きたいのは、クレンペラーの、必ずしも正確とは言えない大まかなアインザッツに対して、頻繁に出来するオーケストラの微妙な「ズレ」である。カラヤンやケーゲルの演奏ではまず考えられない、オーケストラのあるかなきかの微かな乱れが、常にと言っても構わない頻度でクレンペラーの音楽には現れる。皮肉にも逆説的にも冗談のようにも聞こえるかもしれないが、これがクレンペラーの音楽を壮大玄妙なものにしている当のものなのだ。
 精密なスコアリーディングは怠りなく行いながら、いざそれを音楽的現象としてリアライズする、即ち演奏する際には、そのような基礎的なことは忘れ、いや横に置き、音楽の構造的核心に直接的に肉薄するような鋭さと、鉈で太い枝を断ち割るような乾坤一擲の大胆さと気迫で立ち向かう。その勢いが音楽に波紋を与え、荒削りの大理石のような圭角を生み出し、結果として魁偉なブロック建築がそそり立つのだ。
 これはアマチュアのオーケストラが、技術的には到底プロのオーケストラに適わないにも拘らず、ごく稀にだが、感動的な音楽を産み出すのに似ていなくもない。偉大なるアマチュアリズムと肉体的運動性のマイナスがクレンペラーの音楽に凄みと崇高さを与えるのだ。ここにも音楽の悪魔が身を潜めている。恐るべきことではある。
(「カラヤンがクラシックを殺した」:光文社新書)

 本質的な問題として、この文章、平易な言い回しでなくてごめんね。
 ボク、誠さんに代わって謝ります。
 “出来”は“しゅったい”って読んでね。事件が起こるって意味なんだって。私がいつもやらかしてるのは失態だけど、それはまぁ置いときましょう。
 “乾坤一擲”は一見“いぬいしんいちろう”さんみたいだけど、違うんです。“けんこんいってき”と読みます。乗るかそるか、いちかばちかの勝負をすることなんだそうです。
 アインザッツは音楽用語。休止のあとに再び奏しはじめる瞬間を言います。ドイツ語です。で、アイスバインはお好き?

 こんな小難しい書き方とは反対に、諸井誠氏は「音楽の聴きどころ『交響曲』」(音楽之友社)のなかで、この演奏についておじさん臭い対話形式でこう書いている。

 英子 「あの演奏は怖いみたい。とくに第3楽章のアダージョで、思わず身ぶるいしたことがありますのよ、聴いていて……」
 諸井 「たしかに、慄然とする所のある名演だな、あれは……」

 これだけで、英子さんて、ちょっと一般的じゃない気配を感じる。
 リケジョならぬ、アダジョ……