札響の演奏には、ここ数年、少なくとも私が行くコンサートでは高水準のものを聴かせていただいている。
が、今回はただ大好きな伊福部作品ということを超えて(いや、それならむしろ厳しい聴き方になる)、酔うような時間を過ごさせてもらえた。
5月31日14:00~、札幌コンサートホールKitara。
指揮・高関健、ヴァイオリン独奏・加藤知子。
「伊福部昭生誕100年記念」ということで、プログラムは
1. 日本狂詩曲(1935)
2. ヴァイオイン協奏曲第2番(1978)
3. 土俗的三連画(1938)
4. シンフォニア・タプカーラ(1954/改訂'79)
このうち前半の2曲は、私も今回初めて生で聴くこととなった。
まず「日本狂詩曲」。
第1楽章はしっとりとした夜想曲であり、第2楽章は打楽器が主役となる野蛮とも言える音楽だが、特に私は第2楽章を騒々しいだけに終わらせないよう処理するのか期待していた。
テンポはややゆっくりめで落ち着いて進む。ふっくらした音響だが、各楽器各パートの音はよく聴こえてきて塊にならない。そのため、ここはこの楽器がこんなメロディーを奏でていたんだと新たな発見もあった。
その透明感は大音響が炸裂する第2楽章でも変わらず、ガンガン激しさばかりが強調されるわけではなく、うまくコントロールされた上品かつ熱い響きが堪能できた。
ヴァイオリン協奏曲第2番は、独奏でフニャララと音程が揺らぐような箇所がいくつかあった。これは慣れ親しんでいる小林武史盤にはない、あたかも音程が外れているようなところがあった。
ただ、終演後の加藤知子も、指揮者も、そしてオーケストラのメンバーもうまくいったって表情をしていたので、ミスではないのだろう。聴衆も熱い拍手を贈っていたし……(もっとも、初めて聴く人も多かったのではないかと思う)。また、この音程の外れのようなものは、「日本狂詩曲」の第1楽章終り近くのヴァイオリン・ソロ(この日は大平まゆみ)にもあった。
ということは、このようなズレ、西洋音階にはない微妙なズレを、伊福部は狙っているのかもしれない。
以前「しゃっきとしない」という感想を持ち、その後聴いていない緒方恵盤を再確認してみる必要がありそうだ。しゃきっとしてなく思えたのは、計算されたズレの可能性がでてきたから。
「土俗的三連画」は、少人数のオーケストラでいかに多彩な表現をするかという伊福部の工夫が良く伝わって来る演奏だった。そしてまた、静と動のコントラストが巧みに表現された好演。正直、次の「タプカーラ」の前座のような感覚でいたのだが、かなり演奏に引き込まれた。
そして「シンフォニア・タプカーラ」。
感動を通り越して放心状態になってしまうような、みごとな演奏。
初めて「ラウダ・コンチェルタータ」を聴いた日のことを思い出してしまった。言葉にできない満足感を得た。
すでに出ている録音としては井上道義型の激しくパワフルなものだが、井上ほど粗くなく、ここでも高関の絶妙なバランス感覚が光った。
にしても、「土俗的三連画」と「シンフォニア・タプカーラ」は過去に一度札響で聴いているが(指揮は偶然にも両曲とも小松一彦)、伊福部ファンの私であっても、「土俗的三連画」がこれほど面白い曲とは感じなかったし、「タプカーラ」は「生だとこういう感じなんだぁ」というぐらいの感想しか持たなかったのはなぜだろう?
やっぱ演奏のせいとしか考えられない。
アンコールはなし。これは好ましい配慮。
というのもこの4曲の並びは終わってみるとうまく考えられてるなぁって感じであり、「タプカーラ」の超名演のあとに、例えばゴジラの音楽なんてやられたら、それはせっかくの感動を壊してしまうから。ゴジラなどの特撮音楽は、今回の場にはふさわしくない。これまた指揮者に感謝だ。
この日のコンサートはCD用の録音をしていた。
とにかく優れた演奏だったので、みなさんもCD化を首をキリンにしてお待ちいただきたい。
ただ、演奏中、パンフを落とす音やセキミ(咳ともくしゃみともつかない、奇妙な音)がしばしば聞こえた。それがあまり影響していないことを願っている。
コンサート
12月7日(土)、15:00~。札幌コンサートホールKitara。
指揮はアラン・ブリバエフ、ヴァイオリン独奏は川久保賜紀(たまき)。
ふと思い出したが、その昔“たのきん全力投球”って番組があって、たのきんというのは田原のトシちゃんと野村のよっちゃんと近藤のマッチなのだが、それをもじって“たまきん全力投球!”とクラスの女の子に言って、大ひんしゅくを買ったのは前田君だった(前田君がいったい何者であるかはここでは何ら重要ではない)。
いや、たまきで思い出しただけで……
にしても、“玉金”と漢字で書くと、なんか大国の由緒正しい何かの名前見たいだな。
さて、話をキンタラ、いや、キタラでのコンサートに戻そう。
プログラムは、
ベルリオーズ/歌劇「トロイ人」より「王の狩と嵐」。
ショーソン/詩曲
ラヴェル/ツィガーヌ プロコフィエフ/バレエ「ロメオとジュリエット」抜粋(8曲)
である。
私にとって札響の演奏会に行くのは1年ぶり。
ホールに向かう途中の中島公園の道でカラスに襲われはしないだろうかと心配しながら出かけた。
まずこの1年のうちに定期演奏会で変わっていたこと。
それはプレトークがなくなっていたことだ。本来の開演時間数分前にチャイムが鳴り、団員がステージに現われ、チューニングをし、指揮者が現れる。
これですよこれ。当たり前の始まり方が嬉しい。
プレトークを廃止した(それとも今回だけか?)ことに拍手を送りたい。
この日の演目は、私にとってすべて初めてナマで聴くもの。
「王の狩と嵐」は、CDで聴くよりもより“聴きごたえのある曲”に思えた。ステージ上の他に、2階客席中央付近に雷鳴を模すティンパニが配置されていたが、これがなかなか効果的。ベルリオーズが配置について楽譜にどのような指示を記しているのかは知らないが、にしてもベルリオーズがオーケストラの扱い方にあたらめて感心した。
ショーソンとラヴェルを弾いた川久保のテクニックはすごい。特にラヴェルは聴き手を圧倒させた。
プロコフィエフもその響きを十分に堪能できた。が、やや生真面目にまとまりすぎた感がしないでもない。
札響の各奏者は見事に演奏していたが(どの曲も)、プロコフィエフはソツなく収まりすぎたのではないか?(とはいえ、とても良い演奏だった。札響は本当に良いオーケストラだと思う)。 さて、プロコフィエフ(Sergei Sergeevich Prokofiev 1891-1953 ソヴィエト)のバレエ「ロメオとジュリエット(Romeo and Juliet)」Op.64(1935-36)。
舞台は4幕10場から成る。
コンサートではバレエの舞台の順に添って8曲が演奏されたが、ここでは2つの組曲を取り上げる。
第1組曲Op.64bと第2組曲Op.64c。
第1組曲は7曲から成り、1936年に改編された。また第2組曲も1936年に作られ、こちらも7曲から成る。
ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団の重量感がありながらも切れ味が鋭い演奏を。
1981録音。EMI。
なお「ロメオとジュリエット」には第3組曲もあり、そちらの作品番号は101。1944年に作られ、6曲から成る。
さて、来シーズンの札響定期はなかなか私好みのプログラムが揃ってる。
そのあたりについては、また近日中に。
みなさんはいつごろになったら来年の手帳を購入するのだろうか?
私はもう買った。2014年の手帳を。
いや、決して自慢しているのではない。ベンツを買ったとかなら自慢の一つもしたいところだが、私が買ったのはテチョーである。ただただ、ちょっと言いたくてしょうがなかっただけだ。
去年はもっとあとになってから買った。
というのも、システム手帳というものに替えるかどうか迷っていたからだ。
手帳はあくまで内ポケットに入れて持ち歩きたい私としては、システム手帳を選ぶならスリムタイプということになるが、スリムタイプでも、厚みはそこそこある。
スーツの内ポケットに収まることは収まるが、この歳になるまで経験したことのない肩こりというものに襲われそうだし、チョコレートを万引して隠しているかのようにがさばる。
今回も一応は悩んでみたが、スリムタイプの商品は1年前よりもさらに減り、また交換用リフィルもどこにでもは置いていないという事実を知ってしまった。スリムタイプは今後廃れてしまうような気がする。
そもそも手帳というのは手の帳面だ。システムだのなんだのとは相容れないのではないか?
ということで、またまた長年愛用している博文館新社のサジェスにした。これだって手に余るサイズだ。手に収まるサイズだったら、一般的には豆本サイズってことになるんだろうけどさ。
来年2014年は、昨日の記事を書いていて大発見してしまったのだが、大バッハの次男である小バッハ、じゃなかった、C.P.E.バッハ(Carl Philipp Emanuel Bach 1714-88 ドイツ)の生誕300年に当たる。C.P.E.バッハは伊福部昭より200歳年長である。つまり、1914年生れの伊福部昭は来年生誕100周年ということになってしまうわけだ。
ところで来月、十勝は音更町-ここは伊福部が子供のころ住んでいた土地だ-で高田みどり&川上敦子のコンサートがある。「ラウダ・コンチェルタータ」のピアノ・リダクション版のCDをリリースしたコンビだ。このCDはこのブログでも紹介した。
行こうかどうか迷っているところだが、問題は肝心の演目が記載されていないことである。チラシに「ラウダ」のことを書いといて「ラウダ・コンチェルタータ」をやらないなんてことはないと思うが不安である。自由席というのも、土曜の夜というのも、そういういくつもの試練の中でわざわざ音更に出向くというのも、私の腰を重くしている。
「プログラムを問い合わせてみれば?」って。ごもっとも。
でも、なんか躊躇してしまう。問い合わせ先の横の川上さんの写真。その異様なまでにばっちりしたお目目に吸い込まれそうで、私は音更町文化センターに電話する勇気がないままだ。 さて、C.P.E.バッハだが、今日取り上げる作品は前にも紹介している「4つの管弦楽のシンフォニア(Orchester Sinfonien)」Wq.183(1780刊)。この生気みなぎる音楽を、コープマン指揮アムステルダム・バロック管弦楽団の演奏で。
この曲、なぜもっと人気が出ないのか、私としてはまったくもって謎だ。
礒山雅氏はこの作品について、次のように書いているが、まったくの同感である。
この(C.P.E.バッハにとって)最後のシンフォニアにおいてエマヌエルは前作(Wq.182)をさらに凌駕し、全古典派シンフォニアの芸術的頂点ともいうべき金字塔を築きあげた。Wq.182が弦合奏と通奏低音のみによって編成されていたのに対し、このWq.183では管楽器グループが加えられ、その活躍によって、表現の世界はいちだんと多彩かつスケールの大きなものとなっている。その一方では、テクスチュアの整理と明確化が進み、形式の完成度が高められた。なお吹きやまぬ疾風怒濤の嵐の中にぽっかりと古典主義の青空がのぞいている、と言えば、このシンフォニアの世界の一端をお伝えすることができるであろうか。
お伝えされちゃいます。
この文は、大昔、“レコード芸術”誌の付録の小冊子に書かれていた文章だ。
あれから現在に至り、C.P.E.バッハの位置づけは、しかし大きくは変わっていないように思われる。
にしても、ぽっかりと古典主義の青空がのぞいている、なんてワタシには全く思いつかない表現だ。なお、今朝の当地は雨である。
このシンフォニア集が出版された1780年。
モーツァルトは交響曲34番を書いた。ベートーヴェンはまだ10歳だったが、ハイドンは第70番あたりまで交響曲を書いていた。
そう考えると、C.P.E.バッハの作品の異端さがよりはっきりしてくる。
コープマンの演奏は、彼のいつものスタイルとは違う。意外なことに、刺激的なところが少なく、疾風も怒涛も縁のない世界。実に穏やかで、良い子の振る舞いだ。
なんでかね?
リヒターやコッホの方が、かなりドドドドドッという爽快な激しさがある。
1985録音。エラート。
にしても、私が持っているディスクがことごとく廃盤になっていて中古でしか入手できないってのが、エマヌエルの停滞した評価を物語っているんだろうな。
先週木曜日の新聞に、帯広交響楽団の定期演奏会の広告が載っていた。
公演日は3日後の19日、日曜日。
この演奏会のことは知っていたが、あまり興味をそそられなかった。
が、3日前に広告が載るってことは売れ行きがかんばしくないのかなと思い、チケットも安いので(A席で1000円。3~4階席のブロック指定)買ってみた。
ブロック指定というのが気に入らないが、じゃあS席は、というと、1~2階席ながらやはりブロック指定。座席指定はSS席だけで1階後方および2階前方中央部。Sが2000円で、SSが2500円。
はっきりいってどんなオーケストラか知らないし、指揮者の名前は知っているものの、その実力のほどは私には未知数。さらにホールがどんなものかも知らないわけで、席取り合戦の心配が無用の座席指定は魅力だが、2500円を出す気にはなれない。S席もA席の倍の価格となると躊躇しちゃう。
そんなわけで、3~4階席がどれくらいステージから遠方になるかはわからないものの、今回は1000円コースにした。そう決断したのは、当日はけっこう会場がガラガラじゃないかと、ひそかに踏んだせいもある。
あらためて書くと、帯広交響楽団第35回定期演奏会。
5月19日15:00~、帯広市民文化ホール。
指揮は橘直貴、サックス独奏は須川展也。
プログラムは、
① トマジ/サキソフォン協奏曲
② 加藤昌則/スロヴァキアン・ラプソディ
(本公演では“スロバキアンラプソディ”と表記されている)
③ ラフマニノフ/交響曲第2番
橘直貴は札幌出身。
彼の方はまったく知らないことだが、実は私、まだ学生でホルンを吹いていたころの彼を知っている。知っているといっても、あるときたまたま同じ場に居合わせたというだけのことで、言葉を交わしたわけでもなんでもない。
彼の指揮による演奏を聴くのは、今回初めて。
須川展也については、日本におけるサックスの第一人者であることはご承知の方も多いだろう。
帯広交響楽団(帯響=おびきょう)は、1987年結成の市民オーケストラである。
市民オーケストラの演奏を聴いたことはほとんどないが、演奏会を通して感じたのは、予想していたよりも上手かったということ。
さて、1曲目のトマジ(Henri Tomasi 1901-71 フランス)の「サキソフォン協奏曲」(1949)。
私はこれまで、トマジの作品はトランペット協奏曲(1948)しか聴いたことがない。サックス・コンチェルトはトランペット・コンチェルトの翌年に書かれたことになる。サックスはアルト。
また、加藤昌則についてはまったく知らなかったが、1972年神奈川県生まれの作曲家・ピアニストだそう。「スロヴァキアン・ラプソディー(Slovakian Rhapsody)」は、2005年のスロヴァキア・フィル来日に合わせ須川が加藤に作曲を委嘱したもので、アルト・サックスと2管編成オケのための協奏作品。
スロヴァキア民謡「おお牧場はみどり」が用いられている。
須川のサックスは、何も言えないぐらいすばらしい。
オーケストラはというと、金管のピッチが安定しない。また、気負っているのか叫び過ぎの感がある。トマジではもっと繊細さと透明感が欲しかった。が、これは指揮者のタクトのせいか?加藤の作品は、サックスとオケの絡み合いというよりは、サックスとオケが一緒に突き進むような形の派手でイケイケの感じの曲で、こちらの方がオケのキャラに合っているよう。
札響から応援に来ていたファゴットの坂口氏がコントラファゴットを吹いていた。札響のステージでは見られない珍しい光景だった。
アンコールは朝川朋之の「セレナーデ」。
サックスと弦楽合奏、ハープのための曲。ここでも弦の表情が固い。ただ、ホールの響きの影響もあるのかもしれない。
後半は、ラフマニノフ(Sergei Rachmaninov 1873-1943 ロシア)の交響曲第2番ホ短調Op.27(1906-07)。
こういう言い方は失礼だが、地方都市での演奏会でプログラムに取り上げられるなんて、この交響曲もずいぶんとメジャーになったものだ(オケの編成も大きいし)。
後半に入っても、響きはパワフルだが感情的起伏があまりなく表情が乏しい。
味わい深さはあまりなく、暖色系の音色もあって、しっとりと来るところがない。ただし、個々の奏者の技量はけっこう高いようだ。金管は後半に入ってもピッチが不安定で、特に強奏になると音が汚い。ただし、よく起こりがちな大きなミスはないのはなかなか。一方、木管は音も美しく、レベルは高い。
オケ全体もトゥッティになると音が混濁する。このあたりもホール事情がある可能性はあるが、弦と管のバランスが悪いのかごちゃごちゃした音の塊となってしまうのは指揮者のコントロール力に負うところも大きいだろう。
そんなわけで、力のこもった演奏だが、一本調子。
終楽章ではオケはけっこう疲れていたよう。出だしでは弦楽器が上ずっていたし、アンサンブルも怪しくなるところがあった。が、この無邪気に踊るような楽章が、いちばんこのオケに合っていたように思える。 この曲が終わったあと、また須川氏がステージ上に現われ、アンコールとして彼の独奏入りでラフマニノフの「ヴォカリーズ」。
もちろんあらかじめ用意してあった演出だし、サービスとしてはありがたいもの。市民も大喜びだろう。
が、オケだけで力演したあとだけに、最後はオケが主役のまま幕を閉じて欲しかった気もする。
市民オケの活動はいろいろ苦労も多いだろうが、これからもがんばって欲しいと思う。
1000円でこの体験ができるのは安い。が、空席がかなり目立っていた。席取り合戦を覚悟していたが、それは杞憂に終わった。
私の立場としてはありがたいことだが、オーケストラにとっては残念なことだ。
そんなんで、今日はテミルカーノフ/サンクト・ペテルブルク・フィルによるラフマニノフの交響曲第2番をここに紹介し、終わる。この録音、大太鼓の音がかなり素敵!
1991録音。RCA。
帯響とは全く関係ないが、冷蔵庫が突然冷えなくなった。
ただの灰色の箱に化してしまったのだ。
コンサートのあと、あわてて買いに行ったが、届くのは明日である。
シューマン(Robert Schumann 1810-56 ドイツ)の「暁の歌(Gesange der Fruhe)」Op.133(1853)。
5つの小品(ニ長調/ニ長調/イ長調/嬰へ短調/ニ長調)から成るピアノ曲。
この曲は楽譜出版に際しシューマン自身が関わった最後の作品だという。
シューマンは1854年の2月27日、家を抜け出し土砂降りの中、ライン川の河畔に向かった。妻クララとの結婚指輪を川へ投げ捨てたあと、投身自殺を図った(その少し前、年の初めころ、「天使たちから新作の口述を受けている時、虎やハイエナに身をやつした悪魔に襲われ、地獄に堕ちそうになった」幻覚を1週間にわたって見た(H.C.ショーンバーグ「大作曲家の生涯」(共同通信社)より))。
近くにいた船員に助けられて家に運ばれたが、その数日後にはボン郊外にある精神病院に自らすすんで入った。
その直前の2月23日に、シューマンは出版社のアーノルドに宛てて「暁の歌」について手紙を書いている。その時、楽譜も同封されていたのかどうかは私にはわからないが、手紙には 「Op.126のフーガは憂鬱なので出版したくない」こと、かわりに「最近書き終えたピアノ小品集『暁の歌』を渡す」こと、「これは夜明け前に感じることを描いているが、情景の描写ではなく夜明け前の感情の表現である」こと、が書かれている。
その後シューマンは作曲できるまで回復したものの、1956年の夏には嗅覚と味覚の異常と浮腫が起こり、7月29日に亡くなった。
私はずいぶん前に「暁の歌」をコンサートで聴いたことがある。
それも、曲を聴きたいというよりは、ホールの音を聴いてみたいという目的で。
1987年10月31日。
そのとき私はたまたま東京にいた。
その日、サントリーホールで“国際作曲委嘱シリーズ1987”というシリーズもののコンサートが行われた。監修は武満徹。サントリーホール1周年の記念コンサートである。 今はどうか知らないが、あの頃サントリーホールでのコンサートとなれば、当日券なんてとても買えなかったはずだ。ふつうのコンサートなら。
が、買えた。
演目が嫌われ者のゲンダイオンガクだったから。
なんといっても、泣く子も逃げ出すようなプログラムだったのだ。でも、間違いなく貴重な演奏会でもあった。私は世界初演の曲を聴けたのだ。
メインはリーム(Wolfgang Rihm 1952- ドイツ)の「無題Ⅱ(Unbenannt Ⅱ)」(1987)。この日のコンサートのために委嘱された作品で、もちろん世界初演。
サブ・メインとも言うべき曲は、ラッヘマン(Helmut Friedrich Lachenmann 1935- ドイツ)の「オーケストラのための『ファサド(Fassade)』」(1973)。これは日本初演。
どちらもバリバリのゲンダイオンガク。
客席の私は「う~ん、これがサントリーホールの響きかぁ」と感慨無量、になるもなにも、委嘱作だか意欲作だか異色作だか、あるいはオンガクだが騒音だかよくわからないままだった。
それでも、コンサートの第1曲目はベートーヴェンの交響曲第5番だった。
音を聴くには最適……のはずが、井上道義が指揮する新日本フィルは、これがまたそのあとの“ムズカシイ音楽”に緊張しているせいか、どうもパッとしなかった。
ベートーヴェン、ラッヘンマンの順でプログラムは進み、3曲目はなぜかピアノ独奏曲である「暁の歌」。
ラッヘンマンのあと、当時は知らなかったこの曲に対し「独奏曲じゃなくて毒素曲じゃないのか」と構えて聴いたが、ふつうの曲だった。
武満がどのような意図で、ここにこのピアノ曲を挿入したのかわからないが、不思議な組み合わせに思えた。このときのピアノ独奏は高橋アキ。
1987年というと、もう26年も前の出来事だ。
私も26年分老いたわけだ。
老いたと言えばポリーニ。
ポリーニは1942年生れだが、昔の若々しくて、ややニヤけた表情なんてちょっとエッチぽかったのに、いまやすっかりおじいさんだ。そりゃそうだ。70を越えてるわけだもんな。
とはいえ、 ポリーニのCDのボックスセットの写真と中のブックレットの写真を比べると、やはりその変化にあらためて驚く。
そのポリーニの演奏による「暁の歌」。
この演奏がすばらしいのかどうか、私には判断できる材料が足りないのだが、少なくとも良くないとは思わない。
そりゃそうだよな。ポリーニだもん。
2001録音。グラモフォン。
11月19日付の北海道新聞夕刊に、札響第554回定期演奏会の評が載っていた。1週間も経ってしまってから取り上げることについて、わずかに申し訳なさと恥ずかしさがある私だ。テュラテュラテュラテュラテュラテュララ~……。
書いているのは中村隆夫。肩書は指揮者になっている。
確か以前は道教育大の先生だったと思うが、もう退官したってことなんだろうか?今さらながらそんなことに気づくとともに、時は流れているのねと、自分の首周りの老人性イボをなでながら思う。
さて、「秀演だが心に迫らず…」と大書きしてある。
エルガーの交響曲第1番については、演奏は良いのに「私には音がむなしく耳元を通りすぎるのみである」「ただし第2楽章はよかった」と書いてある。
これって、演奏のことではなくエルガーの曲自体のことを言ってるのだろうか?
う~ん、よくわからないな。
中村氏が聴いたのは9日(A日程)の演奏。
私は10日の公演(B日程)を聴いたわけだが、書いたように私も熱狂的な興奮はしなかった。中村氏が書いているのは私と同じような感覚なんだろうか?私にはむなしいとまでは思わなかったが…… ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番の方も、厳しく書いている。
ここで私も同感だったのは、「テンポがしばしば前のめりになり」ってところ。ただし、私が思ったのは第1楽章で1カ所だけだったけど。
9日と10日の演奏にどのくらい違いがあったのかはわからないが、なんとなく10日の方が良かったのかなと、この評を読んで思った。
さて、気分転換にベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)のピアノ協奏曲第5番変ホ長調Op.73「皇帝」(1809)をあらためて聴いてみよう(←独り言と思ってください。だいいち、気分転換にならないんじゃ……)。
本日はエマールの独奏、アーノンクール指揮ヨーロッパ室内管弦楽団による演奏。
つまり、近代オーケストラでガンガンやるのとは正反対のスタンスのものである。
「皇帝」という名前はベートーヴェン自身がつけたものではない。
規模や内容からそのように呼ばれるようになったとも言われるが、確かにこの曲は壮麗壮大で、ともすれば退屈になっちゃうこともあるが、とにかくそれ以前のピアノ・コンチェルトとは格が違うという感じがある。
が、このCDは違う。いつもの「皇帝」を期待して聴くと、「あれ?皇帝様はお風邪でも?」という演奏なのだ。しかし、何度か聴くとハッタリのないこの演奏がけっこう心地よくなってくる。「皇帝」という権威など関係ないもんね、って感じのものだ。
骨ばってなくて、私は案外と好き。
2002年、ライヴ録音。テルデック。
11月10日15:00~。札幌コンサートホールKitara。
転勤して札幌から離れた私にとって、久々の札響定期である。
指揮は尾高忠明。ピアノ独奏はジョン・リル。
プログラムはベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」とエルガーの交響曲第1番。
エルガーの交響曲第1番はけっこう好きな曲だが、いろいろな不運が重なり今まで生で聴いたことがなかったもの。
いずれも札響のコンサートのときだったが、急に出張が入ったりして運命の神に邪魔されてきたのだ。
今回も急に何かが起こって行けなくなるのではと心配したが-急に重度の下痢で家から出られないとか、この日の午後、在宅していたら100万円をプレゼントするという申し出が誰かからあるなど-なにごとも起こらず、無事、コンサートに臨むことができた。
1曲目。
ベートーヴェンの「皇帝」。 若いころはこれを生で聴いていても長くて、退屈でつらいなぁと思ったし、積極的にディスクを聴くことも“ながら聞き”を除けばなかったが、歳を重ねるにつれ良さを感じるようになった。きっと私が皇帝になる日が近づいているからだろう。なんの皇帝か見当もつかないけど……
リルの独奏は派手さはないが、職人的な安定した演奏。こういうのって、案外と聴けることが少ない好演。
オーケストラも独奏を見事にサポートしていた。
「皇帝」は冒頭のピアノのきらびやかさに耳を目を奪われるが、上に書いたように、曲に引き込まれそびれると眠くなる。
この日も第1楽章半ばあたりから、私を中心に東西南北方向から寝息やらいびきやらが聞こえてきた。それは第2楽章でピークに達した。
いつからか知らないが、演奏会プログラムには左のようなマナーの注意書きが1ページを使って載っていたが、ぜひともいびきも加えてほしいものだ。そりゃ眠くなることもあるだろうけど、ずっと寝るなら演奏会場ではなくもっと快適な場所を選んで欲しい。
第2楽章ではPブロック、つまりステージの後方の席で、偶然か示し合わせたのか知らないが、7人の老女たちが並んで座っていて、揃いも揃って首を左に傾け眠りこけていた。
子猫が首をかしげて眠りこける姿は愛らしいが、老女が揃ってこんな状態だと何かが降臨したのかと思ってしまう。指揮者もいやになるだろうな。見ていて面白い光景ではあったけど。
休憩をはさみ、エルガーのシンフォニー。
締まった充実した演奏だった。尾高の特質と言っていいのかどうかはわからないが、熱狂的興奮を呼び起こすような演奏ではないが、ぞくぞくっとする箇所多数。札響の性格にも合っている曲だと思った。オーケストラ、力演!熱狂的興奮ではなく、ジワジワと興奮と感動に襲われた。
このエルガーはCD化のために今回録音していた。
プレトークで尾高が、「決して無理して咳をなさらないように」と抱腹絶倒、腹がよじれるくらいおもしろいギャグを言っていたが、単発的な咳は生理現象だからともかく、やっぱりいるんだよな。演奏中に執拗にプログラムをめくっているカサコソ虫とか、チラシ類を床に落とすバサットーリャが……
そうそう、今回久々に来場してシステムが変わったなと感心したのは、プログラムの冊子以外は入場時に配られないということ。膨大な量のチラシ類は強制的に渡されず、入場後に欲しいチラシを欲しい人がコーナーから取っていくという方式に変わっていた。
だったらさ、欲しくてたまらなくて持ってきたチラシなんだから、大事に胸に抱えてなさいよ。バサッと落とさないで。 さて、エルガー(Edward Elgar 1857-1934 イギリス)の交響曲第1番変イ長調Op.55(1907-08)の演奏で、今日はハイティンクがフィルハーモニア管弦楽団を指揮したCDをご紹介。この演奏、私はお薦めしない。お薦めしないCDを紹介するなんて、どこかヘンですかね?いえ、少しでもみなさんのお役にたてればなって思ったんです。でも、これが好きだって人もいるでしょうから、世の中って不思議ですよね……
威勢がいいというか、なんだか乱暴な演奏だ。
しばしばとても美しい響きも聴かれてハッとさせられるが、どこか落ち着いて聴いていられないのだ(ハッとするから落ち着けないのか?いや、そういうことではなく……)。アンサンブルが乱れているっていうわけじゃあないのだが、丁寧さが感じられない。オケが統率されていないんじゃないかって箇所がいくつもある。
うん、せわしないんだな、これ。
これは私の持っているハイティンクのイメージとはやや異なるものだ。
まあ、元気なのは良いことだし、情感豊かでもあるんだけど……
1984録音。EMI。
この曲の録音では、やっぱりトムゾンのがいいな。そんなにいろんなCDを聴いているわけじゃないけど。
そして、今回の札響定期のライヴ録音CDが出るのを、みなさん、私と一緒に首をダチョウにして待ちましょう。
けっこうな演奏でしたので……。録音されたのを聴くと、どうかはわかりませんけど……
昨日の午前中はインフルエンザの予防接種をしてきた。
いや、何となく言いふらしたかっただけです。
昨日1月20日、19:00~。Kitara。
私にとっては札響定期に足を運ぶのは8月の定期以来。
、いつもオーディオからの音ばかりを耳にし、コンサートで長らく聴かずにいると、ともすれば生の音が遠くて物足りなく感じてしまうことがあるが(ボリュームを上げたくなる)、幸いこの日はそういういけない感覚には襲われなかった。
指揮はサッシャ・ゲッツェル、ヴァイオリン独奏は神尾真由子。
プログラムはハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲とベルリオーズの幻想交響曲。
どちらも私のお好みの曲。
ハチャトゥリアンのコンチェルトは、最初にヴァイオリンが低い音で登場するその力強い音が、粗いというか汚く、これは何か変だと、この先どうなるのかと焦った(私が焦ることはないんだけど)。その後もソロ・ヴァイオリンの音程は安定しなかったが、第1楽章のカデンツァからそれまでがまるでウソのように安定し、見事な技術と音楽性が披露された。第2楽章などの超弱音も実に美しかった。
オーケストラもすばらしい演奏。
休憩をはさんで「幻想交響曲」。
ゲッツェルの演奏はどこの部分でもねっとりと引きずるようなことはなく、キビキビと進んでいく。それは小気味よいが、場面によってはもう少し歌い回して欲しいと思うところもあった。
なお、第1楽章の提示部は反復したが、最近の録音で多くなってきた第2楽章のコルネットの助奏や第4楽章のリピートはなし。
楽器の配置では、第3楽章冒頭のイングリッシュホルンとオーボエの掛け合いで、オーボエを2階の客席に配置し、また同じく第3楽章終わりの雷鳴を表わすティンパニ(4奏者による)のうちの2台(2奏者)を舞台の上手と下手に置いて、距離感を出していたが、これはうまい方法だと思った。
その配置とは直接関係ないが、私がこれまで聴いてきたどの幻想交響曲の演奏より、第3楽章終わりのこのティンパニが“遠くからの雷鳴”らしく聴こえた。
鐘の入りも完璧。そして全体を通じてオケも高い水準の演奏を聴かせてくれた。
意外だったのは、曲の閉じ方。最後の一音はフェルマータせず、つまり音を伸ばさないで閉じられた。これは慣れてないこともあって、尻切れトンボのように感じた(あくまで私個人の慣れの問題。それがおかしいとか悪いという意味ではない)。
ところで、ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲。
今日はシェリングの独奏、ドラティ指揮ロンドン交響楽団のCDをご紹介。
実はこの演奏こそ、学生のときに彼女に傷つけられたLPの演奏なのである。
ねちっこく表現過多にロシアロシアと歌い回すのではなく、直球の多い配球。ところが、これがまったく非ロシア的なんかではなく、かえってロシア的。メソメソなんてしていない、毅然たる演奏。喜びも哀しみも雄大なる露西亜よ!
この曲の歴史的名盤と言ってもよいだろう。
いまこれを聴くと、LPに傷をつけられて心の中でメソメソした自分が恥ずかしい。いや、でもあのときはホントに心も傷ついたからな……
1964録音。タワーレコード・ヴィンテージコレクションの1枚。原盤はマーキュリー。
さて、わたくしごとだが(ここでわたくしごと以外のことを書いたことはないと思うけど)、このたび転勤することになった。
このブログを始めたころは東京にいた。
その半年後に現在の札幌勤務となり、長いことに4年間も居座ってしまった。
今度の勤務地は豚丼の街である。
これまで楽しいことをしてくれて記事をにぎわしてくれた仕事関係の方々、また飲食店業界の人々とは少し物理的距離が開いてしまい、登場回数も減ることだろう。
でも、キーワードは「伴」。いや違った「絆」。
今後ともよろしくお願いいたします。コメントの投稿も手を抜かずにお願いしますね!
もともと物理的距離がある読者の方々も、引き続きよろしくお願いいたします。
引っ越しなどでバタバタするので、当面は内容の薄い記事になるかもしれませんが(当初から薄いという説もある)、ピザだって生地は薄い方が美味しいぐらいだから(個人的な好みですが)、そこはお許し願いたいもんです。
あと、昨日判明したアイゼン氏の苦悩と、私の名をしょっちゅう悪用していることが判明した事実についても、後日取り上げなくてはならない。
今年のPMFのメイン・コンサートは「ルイジのマーラー」という謳い文句の(Kitaraでの)最終公演だった。
プログラムは(マーラーの)「リュッケルトの詩による歌」と交響曲第1番だった。
この演奏会、私はチケットを購入することができたのだが、直前になって行くことができなくなり人に譲ったという、聞くも涙、話すも涙の裏話がある。
その後の新聞評では「ひどく聴衆が熱狂した」とあって悔しい思いをしたかと思えば、「あれはねぇ」というブログでの評もあって、「んじゃ、行かなくてよかった」と、イソップの「すっぱいぶどう」のキツネのような気分にもなった。
非売品ながら、あるツテからその日の演奏会のCDを聴くことができた。
2枚組のCDで、1枚目には7月23日のKitaraでの公演が収められている。演目はマーラーの「亡き子をしのぶ歌」とブラームスの交響曲第2番。
2枚目は、7月30日のkitara最終公演で先に書いた、リュッケルトと第1交響曲である。
両日ともバリトン独唱はトーマス・ハンプトン、ルイジ指揮PMFオーケストラ&PMFファカルティである。
その交響曲第1番。
非常に若々しい演奏で、またルイジはテンポに多めの変化をつけるが、そのアクセルとブレーキに若きオーケストラもしっかりと反応している。
音も非常によく出ている。
これは会場にいた人はよほどのひねくれ者でない限り、音の渦に飲み込まれ、興奮し、熱狂せずにはいられなかっただろう。実際、曲が終わると同時に叫び声と拍手がわれんばかりである。
私もそうなっただろう。
でも、CDで聴くとハテナ?というところがけっこうある。
まず、全体的に軽い。これは音が軽いのではなく、作り上げられた音楽に深みが乏しい。一本調子と言った方が近いかもしれない。
第2楽章はちょいと陽気さが強すぎないかいって感じ。まぁ、楽しい船出ってことからすれば、こういうのがあってもいいんだろうけど。
ルイジのイタリア人気質が出たのか?「フニクリ・フニクラ」を思い起こしてしまった。
第3楽章は全体的にテンポが速め。これもちょっと……
第4楽章は、お客様がお望み通りの炸裂。さすがヤング・パワー!けど、どこかバカ騒ぎっぽい。
ただし、先ほども書いたように、ホールでこれを聴いていたら興奮するのは必至。ホールを出た後、気がついたらみんなマッサージ機の契約書を持たされていた、ってことがあるくらい空気に飲まれてしまっただろう。
でも、なんとしても行けばよかったかな……
何年か前だったか、やはりルイジが振る最終公演の「幻想交響曲」を、直前になって行けなくなったことがある。
そう、実は私はルイジを生で聴いたことがないのだ。生ルイジを見たことがないのだ。
彼とは、どーも縁遠いような気がする。
今年のPMFオーケストラは、ウルバンスキ指揮の公演1回しか聴かなかったが、そのときはフェスティバルが始まったばかりというものあったのか、特に各人の聴かせどころが多いボレロがさんざんだった。“のだめ”で千秋がボレロを振った場面を再現してるかのようだった(最後に打楽器奏者が転ぶことはなかったが)。
しかし、このマーラーの第1番を聴く限りでは、例年ほどじゃないまでもオケの水準は高いと思った。
ウルバンスキの公演から20日くらいでこんなにレッスン効果が現われるんだなぁ、と感心してしまった次第。
2011PMFは福島の原発事故の影響から開催が危ぶまれた。ウルバンスキのコンサートも、当初はアルティノグルが振る予定だった。
しかし、来日中止となったアーティストはわずかで、無事開催にこぎつけたのは、事務局サイドの目に見えない努力の賜だと思う。
1月の札響定期ではゲッシェルの指揮で「幻想交響曲」が演奏されるということを、特に求められてもいないのに先日書かせていただいた。←う~ん、謙虚ぉ~。
しかし、それだけではない。
もう1つの出し物がハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲なのだ。実はアタシ、このコンチェルトも病的なまでとは言わないまでも、けっこう好きなのである。
そしてこの曲の持つ、明るく振る舞っていてもどこか憂いがある感じと、ある思い出が濃密に結びついている。
大学生のときだ。
私にも付き合っていた女の子がいた。
言っておくが、私の心をスパイク長靴の底で踏みにじった、モモンガ・ハイツに住んでいた子とは違う。
その子が家に遊びに来たとき、私はちょいと自分のおしゃれさと鷹揚さをアピールするために、彼女にあるLPレコードを手渡し、「これをちょっとかけてくれる」と、彼女にディスクを取り出しセットしてかけるようにお願いした。
彼女は、でも「大丈夫かしら」とか遠慮するところなく-結局のところ、この非謙虚さがのちに別れる原因となったのだが-、大胆とも言える大胆な扱いでLPレコードをジャケットから取り出し、さらにシュリッと勢いよく中袋からも出し、ターンテーブルにのせようとした瞬間、万が一起こったらどうしようと思っていたことが、万が一の確率で起こってしまった。
LPレコードは嫌がるように彼女の手から離れ、床へと落ちた。
私のお部屋の床にはカーペットを敷いてあった。
だから通常ならディスクに傷はつかないはずだった。いや、傷ついたとしても軽微なもので済むはずだった。
しかしこの日レコードの落下地点には、彼女が背負ってきたデイパックが置いてあり、しかも金属製の小さな笛がぶら下げられていた(彼氏の家に遊びに来るのにデイパックだぜ!山ガールじゃあるまいし。しかも笛だよ!痴漢除けじゃなく、間違いなくクマよけだ。魔除けよりはまだ救われる気はするが)。
繊細なレコードちゃんは、それによって一生元に戻らない傷を負ってしまった。
私は「いいよ、いいよ」と言ったものの、そのときにただ「あっ!」とだけしか言わなかった彼女に怒りと失望感を覚えた。いくら私に言われてやったからといって、そしてわざとではない事故だからといって、「ごめんなさい」の一言もなく、「あっ!」だけってゆーのはないだろうが!
そのレコードは傷が癒えることもなく、聴くたびに第2楽章で「ザッ!ザッ!ザッ!ザッ!ザッ!ザッ!」と6回にわたって痛々しいノイズを発するようになった。
そう。それがハチャトゥリアン(Aram Ilyich Khachaturian 1903-78 ロシア)のヴァイオリン協奏曲ニ短調(1940)のLPだったのだ。シェリングの独奏、ドラティ指揮ロンドン交響楽団の演奏だった。
なぜ、B面のプロコの第2番の方を下にして落下しなかったのだろう…… そんなことで、今日ご紹介するのはこの曲。今さら書かなくても、もう薄々気がついていただろうけど。
前にパールマンの独奏による演奏(メータ指揮イスラエル・フィル)のCDを取り上げたが(1984録音。EMI)、今日はとっても古い録音を。
リッチの独奏、フィストラーリ指揮ロンドン・フィルによる1956録音のものだ。デッカ。
さすがに最近の録音のものに比べると音は劣るし、独奏ヴァイオリンがいきなり左に寄ったあげく(ヘッドホンで聴いていると)頬のあたりに接近してくるようなところもあるが、それでも'56年録音とは思えない良い質を保っている。何より演奏が情熱的。私は好きだ。
ハチャトゥリアンの作品集で、ピアノ協奏曲、仮面舞踏会、第2交響曲と、おいしい作品が勢ぞろいしている!
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