交響曲を書く者にとって、第9番というのは大きくて厚い壁であるということは、皆さんご存知のとおり。
けど、こんなジンクスを作ったのはベートーヴェン。
そう、ベートーヴェンが悪い。
ベートーヴェン以前のハイドンは104番まで、モーツァルトは41番まで書いているのだ。
ベルリオーズはわが道を行くって感じで、交響曲に番号をつけずに、劇的だの幻想だのという語と交響曲という語を合体させた。
シューベルトはちと微妙で、昔なら「グレイト」と呼ばれている交響曲が第9番で、それが番号付きの最後の交響曲だったが、その前の8番が未完成に終わってる。
ただ今では「グレイト」は第8番に昇格(?)しているし、「未完成」は第7番だ。
マーラーの交響曲第9番は実質10番目の交響曲なのだが、9という数字の呪いの方が強かったようで、ごまかしがきかず、第9番が最後の交響曲となった。
ブルックナーの第9番は未完におわった。これなんかは、まさに9のジンクスにふさわしい感じだ。
ショスタコーヴィチは第9番を肩すかし作戦でうまく切り抜けて第15番まで書いた。あるいは彼の場合は西欧じゃないから、関係ないのか?
ショスタコの場合、弦楽四重奏曲も第15番までというのが、すっごく計算高そうで素敵だ。
思い出したが、ドヴォルザークも第9番までだ。
が、あれほどストレスのない音楽を書いた人だ。果たしてジンクスを気にしていたかどうか……
そしてシュニトケ(Alfred Schnittke 1934-98 ロシア→ドイツ)である。
交響曲作家というイメージはあまり強くないが、彼も第9番まで交響曲を書いている。
しかも第9番は未完。
とはいえ、シュニトケの場合は交響曲第9番(1997)に着手した時点で、すでに病気でヨタヨタだった。しかも半身不随のなか、病床で左手で書かれたため判読が困難。
未亡人がA.ラスカトフ(A.Raskatov)になんとかしてくれと依頼し、なんとか再構築したのだった(2006)。
ただしこの曲、初演されたのはシュニトケがまだ存命中のこと。
そのときに楽譜を整えたのは初演指揮者のロジェストヴェンスキー。ところが、この楽譜はシュニトケの気には入らなかったようで、もう二度と演奏しないでほしいとシュニトケは言ったそうだ。
作曲者の死後、まずはN.コルンドルフが再構築の作業に取りかかるも2001年に死去。先のラスカトフがそれを継ぎなんとか完成した。
初演は2007年。あのD.R.デイヴィス指揮のドレスデン・フィルだった。
曲は3つの楽章から成る(アンダンテ/モデラート/プレスト)。
混沌とした世界ながら、少し先祖返り、つまりは自身の初期の交響曲のテイストが戻って来ているような感じ。少なくとも私には第6交響曲なんかよりは心地よく聴こえる。
ただし、こういうケースの場合はつきものだが、この再構築版がシュニトケが残そうとしたものに近いのか、それとも違うのかは永遠の謎である。
ヒューズ指揮ケープ・タウン・フィルの透明感ある響きの演奏で。
2008録音。BIS。
まあ、人生の長さからすれば、一生のうちに書ける交響曲は9曲ぐらいってことなんだろう。
さて、もう秋空だっつーのに、まだ夏休みが不完全消化の私。
そこで、本日は夏休みを頂戴することにした。
だが、家でぼーっとしているわけにはいかない。
というのも、車の片側のストップランプが切れたからだ。
こいつが曲者で、裏側からカパッとはずして電球をちょちょちょいのちょいと直せるような構造になっていないのだ。
だからディーラーに行って来る。
ただ気になるのは、このランプ、夏前にもつかなくなって電球を交換したばかりなのだ。
なぜこんなに早くまた切れてしまったのだろう?
そこんとこがエヘン虫のように引っかかる。
いずれにしろ、電球を交換して整備不良車から脱却したうえで、本日自宅へと帰ることにする。
シュニトケ
8月の最後の週に入ったあたりから、テレビで俄然目につき始めたのが、おでんと石油ストーブとスタッドレスタイヤのコマーシャルだ。
なぜって、だから、放送本数がやったらと増えたから。
まだ、扇風機が鎮座している部屋の中で、こういうのを見ても実感がわかないなぁ。
“石油ストーブ”……
灯油を燃料とするストーブじゃないのに、やっぱ石油ストーブって呼ぶ習慣は昔のままのようだ。個人的には良いことに思うけど。
コンビニのおでんのコマーシャルは、この時期はまだ北海道だけなんだろうか?
残暑厳しき本州でも流れてるんだろうか?
タイヤでは、福山雅治が昨シーズン同様、どんなに滑る冬道でもちゃんと停止することを訴えている。どこのメーカーかよく覚えていないけど。
しかし、実感がわかないものの、こういった現象は私を焦らす。
もちろんまだまだ早いが、バラたちの冬囲いをしなきゃならないということを考えてしまうのだ。
昨季はバラや庭木の根元がノネズミらしきもの-ノネズミがいったいどういう動物なのか、私は知らないが-にずいぶんと食い荒らされた。
それをどう防ぐか。
その対策に、いま私は頭を悩ませている。
あの無残な幹を目にし、濡れた大地にひざまずいたまま呆然としたのはついこの間のことのように思えるのだが、もう冬の気配だなんて……
そうこう言ってる間、本物の冬になるんだろうな。
今度の冬は雪が少なきゃいいな。
興味はあまりないが、年明けにはソチ五輪がある。
このオリンピックで、フィギュアは期待できるのだろうか?(嫌味とかじゃなく、ほんとにそのあたりの情報に私は極めて乏しい)。
私の大脳は、フィギュア→浅田真央→タンゴっていう、実に進歩のない連想ゲームを繰り返す。
タンゴとは“シュニトケのタンゴ”のこと。2年ほど前のシーズンで浅田真央が使っていた曲だ。
実況のアナウンサーが、「曲はシュニトケのタンゴです」って、あたかも一般常識のように言っていたが、公務員試験に出題されても、シュニトケがなんであるか、正答率は低いに違いない。
多くの人は「シュニトケってどこの国?」とか「シュニトケって新種の愛玩動物?」と疑問を持ったことだろう。 もちろん前者は、例えば“アルゼンチンのタンゴ”といった流れからの疑問であり、後者はすでに若者ではない世代が、大ヒットした皆川おさむの「黒ネコのタンゴ」の呪縛から逃れられないゆえに生じる疑問である。
関係ないが、私には、皆川おさむと“ケンちゃん”こと宮脇康之が、ごっちゃになる。まあ、この2人のことを考える必要もないんだけど。
当ブログの読者の方々はご存じのとおり、シュニトケは作曲家である。
しっかしなぁ。“シュニトケのタンゴ”って、ずいぶんと不親切な説明だ。肝心なのは演技であって、その使用曲でないことはわかるが……
シュニトケ(Alfred Schnittke 1934-98 ロシア→ドイツ)の「コンチェルト・グロッソ第1番(Concerto grosso No.1)」(1976-77)。
2つの独奏ヴァイオリン、チェンバロ、プリペアード・ピアノ、21の弦楽器のための“合奏協奏曲”である。
この作品については過去にも取り上げているが、バッハ時代の様式である合奏協奏曲を、現代によみがえらせた傑作。
シュニトケの作品の中でもかなり耳に引っかかりがない曲。いや、むしろ心房細動が起こるのではというくらい、琴線に触れてくる。
6つの楽章から成るが、冒頭のプリペアード・ピアノ(グランドピアノの弦に木片や金属などを挟んだもの。音色が打楽器的になり、音程も怪しくなる。1940年にケージが発明というか発案)の不思議な響きからして、聴き手を魅惑するのだ。
そして興奮と郷愁(めいたもの)のピークは第5楽章。
めまぐるしく交代する数々のメロディー。
そしてタンゴが始まる……。このタンゴが浅田真央が使った“シュニトケのタンゴ”である。
にしても、浅田選手周辺筋の人々は、よくこの曲を見つけ出したことよ!そして、使うことにしたことよ!
亀山郁夫は「チャイコフスキーがなぜか好き」(PHP新書)の中で、この曲について次のように書いている。
……彼の音楽的個性を知るのにもっともふさわしい代表作の1つ「コンチェルト・グロッソ」第1番。なかでも第5曲「ロンド」をお薦めしよう。鮮烈かつ直截なヴァイオリンと合奏のかけあいが、徐々に解凍されて、哀調を帯びたタンゴとして原型を浮かびあがらせ、ふたたび無機質かつ不機嫌な不協和音に包みこまれ、やがてまた……というふうに無限のロンドを構成する。
さて、コンチェルト・グロッソ第1番の2つの独奏ヴァイオリンを、フルートとオーボエに変えた編曲版を、シュニトケは1988年に書いている。
今日はその版の演奏を。
私としては、フルートとオーボエを起用した版の方が、よりバロック的な味わいがあるようで好きである。
ベザリーのフルート、コーウィーのオーボエ、ブラスラーのチェンバロ、コンブリンクのピアノ、ヒューズ指揮ケープ・タウン・フィルの演奏で。
2008録音。BIS。
ケープ・タウン……
なんか、へぇ~って感じぃ~。
でも、どうしてどうして、しっとりとしたレベルの高い演奏を聴かせてくれている。
シュニトケはブルックナーの交響曲第7番が好きだったようだ。
戦争中のこととして、次のように述べている。
クレンペラーのコンサートに行ったときの思い出として、「そこで演奏されたのはヘンデルの《ハープ協奏曲》(僕は後にこの曲に対する興味をすっかり失ってしまいました)とブルックナーの《交響曲第7番》でした。この交響曲がなぜか僕の気に入ったのですが、誰にも信じてもらえず、きざなこと言ってると思われてしまいました。この交響曲は難解で、へんてこりんな音楽だと考えられていたのです。 (イヴァシキン編「シュニトケとの対話」:春秋社。22p)。
シュニトケのピアノ協奏曲第2番では、突如この第7番の交響曲の第2楽章のメロディーが現れる。その感動的ともいえる引用は、失礼ながら、原曲を聴いているとき以上の美しさを感じさせる。
ブルックナー(Anton Bruckner 1824-96 オーストリア)の交響曲第7番ホ長調WAB.107(1881-83)。
ブルックナーとしては珍しい例だが、初演が成功した作品。現在でも、「ロマンティック」のタイトルを持つ第4番とこの曲は、ブルックナーの交響曲中でも人気が高い。
申し訳ないが、クレンペラー指揮の演奏ではなくて、ちょっぴり私を洗脳しかけた-でも最後はこらえ抜くぞ-D.R.デイヴィス指揮のものを(オーケストラはリンツ・ブルックナー管弦楽団)。
この曲の版には、①1881-33年稿=ハース版およびノヴァーク版、②改訂版、がある。
①におけるハース版とノヴァーク版との大きな違いは、第2楽章でのシンバル、トライアングル、ティンパニの使用についてで、ハース版ではこれらは使われないが、ノヴァーク版では使われている。ほかにも両者の間では管弦楽法や速度指示(があるかないか)の違いがある。
D.R.デイヴィスが使っているのは1883年ノヴァーク版。
ただし第2楽章での金属打楽器は、使われていない。金物は自分の耳たぶだけで満足ってわけではないだろうが……
顔に似合わず(私の、ではない)爽やかな演奏だが、どこか物足りない感じもする演奏。
2007年ライヴ。ARTE NOVA
CDジャケットは、これまたD.R.デイヴィスのポートレート。
7番のこれは、演奏同様なんだかさっぱりしていて、「さっき食ったシシカバブー、美味かったな」みたいに満足げだ。
ちょっと開いた唇からは……ん、DRDさん、もしかして、すきっ歯?
サイズの合う歯間ブラシないでしょ?
バッハのヴァイオリン協奏曲の記事でさかんに出てきた(ってほどでもないが)コンチェルト・グロッソ(concerto grosso)って言葉。
直訳すれば“大協奏曲”なのだが、世の中はそれを許さず“合奏協奏曲”と訳す。
あらためて書くと、コンチェルト・グロッソはバロック時代の重要な合奏曲の形式で、独奏楽器群による小合奏部(コンチェルティーノ)とオーケストラによる大合奏部(リピエーノ、トゥッティ、コンチェルト・グロッソ)の対比を原則とする協奏曲である。
バッハのブランデンブルク協奏曲第2、4、5番(第1、3、6番は独奏楽器を持たないシンフォニアのような形のコンチェルト)や、ヘンデルの作品(Op.3とOp.6の合奏協奏曲集や「アレクサンダーの饗宴」)が有名である。
コンチェルト・グロッソの形式は廃れたが、現代においても、この名をもつ作品を何曲も書いた作曲家がいる。シュニトケ(Alfred Garrievich Schnittke 1934-98 ロシア→ドイツ)である。
最初に書かれたコンチェルト・グロッソ第1番は、ヴァイオリンのクレーメルとの出会いによって書かれたが、シュニトケの“多様式主義”と“引用主義”が用いられている。
結局シュニトケは6番までのコンチェルト・グロッソを書いたが(第4番は交響曲第5番でもある)、バロック期の形式を新たな形で蘇らせたのだった。
イヴァシキン編「シュニトケとの対話」(秋元里予訳:春秋社)では、イヴァシキン(I)とシュニトケ(S)との次のようなやりとりがある。
S: 例えば、コンチェルト・グロッソにしても、非常にドイツ的なものに目を向けていることになります。
I: なぜイタリアではなくて、ドイツなんですか?
S: 僕のはバッハを通してわが国に入ってきたドイツ的なコンチェルト・グロッソであって、ヴィヴァルディやコレルリのイタリア的なコンチェルト・グロッソではないからです。
I: シュニトケさんにはコンチェルト・グロッソのほかに単に協奏曲、交響曲もありますが、この3つはどう違うのでしょう?
S: 今、説明してみますね。コンチェルト・グロッソはオーケストラに対立しない独奏者という1つの論理です。協奏曲ではこの独奏者とオーケストラの関係が対立的性質を帯びてきます。《コンチェルト・グロッソ第2番》ではこの違いがあまりはっきりしていません。最初の3楽章は虚偽の輪の中を回り、第4楽章になってようやく本当の道に出ます。 (77p)
I: コンチェルト・グロッソというジャンルを用いることには、音楽の中に2つの異なる面、つまり、個人という前景と群集という背景を設定しようとするシュニトケさんの意志が現れているのではありませんか?
S: ある意味で君の言うとおりです。…… (299p)
そのシュニトケのこのジャンルでの最後となった、「コンチェルト・グロッソ第6番」(1993)。
独奏はヴァイオリンとピアノ、オーケストラは弦楽という編成。3つの楽章から成る。
全曲の演奏時間は15分ほど。
第1楽章はピアノが躍動的に、というかせわしなく動き回る。どこか切迫感を感じさせる。
第2楽章は悲しげに叫ぶヴァイオリンが印象的。
終楽章は再び切迫感を感じさせるもので、非常に密度が濃い感じ。
親しみやすい曲とは言い難いが、凝縮された複雑な美が感じられる。
ポースニコヴァのピアノ、サーシャ・ロジェストヴェンスキーのヴァイオリン、ロジェストヴェンスキー指揮ロイヤル・ストックホルム交響楽団の演奏で。
1994録音。シャンドス。
以前、浅田真央が、「シュニトケのタンゴ」の名で使っていた曲は、コンチェルト・グロッソ第1番の第5楽章「ロンド」のなかに出てくるものである(この第5楽章はバロック素材を用いたタンゴ)。
ロバート.P.モーガン編「西洋の音楽と社会11 世界音楽の時代」(長木誠司監訳:音楽之友社)には、次のように書かれている。
シュニトケにとってタンゴは、特別な魅力をもったものである。すなわち喜びだけではなく悲しみをも伴ったそのどこか不吉な語り口は、彼が〈多様式〉芸術と呼ぶものによって異なった意味レヴェルに達しようとする思いと共鳴しているのである。
ふむふむ。
私は毎回ロト6を買っているが、買い始めた当初は2回ほど、それもあまり間を開けずに約1万円が当たったものの、その後はレス夫婦のようにすっかりごぶさたである。
毎回毎回1億円以上が当たっている人が存在すると思うと、羨ましくて口唇の両脇から牛のごとくよだれがだらだら出そうになるが、一方で、本当に当たっている人がいるんだろうかと、いけない疑念を抱いたりもする。
だってこれまで生きてきたにもかかわらず、自分の身の回りで宝くじの1等が当たったっていう人の話を1度として耳にしたことがない。
そりゃ危険を察知して「当たった!」と騒がないようにしてるんだろうが-宮部みゆきの「模倣犯」のなかの一家惨殺事件は、宝くじ当選の噂を聞きつけたやつによって起こされたではないか!-、それにしてもあまりにもそういう話が聞こえてこなさすぎる。UFOを見たことがあるって騒いでいた奴は2、3人知っているのに、現実に起こっているはずの高額当選者について何も耳にしたことがないのは不思議なことだ。
私はロト6をみずほ銀行のATMで買っている。
当たったときに調べなくても、当選金が口座に自動的に振り込まれる仕組みだからだ。
もっとも、その機能の恩恵にあずかっていないけれども……
と思っていたら、こんな案内メールが来た。
☆メール本文☆
みづは銀行から【6億円】の受取は終わりましたか?送金期限が迫っているようですので明日中に必ず受取を完了させて下さい。
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メール配信元(株)ファインモーション
やれやれ“みづは銀行”かい……
詐欺の片棒を担ぐ気はまったくないけど、それにしてももう少し紛らわしいというか気の利いた名前を考えつかなかったんだろうか?これじゃ誰も相手にせんだろうに……
それに6億円の話と無料写真閲覧のつながりがわからないし、景気のいい話のあとに5000円が3000円にお安くと書かれても、ピンとこないな。
ピンと来ないといえば、シュニトケ(Alfred Garrievich Schnittke 1934-98 ソヴィエト→ドイツ)の交響曲第6番(1992)はどうも聴いていてピンとこない。
彼の作品の隅から隅までぜーんぶ好きってほどではないが、それでも私はシュニトケがとても好きである。少なくとも交響曲第5番(1988。これは合奏協奏曲第4番の名も持つ)までは。
はじめて彼の作品を聴いたのは「真夏の夜の夢,ではなくて」。それでシュニトケ好きになり、決定打は「イン・メモリアム」と交響曲第1番だった。
シュニトケは1985年に脳疾患でこん睡状態に陥ったがその後奇跡的に回復、1990年からはドイツに定住したが1994年の脳血管発作で全身がマヒし作曲活動が事実上できなくなった。
交響曲第6番は、ドイツに渡ったものの健康がすぐれないなかで書かれたもので、その苦悩そのまま音楽になったような感じ。かつての多様式主義と呼ばれる多彩な表情は少なく、内向的で聴くものを拒絶するような曲である。
それに比べると交響曲第7番(1993)はまだかつてのシュニトケを思わせるところがある。体調はより悪くなっていたはずだが、独特の混沌さと飛び出してくる動機の数々が印象的で、第6番よりも親しみやすく魅力的だ。
第7交響曲は指揮者のマズアとニューヨーク・フィルのために作曲された。“Deutschland”を音名とした音形を用いているそうだ。Deutschlandってもちろんドイツのことである。
1995録音。
今日は木曜日。
ロト6の抽選日である。
1等が当たったら、ブログなんてやめよう。
まったく唐突なぼやきだけど、この間テレビのニュースを見ていたら女性のレポーターが何かしゃべっていて、画面の右上に小さく出ていたその名前を見て、「へぇ、この人ハーフなのかな」と思って、もっとテレビに近づいてみたら、そのテロップは「中継リマ」。
つまり「なかつぎリマ」さんという名前ではなく、リマからの中継だったってこと。
いや、どーでもいいですよね。
そろそろ新しいメガネにした方がいいですよね。
次はまったく唐突な疑問だけど、ドイツで大量の患者が発生したO104の原因がモヤシかもしれないという説もあるが、ドイツでモヤシを食べる習慣があるなんて知らなかった。どういうふうにして食べるのかな。やっぱ炒めるのかな。おひたしはないよな(もやしのおひたしは、私の好まない料理の1種である)。
ただそれだけ……
まったくふと思い出したんだけど、札響の欧州公演のアンコールではエルガーの「ニムロッド」をやったそうだ(北海道新聞に書いてあった)。
この曲(「エニグマ変奏曲」の第9変奏)は、確かに感動的である。そして、アンコールに向いている曲だと思う。
テミルカーノフ/サンクトペテルブルク・フィルの札幌公演で、「悲愴」のあとにこの曲をアンコールでやったのを耳にしたとき、「うまい選曲だなぁ」と思ったものだ。
今回は指揮の尾高が東日本大震災のお話をしたあとこの曲を心を込めて指揮したらしい。新聞によると、会場は感動に包まれたそうだ。そういう話のあとに聴くと、「ニムロッド」はとりわけ感動的なのだ。なかなかの演出である。でも、尾高さんは外国でもステージの上でおしゃべりをしているんだ……
最近タワレコに行くと、やたらアルゲリッチの顔が目につく。
目についた副作用として、手に取ってしまう。
手に取った勢いで、レジのお姉さんにお金を渡したくなる。
お金を渡した見返りとして、家の中でもアルゲリッチの顔がやたら目につくようになる。
いや、勘違いしている人はいないと思うが、一応断っておくと、私の妻の名前はアルゲリッチとは言わない。そもそもお金を渡した見返りがそれだとしたら、世の中間違っている。アルゲリッチのCDが増えたという意味だ。
タワレコでなんでやたらアルゲリッチの顔が目につくのか?
顔どころか“アルゲリッチ”と書いたPOPもやたら貼ってある。
なぜか?
今年はアルゲリッチの生誕70年だからだ。
記念の年だ。
有名な人は70歳を迎えるに当たって「生誕」という言葉を使ってもらえるが、フツーの人なら「もう、70の老人になったかぁ」で終わられてしまう。世の中、平等なんてないのだ。
そんなひがみは置いといて(でも言っておくが、私はまだまだ70歳には程遠い)、そのアルゲリッチがソロを弾くチャイコフスキー(Petr Ilyich Tchaikovsky 1840-93 ロシア)のピアノ協奏曲第1番変ロ短調Op.23(1874-75,改訂/'79',88)。
私は今さらながらこのCDを買ったが、ジャケットに記憶があるから、初出のときにはけっこう話題になったに違いない。
それにしても実にダイナミックでエキサイティングな演奏だ。
聴く前に想像した以上だった。
このコンチェルトがすごい曲だと、久々に感じた次第。
この協奏曲は絢爛豪華とも言える序奏が終わって主部に入るとき、突如陽が陰って濃霧に包まれたように雰囲気が変化する。
小型船ならツツツ・ツーツーツー・ツツツだ(モールス信号でSOSです)。
並の演奏ならこのあたりで私の気持ちもいったんモヤに包まれたようになるのだが、アルゲリッチの演奏はハリが持続したまま。このあたりの緩みのなさはすごい。
そして、どうしてあんなに粒だつような音が出るのか?プリペアド・ピアノかぁ?
とにかく、第1楽章はこのあともあっという間に聴かせ終わり、第2、第3楽章へとあれよあれよと進んでいく。渦にのまれた小舟のような私。
いやぁ、すっごいピアニストだ。
でも、私は彼女にのめり込む気がしないのは、なぜなんだろう?(70歳だからという問題ではない)。
指揮はアバド。管弦楽はベルリン・フィル。1994年のライヴ。グラモフォン。
カップリング曲はアルゲリッチとエコノムのピアノ・デュオによる組曲「くるみ割り人形」。
そうそう、セーゲルスタム指揮ロイヤル・ストックホルム・フィルの演奏によるシュニトケの交響曲第1番(BIS)。第2楽章が始まり盛り上がったあとの4分半過ぎあたり。オーケストラが突然混然となったムチャクチャな響きを発するが、そのなかでチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の冒頭が鳴り響く。
ロジェストヴェンスキー盤(CHANDOS)ではここの部分、まったく違う音楽となっているのでアドリブという指示がなされているのだろうが、セーゲルスタム盤の方が断然面白い。
そのあとのジャズ(としか私には聴こえない)の即興演奏もすごい!ライヴ録音だが、聴衆から拍手がわき起こる。
ドックを受けた翌日の朝。
いつものように私は駅に向かって半ば不活性に、半ばかったるそうに、統合すると、仕事に行くぞ、という前向きな姿勢が見られない状態で歩いていた。
毎朝前を通る、名も知らぬ住人の家の玄関先に繋がれている、歩行者に対してまったく興味を示さない名も知らぬ犬は、その日も無感動風に犬小屋の前に敷かれたベニヤ板の上に横たわっていた(一応地べたに寝るのは嫌なようだ)。
それはともかくとして、この日の早朝にメールが来ていた。
タイトルは「きみこ」。
常識的に考えれば、差出人はきみこさんという女性だろう。
本文は、
はじめまして。
いつもまだ見ぬ貴方のことばかり考えています。
今回、勇気を出してメールすることにしました。
私の名前は河崎美佐、27歳です。
貴方のことを私は知ってても、私の事知らないと思います。
けっこう、頻繁に私の事は目にしてると思うんですが、きっと印象に残ってないはず。。
http://■■■■.com/lovegirl/
私の写真を見てください。
見れば、私が誰だか気付いてくれるから。
というものだった。
人名漢字の変化あるいは進化というのはなかなかすごい。
美佐と書いて「きみこ」と読むことが認められていたなんて、私はちっとも知らなかった。
だが、いったい誰だろう?
頻繁に目にしているとすると、あの犬だろうか?
でも、そうだとしたら、私の側からだって美佐(きみこ)は知っていることになる。
そもそもあの犬、27歳なのか?
そして、いつもあんな怠惰な格好してるから私の方でもとっても印象に残ってますよ、美佐さん。
つー以前に、すっごい矛盾があるわな。
最初に「はじめまして」「いつもまだ見ぬ貴方」と宣誓しているのに、「貴方のことを私は知ってても」ときたもんだ。
人を引っかけるならもう少し巧みにアプローチして欲しいものだ。いえ、それを勧めているわけじゃないけど。
話は完全に変わる。
脳ドックの機械の作動音が前衛音楽のように感じてしまったとき、その中に私はシュニトケも感じ取った。
MRIが次の動作に移る間のことだと思うが、静かになって時計の針が刻む音のようなリズムだけが聞こえてくることが何度かあった。
そのときに浮かんだのは、シュニトケ(Alfred Schnittke 1934-1998 ロシア)の「イン・メモリアム」(1978)の第3楽章だった。
シュニトケと言えば、浅田真央が「タンゴ」を用いて、「それは何の曲に含まれているのか?」とちょっと話題になった作曲家である。
「イン・メモリアム」を聴くたびに、私は心臓をキュンと握られるよう気持ちになる。
この切なさは究極のものだ。
あの不気味な洗練されていない、だが一度耳にすると忘れることができないワルツの魔力……
そして終楽章の、これで終わりだなんて嫌だとばかりに、未練と悔しさを引きずるようなメロディーの繰り返しと、前の4つ楽章の断片の回顧。
「イン・メモリアム」はシュニトケが母の死を悼んで書いたピアノ五重奏曲(1972-76)の管弦楽版である。
「イン・メモリアム」を聴いてしまうと、階層を成す音の魅力によって五重奏曲の方は物足りなく感じるが(私の嗜好として)、ピアノ五重奏曲の方は作曲者の個人的な心情の告白という、また別な表情が感じられる。
ピアノ五重奏曲では、これまでBISとASVから出ているCDを取り上げたが、今日はナクソスから出ている盤を。
ボリス・ベルマンのピアノ、フェルメール四重奏団の演奏。
しっとりとした感触の美しい演奏だ。録音は2000年。
このCDにはショスタコ―ヴィチのピアノ五重奏曲も収録されており、良い意味でまじめさが感じられる演奏。
これを聴くと、先日取り上げたアルゲリッチのライヴ盤の演奏がいかに激しいものかがわかる。
ところで、こんなメールも。
春も大詰め、もうすぐ夏ということで国内及び国外から多くの人々が集まってきておりますのでどうぞこれに便乗して新たな出会いを掴まれるのも一興かと思います。
何が一興だか……
私も昔はけっこうブルックナーを聴いたものだが、最近はそれほど聴かなくなった。
昔というのは、ブルックナーの音楽を知ったのはマーラーを知ったのと同じころで、当初から私はマーラーの方が好きだったものの、そしてブルックナーの延々と続く(ように感じられる)音楽に退屈な思いもしたが、それでもブルックナーは好きな作曲家であった。
それがいつの間にか、マーラーは相変わらずしょっちゅう聴いていて未知の演奏を聴くのも楽しみにしているのに対し、ブルックナーのCDを買うことはめっきり少なくなってしまった。
一歩一歩(自然死ということでは間違いなく)死に向かっているのだから、神の音楽のようなブルックナーに徐々にでも親近感が増してもよさそうなのだが、やっぱりキリスト教信者じゃないせいか、あるいは私におかれましては天国ではなく地獄に向かっているせいか、彼の音楽を一層好きになるどころか、ちょいと後退気味である。
大学生の頃、ひょんなことからある牧師さんと話をする機会があったのだが、その人はブルックナーが好きだと言っていた。なんかよくわからないが、すごく納得した。牧師さんにはブルックナーが合う感じがしたから。
その人は若いころはマーラーが大好きだったのに、ブルックナーの音楽に触れてからマーラーの音楽を聴く気にならなくなったと語っていた。
今回、昨年のPMFで演奏されたブルックナーの交響曲第7番のCDが手に入ったので聴いてみた。先日紹介したマーラーの第5交響曲のCDと一緒にいただいたもので、タイトルは「ハーモニー・オブ・ピース vol.20」。2010年7月31日にKitaraで行われた演奏のライブ録音(マーラーのときと異なり、この日一発の収録)で、指揮はファビオ・ルイジ(オケはPMFオーケストラ)。
PMFのブルックナーといえば、第1回のときにバーンスタインが第9交響曲を振る予定になっていて、相当楽しみにして行ったのだが、プログラム変更。ひどくがっかりした経験が私にはある(そのころはまだブルックナーがけっこう好きだったのだ)。
イタリアはジェノヴァ生まれのファビオ・ルイジという指揮者について、私はなじみがない。
PMFには2004年に客演、'08年に首席指揮者として指揮台に立っており、昨年からPMF芸術監督となったが、私は一度もルイジの演奏を耳にしたことがない。
つまりこれがルイジ初体験。
ブルックナー(Anton Bruckner 1824-96 オーストリア)の交響曲第7番ホ長調WAB.107(1881-83)は、その第2楽章がR.ワーグナーの死を予感して作曲が進められたとされており、1883年にワーグナーの死の報を受けると、追悼曲として仕上げた(ブルックナーはワーグナーを最も尊敬していた)。
ブルックナーの交響曲の響きには、非常に骨密度が高い大腿骨のようにがっしりとした部分と、ロリロリ・スイートのような官能美の部分があるが、ルイジの演奏はバランスが甘美さ側に寄っている。作曲者のロリコン趣味にスポットを当てたのか?それとも、陽気なイタリア人気質をルイジは隠し切れなかったのか?
ところで、ワーグナーの追悼曲にしたというこの曲の第2楽章のフレーズは、シュニトケの「ピアノと弦楽のための協奏曲(ピアノ協奏曲第2番)」に露骨に出てくる。
実はシュニトケのこのコンチェルトについて書いたとき、私はそのフレーズが何だったか思い出せずに悶々としたのだが、いまはこのように気づき、すっきりしている。
美しく、そしてなぜかすごく懐かしく感じられるこの引用。狙いは私にはよくわからないが、シュニトケは“ワーグナー”という視点から行なったのかもしれないな、と思いつつある今日この頃の私である。
「このCDは宝くじの普及宣伝事業として作成されたものです」と表記されている。
私がくじけずにいつも買い続けている宝くじの代金がこのように使われていると思うと、私も世の中の役にたっているんだなぁと思う。役に立たなくてもいいから当てて欲しいけど。
でも、CDをかけたら最初に「このCDは、宝くじの普及宣伝事業として助成を受け、作成されたものです」っていう男性の暗めなナレーションを入れるのは勘弁してほしかった。
バッハ、ヘンデル、そしてモーツァルトから、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、アイスラー、デッサウ、ヴァイル、シュトックハウゼン、B.A.ツィンマーマン、ヘンツェまでの、ドイツ系の30人を超える作曲家の作品からの素材を組み立てた作品。
シュニトケ(Alfred Schnittke 1934-1998 ソヴィエト→ドイツ)の交響曲第3番(1981)である。
この交響曲も、またまたすばらしい。
どこかで耳にしたようなメロディーが泡のように姿を見せては消えていく。
常に変化していく音の流れの中で、それが何の曲であるかをとらえるのはなかなか難しいが(私にとって未知の曲ももちろんあるし)、これがまたなんとももどかしい。
素っ裸にされたあげく、手足を縛られ、足の裏を羽毛でそっと撫でられるような悶々感(別に素っ裸になる必要はないか)に匹敵する。
でもアタシ、もっともっとしてほしくなったんです(そういえば昔、課の女性社員に「書類の文言をチェックしておいて」と言ったら、「悶々、って……?」って聞きかされたことがあった。あなたの耳が悪いの。セクハラ発言じゃないの!)。
曲の開始の混沌とした世界。遠くからの何かが「形作られる」ことを歓喜するようなトランペットの叫び。
この世界は?そうだ!生物が生まれる前の地球の海の中で、窒素化合物が寄りあって来て、熱や雷の力でアミノ酸が出来て、それが化学反応を起こしタンパク質になって……でも、また何かの力で散り散りにされ……、あぁ、コアセルベートの悲哀!
生命が誕生するときってこんなんじゃなかったのかなぁと、まったく突飛な想像をしてしまう私。
このあたりの雰囲気は、バルトークのバレエ「木製の王子」の始まり(そして終わり)にも似ている。
シュニトケといえば「多様式主義」の作曲家と言われるが、「シュニトケとの対話」(イヴァシキン著:春秋社)のなかで以下のように述べている。
音楽における多様式は、僕が「多様式」という言葉を用い、様式の異なる音楽の素材の相互作用ということを考え始めるずっと前から存在していました。これを20世紀に最初におこなったのはマーラーとアイヴスです。セリーの作曲家たちの中でこれを最初にやった人の一人が、ベルント・アーロイス・ツィンマーマンです。その後、これにすっかり夢中になったのがアンリ・プッスールで、彼の作品では、セリーで構成される全体的な文脈の中で様々な時代の様式が相互作用する完全な体系が出来上がっています。調性音楽の引用は、この調性ではないような音楽の中では、過ぎ去った調性音楽の世界の名残であるかのように響きます。その後、ルチアーノ・ベリオの『交響曲(シンフォニア)』を始め、引用を使った数多くの作品が現われました。
こうした作曲家たちが僕より前にやったことに触発されて、僕は多様式を使うようになりました。当然ながら、僕はそれを無視するわけにはいかなかったのです。……
また、聞き手であるイヴァシキンが、シュニトケの交響曲第1番よりも第3番の方がベリオのシンフォニアに引喩の原則自体が近いように思うと言ったことに対しては、
そうとも言えるし、そうでないとも言えます。ベリオの『交響曲』は、僕の『交響曲第3番』とは異なり、全ての引用が真のもので、作曲家の課題は、膨大な量の引用を、自然に偶然生まれたもののように見えるように一つにまとめることでした。
と、答えている(注:セリーというのは12音音列のことだが、セリー音楽についてはこちらを参照のこと)。
この交響曲、4つの楽章から成っているが、そのせいだけじゃなくシュニトケの交響曲の中でも、交響曲らしい作品。
編成は4管編成基本で、打楽器各種のほか、エレキギター、ベースギター、ピアノ、チェンバロ、チェレスタ、オルガンが加わる。
第1楽章のトランペットのファンファーレ風メロディーが曲尾に回顧されるところは実に感動的!
シュニトケ、漠然とすごく好きだよ!(←「私のどこが好き?」と聞かれて、すぐに特定できない曖昧な恋心のように)
私が聴いているCDはクラス指揮ストックホルム交響楽団の演奏によるもの。
1989録音。BIS。
民主党の議員たちって、かなり変だと思うのは私だけだろうか?
自分たちの身のことしか考えてない。
なんだか昔の過激派組織の内紛みたい……
今回の騒動で鳩山ってお人よしとかお坊ちゃんとか、単に優柔不断なんじゃなくて、すっごく頭がおかしいか、すっごくずるいかのどちらかだと感じたのは、私だけだろうか?
すべては「偽」なり……か?
セイジのことはよくわからなぁい。
征爾さんはどうなったかなぁ。
昨夜は久々にアイゼンシュタイン氏と飲んだ。
その前に昨日の朝の話。
昨日は消化器科の病院に、先日ご馳走になった胃カメラの結果を聞きに行った。
医者がコンピュータの画面で使用前・使用後の写真をカチッカチッと切り替えながら、「このように十二指腸潰瘍はすっかりと消えました」と説明してくれる。医師が説明してくれているんだから、潰瘍が消えた内壁の写真も、他人のものではなく間違いなく私のものなのだろう。まったくもって、きれいになっていた。粘膜が喜んでいるのが画像を通じて伝わってきた。
あぁ、終わった。
私の血と涙と汗とよだれのピロリ菌との闘いは終わったのだ。
西洋医学の勝利。
パトリオット、いや、パリエット嬢、うんにゃ、パリエット錠の勝利だ。
「では、除菌しましょう」
はっ?
これは意表をついた言葉だった。もちろん、もう1人の私が勝手にしゃべったのではない。医者が言ったのだ。
どういうことだ?私は老人もうらやむ健康体になったのではなかったのか?
それとも「じょきん」っていうのは「女近」のことか?
でも目の前にいるのは医者で、占い師ではない。
「えっ?キッチン・ドメストか何かで?」
と言いたいところだが、そこはほれ、私は「良い患者」のスタンスを貫いているので黙っていた(先日の胃カメラのときだって、終わったときに「お手数をおかけして申し訳ありませんでした」と、丁重なお礼を述べたくらいなのだ)。そのとき私にできたことといえば、驚いたフクロウがかすかに微笑んでいるような表情をすることだけだった。
「7日間ピロリ菌を除去する薬を飲んでいただきます。抗生物質です」
思い出した。
最初に投薬を受けたときに、潰瘍がなくなったらピロリ菌を抹殺する薬を飲むと言われたのだ。そして、そのときは「前に潰瘍を患ったときには最初から7日間除菌大作戦を行なった」とちょっぴり不満げに抗議したのだった。
でも、そのときは「そうすることもありますが、今回はまずは潰瘍を消しましょう」とやんわりと、でも「それがオレの方針だ」という強い信念で言われた。
はいはい。
飲みます。
このとき私は、3年前にも7日間の投与をやったことがあると言ったが、医者は「それだと別な薬にしたほうがいいかな……。それ、なんていう薬かわかりますか?」
「ちっとも覚えていません」
「3年前か。じゃあ、こっちの薬は使ってないだろうから大丈夫だろう」と言って、通常ではない、第2段階用の処方をしてくれた。同じ抗生物質だと耐性ができていて効かないらしい。
次に診察を受けるのは1ヵ月半後だ。
薬を飲んだあと1ヵ月はあけなきゃならないらしい。
ところが私の予定、医師の勤労日との調整がうまくつかず、次回は10月末となってしまった。
「また胃カメラを飲まなきゃならないんでしょうか?」
「いえいえ、次は息でわかります。そんなに胃カメラを飲むのは大変でしょうから」
私はこの医者の言葉に嬉しくなって、思わず彼の耳元に息を吹きかけたくなった。
そう、次回は“尿素呼気試験”というやつである。検査のあと1時間で結果が出るというので、1時間待って結果を聞くことになる。そのあとは、よし、病院の地下食堂で親子丼を食べることにしよう(ただし、ピロリ絶滅宣言が出た場合に限る)。
さて、アイゼンシュタイン氏である。
相変わらずである。
意識はいつも本調子ではないようであるが、酒が入るにしたがってテンションは上がるのだ。
そこでシュニトケ(Alfred Schnittke 1934-98 ソヴィエト→ドイツ)の「ファウスト・カンタータ(Faust Cantata)」(1982-83)。ウィーン合唱アカデミーの125周年委嘱作品。
正式な曲名は、「ヨハン・ファウスト博士の物語(身を慎み、目を覚ましていなさい(Seid nuchtern und wacht))」である。
歌詞はI.シュピスによって出版された民衆の本「ヨハン・ファウスト博士の物語」(1587刊)のドイツ語版最終章(ロシア語版は弟のヴィクトル・シュニトケによる韻文訳)。
オーケストラと独唱(コントラルト、カウンター・テノール、テノール、バス)と混声合唱のための曲で、10の楽章からなる。オーケストラには、シュニトケらしく、チェンバロやエレキギターやベースギターが入るほか、オルガン、フレキサトーン、サックス(アルトとバリトン)も用いられている。
ベートーヴェンの合唱幻想曲に似たメロディーなんかが出てきたりして、またまたやってくれるぅ、って感じ。また、第7楽章のタンゴの妖艶な歌唱はなかなかな聴きどころである。
私が聴いているCDはデ・プリースト(のだめでも名前が出てきた)指揮マルメ交響楽団、同合唱団ほかによる演奏。1989録音。BIS。
ちなみにこのCD、シュニトケという作曲家を私がFM放送を通じて初めて知った作品である「真夏の夜の夢,ではなくて」が収められていたので買ったのだった。
それにしても、昨日はビバ・トレードに長居しすぎた。
そして、アイゼン氏、ナタオーシャの耳たぶを触ったとかで、ナタオーシャに真剣に怒られていた。
そういう店じゃないってことを、何百回来ても理解していないらしい。
まったく、慎みなさい!だ。
もっとも「身を慎み、目を覚ましなさい」というと厳粛な感じがするが、わかりやすく言えば「しらふで、寝ずの番をせよ」という意味。
寝不足がもっともこたえる私にはできない仕事だ。
MUUSAN
クラシック音楽、バラ、そして60歳代の平凡ながらもちょっぴり刺激的な日々について、「読後充実度 84ppm のお話」と「新・読後充実度 84ppm のお話」の2つのサイトで北海道江別市から発信している日記的ブログ。どの記事も内容の薄さと乏しさという点ではひそかに自信あり。
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