本当は2月に歯医者に行かなければならなかったのだけれど、行けてない。
かかりつけの歯科医院は札幌にあり、義理堅いことにもう20年近くそこに通っている。
最初は下の前歯がぐらぐらして、当時住んでいた場所のそばにあったその歯科医院に行ったのだった。かなり焦り慌てて。
結論としては要するに歯肉炎とか歯周病によるもので、歯磨きの仕方が悪いといったことが原因。ぐらぐらしたのは歯の根元の骨が弱くなっているためだった。若くして(当時)やれやれである。
それ以降、数か月に1度のペースで通院し、ちゃんと歯磨きができているかを点検され、刺繍ポケットだったら手洗いの方が安全かもしれないが、私の場合は歯周ポケットなのでジェット水流みたいなものでクリーニングされるのである。
現在の私が置かれている状況では、出張で札幌に行ったときの空き時間にしか通えない。出張が決まった段階で予約を入れようとしても、もう入らないのである。
きっと担当の歯科衛生士さんは私がなぜ来ないのか心配してくれて……いないだろうな。寂しいけど。
そんなわけで、通院の間隔が予定よりあくわけで、せめてもの対処法として薬用歯磨き粉を使うことにした。
にしても、もはや粉の歯磨き剤なんてほとんどないのに、なぜ歯磨きペーストという語句は定着しないのだろう?
言いにくいからだな……
間違いない!
練り歯磨きってのは何だか気持ち悪いし……。この際“歯磨き粉”で貫こう。
いま使っている歯磨き粉はしょっぱい。つまりはソルトのしょっぱさである。
英語で塩はsaltだが、この綴りでサルトじゃなくてソルトと発音しなければならないことに私はどこか納得できないが、世の中の決まりだからしょうがない。
で、Solti。ソルティじゃなくてショルティである。
ショルティ/シカゴ響によるマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第7番ホ短調「夜の歌(Lied der Nacht)」を久しぶりに聴いた。1970年録音のものだ(デッカ)。
このブログでは一度取り上げたCDを再び取り上げることはこれまであまりなかった。
が、待てよ……
これまでの人生の中で大いに感動したり、クラシック音楽を聴く喜びを与えてくれた大好きな演奏に対し、一度だけであとは放置したまま触れないのはいけないことのように思えてきた。それじゃ聴き捨てみたいだ。もっと1つ1つを大事に聴かなきゃ。大切に扱わなきゃ。
加えて、過去にここで取り上げたことなんて、みんなまったく覚えてないこと間違いなしだし。
このショルティの演奏は、私にとってマラ7との出会いのもの(FMをエアチェックしたものを聴いていた)。
いま聴くと、ショルティの持ち味である、ズンズンサクサクと割り切って進んでいく演奏。
その後ほかの多くの録音を聴いてきて、ショルティのこれは今となっては昔風ではあるものの、その魅力は褪せていない。
とにかくカッコイイ!
この指揮者、このオケはどんなフレーズもお茶の子さいさいとやってしまう。
この絢爛豪華なサウンドにどれだけ酔いしれたことか!ティンパニの鋭い音にどれだけ快感を覚えたことか!
終楽章なんて、聴いてる私は躁病状態。
ちなみにずっとずっと参考にしてきた私のバイブル ―最新レコード名鑑「交響曲編」(門馬直美編著)― には、ショルティのこの演奏について以下のように書かれている(この冊子はレコード芸術の付録で、昭和49年のものだ。なにせ、裏表紙のエンジェルレコードの広告には、「詳しいパンフレットをご希望の方は郵便切手35円分を同封の上……」って書かれている)。
オーケストラを存分に色彩的にダイナミックに鳴らし、主要な主題や動機を明快に示し、はっきりした輪郭をみせながら音楽をすすめる。あまりに現実的で夢がないといえそうな演奏でもあるが、無理な表情をみせてはいない。ただ、全体のひびきにもう一歩の洗練性がほしいところでもある。しかし、ショルティの卓絶した設計は、この長大な曲を一気にきかせてしまうのである。
この冊子は、主要な交響曲について、お薦め盤をそれぞれ3種類ずつ紹介しているもの。
この時代にマーラーの全交響曲が主要な交響曲の扱いをされていることは、ある種驚きである。そして、第7番においてはショルティ盤は第2位の位置づけとなっている。
私が次に聴いたマラ7の録音はクーベリック盤だった。
これはLPを買った。グラモフォンのやや廉価のものだったような気がする。
丸井今井のレコードショップで買った。いまでは想像できないだろうが、丸井デパートのなかにもレコードショップがあったのだ。
クーベリック盤は「最新レコード名鑑」ではショルティに次ぐ第3位となっていたので選んだのだった。
が、その演奏は全然物足りなかった。情感という点ではショルティよりも上だったのだろうが、若くてピチピチしていて脳のしわが少なかった私には、だんぜんショルティの方がよかった。
門馬氏はクーベリック盤についてこう書いている。
ダイナミックであり、しかも配慮のゆきとどいた表情ですすめられている。マーラーらしい透明感のある明るいひびきもあるし、対位法的な処理のうまさもある。第2楽章と第4楽章は、夜の気分のロマン性と落ちついた抒情性をおき、しかもデリケートさもみせる。第5楽章は、オーケストラの処理のうまさと対位法の扱いの巧妙さで、華麗さを一段と強調している。
この文章でまだ声変わりしたてのうぶな私が学んだことは、この曲の第2楽章と第4楽章はデリケート・ゾーンだということだった。
にしても、久しぶりに聴いても引き込まれたわい、ショルティに。
私の音楽鑑賞人生の中で欠かせない1枚である。
なお門馬氏がここで選んだ第1位はクレンペラー盤。
そう、あのクレンペラー盤である。
私はなぜか、というよりも、数々のジャケットに写っているクレンペラーの顔がすっごく昔の人っぽくて、そしてまた怖い顔なので、この指揮者を避けてきた。
私は初恋はカルピスの味ってころに、この7番を聴かなかったのは良かったのか、悪かったのか?
ずっとのちにこの演奏を聴くことになったが、これは超名演。でも、アブノーマル。
その後私は、少なくともアブノーマルな人生を歩むことにならなかったから、若くして聴かなくてきっと良かったんだろうな……
なお、しょっぱい歯磨き粉は美味しくない。そう思う私である。
マーラー
昨日、ユダヤ人作曲家だったシェーンベルクを取り上げたが、ご存じのとおり、マーラーもユダヤ人であり、そしてまた改宗している。
カトリック教に、である。
しかし、そのためにマーラーはユダヤ教もカトリック教も信仰することができなくなったらしい。私に似ている。中途半端な境遇は……
バーンスタインがイスラエル・フィルを指揮したマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の「大地の歌(Das Lied von der Erde)」(1908-09)。
音がざらつき気味で録音が良いとは言えないが、その音質にはどこかレトロな感じの懐かしい雰囲気が漂っている。
演奏は熱い!
同じ熱さでも今の時代の熱演とはまたちょっと違った空気を感じる。イスラエル・フィルが必死になっているということもあるんだろうが、オーケストラの曲に対する共感のようなものが伝わってくる。こういう演奏好きだなぁ。
イスラエル・フィルは1936年にデル・アヴィヴで創設されたオーケストラ。当初の名はパレスチナ交響楽団で、1948年のイスラエル共和国の建国をきっかけに改称された。バーンスタインは'47年にこのオーケストラの舞台に立って以降、亡くなる'90年まで密接な関係にあった。バーンスタインはイスラエル・フィルの桂冠指揮者だった。
またバーンスタインは、アメリカのマサチューセッツ州生まれだが、ウクライナ系ユダヤ人移民の2世である。
バーンスタインの「大地の歌」では、独唱にテノールとバリトンを用いたウィーン・フィルとの録音(1966)が有名であり、私も優れた演奏だと思うが、あまり陽の目を見ていないこちらの録音も捨てがたい。独唱はルートヴィヒのメゾソプラノとコロのテノール。
「マーラーの交響曲」(講談社現代新書)のなかで指揮者の金聖響は書いている。
指揮者のレナード・バーンスタインが、イスラエル・フィルハーモニーを指揮して『大地の歌』を演奏したとき、メゾソプラノ歌手のクリスタ・ルートヴィヒがあまりに速いテンポに付いていけず、リハーサルのときに「歌詞がちゃんとうたえない」と訴えたそうです。するとバーンスタインは、「歌詞なんか誰も聴いてないから、すっ飛ばしていいよ」と、平然といってのけたといいます。
この文章にある演奏はDVDで出ており、今日紹介しているCDと同じ1972年5月のもの。演奏メンバーも同じ。となると、同一の演奏と考えるのが妥当だろうが、CDはソニークラシカル(旧コロムビア)、DVDの方はグラモフォンから出ている。
ただ、第4楽章はけっこう速い箇所があるが、それ以外に意表をついた高速度のところはない。
また録音が良くないと書いたが、多くの場合は背景に埋まってしまう音が拾われていたりして、新たなゾクゾクを感じることもできる。
そしてバーンスタインの「大地の歌」で2つを比較すると、私としては総合的に判断して66年の録音より、こちらの方により感情移入しちゃう。
インバル/東京都交響楽団によるマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第5番嬰ハ短調(1901-02。その後たびたび管弦楽配置を変更)。
いやぁ、なんといって良いのだろう……
ため息が出るような、安直に使ってはいけないが“完璧”“完全”という言葉がぴったりの演奏だ。
雄弁だが内声が充実している。現代的だが人工的ではない。豊かな響きだがスマートで緻密……
と、レコ芸の批評に出てくる褒め言葉を羅列したくなるほどだ。
とっても立派だ。
聴くたびにため息が出る(今のところ)。
しかし感動する演奏かというと、それは微妙に違う。
感動というよりも、ただただ感心する。京福、いや敬服する。
興奮するタイプのものではない。
知的な心地よさがある。
容姿端麗、才色兼備のすっごい女性を目の前にしているよう。
が、邪魔とは言わないが、「うっ!」とか「ヨッ!」とか「おりゃぁぁぁ~っ!」という(あくまでイメージです)インバルのうめき声も随所に混じる。
そしてまた、整い過ぎているが故か、終楽章は“火力不足”の感は否めない。
でも、この喜びは実際に耳にしないとわからないだろう。
いやぁ、驚いた。
2013年ライヴ。EXTON。
私は聴いてないが、メイン・マイクロフォンによるワンポイント・レコーディング盤も出ている。
その村上春樹の最新作がまたまた文藝春秋に載った。
おかげでこの雑誌を4か月続けて購読するはめになっている。
3月号に載ったのは「独立器官」。
ごく簡単に物語の筋を書くと、“52歳になる医者の渡会(とかい)は、今も独身。そもそも結婚する気はない。そして、常に“結婚を言い出さない”女性たちと付きあっている。そんな渡会がいつものパターンで付き合い始めた人妻を、真剣に好きになってしまう。が、その女性は……”ってことで、相変わらず自由にいろんな女性と寝て(渡会は独身だからそのこと自体はとがめられることではないが、相手は恋人のいる女性だったり人妻だ。つまり、結婚を迫られる恐れがないから)、適当な時期が来たら別れ、また別な女性と、という春樹氏らしい話。しかし、この小説は、そんな渡会が真剣に1人の女性に惚れてしまった苦悩、そしてその相手の意表を突く行動がキモ。キモい、じゃなくて肝。 渡会に罰が当たったと言えなくもないが、この人妻、ひで奴なのだ。
悲劇だ。
ところで“独立器官”というのは違いますよ、あなたが考えているものとは。意思に反してゆーことをきかない奴栗突感を望む股間の生殖器官のことじゃありませんよ。
“すべての女性には、嘘をつくための特別な独立器官のようなものが生まれつき具わっている”ってことなのです。
マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第6番イ短調「悲劇的(Tragische)」(1903-05/改訂'06。その後たびたび管弦楽配置を変更)。「悲劇的」というのは通称である。
今日はサロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏を取り上げる。
2009年5月のライヴ録音。
サロネンというと優等生の型にはまったようなイメージが私には強く、緻密で美しい音楽を作り上げるが何か物足りなさを感じることが多かった。
ビーフハンバーグを食べようと思っていのに、何かの手違いで口に入れたらそれは豆腐ハンバーグだったような……。いや、体にはいいんでしょうが…… で、このマラ6もどうかなぁと、半ば大いに期待し、半ば斜に構えて聴いたのだが(サロネンには“はずし”はまずないので期待せずに臨んだということはない)、あらあら、すばらしい演奏。
曲が始まってまず、初めてこの曲を(私の好きな)ショルティ/シカゴ響(1970録音)で聴いたときと同じ感覚に襲われた。ということは、どこか共通するものがあるんだろう。
が、ショルティの精密重機が冷徹かつ正確に進んでいく感じとは違う。なんというか音にふくよかさがあり、また歩みも足元の障害物にときおりペースを乱される感じだ。悪い意味ではなく。
こりゃタダモノじゃないなと、すぐに私をおとり、いや、とりこにしてしまった。
第1楽章第2主題なんて、たっぷりと愛おしむように歌い上げる。実に美しい!ただし、展開部ではもう少し牧歌的な気分が欲しいところ。でも、それは些細な問題である。
第2楽章(スケルツォ)は、ややまじめすぎて音楽が硬くなるところもあるが、私は許す。
第3楽章(アンダンテ)もややドライな感じ。泣き女シクシクみたいにもう少し音楽に酔わせてほしい気もするが、大きな問題ではない。
第4楽章はまったく弛緩することなくエネルギッシュに進む。ぼうっとした態度では聴いてられない密度の濃い演奏。
私はこれまで聴いたマーラーの6番の録音でも、最高の部類に入る名演。
テンシュテットのような異様とも言える緊張感、切迫感はないが、あれはある種アブノーマルな名演奏。バランスのよさではサロネンが上だろう。
多くの人に聴いてほしいと、私が願うのも変だが、思っている。
signum CLASSICS。
「す、すごいわよね、あの小説。女子プロレスラーが相撲取り三人にレイプされるってところ……覚えてますか、荻原さん」
「は、は、はい……まるで灼熱の鋼のような摩羅ノ海の巨根がズブズブと……ああっ、いやっ。どうしよう!」
そ、そうよ。必死で抵抗する女を摩羅ノ海はノドワで責めて、両腕をカンヌキに抱え込み……」
「それを見ていた竿ヶ岳が辛抱たまらず背中に回って送り出し。ああっ!」
キノコ王国の話の続きではない。
浅田次郎の「プリズンホテル 4 春」のなかの一節。
2人の女性が主人公・木戸孝之介の書いた小説について話している場面である。
一方、摩羅ノ海ならぬマーラーに、“ゴーマンなまでの押しの強さに自ら喜んで寄り切られてしまったアルマ”と書いているのは金聖響。「マーラーの交響曲」(金聖響+玉木正之:講談社現代新書)の交響曲第5番の章でである。
マーラーがアルマと出会い結婚へと寄り切ったのは交響曲第5番を作曲していたころだった。 マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第5番嬰ハ短調(1901-02。その後たびたび管弦楽配置を変更)。
スヴェトラーノフ/ロシア交響楽団による演奏。
この組み合わせだと力士のような重量感と攻めが期待できそうなものだし、ましてや第5番だから爆演となりそうな感じがする。
ところが、そんなイメージとは違って意外とノーマル路線。骨太さは全曲を貫いているし、「おっ」というアクセントづけもあるが、私をゾクゾクさせないものだ。
それは、響きがやや甘ったるいせいもある。録音のせいだろうが。
1995録音。ハルモニア・ムンディ。
昨日は暖かかった。
春が来たかのようだった。
が、これに騙されてはいけない。
寒気は緩んでも、タイツを履き忘れないよう気は緩めてはいけない。
もっとも、タイツを履いてズボンを履き忘れるよりは、タイツを履き忘れてズボンを履いた方が何十万倍もマシだが……
今多コンツェルン会長室直属・グループ広報室に勤める杉村三郎はある日、拳銃を持った老人によるバスジャックに遭遇。事件は3時間ほどであっけなく解決したかに見えたのだが―。しかし、そこからが本当の謎の始まりだった!
紅白で最後のマイクを持ったのは北島三郎だが(見たかのように書いているが、実際はそのとき私はご就寝)、こちらは宮部みゆきの「ペテロの葬列」(集英社)である。
年前に書店に平積みされているのを目撃してしまい、まだ読書中ならびに読書待ちの本があるにもかかわらず、購入してしまった。このようにがまんできないところが、B型みずがめ座らしい(のでしょうか?)。
マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲のほとんどに葬送行進曲(風)の音楽が現れるが、交響曲第1番ニ長調(1883-88/改訂1893-96)の第3楽章は、当初「カロ風の葬送行進曲」とされていた。
カロというのはフランスの銅版画家で、マーラーはカロの、獣たちが猟師の死体を担いで踊りながら墓地に向かっている絵から、インスピレーションを得たという。
担ぐといえば担担麺。これを坦坦麺と書くのは誤り。もともとは道具をぶら下げた天秤棒を担いで売りに来た麺だから担担麺なわけ。生意気なウンチクをたれてすまない……。だが、担担麺好きの私としては、坦坦と誤表記されることはちょっと耐え難い。ゴマに代わっておしおきよっ! マゼール指揮フィルハーモニア管弦楽団の2011年ライヴは、私にとってはどうにも心が揺さぶられない演奏だ。天秤棒の先の道具の方がはるかに揺ら揺らだろう。あくまで想像だけど。
明日の仕事始めを控え、すでに家の中でトイレに行く足取りでさえ葬列のように重く、もちろん気分も方鉛鉱のように重いわけだが、テンポの遅さはこんな私に何ら前向きなきっかけを与えない。そんな演奏。
あっ、方鉛鉱っていうのは重要な鉛の鉱石で、比重は7.6。
小学生の時にマサノブ君がなぜかこれを持っていて、あのころは石好きだった私に惜しげもなく、じゃなくて躊躇しながら未練たらたらくれたのだったが(私はその代わり十勝石=黒曜石をあげた)、キャラメルくらいの大きさなのに重くてびっくりした。
マサノブ君、ありがとう。でも、あのあとすぐに失くしちゃった。ごめんね。
マゼールともなれば駄演なんてことはないはずなのだが(変でも何か重要なメッセージが込められているような気がする。善意に解釈すれば)、にしてもこのゆっくりした歩みは、マーラーの青春期の交響曲にしてはおっさんくさく、残り物の正月料理のように喜びを与えてくれない。
どうしたんでしょう、マゼールさん。
体調が悪かったのでしょうか?
いや、悪いなら早く終わらせようと、急ぐはずだよな。
ちょっと落ち着いてみちゃおうかなって思ったのかな?
あっ、良く言えば壮大、雄大、円熟した演奏と言えるな。
いえ、悪くはないんですよ。
けど、マゼールさんともあろうお方が、これでいいのかと……
発売を許可したのだから、本人は満足してるんだろうな、きっと。
signum。
昨日の昼前に帰省先の自宅から、勤務地へと戻ってきたが、その後札幌は大雪に見舞われたようだ。
大雪の前に出発できたことは幸運だったふだ、一方でカーポートの屋根はどうなっているか、ベランダはどうなっているか(積もった雪が窓を圧迫するのが心配である)など、気になる。そして、次回帰った時にかなり過酷な労働をしなければならないと思うと、今の気分が輪をかけて重くなるのである。
やれやれ。
小学校の図工の時間。
画用紙に鉛筆で下書きしていた私。自画像だ。
先生が寄って来て、「なかなか上手く描けてるね」と褒めてくれた。
2週間後の同じ時間。
すでにギターペイントを使って色をつけていた私のところに先生が寄って来て、「下書きはよかったのに絵の具を使ったらなんでこんなにひどくの?」と、ダイレクト・モードでけなされた。
これもまた、わが人生脚本のリハーサルで起こった出来事である。
だから私は図工の授業を受ける義務がなくなったなら二度と絵筆は持つまいと、才能のなさに挫折した画家のように、密かに決意したのだった。
が、その後大きな間違いを犯してしまった。
高校に進んだ時、芸術の授業は音楽か美術か書道のどれかを選択することになっていた。最初は音楽を選ぼうとしたのだが、同じ中学から入学した友人が「油絵だったら塗り重ねられるから、そっちにしようよ」と私を誘ったのだった。
そして、これまた断りきれないシナリオを持つ私は美術を選択してしまったのだが、何度書いても、例えば静物でリンゴを書いても、どう見ても球状ではなく、それは日本の国旗の真ん中のように、塗りつぶされた円のままだった。
ところで画家のドイツ語はMalerだ。
マーラーに似ている。
マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)と結婚したアルマ、あの淫乱女(という表現がまずいなら、男性遍歴魔)のアルマの実父(アルマが13歳のときに亡くなった)は画家だった。
アルマがマーラーに次第にひかれ結婚に至ったのは、Mahlerに対してMalerであった父の姿を潜在意識下で重ね合わせたためだ、と分析する学者もいるという。
学者といっても、もちろん動物学者とかじゃなくて心理学者だと思う。
それは置いといて、そのマーラーの交響曲第9番ニ長調(1908-09)。2000年にスヴェトラーノフがスウェーデン放送交響楽団を指揮したときのライヴで、頭でどうのこうの言ってる場合じゃなく、全身で感動する演奏だ。
CDの帯には深緑色の地に黒文字という、おそろしく目に悪い組み合わせで以下のように書かれている。
スヴェトラーノフが忍び寄る死の影を感じながら2000年1月に紡ぎだした絶美の演奏。第1楽章の深遠な解釈、第4楽章の澄み切った境地は、正に生と死の表裏一体を教えてくれるかのようです。対照的に中間楽章はエネルギッシュそのもので、リズム感の良さを物語ります。スヴェトラーノフのマラ9と言えば、ロシア国立響との1992年のスタジオ録音は恵まれた音質といえなかっただけに、妙技を誇るスウェーデン放送響、名録音を誇るスウェーデン放送による当ライヴは、ファン垂涎のものでしょう。
“スコアをすみずみまで分析した”とか“精緻”といった表現とは逆の、太い筆で描き上げたような演奏。もちろん私の水彩画とはまったく異なり、大雑把という意味ではない。
そしてまた、“忍び寄る死の影を感じながら”というのは、さらにはやはり帯にある“音楽、人生への訣別”というのは、ちと違う感じがする。
知的という印象の演奏ではない。かといって、おバカではもちろんない。本能的というのだろうか?でも。暴走はしない。抑えきれない喜怒哀楽の高まりを爆発させるのではなく、ぎりぎりのところでコントロールしている。よくがまんしたね。だって大人だもん。巨匠だもん。
弛緩するところがまったくない。聴く者はあくび1つできない。
引き締まってはいるものの、マッチョというよりはほどよいふくよかさがある。だから冷徹にならない。後ろ向きななよなとしたところはなく、エネルギッシュに前進するのみである。
この演奏は魂がこもった名演だ。感動で全身がプルプルしちゃう。
あなたの棚に、ぜひ揃えて欲しい1枚だ(2枚組だけど……)。
レーベルはWEITBLICK。
先生は私を傷つけたが、言い方が悪かっただけで、正当な指摘だった。
私が色づけした自画像はおよそ自画の像には見えず、砂利道でつまずき頭から地べたに転んだあとのけが人のように顔が歪み膨れていた。いや、描いた自分だからわかるが、他人が見たら人間にさえ見えなかったかもしれない。
マゼール/フィルハーモニア管によるマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第3番ニ短調(1893-96/改訂1902)。
なんかパピッとしないなぁと思いつつ聴き進むと、モウセンゴケに捕えられた小虫のようにその世界から逃れられなくなり、最後は深い感動に包まれちゃうっていう不思議触感演奏である。感動に包まれるのだから、消化液で干からびる小虫とはまったく違う結末を、私は迎えられるわけだ。
第1楽章はテンポが遅い。遅いだけじゃなく、なんかかったるそうに進んでいく。やる気のない高校生が体育祭の入場行進の練習をしているかのようだ。
小太鼓だって片手間でやってんのか?と思うような演奏だが、聴きかえすうちにこの奏者に会ってみたくなってくる。
全体を通じ、なんじゃこりゃっていうキワモノでも俗物でもないが微妙にワルで、よくわからないがさすがマゼールと妙に納得してしまう。俗っぽさの表現がうまいのかな?
第2~3楽章も普通なようで、どこか違う空気が発散されている。何がどうとははっきり言えないのだけど。
第4楽章は、うぉぉぉ~、暗い!重い!怖い!という、こんな牛丼屋なら流行りっこなしというものだが、この楽章の演奏としてはぴったりマッチ。あぁ、カオスだねぇ~。
第5楽章も変に小ぎれいじゃなくて、ニセ天使がやって来たって感じ。人格者の神父が、実は裏の顔はエロ神父だったんです。そんな、ときおりありがちな衝撃の事実を感じさせる。人間だもの……
終楽章はすごい。
ゆっくりと進むだけじゃなく、ときに発作が起こったようにひっどくパワフル、またあるときはかなり情感豊か。個人的にはゾクゾクさせていただけるもの。 第2交響曲ではちょいといただけなかったマゼールの調理も、この第3番では通り一遍ではないおいしさを提供してくれている。
これまで私が聴いた少なからずのマラ3の演奏とは、ちょいとテイストが違う奇演的名演だ。
メゾソプラノ独唱はコノリー。合唱はフィルハーモニア・ヴォイセズとティフィン少年合唱団。
2011年ライヴ。signum。
先日自宅に帰ったときに、庭の一角、ではなく、中心付近にネズミの薬を置いてきた。
買った薬は殺鼠剤だと思い込んでいたが、実際に手にし、レジに行き、お金を払い、家に持ち帰ったのは忌避剤だった。あらためてパッケージを見てわかったのだが、こういうときでも殺しはなるべく避けようという私の優しさが無意識のうちに表れたとしか言いようがない。
だからとにかく、来るな!ネズミよ!
今日は昼から東京に出張である。風がやたら強く吹いているが……
実は今朝を自宅で迎えている。
って、私のこと何にも知らない人にとっては、自宅で朝を迎えるのは古今東西しごく当たり前のことなのに、何へんてこなこと言ってんだと思うだろう。ここであらためてとやかく書くのはめんどーなので、知らない人は以下の文から私が置かれた状況を読みとっていただきたいが、宮部みゆきの「レベル7」の冒頭のような、不可思議な目覚めではないからご安心して結構である。どーせ心配はしてないだろうけど。
先週の木曜日、私は支社の管轄エリアでも最も遠い町に行き、そこでクマ肉を食べ、そのまま宿泊した。夜にクマすき鍋を食べたあとは帰って来れない場所だから泊まったわけだが、そこにはネットブックPCを持って行かなかった。
私の予想通り、そのホテルの部屋にはLANのラの字もなかった。それどころか、冷蔵庫もなかった。
支社に帰って来た翌日の金曜日。夜は観楓会であった。
ここにもPCは持って行かなかった。温泉宿の部屋にはLANのンの字もなかった。が、ロビー階には無料で使えるPCが置いてあって、私は土曜日の朝の投稿をそこで行なった。
マンションに帰ったあと、ワンタッチで車で自宅に帰った。
日曜日。このブログは2222回目を迎えたが、大量のスパムコメントの祝福に見舞われた。
それをどのようにブロックするかいろいろやった。キャプチャ認証を強制するように設定したが、それでもスパムコメントは私を祝福し続けた。ようやっと月曜日になって止まったが、きっとキャプチャ認証を強制するという設定がきちんと反映されるまで一定の時間が必要だったのだろう。この間届いたスパムコメントは18,000を超えた。
日曜日の日中は、そんな悩みを抱えながらバラの冬囲いをした。右手の指の3か所にトゲを刺してしまい、血が出た。
月曜日は札幌で会議だった。会議の前には病院にも行った。
そして火曜日にこちらに帰ってきた。
が、火曜日の午後に打合せをしていたら、急きょ札幌に行って打合せ、依頼、懇願しなければならないことが発生した。
で、昨日の水曜日にまた札幌へ向かった。
だから今朝を自宅で迎えたわけだ。んでもって、今日勤務地へと戻り、そしてまた今日も取引先との泊りがけの集いがある。
以上のことからわかるように、多忙な私には投稿する記事の下書き、専門用語で言うならば“ストック”がなくなってしまった。文を書く時間がないのだ。
列車の中で書けって?
一理ある、その指摘には。
が、ネットブックPCを持って歩くのもけっこうがさばる。
少なくとも文庫本2冊分よりも重いし……
だから私は新聞配達人なみに早起きして(といっても、だいたい尿意をもよおすので自然に覚醒する)、朝から怪しげにPCを打つのである。
昨日のJRでの移動中に聴いた曲から、本日はクレー指揮ベルリン放送交響楽団の演奏によるマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第1番ニ長調(1883-88/改訂1893-96)。
CDが安くなっていたのですっごい期待するわけでもなく購入した。
クレーの名前が懐かしかったから。
ずいぶん昔にNHK交響楽団を振ってたのをTVでチラ見した覚えがある。いまから40年ぐらい前のことで、私もまだ「大きくなったら大人になる」という将来の夢をもつ少年だった。あのころのクレーはまだ30代だったってことになる。1936年生まれだというから。
で、名前は懐かしいがN響との演奏はまったく覚えていない、印象に残っていない、あれは幻だったの?って感じ。
このマーラーの1番は1979年のライヴ。ということは、N響を振りに来た時代に近い。クレーも若かった。
そして、この演奏も若々しいエネルギッシュなものだ。
粗いざらついたサウンドだが、演奏の印象は好感がもてるもの。この曲はマーラーが20代のときに書いたものだが、作品のもつ熱き青春の思いみたいなものをあらためて気づかせてくれる。ハツラツとしたオロナミンCの世界。聴衆も元気に拍手喝采、ブラボー絶叫!
トランペットの音がいくつかの箇所で、私にとっては「感じ悪~い!」のだが、期待するわけでもなくという私の期待を裏切った演奏である。
Altus。
落日の清国分割を狙う列強諸外国に、勇将・李鴻章(リイホンチアン)が知略をもって立ち向かう。だが、かつて栄華を誇った王朝の崩壊は誰の目にも明らかだった。権力闘争の渦巻く王宮で恐るべき暗殺計画が実行に移され、西太后(シータイホウ)の側近となった春児(チユンル)と、改革派の俊英・文秀(ウエンシウ)は、互いの立場を違えたまま時代の激流に飲み込まれる。
浅田次郎の「蒼穹の昴」第3巻のあらすじである。
鹿を見学したあと、この日は都市間高速バスで勤務地へと戻ったので、たっぷりと本を読むことができた。薄暗くて目が痛くなったけど。
王朝崩壊ってことになってきたが、現在に目を向けると、かの国ではまたまた問題が起こっている。いったいどうなるんでしょうね?
中国って、これからどういうふうになっていくのでしょうね? マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の「大地の歌(Das Lied von der Erde)」(1908-09)。
ご存じのように、この曲の歌詞は中国の詩がもとになっている。中国の詩のドイツ語訳をベートゲが編さんし「中国の笛」として出版したものからとられているのだが、ベートゲも原詩を改編しているし、さらにマーラーもいじくっている。
今日はネゼ=セガンがロンドン・フィルを振ったライヴ録音(2011)を取り上げる。
非常に完成度の高い演奏と言えるだろう。清潔感がある。せっけんの香りがする良家のお坊ちゃんのようだ。
ライヴなのに、ライヴにつきものの傷も少ない。
でも、どこか面白みに欠ける。
これを会場で実際に耳にしていたら、かなりの名演に出くわしたと感謝感激してしまうに違いない。が、録音されたものを、場の雰囲気にのまれない客観的な状態で聴くと、ソツが無さすぎて音楽が生きているように感じないのだ。血が通ってないというか……
独唱では、特に終楽章の「告別」で音程が安定しないところがある。
優れた演奏であることは間違いないのだが、「芝エビでもバナメイエビでも、どっちだっていいわ。チリソースで混ぜ混ぜされたらどーせわかんないもの。はははっ!」と言い放てる、許容力のある人向き。別な言い方をすれば、ホテルのレストランで食事をするのが好きな人向け。
厭世観に乏しいこの演奏、居酒屋おやじには合わない。このアプローチでは郷愁は感じない。しんみりこない。泣けない。
独唱はメゾ・ソプラノがコノリー、テノールはスペンス。
LPOレーベル。
本日は、仕事が終わったあと、自宅へと戻る。
都市間高速バスで。
目が痛くならない範囲で、本を読むつもり。
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