読後充実度 84ppm のお話

“OCNブログ人”で2014年6月まで7年間書いた記事をこちらに移行した「保存版」です。  いまは“新・読後充実度 84ppm のお話”として更新しています。左サイドバーの入口からのお越しをお待ちしております(当ブログもたまに更新しています)。  背景の写真は「とうや水の駅」の「TSUDOU」のミニオムライス。(記事にはアフィリエイト広告が含まれています)

2014年6月21日以前の記事中にある過去記事へのリンクはすでに死んでます。

マーラー

客の数は1000人どころではありません♪ジンマンのマラ8

cd65e607.jpg  今日は北海道の花火大会では最大級と言われている十勝毎日新聞社の花火大会の日である。19:30開始。2万発の花火が打ち上げられる。

 それとはあんまり関係ないが、ある意味ゴージャスだということで、マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第8番変ホ長調「一千人の交響曲(Symphonie der Tausend)」(1906/1910初演)。ジンマン盤である。

 これまでジンマンによる一連のマーラーの録音を紹介してきたが、平均的には私の評価は大学の成績で言えばB評価。な~んて、偉そうに評価なんて言う立場にはないが、要するに自分の好みからすると、知的すぎてエキサイトできなかった。すっきりしなかった。なんか残ってる感じがしたのよ、はるんけぁ……

 そしてこの第8番。
 私としては、ジンマンの他のマーラーよりも1歩も2歩も抜きん出ていると感じる-そして、そのあと2歩下がるといったオチもない-すばらしい演奏だった。
 優秀録音とも相まって、これほど音楽美に浸れる第8番は初めて。

 そもそも私はショルティ/シカゴ響のあの有名な演奏でこの曲を知った。
 私がデッカ(国内盤ではLONDONレーベルだった)の録音が好きになったのも、この8番をはじめとする、この組み合わせによるマーラーの演奏の響きがあまりにもすばらしかったからだ。
 時代的に技術の問題によるものでしかたないが、大音響での歪みにまで感動したものだ。

 ショルティの「千人」の第1部の終わりのソプラノ独唱なんて、絶叫マシーンの上から参加しているみたいだった。

 ジンマンのこの録音は極上と言えるほどすばらしい。

 演奏はショルティのとは正反対のもの。ショルティの演奏は、第1部はメカニカルにすごい推進力で進むが、その反動で、性格の違う第2部では深みが足りず、退屈してしまう。
 ジンマンの演奏は、第1部もそれなりにエキサイティング。それなりにというのは、おだってない、力んでない、やかましくないという意味であり、決して物足りなくはない。
 第2部になると、こりゃあもう文部科学省推薦のドラマのようだ(良い意味で)。
 しかし、ジンマンの知的なアプローチはここでは実にうまく作用し、妙に甘ったるくなったり、ダラダラだれだれと感情に酔ったりしない。躍動感もあり愛らしい。

 とにかく“くさく”ない。やらせ、過剰演出がない。素材の旨味を生かす和食のように、音楽そのものをピュアに味わえる。
 こう比べると、ショルティのはそばを急いで食べたあとの腹のようなのかもしれない。鼓腸……いや、誇張気味というか……
 
 私は長らくショルティ盤でこの曲を聴いてきたせいか、これまた長らく第2部はあまり好きになれなかった。それが変わったのはラトルなどの演奏を聴いてからだった。
 そして、このジンマン盤はさらに、特に第2部のすばらしさを享受できる演奏だ。
 
 きっと純粋な心の持ち主であろうあなたは深い感動に包まれるはずだ。だって不純な心を持つ私もこんなに感動したんだから。

 オケはチューリヒ・トーンハレ管弦楽団。合唱はスイス室内合唱団他。
 独唱陣は以下のリンクでご覧あれ!
 2009録音。RCA。SACD。

 あぁ、SACDが再生できるプレーヤーが欲しい。
 この録音なら、そりゃあまたすばらしいんだろう。その音を聴いてみたい。
 これを聴いていると、飢えた狼のようにその欲望が高まってくる。

使者のごとく、這ってでもずってでも今朝も投稿♪ジンマンのマラ7

5f828217.jpg  岩波文庫の「カフカ寓話集」(池内紀 編訳)を読んだ。

 学生のころカフカの短編集を読んだことがあるが(角川文庫で書名は「ある流刑地の話)、それと重複する話も多い。
 この本の最初に収められている「皇帝の使者」も、「皇帝の密書」のタイトルで角川のにも入っていた。

 「皇帝の使者(Eine kaiserliche Botschaft)」(1917)は2ページの短い話だが、その終わりは何度読んでももの悲しい気持ちになる。それは実現しないことをひらすら待ち続けている主人公への深い同情の気持ちである。

 この話は、死の床で皇帝が、一介の市民、哀れな臣民である〈きみ〉に、伝言をもった使者を送り出したところから始まる。頑健きわまる疲れを知らない使者は〈きみ〉のところに向かうのだが、いつまでたっても部屋が続く。仮にいくつもの部屋を通り抜けたとしても、その次にあるのは果てしない階段。それを走り下らなければならない。下り終えたとしても、今度は幾多の中庭。幾多の中庭の先には第2の王宮。これだけで何千年もかかる。そして、決して起こりえないことでfc5e2ea1.jpgはあるが、使者が最後の城門から走り出たとしても、そこには今度は首都がある。ここを駆け抜けることができる者は誰もいない。ましてやとっくに死者となったものの使者なのだ。

 が、

 「しかし、きみは窓辺にすわり、夕べがくると、使者の到来を夢見ている

のである。

 ここには「審判」や「城」と共通するものがある。
 つまり、いくらやっても先へは進まない、事態は好転しない、ということだ。

 ところで、この文庫本のカバーに、カフカは「いずれ自分の時代がくると固く心に期していた」と、書かれている。

 どこかで目にしたことがあるような言葉だ。

 そう。マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)が語ったという言葉、「やがて私の時代が来る」、である。

6647b431.jpg  カフカは1883年に、当時はオーストリア=ハンガリー帝国に属していたボヘミア王国の首都プラハで、ユダヤ人の家庭に生まれた。

 一方マーラーは、ボヘミアの小村カリシュトで、やはりユダヤ人の家庭に生まれている。

 おそらく、マーラーとカフカに共通するのは“疎外感”である。

 そのマーラーの交響曲第7番ホ短調「夜の歌(Lied der Nacht)」(1904-06/その後もたびたび管弦楽配置を変更。初演1908、プラハ)。
 この作品については過去に書いているが、「夜の歌」は第4楽章の題名に由来する通称であり、また、第2楽章の題名「夜曲(Nachtmusik)」で呼ばれることもある。

 さて、今日取り上げるのはジンマン/チューリヒ・トーンハレ管弦楽団による演奏。
 2008録音。RCA。SACDだが、私の再生環境は通常のCDプレーヤー。

 ジンマンのマーラーは、これまで今日の第7番と、第8番以外をこれまで取り上げているが、それらをかいつまんで復讐、おっと、復習してみると次のようになる。

 第1番 ビミョー
 第2番 終楽章でゾクゾクのピーク。感動的。
 第3番 もうちょい味付けを濃くしてほしい。おいら北国の人だから。
 第4番 肌に合わない。あたくし、ちょっぴりアトピー体質なもんで。
 第5番 心揺さぶられない。僕はけっして冷酷な人間じゃないんだけど。
 第6番 悲しみに溺れられない。今の自分には楽しいことなんてないにもかかわらず。
 第9番 終楽章がすばらしい!深い感動に包まれる。
 第10番 カーペンター版という楽譜のせいか、とっても刺激的。

 このように振り返ってみると、私はジンマンのマーラーは評価しているし、立派だと思うし、とやかく言える立場にはもちろんないのだが、なんつーか、感心する演奏だけど、感動する確率は2割5分ってわけだ。
 ショーケースの中に収められた装飾品みたいな演奏と表現した人もいるが、なるほどうまいことを言うもんだ。

 そんななか、この第7番の演奏はジンマンとしては禁欲度があまり強くなくて、上にあげた8つの交響曲の演奏よりも自由奔放な感じではある。
 ただ、すっごく立派だと感心するものの、感動するかというと、うん、しなかった。私は。名演なのは間違いないんだけど。

 OCNがたいへんな状況になっている。
 昨日の朝の6時過ぎから、OCNのIDを使う各種サービスが利用できなくなっている。6時過ぎということは、私が昨日のブログ記事を投稿した直後のことだ。わぁ~、助かったぁ。
 そして、今でも完全復活していないが、ブログに関して言えば、“ブログ人”のユーザー名とパスワードを使ってのログインが可能になっており、今回はそのルートで投稿する。
 しばらく利用していなかったので、ユーザー名とパスワードがすぐに思いだせなかったが、必死の努力でログインできた。
 なんだか、大きな災害のさなかでも、這ってでもずってでもなんとか出社しなきゃというサラリーマンと同じような心境に、自分自身に苦笑してしまった。

若い頃は惜しげもなくたっぷり塗ったもんだったよ♪ヤンソンスのマラ3

e3776370.jpg  昨日の記事で、ウソかまことかわからないが、坊さんの娘からのメールを紹介した。私が思うに、120%偽物だろうが……

 前に、ある飲み屋で坊さんだという人物と偶然隣り合わせたことがある。

 道南から来ているというその坊さん、よくしゃべり、ガバガバ焼酎を飲んでいた。尋ねもしないのに、若いころはスキーが得意だったと言っていた。

 「ワックスはたくさんあったからな。たっぷり塗って、板の滑りを良くするのはお手のもんだった」と語っていたが、よく話を聞いていくと、ワックスというのはつまりはロウソクのことで、寺だからロウソクには不自由しなかったということだった。
 なかなか笑える話だった。

 それはともかく、昨日はメンデルスゾーンの「宗教改革」を取り上げたわけだが、メンデルスゾーンの代表作は「真夏の夜の夢」である(もちろん他にも有名曲はたくさんあるが)。

 マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)も自作の交響曲に「真夏の夜の夢」と名付けようとしたことがある。交響曲第3番ニ短調(1893-96/改訂1902)である。ただし、シェイクスピアとはまったく関係ない。

 それが、のちに今度は逆に「真夏の朝の夢」に変更、さらには「夏の真昼の夢」に変えている。はっきり言って、どうした?大丈夫かよ?って感じである。だって、夜でも朝でも昼でも、結局オールタイムOK!なんだから……

 その変遷は、長木誠司の“グスタフ・マーラー 全作品解説事典”によると、次のとおりである(ここでは真夏ではなく、夏となっている)。

 1895初夏    幸福な生活 夏の夜の夢
 1895夏      わたしの楽しい学問
 1895.8.17/29  楽しい学問 夏の朝の夢
 1896.6.20/28  夏の真昼の夢 あるいは、牧神の目覚め
 1896.8.6     夏の朝の夢

 だったら、夏の日の夢とでもすればよかったんじゃないかとも思うし、楽しい学問っていうのは、これまた音楽のタイトルとしてはワケのわからないものだ。
 幸いにして最後にはタイトルが破棄されたが。

 そのマーラーの第3交響曲。今日はヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏で。
 使用楽譜は1906年のフュッスル校訂版だというが、楽譜の問題については、私はよくわからない。フュッスル版って、確か交響曲第1番第3楽章の冒頭を、コントラバスのソロではなく合奏で弾かせるようになっているんじゃなかっただろうか?でも、第3番において、どのような違いがあるのかはよくわからない。

 タワレコのオンライン・ショップに掲載されている、ヤンソンスの言葉をここで又引きさせてもらうと、

 「わたしが初めてマーラーを聴いたとき、若い時分、あれはまだ音楽院の学生の頃だったかな、たいへん感銘を受けたし、まるで天にも昇る気分だったよ。マーラーが天才で、偉大な作曲家であるとわかったし、マーラーは最初からすぐさま、わたしに“ぼくの作曲家なんだ”という感覚をもたらしたんだ。(中略)そういうわけで、たちまちこんなにも大きな愛着を抱いたし、決してなくなることはなかった。100パーセント確かとはいえないけれど、わたしが最初に聴いたマーラーの交響曲は、第3番だったとおもう。そう、いまわたしが指揮をしている第3番をね。」 (c)Universal Edition

ってわけで、ニュースでも海外仰天ビデオ紹介みたいな番組でもそうだが、どうしてこんなような日本語訳になってしまうのか不思議だと、おいらは思うんだよ。これじゃ、「じゃじゃ馬億万長者」のジェスローじゃないか!

 ぬくもりのある第3番だ。
 音をパンッとぶつけてくるのではなく、伸びやかで大らかな演奏。ヤンソンスが悠然と音楽を楽しみ、味わっているかのよう。すがすがしいとともにほのぼの感があり、聴いていて優しい気持ちになるし、聴いた後は温かな幸福感を感じる。せかせかしていない、包容力のあるマーラーだ。
 
 第4楽章のメゾ・ソプラノ独唱はフィンク。
 合唱はオランダ放送合唱団女声合唱、ブレダ・サクラメント合唱団少年合唱、ラインモンド少年合唱団。
 2010年ライヴ。RCO Live。SACD。

 

私は目覚める。そしてパンは山食♪ジンマンのマラ3

f7480682.jpg  日曜日の朝食は珍しくトーストにした。
 あっ、ごめん。この間の、つまり私にとっての「血の日曜日」ではなく、その1週間前、つまり皆さんとの共通語で言うなら6月9日のことである。

 私はめったにトーストを食べない。年間1度も食べないことも珍しくない。
 
 なぜか?

 すぐにおなかがいっぱいになってしまうくせに、そしてまたすぐにおなかがすくからだ。

 それに、口の中がモグモグになるのも好きではない。つまり口の中が水分不足になるような感覚が嫌だ。おまけにテーブルから足元、その中間の股間から太ももにかけてパン屑だらけになるのも好ましくない。家の中に鶏でも飼っていたなら、そこを突いて来て、「うっ、痛い!でも続けて……」てなことになるのかもしれないが(いやいや、なりませんって、旦那!)

 なのに、なぜこの日の朝食はトーストだったのか?

 前の日にある町のイベントに出かけたのだが、そこで売っていた限定製造の食パン(角食)が美味しそうで買ってしまったからである。

 ちなみに、角食というのは北海道特有の言い方なのだそうだ。
 ふつうは食パンと言うことはわかっているが、大体にしてパンというものは総じて食べられるものであって、そう考えるとジャムパンだってアンパンだって、クリームパンだって食パンだ。それと区別するために、私はあえて嫌われ者になって、角食と書いている。

 トーストが好きじゃないのならサンドイッチにすればいいじゃないかというご意見もあろう。ごもっともだ。
 だが、問題がある。

 この食パン、角食と書いたものの、厳密には市販のもののようなほぼ正方形の断面ではなく、山型-つまり一辺が丸い山型-の食パンなのだ。北海道ではこれを山食と言うが、角食ほど一般的には使われない。だいいち私自身が山食なんて言葉を使ったことがないのだ。だから、一般的であるはずがない。

 山食のサンドイッチにおける問題点は、ミミを除きにくいということである。
 私はミミが残っているサンドイッチは好まない。憎んでいるほどだ。

 ということで、トーストにした。

 オーブンレンジの上に置いてある、雑多な物-ふりかけとか海苔の袋など-をまずは片付ける。でないと、火事になってしまう。
 そして焼く。

 トースター機能なんて使ったことがないので、中皿をはずすものなのかどうなのかから困惑する。結局中皿ははずすということだったが、なんでパンを焼くためにいちいち取扱説明書を開かなくてはならないのか!

 パンは焼けたが、ほぅれ、庫内はパン屑だらけになった。
 やれやれ。

 2枚食べると、かなり満腹(言っておくが、厚さが4cmも5cmもあるわけではない)。

 しかし、2時間もすると空腹になった。

 私は無性に親子丼が食べたくなり、ご飯を炊き、その間にスーパーに鶏肉を買いに行って親子丼を作った。これが昼食である。

 いやぁ、外は暑かった。
 この日は真夏日になったということを、夕方のニュースで知った。
 鶏肉のせいで熱中症になったらたいへんだった。手間をかけてトーストを焼いた反動が、命がけの鶏肉の買い物なんて割にあわなすぎる。

 こうして作った親子丼だが、はっきり言ってまずかった。
 久々に作ったので勘が鈍ったのか、出来上がったものは私らしからぬ薄味で、薄味の親子丼は相当まずいことと、その上から醤油で応急処置しようとしても鶏肉に味がしみていない限りは、やっぱり不味いままだということがわかった。

 パンと夏……

 あまり関連性はないし、そもそもパンの意味が違うが、マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第3番ニ短調(1893-96/1906改訂)。

 この曲は、当初各楽章に標題が付けられていた。
 第1楽章のそれは、「牧神(パン)が目覚める。夏が行進してくる」であった。
 いや、それだけである。

 マーラーの交響曲第3番については、たとえばここのように、これまで何度か取り上げているが、今日はジンマン指揮チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の演奏をご紹介。
 アルト独唱はレンメルト。合唱はスイス室内合唱団とスイス児童合唱団。

 ジンマンのマーラーはとにかく響きが美しいが、この第3番も精緻な美しさがある。
 が、それゆえにというべきか、第1楽章の展開部などでしゃしゃり込んでくる“俗っぽさ”もアッサリ気味に処理されてしまう。ここは俗っぽさがもっと悪さをして騒いでほしいところだ。
 終楽章も見事な演奏ながらも冷めたスタンスが感じられ、最後はもっと骨太なサウンドで高揚してほしいという物足りなさが残る。
 なんちゅーか、私にとっては、なかなかの出来栄えで興味はそそられるんだけど、結局自分にはあまり合わないなって思う、高級なブランド物の腕時計みたいな存在の演奏である(あっ、かといって、書いているようにゴテゴテは決してしていません)。
 いえいえ、ホント、良い演奏なんですよ。偽ブランドじゃ、決してないです。私の言うことで、聴くのをやめたなんて思ったら、それはもったいないです。責任も感じます、私。
 2006録音。RCA。

私にはとこしえの名盤♪ライナーのGM/Erde<59>

45e5e30b.jpg  私はこの演奏のLPで「大地の歌」を知った。

 ライナー指揮シカゴ-響楽団、フォレスターのアルト、ルイスのテノールによる、マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の「大地の歌(Das Lied von der Erde)」である。1300円の廉価盤だった。

 先日、ほぼ同じ顔ぶれによる(アルト独唱が異なる)1958年ライヴ盤を紹介したが、そちらが前年ながらモノラル録音なのに対し、1年後にスタジオ録音されたこちらはうれしいステレオ録音である。

 このLP、何度も聴いた。同じ年の録音で、その後購入したクレツキ指揮の「大地の歌」(こちらのLPは1200円だった)よりも私はこちらを好んだ。そして、LPを処分してしまったあとは、ずっとこの演奏を聴けずにいた(※ 関係ない話だが、いま“daitinouta”と入力したつもりなのに、変換したら“大珍宝”になったのはなぜだろう?そんなに指が滑ったか?)。

 このたびタワレコのオンライン・ショップでCD(SACD)を購入。店頭では過去見かけたことがなかったので(見つけたら即、購入したに違いない)、見つけたときは小躍りした。いや、あくまで感情のイメージ表現。
 にしても、検索で容易にいろんなCDの存在の有無がわかるオンライン・ショップで便利だわぁ。

 ところで、昔あれだけ聴いていたのに、正直言ってまったく気づかなかったことがある。
 このディスクについて、タワレコ・オンラインショップに次のようなコメントが記されていた。

 当盤のマスタリング作業について
 「1959年11月7日と9日の録音された、ライナー指揮シカゴ響による「大地の歌」をSACDハイブリッド用にリマスターする過程で、われわれはコントラルトのフォレスターが歌う楽章と、テノールのルイスが歌う楽章とで、オーケストラのサウンドが異なることに気がついた。オリジナル・マスターを綿密に視聴した結果、録音時に、3チャンネルのうちの一つのチャンネルが、誤って逆の位相で録音されていたことが判明した。このミスは11月7日の初日のセッション後に発見されたようで、2日後に行われた2回目のセッションでは正しく修正された。
 ソリストの歌は、ソロ用のマイクでセンター・チャンネルに収録されたため、このような問題はなかったが、その背後に広がるオーケストラのサウンド・イメージが初日のテイクと2日目のテイクとは異なることとなったわけである。これは、問題のチャンネルの位相を再度逆にすれば簡単に解決する。しかしこの録音で大きな問題だったのは、一つの楽章間で両日のテイクが繋ぎあわされている箇所があったことで、結果として全曲を通じて間歇的にオーケストラの音が変化することになってしまった。
 そのため、オリジナル・マスターの編集点を一つ一つ確認し、各テイクがどちらの日に収録されたのかを見極めて、初日のテイクが使われた箇所のみ位相を正常に戻す必要があった。そうやって新たに再構成した3チャンネルのマスターから新たに2チャンネル・ステレオ用にミックスダウンを行い、CD層とSACDステレオの音声を完成させたのである。」
 マーク・ドナヒュー(マスタリング・エンジニア)


 ドナヒューさん、すっご~い!ひゅーひゅー!

 と幼稚なことを書いている場合ではない。
 私は、なにそれのCDの録音は音場が不自然だの、かれこれのCDの録音は定位が悪いだの不満を漏らしてきたし、そのあたりは敏感だったと思っていたのだが、LPでこの録音を聴いていたときに違和感を感じたことはなかった。
 あっ、あのコロムビアのレコードプレーヤーで聴いていたころだったからか?
 それにしてもなぁ……
 けど、エンジニアだって今回初めて気づいたわけで、青少年時代の私の耳でわかるものではなかったのかもしれない。

 さて、ものすごく久しぶりに聴いた感想。

 「懐かしい!」

 ↑ すっごく芸がない表現だが、まさに当時のいろいろな思い出がよみがえる。

 LPジャケット裏の解説面には日本語訳の歌詞が載っていたが、それが古語的なもので私はけっこう気に入っていた。
 例えば、最後の歌詞“ewig”。
 多くの場合「永遠に」と訳されるが、このLPジャケットに載っていたの訳は「とこしえに」となっていたと記憶している。それが、またこの曲にピッタリと合うのだ。訳者は誰だったのだろう。ここに限らず、あの古語的な歌詞は名訳だった。

 演奏は感情に溺れないタイプのもの。だからこそ若き私の心をとらえたのかもしれない。
 もっと評価されて良い演奏だと思うが、それは個人的に思い入れがあるせいか?

 録音はこの時代のものとしては悪くないが、そしていろいろと御苦労して手を入れてくれたとのことだが、かなり派手に音が歪む箇所もある。それは仕方ないんだけど。
 RCA。

 ところで、皆さんにとって昨日からの最大の関心事であり、また私にとっては死活問題だった、私の昨日の昼食について報告申し上げる。

920fbab6.jpg  列車に乗り込む前に札幌駅のキオスクで300円のおにぎり弁当を買った。どうなるかわからないので、高価な駅弁を買うことはしなかったのだ。
 弁当の内容は、梅のおにぎりと鮭のおにぎり各1。卵焼き1切。鶏の唐揚げ1個。肉しゅうまい1個。ウインナー1本。

 おにぎり1個と3cm角くらいのハムサンドとエッグサンドが各2、鶏の唐揚げ1個という、ボブさんにも武蔵さんにも喜ばれるような究極の和洋折衷弁当、その名も“お出かけランチBOX”295円というのもあったが、私は5円を惜しむことをせず、おにぎり弁当を選択した。
 列車に乗り込んだが、出発しても私の隣は空席のまま。
 喜ばしい展開だ。

 途中、最大の注意箇所、南千歳駅でも隣に客は来ず、私は安心して弁当を食べることができた。小心者の私にとって、強心臓の人には当たり前なのであろうこのような行為は、想像を絶するほどの歓びを私に与えてくれた。
 気が大きくなって、ワゴン・サービスのコーヒーをそのあと買ってしまったほどだ。

 ということで、皆さん、空腹で倒れることなく、私は昨日の午後を過ごしましたとさ。
 めでたしめでたし。

自分の悲劇じゃないからどっぷりは溺れません♪ジンマンのマラ6

f6406288.jpg  衝撃的な音が響き渡ったのは日曜日の午後10時ころだった。

 音楽を聴きながら、しかし日中の疲れで少しウトウトしかかっていた私は、そのガッシャーンっというガラスが割れる音でハッと覚醒した。

 音は近くから聞こえたのは間違いなかった。
 いったいどこでガラスが割れたのだろう?

 音の源はすぐにわかった。意外なほど近かった。
 それはこの部屋で起こったことだった。
 それも私の足元で。

 そのとき私はハイボールの飲みながら音楽を聴いていた。が、手にしていたそのグラスをウトウトして床に落としてしまったのだった。

 アホだね。
 まるでマンガの世界だね。

 ニッカの髭おじさんが描かれたおまけでもらったグラスは単に落下しただけとは思えないくらいに割れ、床には残ったハイボールと氷、そしてグラスの破片が散乱した。
 こうなるとウトウトを吹っ切らざるを得ず、キリッとした態度で私は後始末をした。

 そのときかかっていたCDはジンマンが指揮するマーラーの「悲劇的」の終楽章だった。
 まったくウソみたいに出来すぎ。
 曲のなかでは悲劇はハンマーが打ち鳴らされるが、アタシの場合はグラスが割れる音。
 自分で起こした悲劇。まったくおバカもいいところだ。

 マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第6番イ短調「悲劇的(Tragische)」(1903-05/改訂1906)。
 ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団による演奏。
 2007録音。
 中間の2つの演奏順序は、アンダンテ→スケルツォ。
 第4楽章のハンマーは2回。

 ジンマンのマーラーでは、最近の記事で取り上げた第4番第5番については私にとってあまり魅力的なものではなかった。が、この6番はいい。アプローチとしてはどれも同じなのだが、なぜか4番5番はペケなのに、6番ははまってる。私の好みとしては、だが。

 だから聴きながらウトウトしてしまったのは演奏が退屈だったわけではなく、疲れてたのといいだけ酔っぱらっていたため。ジンマンに罪はない。

 この6番においてもジンマンの演奏はスッキリしている。
 深刻度は強くなく、重たさもない。かといってサクサク、袋開けたてのマリービスケットって感じでもない。オケは存分に鳴っているし、メリハリもある。

 しかし、情感がうまい具合に-過剰にも淡泊にもならず-コントロールされ、悲しげなことは伝わるが、聴き手を溺れさせない。そのため、この曲の美しさをたっぷり堪能できる。
 一方で、ねっちこさやドロドロ感がないため、「もっと刺激が欲しーの」と感じる人もいるだろう(私もどちらかというと、そのタイプ)。うん、どこか表情がよそよそしいのかな?

 とはいえ、ジンマンの手腕は見事。
 巨大で複雑なこの曲を、一流だが健康志向のシェフがつくる料理のように上品に仕上げている(←主張がよくわからないので、読み流してよろしい)
 人の不幸に共感しやすくて困っちゃう人は、この「悲劇的」が向いているだろう。聴いたあと、やるせない重い気分にならないで済む。むしろ、純粋に音楽に感動できる。
 まとめると、クセのない名演だということ。

 で、なぜグラスを割るくらい疲れていたのかって?

 すでにご報告したように、土曜日は4時間ほどではあったが、庭仕事に集中しすぎた。
 むかし崩壊したアーチの残骸を柱にしてクレマチス用のラティスパネルを立てた。
 その柱を中型の木製ハンマーで地面に打つ(おぉ、無意識ですでに近いうちにマーラーの第6交響曲を聴く準備をしていたかのようだ)。
 そのあとは雑草取り。中腰の連続。
 そんなこんなで、その夜は震えに襲われたわけだ。

 翌日曜日の朝はすでにあちこちが痛む。
 が、帰らねばならない。

 まずは週末に自宅に帰って来ていた長男を送って行ったが、その途中で高速道路が故障車のため通行止め、とラジオで言っていた。
 どうせ今すぐに向かってもどうせ通行止めだ。ということで、その街で醤油ラーメンを食べる。
 美味しいラーメンだった。ついでに、なんでこんなところでと言えなくもないが、この街のサツドラで炭酸水を1ケース買う(500ml×24本)。1本当たり58円。前は(別のブランドだったが)55円だったのに……

 さて、いよいよ帰ることにしようとしたところで、通行止め解除の情報が入った。
 ラーメンを食べることによって、効率よく時間を使えたわけだ。

 1時間ほどで夕張インターに着き、そこから高速に入る。

 しばらく走ると今度は“占冠⇔十勝清水 事故のため2km渋滞”という表示が。しかし、これも占冠に着くころには解消されているだろうと高をくくる。
 むかわ穂別インターを通過するときに、渋滞情報は3kmになっていた。

 そっか、事故処理が終わったあとの渋滞ではなく、事故が起こりたての渋滞だったのかとここで気づく。ということは、もっと渋滞は長くなる可能性がある。
 ならば占冠SAでトイレに寄っておこうと決心する。

 ……が、占冠SAにたどり着く直前の占冠ICで“事故のため通行止め”“ここで下りよ”と下りるよう命じられる。

 日勝峠越えということだ。
 占冠から国道274号まで行くなんて、ひどく無駄なことをしてしまった感じがする。それなら夕張で高速に乗らないでそのまま国道(その国道こそ274号線だ)を走ればよかったのだ。

 日高町まで南に下がり、274号線に入る。
 日勝峠を越え、十勝清水から再び高速に乗り、芽室帯広ICで下りる。
 途中十勝平原SAでトイレ休憩。長く座っていたせいか、車を降りると内腿の痛みが増していて、まるで内腿に激痛が走る人のような歩き方になってしまった。
 歳をとると、痛みがピークになるにも時間がかかるのだ。

 そんなわけで、ガーデニングと予期しなかった回り道によって疲れがたまったわけだ。

 おまけに月曜の朝起きると、今度は右手の痛みがピークになっていた。
 やれやれである。

 日勝峠付近では山々にまだ雪が残っており、道のすぐそばでは鹿が何かを食べていた。ネズミにやられた私のかわいいバラのことを思い出してしまった。

夢に出てきた数列により、2の次は5。♪ジンマンによるマラ5

8f966bd3.jpg  ジンマン/チューリヒ・トーンハレ管弦楽団による、マーラー(Gustav Mahler)の交響曲第5番嬰ハ短調(1901-02。その後たびたび管弦楽配置を変更)。

 ここ最近、ジンマンによるマーラーを第1番第2番と取り上げてきた。
 となると、次は第3番だろうと予想するのが常識的一般市民。
 が、私は非常識にちょっとひねくれてみた。

 夢で見たのだ。数式を。
 それは 2-n というものだった。

 夢を侮ってはいけない。
 ケクレは蛇の夢によってベンゼン環を思いついたではないか!
 多崎つくるは高校時代の仲間の女の子とのエッチな夢を見て、でも射精してなかったといちいち考えてるではないか!
 私のこの数式の夢は、高校時代に数列が苦手だったせいだ!……やれやれ。

 この任意の数nに数字を入れてみる。

 1だと、2の1乗は2。それからn、つまり1を引くと答えは1。
 2だと、2の2乗は4。それからn、つまり2を引くと答えは2。
 3だと、2の3乗は8。それからn、つまり3を引くと答えは5。

 ほぅら、1番、2番と紹介してが、ここで3番ではなく5番になってしまったのは、このような謎の式によるものなのだ。
 なお、n=4の場合は答えが12になってしまい、マーラーの世界からは逸脱してしまうので、この式は今回限りで忘れていただいて結構である。

 ジンマンはこの交響曲第5番においても、緻密で美しい音楽を織りなして行く。

 が、どうも私の心を揺さぶらない。
 とっても良い演奏なんだけど、感動するまでに至らないのだ。
 あっさりしているから?確かにそれもある。が、それだけとも言えない。
b28c18a2.jpg  何なんだろうなぁ。

 9,10,1,2番と私は概して高評価で受け止めてきたが、この5番については私へのジンマンの作戦は功を奏しなかった。
 築44年のビルの地下に入っている小汚いラーメン屋なんかで出されるチャーハンが好きな人が、有名中華料理店で食べるチャーハンに物足りなさを感じるのに似ているかも。味はとてもいいんだけど、どこか下品さ、ワイルドさも欲しい、みたいな……
 でも、大太鼓の音はとりわけ素敵だ。

 あと、最後の最後、トランペットではなくトロンボーンによるメロディー(掲載譜の矢印部分)が前面に押し出されているのが個人的にとても好きである。

 とは言いながらも、じゃあこのCDはもう聴くことはないのかっていうと、いやまた聞き返したいっていうのが正直なところ。
 おかしいわね!
 でも、高級チャーハンはやはりそれはそれで美味しいからな。

 ところで、ゴールデンウィーク中だっていうのに、相変わらずこんなメールが。

 応募者全員に現金50万円プレゼント

 ※悪質なサイトにご注意※
 中には現金が受け取れると案内をして、結局は何度もポイントを購入を請求されたり、現金ではなくポイントやチケットだったという悪質なサイトがあると聞きます。 
 当番組は正真正銘現金50万円をお渡しします。
 ※GWでも配送なら即日中に受け取れます。

 
何が正真正銘だか。よく言うわ……

 どうでもいいけど、絵のお兄さん、毛なしさんなのね。 
 おかしいわね。子どもなのかしら?

 いずれにしろ今日も雨だ。
 全然ガーデニングにいそしめない……

成分調整牛乳の味わい?♪ジンマンのマラ1

e84ef04e.jpg  D.ジンマンという指揮者の演奏(もちろん録音)を初めて耳にしたのは、私がクラシック音楽を聴き始めてまださほど経っていないころだった。

 当時の“録音曲リスト”を眺めてみると、あらためてひっでぇ字だなと、これが自分がしたためたものとは信じられないが、それはそれとして、きったねぇ字で書かれている曲名はは、バーバーの「弦楽のためのアダージョ」ブリテンの「シンプル・シンフォニー」、そしてストラヴィンスキーの「弦楽のための協奏曲」だった。

 どう考えても、健全な美少年にとってふさわしいとは言い難いラインナップだが、とにかく何でも聴いてやろうという当時の積極性の表れともいえる。
 オーケストラはオランダ室内管弦楽団。
 その後も私がジンマンという指揮者とそんなにフレンドリーにならなかったのは、この時点でややすれ違ったからだ。

 そのジンマンがそのずっとずっとあと、私が健全な美少年から不健康な微壮年になろうというころに、R.シュトラウスのいろいろな管弦楽作品を録音したり、画期的かどうかはともかく、少なくとも話題となったし、実際慣性打破のようなベートーヴェンの交響曲全集を録音したが、そのCDを買って-アルテノヴァの廉価盤で、その価格は画期的だった-聴いた私は、ますます「ジンマンって良い人なのかしら?信じてもいい?それとも……」っていう気持ちだった。

 で、マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)である。

 彼が振ったマーラーで最初に買ったのは交響曲第10番のCDだった。クック版じゃなくてカーペンター版だったので買ってみた。感情過多型ではなく、そして暗示的な不気味さに振り回されないその演奏は、物足りない部分もあるにはあるが、レース編みのような美しさと見通しの良さがあった。レース編みだから余計な毛玉が出ないのがうれしい。

 その次に聴いたのは第9番だった。これもあっさり系で、現代的なアプローチに好感を持った。

 さて、今回は交響曲第1番ニ長調(1883-88/改訂1893-96)である。

 マーラーにとっての青春の叫び。
 私にとってもマーラーに引き込まれるきっかけになった曲である。

 この第1番も濃厚タイプではない。かといって低脂肪牛乳ほど淡泊ではない。成分調整牛乳ってところか。
 その、ある程度のあっさりさ、というよりスッキリした響きが若々しさ、つまりこれを書いたころのマーラーの若さを感じさせる。っていっても初稿の交響詩版が出来上がったとき、マーラーはもう28歳になっていたけど……

 メタボではないマーラー、そして第1番の演奏は、今では多くの演奏のCDが出ているが、ジンマンのはまたちょっと違ったテイストのものだ。どう違うのかはうまく言えないけど。
 まとまってるけどコンパクトに知事困っていない、いや、縮こまっていない。……縮こまらない巨人……

 ヴァイオリンの両翼配置と2組のティンパニをステージ左右に配置している効果が抜群。

 SACDだが、私はSACD再生プレーヤーを持っていない。
 あぁ、SACD再生で聴いてみたいわぁ~。
 もちろん通常のCDとしての再生でも、優秀サウンド。ダイナミックレンジも広い。

 なお、第4楽章の後に「花の章」も収められている。
 花好きにはたまりませんな……←冗談。

 このジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団による第1番は2006年録音。
 RCA。

 このあいだ買った、デジタル電波時計
 マンションの窓とは反対側の壁にかけたせいで、ずっと電波を受信しないままだった。
 でも、2日前、朝起きると電波受信のマークが表示されていた。
 だから、飛び上るほどうれしかったわけである。
 次回受信成功するのはいつになるのだろう……

ブルレスケ風保健婦にいじめられた私♪ザンデルリンクのマラ9

ad5815a8.jpg  鼻の下に小さなできものができた。
 これがひどく痛い。

 痛いけど気になって触りたくなる。
 触るとこの上なく痛い。

 しかもなぜか水っぱなが出てくる。
 ティッシュでぬぐおうとすると、できものに触れ、涙目になるほど痛い。
 これで“トリプル痛い”だ。

 731系電車のようにこのトリプルで1ユニットとなるのだが(3両で1ユニット)、これを1日に何度も繰り返してしまう。
 まいった。
 原因は不明。ドックでいじめられたストレスから来ているのかもしれない。

 さて、そのドックの結果である。
 医者は特に私を叱ったりしなかった。「引き続き経過を見てください」という、私たちの世代にとっては最も普遍的、かつ、信頼を感じさせるありがたいアドバイスをいただいた。

 それなのに、そのあとの指導で私を呼びつけた保健婦が、とても威張りくさっていて感じが悪かった。そりゃ食生活がなってないのはわかるよ。けど物事、言い方ってあるでしょ?
 さすがの私も、だんだん受け答えするのがいやになり斜に構えて座る姿勢になってしまい、最後は警察の取り調べを受けているチンピラのようになってしまった。

 腹がたってよく覚えていないほどだが、医者との問診後に交わされた保健婦とのやり取りはこんなんだった(カッコ内は心の叫び)。

 「先生には何か言われましたか?」
 「引き続き様子を見るようにと……」
 すると彼女は生意気そうなため息をつき、苦笑いをした。
 「では、これから数値改善のためにどうしていきます?」
 (そのヒントを授けるのがあんたの役目だろうが)「食生活とかですかね?」
 「肝臓の数値が上がってますよね?どうしますか?」
 (だから医者には特に何も言われてないんだってば)「食べすぎないようにします」
 「何をですか?」
 「ご飯とかですかね」
 「でも問診票には朝はご飯茶碗で1膳ってかいてますけど、もっと減らすんですか?」
 (ったく、メンドくせえ奴に当たっちまった)「そうですね、少な目に」
 「お酒はどうしますか?」
 「なるべく減らすようにします」
 再び憎々しげにため息をついて、「去年に比べてGOPやGTPといった肝臓の数値が上がってますよね?」
 (なんでため息をつかれなきゃならないんだ)初めて気づいたように「あっ、そうですね」
 これって、明らかに肝臓が弱って来てるってことですよ。ここ5年のデータを見てもGTPとかGOPとか上がり続けてますよね?」
 (けど去年の秋と12月にかかりつけの病院で検査したときよりは下がってるんだよ~ん)
 「確かにそうですね」
 「肝臓が疲れてるんですよ。だから値は上がるし、中性脂肪だって上がるんです」
 (ちっ、ヘルシア効果はなかったのか)「なるほど」
 「手のひらは赤くないですか?」
 「赤くないです」
 「赤いということは、肝臓が疲れて毛細血管が破れるってことなんですよ」
 (だから赤くないって)「そうですか……」(あんたの浅黒い顔も病気っぽく見えるぞ)

 そのあともあーだこーだネチネチと攻撃を受けた。保健婦との対話でここまで早く解放されたいと切望したことは、過去になかった。

 「……あと、何か聞きたいことはありますか?」
 (最初っからそっちが一方的に話してるんじゃん)「まったくありません」
 「では、今日はお疲れ様でした」
 (最後の最後でメガトン級に疲れたぜ)「ありがとーございました!」

 この看護師、歳は20代半ばと思われた。まだ若僧なので、顧客サービスってことがわかってないのだろう。こんな接客をしていると、怒る人なら相当怒るはずだ。
 たとえば「3年前と2年前にひっかかった膵管拡張が、去年に引き続き異常なしでしたね。頑張りましたね。良かったですね」と褒めるところから始めてくれれば、その後の会話も和やかに進むというものだ。なのに、攻め、攻め、攻め!サドかっ!まったく。

 顔はかわいくも美しくもなかったが、ひどい不細工というものでもなかった(こんな書き方して申し訳ないが、それほど私は嫌な目に遭ったのだ)。
 が、ひどく偉そうな指導者的態度と滑稽ともいえる顔立ち(愛くるしいのでは決してない)がアンバランス。
 まったく、調子に乗るなよ!このブルレスケ女め!
 私はこの女性を許さない女性のカテゴリーに分類した。

 今回の結果。
 胸部X線、肺活量、心電図、眼底、眼圧、胃バリウム、聴力は問題なし。
 エコーでは、例年通り脂肪肝だとばれてしまったのと、腎のう胞が左に1個あり(去年は2個だったが、今年は1個。撮影角度の問題だろう)。
 尿潜血、便潜血はいずれもマイナス。

 血液の検査結果については上のやりとりから推察願いたい。

 そうだ。こんなやり取りもあったのを思い出した。
 「肝臓の検査とかしたことはあります?」
 「2年前に膵管拡張の再検査で、超音波内視鏡を飲みました」
 「チョーオンパナイシキョウ?それって$▼※♯◇のことですか?」(←とにかく専門用語で何を言ったのかわからず)
 「さぁ~。超音波内視鏡としか教えられませんでしたから。胃カメラのでかいようなやつだということです」
 「ふ~ん」(←すっごく納得していないが、胃液を吐くほど攻められようが私にはわからない)

 何が「ふ~ん」だか……。でも、すっごく憎たらしいでしょ?私が怪人なら超音波ビームを浴びせてやるところだ。

 そうそう、去年メタボと言われたのに、今年は腹囲がメタボ認定までいかなかった。子グマのようなかわいいおなかには変わりないのだが……
 オプション検査の肝炎と前立腺も異常なし。
 ほら、褒められるべきことだってたくさんあるじゃないか!

68c92302.jpg  マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第9番ニ長調(1909-10)。

 あとからトラブルが起きないよう一応申し添えておくが、第3楽章は「ロンド・ブルレスケ」である。ブルレスケとは音楽用語だが、おどけと辛らつを兼ね備えた性格のものをいう。

 今日はザンデルリンク指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏を。

 マーラーの第9では、先だってドゥダメルの演奏を取り上げたが、ザンデルリンクのものはその対極にあると言える。悪く言えば、今風の演奏ではない。逆に言えば、古き良き演奏。

 ザンデルリンクはメロディをたぁ~っぷり歌い回す。ときにヒステリックにもなる。あまりに人間味が強くて息苦しく感じる場面もある。
 が、なぜかこのねちっこさにほっとさせられもするのは、なんだかんだ言っても私が前時代的だからなのか?
 ドゥダメルのような、死だのなんだのを強調しないアプローチの方がが正しいように思えるし、音楽に浸れる。しかし、この演奏は感情に浸れる。泣ける!
 どっちがいいと言えるものではないだろうが、思いっきりしんみりなれるのはこういう演奏だ。
 現代風アプローチのマラ9なんて深みがなくてつまらないとご不満を抱いている人は、これを聴け!
 おぼれ死んでも知らないよ。

 1992録音。エラート。

 併録されているショスタコーヴィチの交響曲第15番(オケはクリーヴランド管)は、私がこの曲の最上の演奏と思っているものだ。

 それでもって、私は鼻の下にオロナインH軟膏を塗っている。
 塗り過ぎてHな人になるなんて心配はないのかしら?

 加えて、あれだけカンゾー、カンゾーと攻められかつ責められたので、悔しいからヘパリーゼも飲み始めた。

4月1日?バリバリ元気だったですよ、彼♪ドゥダメルのマラ9

3d5e5dee.jpg  東野圭吾の「カッコウの卵は誰のもの」(光文社文庫)を読み終えた。

 スイスイと読み進むことができ、そこそこ引き込まれたものの、どうも深みに乏しいと感じてしまった。
 何か、これっていうツメというかピークというのがない。感動値も極めてゼロに近い。複雑な状況から事件が起こっているのはわかるが、そのいくつもの要素がどうも“作り話”然としすぎている。事実は小説より奇なりっていうぐらいだから、こういうことも現実に起こりうる可能性はゼロではないんだろうが……
 ほかの東野作品を読んでみたいという気にはならなかった。

 長岡弘樹の「傍聞き(かたえぎき)」(双葉文庫)。

 「カッコウの卵は誰のもの」の中に長岡市が出てくるので買った。というのは大うそで、“「百万部売っても売り足りない!」と叫びたくなるほどの珠玉の一冊だ!”という売り文句に、私は心を売ったのだ。
 ホントかウソかは読んでみてのお楽しみ。すでに「なんか、引っかかっちゃったかな」と思いつつある疑い深い私の、読書感想文を待ちたまえ。

efd19eb0.jpg  ちなみに表4に書かれている文章はこのようなもの。

 患者の搬送を避ける救急隊員の事情が胸に迫る「迷走」。娘の不可解な行動に悩む女性刑事が、我が子の意図に心揺さぶられる「傍聞き」。女性の自宅を鎮火中に、消防士のとった行為が意想外な「899」。元受刑者の揺れる気持ちが切ない「迷い箱」。まったく予想のつかない展開と、人間ドラマが見事に融合した4編。表題作で08年日本推理作家協会短編部門受賞!

 これを読んで私が思ったのは“意想外”って言葉、初めて目にしたということだ。
 よかった。新しい年度になる前に1つ知識が増えて。

 さて、今日から平成25年度である。
 フレッシュマンではまったくない私には、それがどうしたってもんだが、ついでに言っておくと、ウチの長男の誕生日である。4月1日生まれ、つまり究極の早生まれなわけだ。

 とにかく、新入社員のみなさんは、新たな社会人生活で多くの人に出会い、良い人間関係を築いてみてはいかがかな?
 そこでまったく逆に、別れにまつわる曲を。

 マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第9番ニ長調(1909-10)。
 
 ご存知のようにマーラーが完成した最後の交響曲であり、第1楽章と第4楽章の両端楽章が緩徐楽章であることから、死の予感があるとされている作品だ。

 実際、マーラーは楽譜の中に、たとえば第1楽章に「おお、わが消え去った青春の日よ。おお、わが消費された愛よ」と書き込みをしたことがあるし、終楽章の最後は「死ぬように」との指示がある。
 前作の「大地の歌」の終楽章「告別」の動機も、この交響曲の中に現れる。
 そのようなことから、この曲がマーラーの死と結びつけて解釈されてきた。

 しかし、たとえマーラーに死の予感があったとしても、それがすぐ自分のことになると見なしていたかどうかとなると、疑問である。

 第9交響曲の完成は1910年の4月1日(そう、4月1日なのだ!)。
 だが、マーラーが亡くなったのは翌11年の5月18日であり、その間には結果的に未完となったが第10番の交響曲に着手しているわけだ。

 第9交響曲の完成前の約半年の間、マーラーはニューヨーク・フィルの常任指揮者として46回の公演を指揮しているし、1910年4月1日の第9交響曲完成後もすぐにパリに向かい、いくつかの公演をこなしている。
 同年9月には自作の第8交響曲を初演し、大成功。
 そのあとはウィーンに行き、郊外の土地を購入する契約を結んでいる。
 次いで10月末にニューヨークに到着。11月1日から翌年の2月21日の公演まで48回の指揮をする。2月21日のときは高熱だったそうで、その直後倒れたわけだが、やがて回復している。

 このような精力的な活動を見ると、第9番が自らの死を予感して書かれたとは考えられないのである。

 となれば、この曲をあまりメソメソ、ドロドロとやりすぎるのは、ちょいとお化粧しすぎなのかもしれないとも思えてくる。

 それを解決しているような演奏がドゥダメル指揮ロス・アンジェルス・フィルのもの。
 温帯地方的音色。また、悲愴感を強調しないもので、この曲が必ずしも枯山水的でないと訴えてくる。
 情感の面で物足りなく感じる人もいるだろうが、私はマーラーの真意が見えるかのような、薄化粧のこの演奏を評価したい。スケール感も十分で、録音も良い。
 鑑賞後、余計な感傷なしで、作品に対して純粋な感動が残る。新鋭指揮者による、新たな“第9像”と言えるだろう。

 2012年ライヴ録音。
 グラモフォン。

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