a08de327.jpg  先週土曜日の札響定期。私はどの演奏にも大いに満足し、とりわけ「シンフォニア・タプカーラ」では感動を通り越して放心状態になったことは、すでに報告したとおりである。

 にもかかわらず、帰り道に夢遊病者のようにならなかったのは、心に悩みを抱えていたからに他ならない。それが心の解放の歯止めになっていた。その杞憂がなかったなら、目の焦点が合わないまま、中島公園のなかをふらつき、池に落ち、カモに投げられたえさを横取りしたかもしれない。

 悩みというのは、またわが車についてのことだ。

 金曜の夕方に出発して家へ向かったが、当初は気づかなかった。
 が、ウインカーのレバーを上げるとき(左折)、あるいは下げるとき(右折)、右ひざの前あたりの奥に位置するヒューズ・ボックスの方から、ジッという音がしているのには気づいていた。

 やがて日が暮れて、驚くべき現象が発覚した。

 ウインカーをあげると、一瞬ヘッドライトが消えるのだ。
 左折のときはほぼ毎回、右折のときは2回に1回くらい。
 その現象が起きるときに、ヒューズ・ボックスのあたりから聞こえるジッという音も出ることがわかった。
 幸いすでに家に近づいていたが、交差点でウィンカーをあげるとライトが一瞬消える現象は、前の車がパッシングされたかと誤解されるかもしれないし、ジッという音は、あたかも放電で火花が散るときの音のようで、火災になるのではないか、とか、電装系が突然死して車が停まってしまうのではないか、と気が気でなくなった。無事家についたときは、5年分くらい歳をとってしまった気がした。

 翌朝、先日フロントガラス交換で世話になり、まだ交流のぬくもりが冷めやらないサービス担当に電話をかけ、状況を説明した。
 その人はあまり経験のない現象だと首をひねっていたが(テレビ電話でなかったので、あくまで想像)、日曜日の夕方に車を持っていくことにした。

 そんな心のわだかまりを抱えての札響だったのだ。
 タプカーラというのは立って踊るという意味で、アイヌ民族の人々はうれしいときも悲しいときもタプカーラするそうだ。私は悲しさの面から、この曲の今回の演奏に引き込まれたということだ。強引に解釈すれば。

 ちなみに、コンサートに出かける前にネットで調べると、こういう現象の質問がいくつかあって、ウインカースイッチの寿命とかアース不良が原因だと書いてあった。
 ウインカーのスイッチの寿命(接点磨耗)で、なぜヘッドライトが消灯、それも一瞬だけ消えて再びつくのか私にはさっぱり理解できないし、異音との関連もわからない。そんなことを考えると頭の中がショートしそうだ。が、スイッチ交換だと3万ぐらいするようなことも書いてあって、フロントガラスに次ぐ悲劇に私の気持ちは鉛雲のように重くなった。

 マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第6番イ短調「悲劇的(Tragische)(1903-05/改訂'06。その後たびたび管弦楽配置を変更)。今日は若杉弘指揮東京都交響楽団の演奏を。

 ご存知のように、若杉は日本人指揮者のなかでもマーラーのスペシャリストだった。
 この演奏も手の抜くところがない、まじめで丁寧、非常に完成度が高いもの。
 だが、皮肉なことにその仕上がりは、まるで論文を読んでいるよう。
 あっさりしているわけではないが、コクが乏しい。もっと感情の発露がほしいところだ。人間だもの……

 1989ライヴ。フォンテック。

 日曜日は日中に移動した。
 道東道はトンネルが多い。ライトを点灯中はウインカーをつけないように気をつけた。つまり、デイライトなどもってのほか。
 トンネル内で、もしここで足元から火が出たらたいへんだと、ハラハラしながらの運転。で、気づいたが、トンネル内の消火栓は上り車線側にばかりあるということ。

 火が出て、消火栓がある逆車線に行こうとすると対向車にはねられ……なんてことを考えていた。
 妄想のドライブ……

 マンションに到着したときには6歳ほど歳を重ねた感じがした。