読後充実度 84ppm のお話

“OCNブログ人”で2014年6月まで7年間書いた記事をこちらに移行した「保存版」です。  いまは“新・読後充実度 84ppm のお話”として更新しています。左サイドバーの入口からのお越しをお待ちしております(当ブログもたまに更新しています)。  背景の写真は「とうや水の駅」の「TSUDOU」のミニオムライス。(記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

2014年6月21日以前の記事中にある過去記事へのリンクはすでに死んでます。

コンサート

社会不適応の漁夫。オーバーラップする作曲者……

73f8443a.jpg  昨日の朝、とても珍しいというか、懐かしい人からメールが来た。
 4年前までいた大阪支社。そのときに同じ課で仕事をしていた女性社員からだ。

 タイトルはなし。つまり、表示は「無題」。
 本文は、

 わたし織田なんとかの大ファンなんですけど~!!!!

 昨日のブログを読んで、このように不満をぶつけてきたのだ。

 そうだった。
 彼女は織田なんとかのファンだった。
 思い出した。
 しかも、大ファンだったとまでは知らなかった。

 私はすぐに返信した。
 
 お久しぶりです!あれは織田信長ってことで……

7eb48684.jpg  そのあと、メールは来ていない……

 ♪

 おとといの北海道新聞夕刊に、札響第540回定期演奏会の批評が載っていた。
 プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番と、メインのブラームスの交響曲第2番について書かれていたが、おやおや、どうしたことだろう、1曲目のブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」についてはまったく触れられていない。
 悲しい。
 この評者、演奏会に遅刻したのだろうか?

 それと、19日のA日程の演奏について書いているのだが、ブラームスのときに起こったという“酔っ払い騒乱事件”については触れられていない。

ffc1d4a6.jpg  こういうメディアでこそ、同じことが起こらないようにきちんと書いて、世間に注意を呼びかけて欲しいものだ。それとも、騒いだのが外人だから道新に書いても意味ないと判断したのだろうか?

 かわいそうなブリテン。

 この私が、取り上げて差し上げます。

 ホルストの組曲「惑星」の初演(1918。非公開)、そしてブリテンの歌劇「ピーター・グライムズ」の初演(1945)。

 ロバート・P.モーガンの「音楽の新しい地平」(長木誠司監訳:音楽之友社)によると、〈上演直後、それは新時代の使者とみなされることとなったのである。これら2つの初演は、イギリス音楽が不毛に終わった19世紀を越えて自分たちの様式のあり方を明確にし始めた、ということをはっきりと示している〉という。

 ブリテン(Benjamin Britten 1913-76 イギリス)の「ピーター・グライムズ(Peter Grimes)」Op.33(1944-45)は、プロローグと3幕6場のオペラで、台本はM.スレイターがG.クラップの詩「町」をもとに書いた。

 舞台はイギリスの東海岸の小さな漁港。
 オペラの筋は、〈荒れ狂う北海の景観を背景に、閉鎖的な漁村社会から疎外されている漁夫ピーターが、雇った少年を死にいたらしめた罪に問われ、自らもあらしの海に出て死に追いやられる〉(井上和男編著「クラシック音楽作品名辞典」:三省堂)というもの。

 P.モーガンによると、〈社会に適応できない人間をテーマとするこの作品は、平和主義者であり同性愛者でもあったブリテン自身にかかわるものであり、歴史上初めて、イギリスの保守的な音楽に刺激を与えるものとなった〉のである。

 このオペラでは〈場面転換に6曲の間奏曲が挿入されており、情景および心理の動きの描写に重要なはたらきをしている〉(井上)。

 ブリテンはオペラの間奏曲を改編し、「4つの海の間奏曲(4 Sea interludes)」Op.33a(1945)とした。
 その4曲は、

 1. 夜明け(Dawn)~プロローグと第1幕の間奏
 2. 日曜日の朝(Sunday morning)~第1幕と第2幕の間奏
 3. 月光(Moonlight)~第3幕第1場と第2場の間奏
 4. あらし(Storm)~第1幕第1場と第2場の間奏

 である。

 さらに、第2幕第1場と第2場の間奏曲を改編し「パッサカリア(Passacaglia)」Op.33b(1945)も書いている。

 どの曲も美しく、どこか切なさをもった独特のコクのあるもの。

 ここでは、「シンフォニア・ダ・レクイエム」のときに紹介したスターン指揮カンザスシティ・シンフォニーのCDを再びご紹介。
 「4つの海の間奏曲」と「パッサカリア」の5曲が収録されている(「パッサカリア」は「月光」と「あらし」の間に演奏されている)。
 ややコンパクトな感じがするが、きっちりとした精緻な演奏だ。
 2009録音。REFERENCE RECORDINGS。

 もっとスケール感がある演奏としては、「春の交響曲」のときに紹介したCDの、プレヴィン指揮ロンドン交響楽団の演奏を私は好んでいる(「4つの海の間奏曲」のみ)。
 1974録音。EMI。

 さて、休みも終わり、今日から職場復帰だ。
 でも、占いじゃみずがめ座は12位だしな……

札響第540回定期演奏会(A日程)を聴いて

522199e8.jpg  8月19日、19:00~。札幌コンサートホールKitara

 指揮は高関健、ピアノ独奏は小川典子。
 “典子”といえば、名前入り包丁……って相当古いCMの話……

 1曲目はブリテン(Benjamin Britten 1913-76 イギリス)の「シンフォニア・ダ・レクイエム(Sinfonia da Requiem)」(1940)。

 その昔は「鎮魂交響曲」という訳で呼ばれていたが、いまはあまり使われない。
 そもそも西洋の概念では死者の「魂を鎮める」というものはなく、死者は安らかに神のもとへ行くのだ。だから「レクイエム」は「死者のためのミサ曲」であって、「鎮魂歌」じゃない。

 とはいっても、ブリテンのこの作品を聴くと、きれいごと言ったって、やっぱに、いや、やっぱりキリスト教信者だって「死にたくないよぉ~」って死に抵抗してるんじゃん、って感じがする。
 あるいは、大切な人を失ったことを現実として受け入れられない残された人のやるせなさが爆発しているようにも聴こえる。

 ブリテンのこの作品は、管弦楽によるもの(歌は入らない)。
 皇紀2600年を祝うために日本政府から作曲を委嘱されたが、「お祝いにレクイエムとは何ごとか!」ということで、演奏が拒否されたという経緯をもった作品だ。
 ブリテンはこの曲について、「両親の思い出のために」書いたという。

 ちなみに、このときほかに作品を委嘱された作曲家と作品は、イベールの「祝典序曲」とR.シュトラウスの「大日本帝国紀元2600年祝典音楽」Op.84である。

 高関/札響の演奏は、非常に緊張感が保たれた演奏。
 極めて緻密、というほどではないが、高水準の演奏だった。

 2曲目はプロコフィエフピアノ協奏曲第3番ハ長調Op.26(1917-21)。
 プロコフィエフのピアノ協奏曲のなかでも、最も人気がある作品だ。

 小川典子というと、現代・前衛音楽にも積極的に取り組んでいて、BISレーベルにはかなり珍しい曲の録音も行なっているが、今回、この“正統的”な作品をどう聴かせてくれるのか、とても楽しみにしていた。

 プロコフィエフのピアノ作品と言えば、ピアノを打楽器のように扱う強烈なリズムが特徴で、どうしても「女性ピアニストにはなかなか弾きこなせないんじゃない?」なんてイメージがあるが、小川典子の持つダイナミックさなら、そりゃあ期待できるというもの。

 そして、期待以上、ほぼパーフェクトなんじゃないかと思えるほどの、すばらしい演奏を聴かせてくれた。たまらんねぇ。
 いや、すっごいピアニストに成長していた(気づくの遅くてすいません)。
 これはもう、日本を代表する、じゃなくて、世界の小川典子、って言える。
 札響の演奏も質が高く、これまたミスも乱れもなかったように思う。
 ピアノに目も耳もすっかり行ってしまっていたので、「思う」としか言えないのだ。でも、「んっ?」と、気になる箇所はなかった。

 この日は前半だけで、私はおいとま。

 さて、今日はプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番のCDで、アルゲリッチの独奏、デュトワ指揮モントリオール交響楽団による演奏をご紹介。
 あのアルゲリッチである。強靭な音、すごいテクニック!
 でも、この演奏、私にはどこかもう1つスケール感に欠けるような気がするのはなぜだろう?

b26a8980.jpg  1997録音。EMI。

 家に帰って北海道新聞の夕刊を開くと、私がこの日聴いてきたコンサートの告知記事が載っていた。
 当日の夕刊に載せるのは遅いんじゃない?タイミングとして。
 そのせいじゃないが、会場はすいていた。
 せめて前日にでも載せてあげれば、何人かは客が増えたかもしれないのに……

 この高関健の写真、頭だけが大きく写っていて、おじさん化したポコちゃん人形のようだ。

355b4cd2.jpg  

シャキっと凍てつかないシベリウス

 この間の土曜日の、それはそれは暑い暑い、いや、もはや熱い熱いと言った方がぴったりなくらい暑かった午後、私が札響のグリーン・コンサートを、いわば命がけで、でもさほど真剣にではなく聴いたことは報告した

 コンサート会場には野外コンサートらしく、ミドリガメすくいやスーパーボールすくい、りんご飴や焼きそばといった露店が道路から会場入口まで並び、ってことはなかったが、それでも札響ボランティアによるTシャツやらCDの販売(CDは途中からテントの奥の日陰におかれるようになったが、最初のうちは直射日光にガンガン当たっていて、飴でできたコースターのように変形しなかったのだろうかと思った)や、なぜかインド料理の弁当が売られていた。

 これまた直射日光がガンガン当たっている、パック詰めのインド料理(それが何か私にはよくわからなかったが、エッグカレーとかカツカレーといった、私が想像できるようなメニューではなったのは確か)を横目で見て、食品衛生上大丈夫なんだろうかと思ったが、きっとインドの過酷な暑さを幾度も経験してきた上で定番化したメニューなんだろうから大丈夫だったんだろう。

 で、こういうときの花形人気店舗(テント)は、かき氷屋である。
 あの相当仕入れ値が安いシロップに、ほとんど原価がただの氷を使って、あれだけお客さんたちに喜ばれるのだから、心からおいしい商売だなと感心する。いや、これ、皮肉じゃなく。

 紙カップに削りたて(“かき”たて、と言うべきなのだろうか?)の氷が盛られ、その頂上が、見ているだけで幸福な気持ちになる合成着色料の極めて美しい色の緑や赤(当然メロンとイチゴだ)の輝きを放っている。
 これはすばらしい食べ物だ!

 私も食べたい気分が78%くらいまでに達したが、この氷を求める長蛇の列に並んでいるうちに、自分が氷のように溶けてしまいそうだったので断念した。

 なんで長蛇の列になっているかというと、店側の段取りが悪いためで、氷も途中で切れたようだ。氷ぐらいケチらないで、アキラさんの等身大の氷像が作れるくらい準備しときゃいいのにと思った次第。だって、このかき氷屋、去年のグリーン・コンサートでも氷が途中でなくなっていた(去年も来たのだ、実は私)。いくら暑いからといって学習を怠ってはいけない。

 で、見ず知らずの子供たちがようやく手にした、削りたての氷の輝きを見ていると略奪したくなる、んじゃなくて、凍てつくような音楽が頭に流れて来た。
 もしかすると、やや熱中症が進行していたのかもしれない。

cba74854.jpg  その曲というのはシベリウス(Jean Sibelius 1865-1957 フィンランド)のヴァイオリン協奏曲ニ短調Op.47(1903/改訂'05)だ。

 シベリウスの音楽の中でも、私がとくに寂しい秋、あるいは凍てつく冬を連想することが多い作品である(「多い」ということは、ちっとも連想しないこともある)。

 ところで、偶然にも、というか、やはり同じようなことを思う人はいるようで、一昨日のライムンドさんのブログにもシベリウスと夏について書いてあった。

 で、グリーン・コンサートからの帰り道(歩いて帰ったわけじゃないけど)、ウォークマンに入っていたこの曲を聴いた。
 でも、真夏に怪談を聞いても別に涼しくならないのと同様(怖くはなるが)、真夏にシベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴いてもメロンかき氷の味はしなかった。
 
 その演奏は、ジュリアン・ラクリンのヴァイオリン独奏、マゼール指揮ピッツバーグ交響楽団によるもの。
 実は、数あるシベコン(勝手に略すことをお許し願いたい)の演奏の中でも、この演奏は温暖化傾向を示しているもの。
 一面ガチガチに凍った湖面、ヒューヒューという音とともに舞う粉雪、寒さでちぎれそうになるくらい痛い耳、凍ったように動かない白鳥、といったこの曲に対する私の過度の思い込みに反し、この演奏は、歩いていたらここ数日の暖気の影響でいきなり氷が割れて湖に落ちたとか、べた雪でコートがべちゃべちゃとか、溶けかけた雪で靴の中が濡れ濡れ、という感触だ。もちろん、鳥たちもアクティヴ!

 逆に言えば、ピーンと張り詰めた冷たさが希薄で、温かみがあるふくよかな響きの演奏である。だからなおさら、暑さでウニ状態の私の頭にはシャキっと来なかったのだろう。あっ、ウニ状態っていうのは頭がトゲだらけっていうんじゃないからね。頭のなかが、なんとなくとろけかかっているっていう意味です。高級なものに自分を例えてしまい、たいへん申し訳ないですけど……

 とはいえ、この演奏がサンバ・カーニバルみたいなものかというと、そんなわけ、あるわけないじゃなっすかぁ、おくさん!
 シベリウスはシベリウス!いくらマゼールさまの手にかかったところで、こごえていた白鳥がパッと着ぐるみを脱いで、水着のお姉さんに変身するわけがない。ちょっと“シバレ薄”な程度。
 まっ、村上春樹風に表現すると、「そのへんは僕にとってはとても微妙な問題なんだ」ってもんで、読んでるあなたは(女性に限る)、「そうなの。それはあなたにとってとても微妙な問題なのね」と答えてくれればよい。

 で、「しばれる」というのは北海道語で、「すっごく寒い」っていう意味です。

 ラクリン、マゼール/ピッツバーグ響のこのCD、録音は1992年。ソニー・クラシカル。

 それにしても、昔聴いたクレーメルの演奏はすごかったなぁ。

最初の60分が無料!さらに30分の延長サービス!

25938608.jpg  来たる日曜日、8月7日の13:00からと16:00から、Kitaraで札響の特別演奏会「アキラさんの大発見コンサート」なるものが行なわれる(2回公演)。

 このコンサートは小さな子供の入門編ということで、概ね1時間のコンサート。

 指揮はアキラさんこと宮川彬良。合唱は札響合唱団。もちろん有料である。

 しかしながら、同一メンバーで前日の土曜日、岩見沢のキタオンで野外演奏会「グリーン・コンサート」が開催される。こちらは無料で、しかも概ね90分の予定。
 プログラムも両日共通のものが多いようだが、土曜日の方が30分長いから、演目は“日曜日分+α”になるんだろう。
 なんか、儲け物のような感じがしない?
 
 一部に熱狂的なファンがいるという宮川彬良氏だが(Kitaraでのアキラさんシリーズの演奏会は、いつもほぼ完売するそうだ)、能動的に氏の指揮(とトーク)による演奏会を聴きに行くことは私の選択肢としては絶対にない。
 人気者をけなす気はないが、アタシにはまずもって、写真で見る容姿とセンスが「ごめんなさい」だ。

 でも、グリーン・コンサートは無料だし、野外演奏会といってもキタオンはPA(マイク&スピーカー)を使わずに音が鳴り響くステージなので聴きに行ってみようかと思っている(とにかく、PAを使った“生演奏”なんてオーディオ再生音以下だというのが私の考え)。

 ♪

 ところで、夏になると思い出したかのように急に聴きたくなる曲が、私にはいくつか(も)あるが、サン=サーンス(Camille Saint-Saens 1835-1921 フランス)の「フランス軍隊行進曲(Marche militaire francaise)」もその1つ。

f5a787f6.jpg  この曲は4曲から成る管弦楽のための作品である「アルジェリア組曲(Suite algerienne)」Op.60(1879-80)の第4曲。
 元気ある快活な音楽が耳に心地よい。

 なぜ夏になると思い出すのかというと、エアチェックして最初に聴いたのが、夏の夜だったからっていう、つまんないほど単純な理由。
 遠くからは「シャンコ、シャンコシャンコ、シャシャンがシャン」と子供盆おどりの歌が聞こえる中、けっこう何回も繰り返し聴いたものだ。演奏は、ポール・シュトラウス指揮のリェージュ管弦楽団だった。

 先日、パレー指揮によるマーキュリーのCDを取り上げたとき、グノーの「操り人形の葬送行進曲」が入っていたのでそのCDを買ったと書いたが、実はもう1つ、この「フランス軍隊行進曲」も入っていた。聴きたい曲が2曲も入っていたら、そりゃもう、興奮で汗ばむ手でしっかりCDを握りしめ、血走った目でレジに持って行くに決まってる。レジのお姉さん、べたついててごめんなさい。血走っててすいません。

 作曲者がアルジェリアを旅行したときの印象をもとに書いたこの作品。
 私にとっては、そんなこととは全く関係なく、なぜか悲しげに聞こえてくる盆踊りの歌と、目の前のスピーカーから出てくるエネルギッシュさが心地良いこの曲との板挟みにあいながら、勉強もせんと「9時からは北海盆唄……大人の時間だなぁ」と、ぼーっとしていたのであった。

 とはいえ、いま聴くと、その心地良さもなんとなく切ないのはなぜ?
 知らんよね?そんなこと。

 パレー指揮によるマーキュリー盤の、この曲の録音は1959年。

ジュリーニの「海」。

786473b0.jpg  7月10日に行われたウルバンスキ指揮PMFオーケストラの演奏会。

 すでにご報告したように、1曲目はドビュッシー(Claude Achille Debussy 1862-1918 フランス)の交響詩「海」(1903-05)であった。

 この「海」。

 海そのものの情景を音楽で表現したものではなく、海から得た印象を音楽にした作品である。
 だって、ドビュッシーは印象主義の作曲家だもの。

 だから、交響詩「海」という名の方が一般的となっているが、本来は「3つの交響的スケッチ『海』(La mer - 3 Esquisses symphoniques)」というのが原意に近い訳。

 私は絵を描くのが苦手で、スケッチも幼稚園児未満の下手さだが、それはともかくとて、“3つ”というのは、この作品の3つの楽章、すなわち、

 1. 海の夜明けから真昼まで De l'aube a midi sur la mer
 2. 波の戯れ Jeux de vagues
 3. 風と海との対話 Dialogue du vent et de la mer

である。

 今回のコンサートでの演奏は、指揮者もオケもまだかたさがあったと書いたが、その演奏は、まさに“交響詩”然としていて、ドキュメンタリー映画に付けられた音楽のようにも聴こえた。
 「ドビュッシーさんがどんな海にどんなイメージを描きながら音楽にしたのか、みなさんも一緒に思いを巡らせてみましょうね」というような、余裕がある音楽づくりではなかった。

 でも、実はそれはそれでなかなか悪くなくて、終楽章なんかでは予想に反し感動していた自分がいた。
 きっと私の心に余裕がないせいだろう。だからけっこう共感できたのだと思うのだが、そこのあなたはどう思います?

 もう一つこの日の演奏で特記すべきことは、第1楽章を閉じるときのトランペットの弱音が美しく音が安定していて、とても巧かったということ。

 とはいえ、やはりちょっとガチガチしていて、「海」の本来の姿ではないと思った。

 コンサートに向かう前に寄ったタワレコ

 考えてみれば、「海」の演奏って、ここ10年くらいショルティ盤しか聴いてなくて、他の演奏のCDも他にアンセルメ盤しかないなってことに気づいた。
 逆に言えば、この曲、それで十分だと思っていたのだが、ふらりと「Debussy」の棚に近寄ってみた。

 意外と「海」のCDって出ていない(店頭にない)ことに驚いた。

 で、私が手に取って離さなかったのは、ジュリーニ指揮ベルリン・フィルによるライヴ録音のCD(1978録音。TESTAMENT)。

 ジュリーニによる「海」と言えば、フィルハーモニア管弦楽団を振ったLPを私は持っていた。
 録音年は知らないが、確かジュリーニ初の「海」の録音だったと思う。
 EMIの廉価盤のこのLP、何回聴いても好きになれなかった。ただ音が流れ去っていく感じで残らないのだ、磯くささも潮からさも。そんなん残っちゃ厄介ではあるけど。

 ジュリーニという指揮者、私は嫌いではない。
 強烈な個性はないが、なんとなく清潔感がある音づくりが悪くない。もっと強い刺激、個性が欲しいときもあるが、良い意味で無難ではある。

 私は未聴だが、そのジュリーニがアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮した1994年のライヴ盤があり、それは名演と言われていたはずだ。

 そんなわけで、つまり

 ① たまには別な「海」を聴いてみたかったこと
 ② 無臭のようなジュリーニがベルリン・フィル、しかもライヴでどんな演奏をしたのか嗅ぎたかったこと
 ③ 実はもっと決定的な、このCDを買わざるを得ない理由があったこと

という3つの理由から、このCDを購入した。

 聴いてみて、買ってよかったと思った。
 フランス的な雰囲気、ニュアンスは濃くないが、厳しくも温かい躍動感ある「海」だ。
 雄大な「海」の情景が私の瞼の裏に描かれた。子供のころに行っていた銭湯の壁の絵。富士山と海の波……

 ジュリーニってこんな白熱した演奏もするんだなぁって、ちょいと新鮮な思いもした。

 で、先に書いた③の理由。
 その私的には衝撃の事実については、また今度。

ウルバンスキ/PMFO演奏会を聴いてきた

bb2b6e44.jpg  昨日、7月10日のPMFオーケストラ演奏会(14:00~、Kitara)。

 “PMF2011は7月9日(土曜日)にオープニングを迎えたわけで、この日はPMFオーケストラにとって2回目の演奏会となるもの。

 前日と同じようにPMFファカルティ(指導教授陣)がメンバーに加わるものの、今回が最初の“ちゃんとした”PMFオーケストラ演奏会だ。

 演目も前日と共通しているのはショスタコーヴィチの交響曲第10番だけであり、選び抜かれた学生たちによるオーケストラが、1つの生命組織体としてどれだけのまとまっているのかということが、私には非常に興味深く、また大丈夫かなという思いもあった。

 その前に、私のKitaraへの道のり of イエスタデイ。

 昼前にJR札幌駅近くで軽く食事。
 もちろん気持ちの上では警戒していたものの、予想以上の揺り戻し。
 つまり、おなかがゴロゴロしてきた。

 こういうときに、いかに清潔で落ちつけるトイレを探せるか?
 けっこう重要なスキルである。

 私はニッセイ・ビルに行った。
 この日は日曜だからオフィス勤めの人は少ない。さらに島村楽器がある4階のフロアは特に人けがないだろう。
 ということで、行ってみたら予想通り。
 ストレート・タイプではなかったものの、事態は深刻だ。

 用を済ませ、手を洗う時に、シャツの左わき腹に赤くインクのシミがあるのを発見。
 んっ?
 よく確かめると、上着の内ポケットにさしていたあの4色coletoの赤の軸がなぜか出ており、上着の裏を通してシャツにシミを作ったことがわかった。
 なぜ、赤色のペン軸が押ささっていたのか不明だが、ゲルインキ・ボールペンはこのあたりに注意が必要なことを、緊急で飛びこんだトイレで学習した。 

 地下歩行空間を歩き大通りへ。
 タワレコをのぞいてみようと思ったわけだ。
 のぞくだけでこのオッサンが我慢できるわけがなく、手を出してしまった。
 4枚購入。
 
 その直後、再びゴロゴロ、キュルキュル。
 これって、あの造影剤の副作用なんだろうか?
 前日の嘔吐も関係しているのだろうか?

 タワレコが入っているPivotのトイレに入る。
 ここのトイレもすいているのだが、難点はシャワー・トイレじゃないこと。

 その後、あわててKitaraへ向かう。

 kitaraについて最初にしたことは、トイレの個室に行くこと。
 だって、シャワーしたいんですもん。
 おしりだって洗ってほしい……

 でも、混んでいた。
 なんでコンサートホールに来てウ〇コするんだよっ!って文句の一つも言いたくなるが、本日は私も同罪。

 さて演奏が始まる。
 前半はフランス物2曲。
 
 1曲目はドビュッシーの交響詩「海」。
 曲が始まったときには、電波状態が悪いFM放送を聴いてるかのように、私のおなかからかすかに「キュルキュルキュルキュル」というノイズが発生していたが、さすがである、私。
 というのも、すぐに音楽に引き込まれ、アドレナリンが分泌されたんだか引っ込んだか知らないが、ノイズは止み、かすかな腹痛もなくなった。

c4818b37.jpg  その「海」だが、さすがに指揮者にもオーケストラにもかたさがあった。
 海の“動き”があまり感じられない演奏だったが、悪くはなかった。

 次の「ボレロ」もかたい。流れがよくない。
 単純な曲だけに、オーケストラの力量がモロに露呈するが、各パートの出来も良くなかったし、ウルバンスキも曲に乗っていない感じがした。

 後半のショスタコーヴィチ/交響曲第10番。
 ウルバンスキが得意としている曲だというが、前半とオーケストラが違うのではないかというくらい音が変わった。これはPMFファカルティが加わったことだけではないだろう。
 演奏もすばらしく、特に第3楽章が心に染みた。

 それにしてもウルバンスキという指揮者、今後が楽しみな人だ。
 
 ♪
 
 ところで話はPMFとまったく関係ないが、「密会に最適なまちあわせ場所」という検索キーワードによる私のブログへのアクセスの痕があった。

 かわいそうに。
 それでヒットした私の記事はこれだが、きっと全然役に立たなかっただろうな。
 なんだか申し訳ない気がする。

 そこで、もしヒントになればと思い、最近私のところに寄せられたメールを1つ紹介しておく。

 名前:内密にお願いします。さん
 年齢:35歳

 『件名』 秘密厳守
 『本文』
 まだ言う事はできませんが、ある訳があり秘密の出会いしか求める事ができなくなってしまいました。秘密の出会いという事ですので、待ち合わせ場所も人目につかないコンビニ等の場所を希望します。あまり大勢の前には出ることができませんが、割り切りの出会いという事でお願いをしたいと思っています。それと、即会いを希望しているので、今日から2日以内にお会いして下さい。この条件を守って頂けるのであればお返事を下さい。お待ちしております。


 いかがでしょう?
 この方の考えによると、コンビニは人目につかないそうです。
 参考にしていただけると、私も少しは気持ちが解放されます。

 えっ?私はどう思うかって?
 私はコンビニは目立つと思いますけど。
 それよりはごったがえする18:00ころのデパートの地下食品売場なんかの方がいいんじゃないでしょうか?いえ、密会にはなりませんけどね。

 それにしてもこのメールの送り主、こちらに突然わけのわからないお願いをしてきているわりに「2日以内にお会いして下さい」なんて、けっこう失礼ですよね?そう思いません?

 そうそう、今日はマゼールがフランス国立管弦楽団を振った「ボレロ」を紹介しておこう。
 いたずらにねちっこく節回ししないところが、私はけっこう好きである。
 1981録音。ソニー・クラシカル。
 

これからウルバンスキを聴きに行って来る

59ba91e6.jpg  クシシュトフ・ウルバンスキという指揮者については、これまでまったく知らなかった。

 7月6日付の北海道新聞夕刊では、この指揮者を「ポーランド出身の俊英」と称し、「間違いなく近未来の音楽シーンを牽引するマエストロで、6月に東京交響楽団の定期演奏会でショスタコーヴィチ(新聞では“ショスタコービッチ”と表記)の交響曲第10番を披露。オーケストラ、聴衆の双方から絶大な拍手を浴びたばかりである」と書かれていた。

 こう書かれると、いや、そりゃ私だっていくら斜に構えているとはいえ人の子。だんだん期待に胸が膨らんできた。

 そう。
 今日はPMFオーケストラの演奏会がKitaraである。
 14時開演というのもうれしい(土曜や日曜の19時開演は正直しんどい)。

 で、道新の記事の文は続く。
 「破格の逸材で抜群のステージ・プレゼンスを誇るウルバンスキがPMFに晴れてデビュー。……」

 確かに新聞に載っている写真を見るとカッコイイ。
 ブログに転載したこの写真をそのまま見ると、小さめなので羽賀健二っぽく思われる人もごく一部にいらっしゃるかもしれないが、拡大していただくと羽賀っぽくない。

 先の文章は在京の音楽評論家の奥田佳道氏が書いているが、それにしても「破格」って……?

 ウルバンスキは原発事故で来日を中止したアラン・アルティノグルの代役に選ばれたわけだが、「むしろ、こういう時期に自分の音楽で日本の人たちを勇気づけられたらと思った」と語っている。

 なんて素敵な若者なんだろう!

 しごく当然と言えば当然だが、放射能汚染を恐れ来るのをやめた当初の指揮者とはえらい違いだ。
 でも、そのアルティノグル氏を責めることはまったくできないよな……

 それに、もし当初の予定通りだったなら、今日の演奏会に私は行かなかったはずだ。
 指揮者が代わり、曲目がフランクの交響曲からショスタコの10番に変更になったからこそ、私は近未来のこと(翌月曜日のことだ)を思うと暗い気分になってしまう日曜日の午後に、わざわざ出かける気になったのだ。

 当初のこのコンサートのタイトルは“アブソルートリー・フレンチ!」。
 ドビュッシーの「海」、ラヴェルの「ボレロ」、そしてフランクの交響曲ニ短調とオール・フレンチだったが、フランクのシンフォニーは嫌いじゃないけど、私にとってはわざわざ休日にお出かけしてまで聴こうという作品ではないのだ。

 結局、フレンチ+ソヴィエトと、テリーヌのあとにピロシキを食うような感じのプログラムになったが(それぐらいしか料理が思い浮かばない食体験の貧しさ)、タイトルあらため「ポーランドの俊英ウルバンスキのショスタコーヴィチ」っていう本日のコンサート、大いにけっこうじゃあないか!

 ショスタコの10番を生で聴くのは2回目。しかも20年ぶり以上のことだ。

 ま、まずい。
 DSCH……
 ちょっとおだってきてしまった。
 DSCH、DSCH……
 落ちつかねば……

 CT検査から5日目を迎えたが、幸い造影剤によると思われる副作用の症状(下痢・ストレートタイプ)もでてきていない。なぜか昨晩、嘔吐してしまったけど……

 ということで、これからちょいとその演奏を聴きに行って来る……って、まだ5時半、早すぎるっつーの!

札響第539回定期演奏会(A日程)を聴いて

1fd52f4c.jpg  昨日6月10日、19:00~。札幌コンサートホールKitara

 指揮は秋山和慶。
 ソリストはピアノが小曽根真。トランペットは、原発事故の影響を心配した家族から「セルゲイ、頼むから行かんどいてぇ」と泣きつかれ(想像)、来日中止を決断したナカリャコフに代わり、札響首席奏者の福田善亮が務めた。

 ナカリャコフが来なくなったことで、当初プログラム1曲目に予定されていたアーバンのトランペットとオーケストラのための作品「『ヴェニスの謝肉祭』の主題による変奏曲」が割愛され、2曲目以降に予定されていた4曲、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番とレスピーギの「ローマ3部作」が演奏された。

 「ローマ3部作」の演奏順は作品が書かれた年の順ではなく、最初に演奏されたのは3部作の最後の作である「ローマの祭り」(1928)。
 3つの交響詩の中では最も巨大でパワフルな作品から秋山は始めた。

 2曲目は3部作では最初に書かれた「ローマの噴水」(1914-16)。「祭り」で大騒ぎした後にしっとりとした「噴水」を持ってくるのはうまい演出だと思った。オーケストラもここで少し休めたのではないかと思う。
 
 そして最後は3部作の中で最もバランスがとれた傑作「ローマの松」(1924)。
 「ローマの松」を生で聴くのは確か22年ぶり(「祭り」と「噴水」は生の経験なしだが)。前回は札響の第300回定期で指揮は今回と同じ秋山和慶だった。

 細かなところではいくつか不満が残ったものの、演奏は3曲とも立派なもの。レスピーギの見事な色彩感がきらびやかにホールに響き渡った(Kitaraのオルガンの音もGood!)。

 「祭り」「噴水」「松」という演奏順序は、あたかも緩徐楽章を中央においた3楽章からなる1時間ほどの交響作品を聴いているかのよう。その最後は「祭り」ではなく「松」であることによって、散漫な感じを残すことなく、巨大な絵巻物がピシッと閉じられた。この配列は良かった。
 なお、「松」のナイチンゲールの声は“グラモフォン”ではなく、オリジナルの音源のようだった。

 「ローマ3部作」の前に演奏された小曽根真と福田善亮によるショスタコのピアノ協奏曲第1番は、どんな小曽根節が聴けるのか楽しみにしていたが、ピアノはとてもおとなしめの演奏。ミスタッチも目立った(それとも“アヤ”か?)。
 終楽章になってやっと小曽根らしいノリが。アドリブやオリジナルのカデンツァが楽しかったが、全体としては不満が残った。
 トランペットも控えめながら好演。

 余談だが、小曽根真というピアニストはクラシック音楽しか聴かない私にはほとんど縁がないが、前にPMFでバーンスタインの交響曲第2番のソリストを務めたときの、あの機知にとんだアドリブ演奏が忘れられない。私はあの一瞬の出来事だけで好感を抱いてしまったのだった。
 アンコールとして、ジャズの「クバーノ・チャント」(レイ・ブライアント)が演奏された。

45d4ceba.jpg  今日はショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番のCDを。
 アルゲリッチのピアノ、トゥーヴロンのトランペット、フェルバー指揮ハイルブロン・ヴェルテンベルク室内管弦楽団の演奏。
 この演奏もすごい演奏だ。音がぐいぐいと前に出てくる。

 しかし、アルゲリッチのあのライヴ録音盤を聴いてしまっている私には、もはや“驚き桃の木山椒の木”とまではいかない。
 この録音を先に聴いていたら、こんなにすばらしい演奏があるのか、と思ったことは間違いない。
 ただ、ライヴ盤の方はこの曲の決定盤というにはあまりにも過激で正統的名演とは言い難い。末永く落ち着いて聴く分には、間違いなくこちらの演奏の方で決まりだろう。
 1993録音。グラモフォン。

飛び交い、絡み合い、鐘が鳴る鳴る……

36fb75ca.jpg  先週土曜日の札響定期演奏会。その会場で売られていた、マーラーの交響曲第7番のCDを私は購入した。

 指揮は高関健。オーケストラは群馬交響楽団。
 2007年3月のライヴ。

 これを聴き、金・土の札響定期の演奏会の場面、音楽、雰囲気が頭によみがえった。

 群響は力演。
 そして、(もちろん一緒ではないが)札響定期で耳にできたものと同じマーラーの7番の音楽が再現された。

 指揮者が一緒だから当たり前なのかもしれないが、この群響の7番、札響のときと同様、個性的な演奏である。おそらく他のどんなCDを聴いてもこういう演奏はない。

 それは楽譜によるものだろうか?
 私にはそれはわからない。
 ただ、間違いなく言えることは、高関のアプローチの仕方が4年前から一貫しているということ。
 荒々しいようにも聴こえるが、実のところ荒々しいのではない。これはこういう曲なんだ、という説得させられそうな力がある。
 なんとも言い難い、忘れ得ぬ演奏。

 このCD、いまどき珍しい正統派レギュラー価格なので躊躇したが、今は買ってよかったと思っている。
 札響の演奏も録音して欲しかったなぁ。
 でも、このCDに出会えたことでもとっても幸せ。

 群響は高関の棒について行くのにちょっとしんどそうなところがあるが、熱演。
 この録音、音が直接的で空間的なゆとりが少ないのが残念だが、しかし、この個性を放つ演奏は十分聴くに値する。

 2007年3月10日、群馬音楽センターでの演奏会。ALM-RECORDS。

 なお、タワーレコードのオンライン・ショップでは、このCDについて以下のような紹介文が載っている。

 2006年の「第2番《復活》」公演に続いて再びマーラーに取り組んだ高関健&群馬交響楽団。度重なるスコア改訂が行われ、演奏上の問題を多く孕むマーラーの交響曲の中でも、特に第7番は、初版段階から誤植が散見されるなど最も複雑な事情を抱えている。高関は、自筆譜ファクシミリなどあらゆる資料を収集し、国際マーラー協会と議論を重ねながらスコアを徹底的に検討し、本番に臨んだ。その妥協を許さない姿勢からは、作曲家への限りない敬意が感じられる。 [コメント提供;ALM RECORDS/コジマ録音]

 ところで、今回の札響定期における高関のプレトークにもあったが、マーラーの交響曲中では第7番がいちばん聴かれる機会が少ないことは間違いない。

 「夜の歌」という、マーラー自身が付したものではない曲全体のニックネームが誤解を招いているのが原因の1つというのも一理あるが、それはあまり大きなことではないと私は思っている。
 私はマーラーの交響曲の中でも、この第7番には早い時期に熱狂したが、それは聴いていてカッコイイからである。特に終楽章のティンパニの連打、それに続くメリーゴーランドのような展開、色彩感は、第6番とは対照的な魅力を感じた。また、同じ5楽章構成の第5番と比較しても、第7番がなぜ人気が出ないのかが不思議だった。

 音楽ファンのなかでも、楽曲の構成がどうだとかいうことを考えながら聴く人はあまりいないのではないか?多くの人は、聴いていて心地よくなり、アドレナリンが出たりアルファー波が出たりして、感激、感動、興奮できれば、あるいは癒されれば良いのではないか?

 ということは、この第7番があまり聴かれて来なかったのは、終楽章で突然どんちゃん騒ぎが始まるという聴き手の困惑の問題などではなく(そういう人ももちろんいるだろうが)、あくまで楽譜の問題、つまり指揮者が取り上げる頻度が少なく、何種類もの録音があるとはいうものの、音楽ファンが聴く機会が少なかっただけではないかと思う。
 実際、終演後、Kitaraから中島公園駅へ歩く人の列からは、「今日のマーラーの曲は明るくて良かったね」とか「あの鐘の効果が面白かったわ」という会話が聞こえて来た。
 こういう声を耳にすると、マーラーの第7番はただあまり知られてないだけであり、聴く側からすれば、問題を抱えているから、魅力に乏しいから敬遠されているということではないのだろう。

63a790f2.jpg  楽譜の問題は高関も意欲的に取り組んでいて、それが群響の、さらには今回の札響の演奏に適用されているわけだが、今後さらに研究が進み、形が定まり、演奏頻度が高まることをGM7好きの私としては期待するところである。

 なお、この曲のプラハでの初演(1908)の評判は良くなかった。が、同時に強い批判もなかったという。
 また、翌年のウィーン初演の際、熱狂的にこの曲を受け容れたのが、12音音楽の開拓者の1人であるヴェーベルンだったそうだ。

 札響定期の話をもう少し書くと、今回のステージ上の楽器配置も効果的だった。空間を音が飛び交い、呼応し、絡み合う。

 例えば、第1楽章が始まって少し経ったところ。
 テノール・ホルンが吹くメロディーに、ほんの一瞬ホルンが重なるところがある(掲載譜。このスコアは音楽之友社からのフィルハーモニア版スコア)。これはCDで聴いていても意識していないとすんなり通り過ぎてしまうところだが、今回の配置の、ステージに向かって右側のテノール・ホルンと左側のホルンの、ステージ両端からの出された音の融合は、はっとさせられる効果があった。

 高関/札響といえば、昨年2月にショスタコーヴィチの交響曲第8番を演奏。これはCDにすべく録音をしていたはずなのだが、1年以上たった今もリリースされていない。
 いったいどうしたのだろう?
 私は、(老人性イボが目立ち始めた)首をキリンにしながら待っているというのに……

札響第537回定期演奏会(B日程)を聴いて

59f2ee1a.jpg  3月19日15:00~、札幌コンサートホールKitara

 前日夜の公演(A日程)に続き、足を運んだ。

 コンサートの流れは前日と同じ。
 プレトーク、今回の震災の犠牲者をしのんでチャイコフスキーの「モーツァルティアーナ」第3曲「祈り」の演奏。短い休憩をはさんでマーラーの交響曲第7番。

 初日の公演では管楽器の各パートで細かなミスが数多く感じられたが(生演奏だから仕方ないとも言えるんだけど)、この日はそれがずいぶんと減った。
 減ったが、局部的に結構強い痛打もあって、聴いていてヒヤリとした。

 しかし、この日の演奏は前日と何かが違った。
 ミスも少なくなった。アンサンブルも緻密になった。
 でも、それだけではない。
 初日はオーケストラ全体がどこか地に足がついていないような、ちょっとおどおどしたような感じがしたのだが、2日目はそれがなかった。オーケストラ全体が優れた一体化組織のように指揮者に反応した。
 この雰囲気が会場にいる聴衆を、演奏が始まってすぐにすっぽりと包み込んだに違いない。

 第2楽章や第3楽章のかなり難しいと思われるアンサンブルもばっちり!

 終楽章に入ると、私の背中には何かゾクっと走るものがあった。あぁ、久々の“感動ぞくぞく”体験!

 2日間の演奏に共通して言えること。
 まず、この作品では弦楽群のトップがソロで弾く箇所がけっこうあるが、札響の首席陣の演奏は、聴いていて誇らしくなるような見事さ。
 今定期のコンサート・マスター(ミストレス)は大平まゆみさんだったが、彼女は仙台市出身。いろいろ頭によぎるものがあったんだろうに……

 打楽器群もいつもどおり見事!
 真貝さんが先月で定年退職し光景的にさびしいものもあるが、大家和樹さんというメンバーがパーカッションに加わった。

 マーラーの交響曲は打楽器が多用されるが、第7番ではヘルデングロッケンとグロッケンゲロイテ(鐘の響きに似た、調律していない様々な金属の棒)が、第6交響曲とともに印象的。
 第2楽章の、舞台裏から左右に分かれて聴こえてくるヘルデングロッケンの効果的な配置は「高関さん、おみごとっ!」って感じ。
 奏者のことを言えば、2人の奏者、グロッケン・ペアがまた良い仕事をしてる!(そのあと、舞台裏から持ってきた鐘の1つをスタンドに吊るす作業のときの新グロッケン・ペアは、新婚さんが2人で洗濯物を干す作業をしているかのような微笑ましさがあった。グロッケン・ペアは、終楽章ではグロッケンゲロイテを向かい合って叩く)。
 グロッケン・ペアは、箇所によっては他のパーカッション奏者たちも加わったグロッケン軍団に組織が拡大化されるが、このあたり、音響はもちろん、視覚的にも楽しい(最後はかなり大変そうだったけど。それがまた感動を呼ぶ。匠の技だ)。

 ギター、マンドリンも美しい音が印象に残った。
 大きな音がでないこれらの楽器の音が、これだけきれいに、はっきりと聴こえてくるのは、指揮者のオケとの音響バランスの計算があることはもちろんだろうが、Kitaraの音響の良さも大きいだろう。

 大好きな作品を、満足いく演奏で聴くことができた。
 テンポを細かに変化させたり、強弱もときにはかなり大胆に変化をつけ、高関のアプローチが新鮮に感じるところが多々あった。
 とても感動した。
 マーラーの華麗で緻密で奥深い音響世界のすごさを、再認識することもできた(結局、2日目を聴いて、高関が施したという改訂箇所についてはわからなかった。高関が意図した、気がつかない=成功!、ということになったのかも)。
 マーラーはやはり偉大だ……

 B日程の公演にも行って良かった!


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