私が若杉弘指揮のコンサートを聴くことができたのは1回だけだ。たぶん。男らしく断言するには記憶がけっこうあいまいだけど……
札響の定期演奏会で、プログラムはマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第9番ニ長調(1909-10)で、この“第九”に関しては私にとって現在に至るまで唯一の“ナマ体験”である。1996年のことだ。
ちなみに、今年札響は尾高忠明の指揮でこの曲をやる(10月)。
コンサートではそこそこ感動した。そこそこというのは、終楽章でオーケストラのあるパートが ズレてしまったからだ。あれ、けっこう痛かった。
この日の演奏は、後日FM北海道(Air-G)で放送され私はそれを録音したが、けっこう弦の音にザラツキがあるのに驚いた。また、若杉がアナウンサーのインタビューに「マーラーばっかりやってると、オーケストラの音が荒れる」とも言っていた。
若杉/都響の“「第九」を聴いて、不思議なことにカセットテープに収めた札響との演奏の記憶が蘇った。
札響の演奏をはっきり覚えているわけではない。いや、すっかり忘れてしまっている。カセットテープももう無い。
が、このCDから出てくるのは、まぎれもいなく、あのときと同じ響きだ。
これが若杉スタイルか……
変なところで感心してしまった私。
そして、若杉のマーラー指揮者としての評価がようやっと、少しは理解できた気がする。
この第9番は、曲の性格もあるのだろうが、私の知る若杉のマーラーのライヴのなかでもとても良いものだ。
中間の2つの楽章にはややすっきりしすぎの感があるが、両端のテンポの遅い楽章はじーんとくる。味わい深い感動的な演奏だ。
1991年ライヴ。フォンテック。
さて、ブログのお引越しの準備だが、いまこれとこれの2つをお試し中である。
あぁ、迷える子羊状態。
みなさん、どう思います?
ですから、どっちを採用すべきかという点で。
ただ、いずれにせよ“ブログ人”のこれまでの記事はgooブログに転居させなければならない。“ブログ人”で用意される予定のお引越しツールを使うしかないわけだ。
問題は“ブログ人”閉鎖後の新規記事をgooとlivedoorのどちらのサービスを利用するかということだ。
いや、自分のなかではだいぶ気持ちは傾いてきている。どっちかって?まだ、内緒。
今日は午後から出張である。
悩みを抱えたまま旅に出る私。
マーラー
それは先週の今日のことだった。
いつもニコニコ現金払いをしているかかりつけの病院で、予想に反して私が新たなおビョーキを抱えていると宣告されたのは。
男らしくなく、「本当にそうなのだろうか?もう一度検査をすれば正常値ということが証明されるのではないだろうか」と私はいまだに思っている。
しかし、とにかく、これまでの高中性脂肪、高血圧、高尿酸血症に加え、境界型糖尿病というものが私の体に仲間入りした。歓迎していないのに……
この1週間悶々とし、考えた。
が、考えてもしょうがない。すっきりするために、今日の13日の金曜日に、思ったことを書いて悶々とした気分を発散し、ムンムン気分になろう。
人間ドックで膵管拡張が発見されたのは2010年のこと。CT検査と超音波内視鏡検査を受けた。
結果はシロだった。
翌2011年のドックでも膵管拡張が指摘され、CT検査を受けた。
結果はシロだったが、膵臓表面がざらざらしているとわけのわからんことを言われた。わけがわからんというのは、それが正常なのか異常なのか、多様な事例の1つに過ぎないのか説明されなかったからだ。また、そのとき医者は私の飲酒状況を聞き、予言者のように「汝、いずれ膵炎になるだろう」と言った。
2年後にまた来院するようにも言われたが、その後私は転勤したので予言者の言葉を無視したままだ。
が、小心者の私はただ転勤したから行くのを止めたというのではない。
ここ転勤先で受診したドックでは、12年も13年も、そして今年も膵管拡張は指摘されていない。
見落とされているのだろうか?いや、3年続けて見落とすなんてことはないだろう。ただ気がかりなのは、脂肪肝が邪魔してエコー検査で膵臓が見えにくくなっている可能性がないとは言えないということだ。
仮に膵臓が弱っているとなると、インスリンの分泌が満足に行なわれなくなり、糖尿病になる可能性がある。
また、もともとかなりの高水準にある中性脂肪は膵炎を起こす危険性をもっている。
となると、遺伝に加えこれらが絶妙にリンクして糖尿病面で徐々に私を正常から境界型へ誘導したのではないかと、疑いを抱いてしまう。
ただ、まだ1ヵ月半ほどだが、主食を減らすことによって体重が4kgほど落ちている。
ということは中性脂肪の値も下がってくれていることが期待できる。先週も採血したが結果は次回聞くことになっている。正直なところ、早く知りたい。
値は間違いなく下がっているはずだ。そうでなければ、炭水化物節制ダイエットの効果はあらゆる数値を改善するという、その手の本の説を私1人のせいで否定することになってしまう。
だが、もし相変らず中性脂肪の値が下がってなかったら、私にはもう安直な対応策がない(酒を制限するのは安直とはまったく言えない、無理な相談というべきもの)。
それが1週間考えていたことだ。
こう書いてしまうと、実にたいしたことないことを考えていたものだ。
酒にまつわる曲としてマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の「大地の歌(Das Lied von der Erde)」(1908-09)。全6楽章のうち第2楽章と第4楽章を除く4つの楽章の歌詞に酒やら杯が出てくる。
第1楽章の歌いだしは「黄金の杯を満たす美酒」と言いながらも「飲む前に1曲歌おう」とお預けをくらわす。最後には「杯を底まで飲み干せ」と強要。急性アルコール中毒を起こしたらどうするんじゃい?
第3楽章では着飾って飲ミニケーションしてるし、第5楽章ではデロデロになるまで酔っぱらい、終楽章では友と別れの盃を交わす。
さて、本日も若杉弘/東京都響の演奏を取り上げる。
独唱はアルトが伊原直子、テノールが田代誠。
1991年ライヴ。
第3番や第4番、第6番では、どこか他人行儀で欲求不満が残る、アタイをイライラさせたいのかい?という若杉だったが(T.Tさんのコメントに納得させられた)、「大地の歌」は録音でもなかなか良い演奏だ。
この曲が、マーラーのものとしては響きが重層的ではなく室内学的なところが多く、またこの世は無情だわいという性格なために、若杉の丁寧なアプローチがマッチしているのだろう。
オーケストラも繊細で美しく、歌手2人もややがなってるかなと感じるところもあるが、ドラマティックな歌唱。このあたり、オペラ指揮者としての若杉の本領発揮というところ。
日本人指揮者による「大地の歌」としては高水準と言えるのではないだろうか?
土曜日に乗ったJRの中で、なぜ私はイライラしたのか?
そのとき聴いていた音楽のせいだ。
したがって多くの人が思い込み期待したような、車内サービスワゴンのお姉さんに無視されたとかいうトラブルめいたことが原因ではない。
若杉弘が指揮したマーラーの演奏が、私をイライラさせたのだ。
若杉弘/東京都響のマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)では、このところ第6番、第4番と取り上げてきたがいずれもあまり私のお気に召しにはならなかった。
今回は交響曲第3番ニ短調(1893-96/改訂1902)である。
聴いていてなんでこんなに退屈な感じがするのだろう?オーケストラは巧い演奏をしているのに、なぜ物足りないのだろう? コクのない、食べている途中で飽きてくるラーメンのよう。
常に満たされず、歯がゆくて、散髪中に耳の裏がかゆくなったときのようにイライラが募ってくる。
こうなると、坊主憎けりゃ袈裟まで、じゃないが、CDの帯の「夏の交響曲」ってい表記までもが腹立たしくなってくる。
確かにマーラーはこの曲に標題をつけ何度も変更し、最終的には削除したが、途中段階でも「夏の夜の夢」とか「夏の朝の夢」というプランはあったものの「夏の交響曲」なんてなかったはずだ。それをなぜ、堂々と書くのか納得いかない。と、ほとんど八つ当たり状態。
星一徹に憑依されちゃぶ台をひっくり返したくなる。
しかし、74%オフというセール価格で買えたんだから良しとしようという理性と、JRの特急車内にはちゃぶ台が備えられていないという二重の安全対策によって、ちゃぶ台をひっくり返すことも、奇声を発することもなく収めることができた。
第5楽章の合唱の扱いはなかなかだなとは思ったが、最初から最後まで私にとっては聴いていて心に響いてこない演奏だ。
その合唱は、東京放送合唱団と東京音大合唱団。アルト独唱は伊原直子。
1990年ライヴ。フォンテック。
若杉のマーラー・シリーズは現在このようにセール中なので、第3番、第4番、第6番、第7番、第9番(第10番のアダージョを含む)、大地の歌を購入した。
いっそのこと全部買おうかとも思ったが、第1番、第2番、第5番、第8番はとりあえず様子見することにした。
いままでの経過からして、この判断は正しかった。誰も言ってくれないから自分で言うが、慧眼と言えよう。
もしいっぺんに買ってしまったら、私はちゃぶ台に突っ伏して涙するところだった。
ただし、あまり大きな期待はしてないしすでに聴くのが億劫な気持ちになっているが、買ってしまって手元にある第7番、第9番、大地の歌をまずはお試ししてみなければならない。見かたが180度変わったりするかもしれないし……
先週土曜日の札響定期。私はどの演奏にも大いに満足し、とりわけ「シンフォニア・タプカーラ」では感動を通り越して放心状態になったことは、すでに報告したとおりである。
にもかかわらず、帰り道に夢遊病者のようにならなかったのは、心に悩みを抱えていたからに他ならない。それが心の解放の歯止めになっていた。その杞憂がなかったなら、目の焦点が合わないまま、中島公園のなかをふらつき、池に落ち、カモに投げられたえさを横取りしたかもしれない。
悩みというのは、またわが車についてのことだ。
金曜の夕方に出発して家へ向かったが、当初は気づかなかった。
が、ウインカーのレバーを上げるとき(左折)、あるいは下げるとき(右折)、右ひざの前あたりの奥に位置するヒューズ・ボックスの方から、ジッという音がしているのには気づいていた。
やがて日が暮れて、驚くべき現象が発覚した。
ウインカーをあげると、一瞬ヘッドライトが消えるのだ。
左折のときはほぼ毎回、右折のときは2回に1回くらい。
その現象が起きるときに、ヒューズ・ボックスのあたりから聞こえるジッという音も出ることがわかった。
幸いすでに家に近づいていたが、交差点でウィンカーをあげるとライトが一瞬消える現象は、前の車がパッシングされたかと誤解されるかもしれないし、ジッという音は、あたかも放電で火花が散るときの音のようで、火災になるのではないか、とか、電装系が突然死して車が停まってしまうのではないか、と気が気でなくなった。無事家についたときは、5年分くらい歳をとってしまった気がした。
翌朝、先日フロントガラス交換で世話になり、まだ交流のぬくもりが冷めやらないサービス担当に電話をかけ、状況を説明した。
その人はあまり経験のない現象だと首をひねっていたが(テレビ電話でなかったので、あくまで想像)、日曜日の夕方に車を持っていくことにした。
そんな心のわだかまりを抱えての札響だったのだ。
タプカーラというのは立って踊るという意味で、アイヌ民族の人々はうれしいときも悲しいときもタプカーラするそうだ。私は悲しさの面から、この曲の今回の演奏に引き込まれたということだ。強引に解釈すれば。
ちなみに、コンサートに出かける前にネットで調べると、こういう現象の質問がいくつかあって、ウインカースイッチの寿命とかアース不良が原因だと書いてあった。
ウインカーのスイッチの寿命(接点磨耗)で、なぜヘッドライトが消灯、それも一瞬だけ消えて再びつくのか私にはさっぱり理解できないし、異音との関連もわからない。そんなことを考えると頭の中がショートしそうだ。が、スイッチ交換だと3万ぐらいするようなことも書いてあって、フロントガラスに次ぐ悲劇に私の気持ちは鉛雲のように重くなった。
マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第6番イ短調「悲劇的(Tragische)(1903-05/改訂'06。その後たびたび管弦楽配置を変更)。今日は若杉弘指揮東京都交響楽団の演奏を。
ご存知のように、若杉は日本人指揮者のなかでもマーラーのスペシャリストだった。
この演奏も手の抜くところがない、まじめで丁寧、非常に完成度が高いもの。
だが、皮肉なことにその仕上がりは、まるで論文を読んでいるよう。
あっさりしているわけではないが、コクが乏しい。もっと感情の発露がほしいところだ。人間だもの……
1989ライヴ。フォンテック。
日曜日は日中に移動した。
道東道はトンネルが多い。ライトを点灯中はウインカーをつけないように気をつけた。つまり、デイライトなどもってのほか。
トンネル内で、もしここで足元から火が出たらたいへんだと、ハラハラしながらの運転。で、気づいたが、トンネル内の消火栓は上り車線側にばかりあるということ。
火が出て、消火栓がある逆車線に行こうとすると対向車にはねられ……なんてことを考えていた。
妄想のドライブ……
マンションに到着したときには6歳ほど歳を重ねた感じがした。
公私ともになかなか忙しい近ごろの私。
“近ごろの”でいまだに思い出すのがモンクの作品の誤訳。しつこくてすまんけど。
今日はこのあと駅前からバスに乗って空港に行き、羽田に向かう。バスで向かうのではなく飛行機に乗り換えるのは言うまでもない。
今回の出張は、関係者多数と行動を共にするが、羽田についてまず行なわなければならないことはお昼ご飯を食べることだ。気が緩んでご飯を完食しないように注意しなければならない。
その体重だが、先日の朝、66.0kgを記録した。
が、その翌日の夜、中華料理店での会食があり、節制したつもりではあったが、中華好きの私はやはりいつもよりは食べてしまったのだろう。翌朝の体重は66.6kgに増えていた。666ってろくでもない悲劇が起こる前兆のようで嫌である。
そして、前兆どおり、66.6になってしまった日の昼は諸事情から焼肉屋に行くことになり、何人かが大ライスを頼む中、私は普通ライスを頼んだものの、普通っていう日本語の概念を覆すよな盛りのよさで、5口分残したものの、いつもよりは食べすぎてしまった。
それだけのせいではあるまいが、翌日の朝は66.8kgに増量していた。まっ、自ら招いた悲劇だからしょうがないが……
今日の話に戻すと、午後は会議があって、夜はみんなでお食事。
状況的に焼肉はあり得ないものの、中華料理じゃないことを願おう。
明日は朝から会議。午後の便で帰る。
マゼール/フィルハーモニア管弦楽団によるマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第6番イ短調「悲劇的(Tragische)」(1903-05/改訂1906。その後たびたび管弦楽配置を変更)。
この演奏は同じマゼール/POの第3番の演奏のアプローチに似ているように思う。
そしてまた、悲劇度は高くなく、マゼールはマーラーの激しい感情の起伏の罠にはまっていない。
じゃあ何の変哲もないかというと、そこは曲者マゼール。
容姿もそこそこの良い人に見えるが、実はけっこうなむっつりスケベみたいな演奏。
ところどころに妖しさが垣間見える。
あっちこっちに異界への落とし穴が口を開けている。
平凡なようでいて実は平凡ではない、お嬢さんお気をつけなさいと言いたくなる存在だ。
ティンパニがボァ~ンとしていて締まりがないが、これも意図的なんだろう。
なお、第2楽章にスケルツォを、第3楽章にアンダンテを配置している。
2011年ライヴ。signum。
なお、先ほど体重計に乗ったところ65.8kgという表示がされた。
昨夜は、菊水の知床ざるそばも食べたのに、である。
と、けっこう自慢して本日の〆とする。
わが家の古い車、でも愛着がある車のフロントガラスが私の不注意によりひび割れし、交換した事件は記憶に新しい。少なくとも私には。
そして、純正品だと交換で総額15万ほどかかるが、社外製品だと8万弱で収まることがわかり、水が低いところに流れるように、私はそれを選択したことは報告したとおりだ。
社外製品といっても、ちゃんと上部は青緑色のスモークが入っているし、下部には融雪用の熱線も入っている。純正品との違いはUVカットできないということだった。
交換後帰宅してガラスのロゴを見ると“FY”と書いてある。
ネットで調べると、中国のフヤオという会社の製品だという。
社外品だよな、確かに。国産とは一言も言ってなかったもんな。
最近の中国は好きじゃないが、でもこのフヤオのガラス、たいそうレベルが高い製品なんだそうだ。
ただ私が疑問に思うのは“UV”とも書いてある。
これって紫外線防止処理が(程度の問題はあるが)なされてるってことじゃないのかなぁ。
でも、修理工場の人はそんなこと間違えないだろうし……
で、ガラスといえば透明。
ゆえに、透明感のある演奏を。
マゼール/フィルハーモニア管弦楽団によるマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第4番ト長調(1892,1899-1901/改訂1901-10)。
透明感があり、伸びやかで健康的な演奏。それでいてところどころ毒がさりげなく顔を出しては引っ込む。
“本当は怖いグリム童話”じゃないが、第4番は表面上のメルヘンチックな姿とは裏腹に毒気がある。だが、マゼールはマーラーの意図をわざと無視するように進める。
なぜか私はこの曲を聴くと遊園地のメリーゴーランドを連想してしまう。
そして、例えばテンシュテットの録音では夜の遊園地の不気味な木馬の姿をイメージさせるのに対し、マゼールのは昼間の楽しい遊園地のようだ。これなら良い子に聴かせても怖がらない。
メロディーと響きに素直に身をゆだねられる、テンシュテット系アプローチとは反対の形だが、こういうのも悪くない。同じ傾向のシノーポリよりもずっと楽しめる。
第4楽章のソプラノ独唱はフォックス。
2011年ライヴ。signum。
“レコード芸術”の今年の1月号。
“海外盤REVIEW”の記事の中で、長木誠司氏は書いている。
シャイーとライプツィヒ・ゲヴァントハウスによるシリーズ。マーラーの交響曲第6番の映像も今日すでにいろいろあるが、現時点でいちばんお勧めなのはこれだろう。新校訂版による演奏で、第2楽章がアンダンテになっている。とにかくシャイーの指揮は緩急自在、楽器法のツボも押さえながら壮大なオペラのようにこの作品を演じていく。若返ったゲヴァントハウスの名手たちが、それに鋭敏に反応し、シャープだが熱血漢的なマーラーを繰り広げている。時空間をこれほど豊かに、隙間なく満たしてくれるマーラー演奏も映像もこれまでなかった。カメラもここ一番という箇所をけっしてはずさず、マーラー・ファンにとって必要かつ十分すぎるほどにとらえている。やってくれるなあという印象だ。
好んでいないのに悲劇に好かれる「悲劇的」好きの私としては、これは放っておくわけにはいかない。
さて、昨日私を襲った悲劇。
もう、この先どうしていこうかと思うようなものである。
せっかくタイヤも換えたことだし、天気も良いのでちょいとドライブに出かけた。
異変に気付いたのは、運転してしばらく経ってからだった。
フロントガラスの助手席側下部に縦に5cmほどの線が……
車を停め、外からそこを確かめる。
ヒビだった。
そこから触っても表面は異常がないが、中にヒビが入ったのだ。
心当たりは大いにある。iいや、心当たりどころか、確信的に。
ワイパー交換の時。
冬用のブレードをはずし夏用を装着しようとした際に、ブレードがついていない状態のワイパーの軸(?)を倒してしまい、フロントガラスにパシッっとぶつけてしまったのだ。
もちろんそのときも確認したのだが、薄暗かったせいかヒビはなかった。無事だと私はほっとした。
そしていま、春の力を帯びてきた陽光のもとで確かめると、ちょうどワイパーの金具がぶつかったところを中心に、放射状に何本かのヒビが走っていた。車内から見つけた縦のヒビは、それらのうちの1つに過ぎなかった。フロントガラスの下部、運転席からは見えないダッシュボードとの境目近くには、運転席側に向けて真横に10cmほどにも及ぶヒビも入っていた。
長年、1年に2回ワイパー交換をしてきたが、フロントガラスに倒してしまうなんてミスは初めてだったし、初犯でこんな被害が起こるとは思ってもみなかった。
ドライブの帰りにディーラーに行き見てもらうと、とどのつまり
① これからヒビは広がるだろう。
② ガラスを交換するしかない。
③ それもお高くて、純正品なら12万くらいかかる。
ということだった。対応してくれた方の、私に対する親切な笑顔と気の毒そうな同情の瞳の混合ワクチンが、私の失神をなんとか防いでくれた。
この車は生まれて今年で12年になる。
過去に何回か報告したように、ときどきエンジンが不整脈中の心臓のようになる。が、実によく走ってくれる。
去年の1月には追突されて、リア部分はそっくり交換修理したので少なくともそこは新品同様。
去年の夏の車検では、もう10万km超えということでタイミングベルトも交換した。ベルトだけで8万円ぐらいしたはずだ。
新しい夏タイヤを買ったのも去年の春のことだ。
来年の車検をめどに、買い換えようかと漠然と考えていたが、私の作業ミスは「いまフロントガラスを交換し、心臓の状態に懸念はあるものの、もう3年ほど乗り続ける」か、「リアやベルトやタイヤに投資したばかりで後ろ髪を引かれる思いだし、消費税も上がったばかりな上、たとえ税率が引き上げられなかったとしても現実的には資金も乏しいが、今後エンジンやサスなどの修理が必要になる可能性もあることだし、ここでガラスに追加投資するのではなく、買い換えを前倒しするか」という、極めて切羽詰まった判断をせざるを得ない状況になった。ほんの1回の「パシッ」が、こんな重大な局面を招いてしまったのだ。
妻には、「人間は一瞬のミスで大ケガをすることだってある。そういう意味では、今回は不幸中の幸いだった」と、ワケのわからない説得を試みたが、どう考えたって納得してはいないだろう。
そんなわけで、マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第6番イ短調「悲劇的(Tragische)」(1903-05/改訂'06。その後たびたび管弦楽配置を変更)。
もちろん、シャイー/LGOのDVDを(ここまできて他のを取り上げたら、私の人間性が疑われる)。
先の長木誠司氏の文だけでもヒビ、いや、このディスクを放っておくわけにはいかないという気持ち100%になったが、さらに発売元のこんなコメントが。
ハンマー打撃にカウベル、ヘルデングロッケンみどころ&聴きどころ満載の「悲劇的」。
ライプツィヒ出身で現代アートの第一人者ネオ・ラウフ[1960-]による絵画をあしらったジャケット・デザインもおなじみとなりつつある、リッカルド・シャイー指揮ゲヴァントハウス管弦楽団によるマーラーの交響曲シリーズの最新映像。第6交響曲は2012年9月にゲヴァントハウスでおこなわれたコンサートの模様をライヴ収録したもの。(―中略―)なお、マーラーが作曲当時にリヒャルト・シュぺヒトに宛てた手紙のフレーズをタイトルに冠したボーナス映像には、国際マーラー協会による第6交響曲1998年改訂版の校訂に携わったクービクを迎えてシャイーがおこなったパネル・ディスカッションの模様を収録しています。
こうなると、観ない奴は馬鹿だって言われるような気がしてくるわけ。
で、演奏だが確かにすばらしい。
長木誠司さんの言うとおり。
演奏も画像も録音もチョーお薦め。
チョーキさんウソ言わない。書いてあることホントダッタよ!
発売元のコメントにもウソはないが、控えめなアピールだ。私が広告担当なら「悲劇の悪魔があんたに舞い降りる!」ぐらい訴えるだろう。
そして、映像。
生演奏だったら自分はここに目がいくだろうなってところを、かゆいところに手が届くようにカメラが追ってくれている。ステージを目の前にしている気分だ。
ティンパニのバチの使い分けもよくわかるし、ハープの音がこれほどはっきり聴こえるのもなかなかない。オペラやバレエ以外のDVDで、これほど満足したのは初めてだ。
2012年ライヴ。Accentus Music。
先週札幌に出張した際、行きつけ、いや、かかりつけの病院に人間ドックの結果報告をかねて診察してもらった。そして隠された真の目的は、薬が底をついてきたのでそれをもらうことだった。
今年の人間ドックでは侮辱的な言葉を浴びせられることもなく、また要再検査の項目もなく(経過観察でとどまった)、かかりつけの医師も「この調子で改善していきましょう」という話で終わるかと思ったが、ヘモグロビンA1cの値が高めで、こいつはきちんと検査した方がいい、と言われてしまった。
「糖尿病になりたくないでしょ?」
「言うまでもありません」
「じゃあ、すぐじゃなくても構わないから、1度ちゃんとした検査をしましょう」
「はい。1度ちゃんとした検査を受けてみます」
診察を終えて待合に出ると、前に私が勤務していた課の近隣にいた人が、喜怒哀楽が不明な表情で椅子に座っていた。
「どうもごぶさたしています」と私。
「あっ、どうも」と、その人。
「どうしたんですか?」
「血糖の検査なんだわ」
と、短い言葉のやりとりで、この人が本日体験していることは、私が1度正面から向き合わねばならない検査と同じものだということがわかった。
ドックでの医師の問診や保健師との対話では、この私は不健康ではあるものの心配を要するものはないという雰囲気だったので、このときもけっこうリラックスしていた。しかも医師と面と向かう前に看護師に測ってもらった血圧は最高が122と、実に優秀なものだった。
油断大敵。良い言葉だ。
診察を終え、私は打ち合わせのため本社に行った。
打ち合わせを終えると、早めの昼食に適した時間だった。
朝の段階では担担麺でも食べようかと思っていたが、もはや血糖値や中性脂肪の値を上げるような食事は極力控えるべきだと、いつまで持続できるかわからない決意をした。
その足ですぐにJR札幌駅の改札に入り、キオスクで幕の内弁当を買い、そして構内のベンチに座って食べた。ご飯を2口分残した。
医師は、「炭水化物を取りすぎないこと。残すことに罪悪感を覚えないこと」といった。
私は罪悪感を覚えたことはない。
が、このときは感じた。もったいないなぁ。まだおなかはこれを要求しているのになぁ、と。
そしてサントリー伊右衛門特茶を飲んだ。
その日の夜も、極力炭水化物は避けた。
翌日の朝はご飯も茶碗1杯にとどめた。
昼は、これまた弁当だったが、ご飯を3口分残した。しかも、弁当のときはこれまで見向きもしなかった藁のようなキャベツの千切りも食べた。
夜はご飯は食べなかった。もちろん、代わりにカップめんとか冷凍ナポリタンを食べるなんていう、おデブちゃん養成行為も慎んだ。
こうして私の従来になかった取り組みが始まった。
もう愚かな行為はしないぞ!今のところ……
愚かな行為といえば、間違ってCDを購入してしまった。
マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第3番ニ短調(1893-96/改訂1902)の演奏で、私が学生のころお薦め盤といわれていたものに、ホーレンシュタイン指揮ロンドン交響楽団、プロクター(アルト)他による録音があった。
聴いたことのないその演奏のCDを、先日発見。
出だしを聴いてすぐに、これは「やっちまったわい」と認識した。
同じホーレンシュタイン指揮ロンドン交響楽団のものながら、その当時のお薦め盤とは別テイクのものだったのだ。独唱はワッツ。
1961年ライヴである。
それはいい。
それまで聴いたことのないマラ3が聴けるのは大変喜ばしいことである。
が、モノラル録音なのだ。
しかもライヴゆえ、さらに録音状態は悪い。
ステージは望遠鏡を反対側からのぞいたように遠く、向こうで繰り広げられていることがはっきりわからない。
しかし、悪くない演奏だということはわかる。
第1楽章が終わると大拍手が沸き起こる。全曲が終わったときもさらなる喝采が。
きちんと録られていたなら、きっとすごい演奏を満喫できただろうに。
が、今後そうそう聴くことはないだろう。
あえてこれを聴く理由はない。
まいった……。
きちんと確認すべきだった。
うっかり八兵衛だった。
ただ、せめてもの救いは、間違ってホルスタイン物のディスクを注文しなかったことと、ボケのせいで重複購入という愚かさではなかったことだ。
ヒストリカル・ファン向け。ブラームスの第1コンチェルトも収められている(独奏はアラウ。オケはフランス国立放送管弦楽団)。
ARCHIPEL。
にしても、ひどく時代を感じたけど、1961年ってそんなに大昔なのかなぁ……
先週、ヤマダ課長の課に入った新人の歓迎会があったということに、ちらっと触れた。
女性の新入社員である。
まだ18歳である。
食事をしながら誰かが彼女に聞いた。
「好きな食べ物はなぁに?」
「カレーです」
「へぇ~」
「毎日でもいいんです」
「どこか美味しいお店ある?」
「インデアンですっ!」
かわいいではないか!
初々しいではないか!
すると去年の新人、すなわち現在2年目の女子社員が言った。
「私は天ぷらです」
天ぷらとなると初々しいという概念からややはずれるが、和食を食べて「テンプラぁ~、スキヤキぃ~、フジヤマぁ~」と感嘆している欧米人のようで心が温まる。
「太っちゃうって思うんですけど、昨日は天丼食べたんです。とっても美味しかったです」
「へぇ、どこで?」
「コンビニで買いました」
前言をひるがえそう。初々しいではないか。
コンビニの天丼で感動しているなんて、心が温まる。レンジで60秒経過後のように。
そしてコンビニの天丼で胸焼けしないことを、私は羨ましく思う。
あるいは毎日カレーを食べても胸焼けしないことに対しても、私は感心する。
そうか!
若さとは油に強いことなんだ!
それにしても、彼女たちの好物がカレーとか天ぷらでよかった。
レバ刺しとかおじやって言われたら、けっこうリアクションが難しい。
おやじだったら良い子だと思っちゃうかもしれないけど。
こういう話題とは関係ないが、私はこの日悪酔いしてしまった。
どういう事情か知らないが、とにかくハイボールのウイスキーが濃かったのだ(お店の好意ととらえるべきだろうか?)。帰宅した時間は9時過ぎ。しかし、私は死ぬように眠りについてしまった。 マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第9番ニ長調(1909-10)。
曲の最後にesterbendという指示がある。「死ぬように」もしくは「死に果てるように」、「死に絶えるように」という意味だ。
が、サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏(2009年ライヴ)からは、そのような印象を受けない。
それが悪いと言っているのではない。
この演奏、大げさに叫んだり自己陶酔するようなものではない。
マーラーの曲が持つ聖と俗のバランスがうまくとれていて、決して下品に陥らない。かといって、おすまししててつまらないというものでもない。
特に私は、終楽章の開始に、なんて優しげで柔らかなのだろうと、ソフラン仕上げのタオルに頬ずりしたときのように感心してしまった。
人によってはもうひと押し欲しいと思うかもしれないが、とてもすばらしい演奏であることは間違いない。
signum CLASSICS。
私もサロネンのこの演奏のように、品の良い飲み方、バランスを崩さない酔い方を心がけなければ……
そうそう、ヤマダ課長の調子は戻ったみたいだ。
木曜日。
朝、目にした今日の星座占い。私の全体運は第12位。しかし、コメントは「今日は思わずガッツポーズを取りたくなるようなラッキーデー」。
ワケわかんない……。
へんなところで気遣いしてくれなくていい。言ってることが破たんしている。
いつもと同じ時刻に家を出て、会社へ向かって歩く。
クラクションの音がした。そちらを見ると、私の歩行速度よりも遅いくらいのスピードでタラタラ走っている車があった。明らかに車の流れを阻害している。後ろに続くタクシーから鳴らされたのだ。
若葉マークをつけていた。
が、それだけではなかった。運転席を見るとドライバーは晩年のクレンペラーみたいな顔をしたじいさんだった。
私は悩んだ。
この場合、もみじマークを付けるべきじゃないのだろうか?
それとも両方か?
あのじいさん、ほんとうに免許とりたてだったのだろうか?
それとも若葉ともみじの区別もつかないくらいモーロクしていたのだろうか?
だとしたら、末期的である。
悲劇的なことが起こる前に、運転するのやめなさいと私は心で叫んだ。ホント、悪いこと言わないから……
会社に着き、いつものような1日が始まった。
そして、いつものように昼になった。
私は河西さん、ヤマダ課長、阿古屋係長と一緒にラーメン屋に行った。
ここのランチ・サービスはすばらしい。
ラーメン単品の値段は650円だが、70円プラスのセットにすると、小皿のおかずと小ライスがついてくる。この日のおかずは豚肉のショウガ焼きだった。
わかってる。人間ドックが近いことは、十分わかっている。
が、ここでセットを頼まない方が非常識と言えないだろうか?たとえ健康概念が欠如していようとも、私にはしっかりとした経済観念が(ミクロ的だが)備わっているのだ。
で、頼んだ。セットを。私もヤマダ課長も、私,too。
でも、河西さんは謀反を起こした。
タンタン麺の単品にしたのだ。
が、河西さんを非難することは間違いである。というのも、タンタン麺の方が、単品でも私たちのセットより100円以上高かったわけだから。
「おいしかったね」「うん、満足したね」「おなかい~っぱい」などと話しながら、私たちは社に戻った。
が、その途中、2車線のセンター側を走っていた車がいきなり左折したのを目撃した。
今度のドライバーは性別が瞬時に判別できないくらいのばあさんだった。
斜め左後方を走行していた車のドライバー ― 品の良さそうな30過ぎくらいの奥様風の女性 ― はユヅルくんの得点が発表されたときに横にいた女性コーチのような驚きの顔をしていた。幸い接触はしなかったが、かわいそうに、奥さまはひどい目に遭ったものだ。
が、その10数分後、私がひどい目に遭うことになる。
《ふぅ。今日もちょっと食べ過ぎたかな。でもな、あれでラーメンだけって絶対心残りになるしなあ。
おっ、あと5分で休みも終わりか。
ちょっと口の中がネギネギしてるからガムでも食べておくか。
クチャクチャクチャ……グギ、ゴゴ、ガキン……
……な、な、な、何が起きたんだ???》
その時私は、口の中でガムが超常現象で急硬化反応を起こしたのでは、と思った。
その直後には、事情はわからないにせよ口の粘膜の岩盤崩落が起きたと思った。
慌ててガムを出すと、そこにはプラチナの塊が……ではなく、銀色に輝く冠に覆われた歯が!
さし歯が土台から脱落したのだ。冠だけじゃなく、もとからとれた。
現場は右上奥。崩落個所は歯3本分に及び、崩落した土砂、いや歯は3本が冠で連結されたものだった。若干の出血も、なぜかあった。
どーしよー。
これから出張に行かなければならないというのに。
どーしよー。
これがダメになったら、もう土台の歯も弱ってるので治せませんよと、ずっと前に宣告されていたのに。
あぁ、占いは成就してしてしまった。
あぁ、ガムなんて買うんじゃなかった。
今朝コンビニでガムを買ったあと、イヤホンの片側のパッドが無くなっていて、焦って見渡すと隣のレジで会計している若い女性の足元に落ちていて、痴漢と思われないように拾うのが大変だったことを思い出した。
あのときから、「思わずガッツポーズを取りたくなる」不幸は始まっていたのだ。
が、もう時間がない。とにかく出張に行かなければ。
私は風通しがよくなった状態で、会社を出た(続く)。
ショルティ/シカゴ響によるマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第6番イ短調「悲劇的(Tragische)」(1903-05/改訂'06。その後たびたび管弦楽配置を変更)。
この録音、エアチェックできる可能性が見通せないために、LPを購入。たぶん初めて耳にしたショルティ/シカゴ響の演奏だったと思う。
私にとって交響曲第6番は、第1番、「大地の歌」に続く、3曲目に知ったのマーラー作品だった。
というのも、N響が第6番を定期演奏会で取り上げ、それがTVで放映された。
もちろん印象的だったのは終楽章で振り下ろされるハンマー。
その半年後くらいにやっと購入できたLPがショルティ盤だった。玉光堂のオーロラタウン店で買った。
楽曲はもちろん、音の良さに驚いた(そのころはレコードプレーヤーで聴いていたのだが)。
冒頭のコントラバスの重低音、締まったティンパニの音……。鋭い切れ味に炸裂するサウンド。
これで私はショルティの信奉者になってしまったのだった。
後年、就職試験のある面接で「尊敬する人物は?」と聞かれたときには「小澤征爾さんです」って答えたけど……。だって「ショルティです」って言ったところで理解していただけると思います?
当時この作品の推薦盤としてあがっていたのは、セル/クリーヴランド管、クーベリック/バイエルン放送響といったものだったが、偶然にもショルティ盤が店にあったことが、私のその後の好みを決定づけた。
いまでも、この第6番(そして先日取り上げた第7番。さらには第5、第8、第9、「大地の歌」)の録音を聴くと、これまでいろいろすばらしい演奏のCDが出ているのに、やっぱり絶対に捨てがたい魅力を感じる。
あのLPのジャケット写真 もかっこよかった。
1970録音。デッカ。
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