“レコード芸術”は年に1度、1月号しか買わないというのが、良いか悪いかわからないが、ここ数年の私の習慣。
その掟を1度だけ破ってしまったのはおととしのこと。何のことはない、買い忘れたのだった。
なぜ1月号かというと、付録の“レコード・イヤー・ブック”をゲットしておきたいからだ。この別冊付録は何かと便利なのである。
そんなわけで、1年ぶりにこの雑誌を読んだわけだが、昨日紹介したエリシュカ/札響のドヴォルザーク/交響曲第8番のCDが特選盤に選ばれていて、ほほぅと思った次第。
また、“海外盤REVIEW”のコーナーでは、昨年このブログで紹介したネゼ=セガン指揮ロンドン・フィルによる録音が紹介されている。筆者はインド古典文学者の増田良介氏。
……旬の指揮者と歌手たちの顔合わせにふさわしい見事な演奏だ。スペンスは英国伝統の柔らかく渋めの声を持つテノールだが、その表情は知的でこまやか。一方、現代を代表するマーラー歌手のひとりであるコノリーの歌には、温かい包容力とほのかな官能性が感じられる。そして、ネゼ=セガンはオケから落ち着いた色彩感のある響きを引き出し、みずみずしい抒情性を発露させる。それにしても、かつては老指揮者とヴェテラン歌手のものと考えられていた《大地の歌》に、30~40代の演奏家たちによるこれほど優れた演奏が出るとは、時代の変化を実感させられる。 なるほど。
私の感想は、どこか面白みに欠けるというものだった。
あなたはどう思う?
そっちを支持する?って、選挙じゃないんだから……
同じコーナーで、同じく増田氏が、ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団が2012~13年にかけて録音したショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第8番ハ短調Op.65(1943)のCDを取り上げている。
ご存じの通り、ゲルギエフとマリインスキー劇場管は、1994年9月にフィリップス(当時)にこの曲を録音している。この新録音は、解釈の基本はあまり変わっていないものの、オケの響きは重厚さを増し、ゲルギエフの表現も彫りが深くなっているので、印象はかなり違う。ただ、ゲルギエフはいわゆる爆演をやるつもりはないようで、第3楽章でも他の部分でも、あまり激しい暴力的な表現というのはない。しかし、第1楽章や第4楽章の静かな部分での緊張感には凄みが感じられるし、終楽章も、微妙なアゴーギクを効かせて、この楽章の複雑な性格を浮き彫りにしている。なお、このシリーズはこれまで、なぜか大きな演奏ミスが修正されずに出てくることが多かったが、この8番はそのようなことはないようだ。
1994年の旧盤はここで取り上げているが、増田氏がここに書いていることに私は服従、はしないが、同意したい。
最初の音のすごみ度合いからして旧盤とは違う。
旧盤はどこか機械的な感じがなくもなかったが、こちらの新盤では深い情感がこもっている。いや、これは怨念か?そして、またまた一層、この曲のすばらしさが実感できる。まいったね……
旧盤も優れた演奏だったが、比較するとボクシングの判定にありがちなevenじゃなくて、新盤の方が上だと言わざるを得ない。密度の濃さに感嘆せずにはいられない。
コクが違う。料理で言うなら出汁が違うって感じか?まったく、お箸の国の人じゃないってーのに。
新旧比較して聴くと面白いが(といいながらも、何度も交互に聴いていると道に迷いそうになる。「どっちだったっけ?」と。そこが“基本はあまり変わってない”という証なんだろう)、正月から暗い気分になりたくないという人は新盤を優先することをお薦めする。これだけでもどっちみち気分はかなり明るくならないし。
いずれにせよ、この曲の名盤として最上位にランキングされる演奏だ。
MARINSKY(SACDハイブリッド)。
にしても、表紙のムローヴァ、すっかり貫禄がついたなぁ。
昔は若かったのに……当たり前だけどさ。
ショスタコーヴィチ
今日はこのあと車で自宅に帰る。
あいにく天気は悪そうだ。こちらは晴れているが札幌圏は、暴風雪のピークは過ぎたとは言うものの、まだ荒れていそうだ。
運転する身としてはハツラツとした気分になれないが、かといって気持ちが萎えているわけでもない。
車に積むクーラーボックスの中には、カチンコチンに凍ったタコの足が入っている。
正月に食べる刺身の1アイテムだ。
なにもわざわざこちらで買わなくてもいいようなものだが、妻が言うには、年末ぎりぎりになると値段が上がるのだそうだ。
そういう理屈で、マグロの刺身もカチンコチンの状態で冬眠している。マグロだと言われなければ冷凍したういろうと思っちゃうかもしれない。タコだって、タコに似せたキャンドルを凍らせたようだ。キャンドルを凍らせる人はいないだろうけど……
そういえば、水曜日の会議で出された昼のお弁当に刺身が入っていた。が、サーモンとタコのタコモン・ペアで、マグロは入っていなかった。
昨日の夜の忘年会では、タコのカルパッチョがあった。厚切りで食べにくかったが……
そこであまり関係ないが、ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)のピアノ協奏曲第1番ハ短調Op.35(1933)。さらに年末大盤振る舞いで、ピアノ協奏曲第2番ヘ長調Op.102(1957)。
ピアノ協奏曲第1番(ピアノと独奏トランペットと弦楽という編成)は、冗談なのか皮肉なのか、あるいは敬意を表しているのかそこは曖昧模糊としているが、パロディ要素満載の曲である。
ウィキペディアには次のように書かれている。
自作や他人の作品からの引用が全曲に散りばめられていることが、このピアノ協奏曲を特徴づけている。特に『24の前奏曲』との類似性はテーマ的、または手法や性格的な面で明らかである。この他、劇付随音楽『ハムレット』作品32(1931-32)やサーカス・ショウの劇付随音楽『条件付きの死者(または『殺されたはず』)』作品31(1931)、そして終楽章でのトランペットが奏する独奏部は、E.ドレッセルのオペラ『あわれなコロンブス』への序曲(作品23の1)といった未出版の作品からの引用もあるという。
他の作曲家の作品もほとんどパロディ化させて登場している。第1楽章の第1主題はベートーヴェンの『熱情ソナタ』の引用と、ギャロップのフィナーレを支配するのは『失われた小銭への怒り』のモティーフである。これらはピアノのカデンツァで明確に正体を表してくる。更にコミカルな性格を持っているハイドンの『ピアノ・ソナタ ニ長調 Hob.XVI-37』からの引用句(またはモティーフ)も絡み付いている。そしてオーストリアで広く歌われている民謡『愛しいアウグスティン』とイギリスの民謡『泣きじゃくるジェニー』として知られた歌も引用している。
正直言って、私はこういうの全然意識しないでこの曲を聴いてきた。
知らんかったわ。
作曲年からもわかるように、このコンチェルトも若きショスタコーヴィチの奔放さにあふれた曲。
一方、それから24年後に書かれたピアノ協奏曲第2番は、さすがに干支も回りしただけあって、第1番のような鋭さはないが、これはこれで愛らしい活発ある曲。息子・マキシムのために書かれたが、マキシムに対する父の愛情が感じられる。
なお、こちらのコンチェルトでも自作をパロッてるようなフレーズが出てくるほか、第3楽章ではハノンの練習曲が引用されている。
ハツラツとしていて毒を含んだ第1番、やさしい気分と温かさに満ちた第2番。
どちらも20世紀に書かれたピアノ・コンチェルトの傑作だ。
ただ、第1番に比べ第2番がコンサート・プログラムに載ることがほとんどないのが残念である。
今日はレオンスカヤのピアノ、指揮者界の千代の富士!……いえ、すいません。おだってしまいました。ウルフ指揮セントポール室内管弦楽団の演奏で。
第1番のソロ・トランペットはボードーナー。
レオンスカヤの演奏は誠実さが感じられるもの。遊び心、無邪気さはあまりないが、彼女のイメージ以上にパワフル。
他にピアノ・ソナタ第2番ロ短調Op.61(1942)も収録されている。
1991録音。apex(原盤テルデック)。
世の中の大勢は3連休だろう。
でも私は違う。
日曜日、つまり連休の中日、すなわち連休のど真ん中に仕事がある。
連休だからといって何かしたいことがあるわけではないが、正直なところどう考えても前向きな明るい気分にはなれない。
この気持ち、わかっていただけます?
「なに甘えたこと言ってるんだ!デパートやスーパー、宅配便は今が書き入れ時だぞ」と私を非難する人がいるかもしれない(しかも少なからず)。
でも、わたしゃデパートの社長でも、スーパーに設けられた年賀はがき臨時販売コーナーの責任者でも、宅配便の季節バイトでもないもんね。
そんな寸断連休の暗い気持ちに拍車をかけるために、ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich )の交響曲第8番ハ短調Op.65(1943)。
ゲルギエフ/マリンスキー劇場管弦楽団による演奏で。
1994録音のいわゆる旧盤の方。
ゲルギエフの評価がうなぎのぼりingのときと時期が重なる。
交響曲第8番はショスタコの15の交響曲の中でも最高傑作と私が認定しているもの。第7番はちょいと作曲者のパフォーマンス的なくささを感じるが、同じ戦争交響曲シリーズでも第8番は沈思的である。
そしてゲルギエフの演奏も、私には第8番の方が第7番よりもしっくりくる。
「もっと力を!」と欲深く思っちゃう部分もなくはないし、情感の深さももう一歩。しかし攻撃性と内面性の両面であまり感情的になるのを好まない人にはバッチリだろう。
大満足とはいかないが完成度が高い演奏であることは間違いない。
ところで、この遠近両用対応擬似3D風ズームアップ機能搭載飛び出す絵本のようなCDジャケット。いかついながらも妙にこざっぱりしているところが、人としてのリアルさがない。肌、よさそう。毛深くなさそう。髪、硬そう。
第7番のときに「あなたどなた?」とこの還暦衣装の人のことを書いたが、調べてみたところこの絵は1941年に作られたプロパガンダ・ポスター「祖国は呼んでいる!(Motherland is calling!)」(の複製)なんだそう。
社会主義祖国と全人類を守るために、ソヴィエトの国民はファシズムとの戦争に突入した!、ってなことが書かれているらしい。だから、誠実そうでこざっぱりとしているが筋肉質で赤い服を着ているってわけか。ギリシャ神話ごっこしてるわけじゃなかったのね。
でも、やっぱり文のタイトルのボカシが気になるな……
3日間ともお仕事の方、頑張ってください。
あまり私の私生活には関係ないことだが、今日12月14日は赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした日である。そう忠臣蔵である。
元禄15年12月14日のことだそうだが、今の暦でいうと1703年1月30日に当たるという。そんなこんなではあるが、12月14日に討ち入りのスペシャル・ドラマが放映されたりしているし(おや、本日は見当たらないな)、数日前に乗っていた地下鉄が通ったばかりだが、赤穂浪士が葬られている泉岳寺でも12月14日に義士祭が催されているそうだ。
忠臣蔵と言えば芥川也寸志がNHK大河ドラマのために書いたテーマ曲が有名だが、今日は芥川ではなく、ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第7番ハ長調Op.60「レニングラード(Leningrad)」(1941)。
いやいや、どうか無理に「レニングラード」を「ちゅうしんぐら」と読もうとする空しい努力はなさらないでおくれやす。
ゲルギエフ指揮マリンスキー劇場管弦楽団&ロッテルダム・フィルによる2001年のライヴ録音。
だからそれが討ち入りと何の関係があるのかって?
ない!
吉良邸に赤穂浪士が攻め入ったように、レニングラードにナチス軍が攻めよって来たということで、そこは阿吽の呼吸でご理解いただきたくお願い申し上げますれば候。
さて、この演奏。結構話題になったものだ。
そしてまた、私もすばらしい演奏だと思うが、じゃあもろ手をあげて「ブラボー!ブラボー!ブラッボゥ~!」って感じるかというと、そうではない。
オーケストラは、よく訓練された軍隊の隊列のように統率がとれている。
ゲルギエフのこのコントロールはさすがだが、やや抑制し過ぎと思えなくもない。
2つのオケの合同演奏とだが、その割には(どれぐらいの人数がステージに並んだのかわっからないが)そうスケールが大きいわけではない。
マッチョ系と評されることが多いゲルギエフの演奏だが、もちろんナヨナヨ系では決してないものの、この演奏ではそれほどミオグロビンが活躍している感じがしない。
うん、つまりはテンションが上がらない。しっかり締まっているのに、である。
このちょいとワケがわからないジャケットのおじさんみたいに、どこか何かが違うように感じるのだ。だから良い演奏ながらも、もどかしさが残る。
たぶん、たぶんですよ。ゲルギエフはこのとき(はるか12年前)、このシンフォニーをどう持っていくか決めかねてたんじゃないかと思う。
そのわりには良い演奏なんだけど。
にしても、このおじさんが持っている書面。なんでタイトルにぼかしが施されているんだろう?
て、このおっさんいったい誰?
タワレコのオンラインショップに載っているジャケット写真は軍人さんだったのに(やはり左右2分割で左は遠景、右はアップ)、いつベートーヴェンもどきにデザイン変更したのだろう?写真に何か問題があったのかな?
関係ないけど、ファミリーマートの“ファミから”はなかなか美味しいことを、先日の出張中に食べてしまって知ってしまった。
昨日の昼の便で帰って来たわけだが、空港では「雪のため羽田空港に引き返すこともあります」という条件付きの出発となった。
ところで、私が乗った便ではないが、どうして毎度毎度「ANA〇〇便で〇〇へご出発の〇〇様。当便は間もなく出発いたします。いらっしゃいましたらお近くのANA地上係員にお申し付けください」と、呼び出される迷惑千万な人が居るのだろう?
そして、地上係員と一緒にジョギングよろしく搭乗口へとニタニタしながらやってくるわけだ。
これがJRだったら有無を言わさず出発時間になったら置いてきぼりにする。当然だ。
昨日見たオバサンはその便の出発時間をすでに3分ほど過ぎていた。
機内で出発を待っている人が気の毒である。
そしてまた、私も、私の妻も、私の子供たちも、絶対こういう迷惑はかけないタチである。
そうそう、今回の出張で東京勤務時代に一緒に仕事をしたお姉さん(実際私より歳が上だから、お姉さんなのだ)と顔を合わせたが、「あぁら、ちっとも変わらないわね。顔もツルツルね」と言われた。
馬油を塗っている効果かとも思ったが、単に汗をかいたあとだったしギラギラしていて気色悪いという意味だったのかもしれない。
そのお姉さんは大きなマスクをしていて、大いに変わったのか、そんなに変わってないのか、私にはわからなかった。
北海道新聞の朝刊に週1回連載されている「おじさん図鑑」。
書いているのはエッセイストの飛鳥圭介氏。
先々週のタイトルは「嫌いな言葉」だった。
ずっと以前、おじさんはこんな文章は嫌いだということで、「~と思うのは私だけだろうか」というのをヤリ玉にあげた。鼻持ちならない気取りが透けて見える、と書いた。ひと様の文章を批判する資格などないが、好き嫌いなら言える。おじさんが嫌いな定形文がもうひとつある。
「その結果、☓☓したのは言うまでもあるまい」
という文章だ。
なるほど。
確かに「~と思うのは私だけだろうか」というのは、聞いていて「そうだよ、おまえだけだよっ!」と思わず突っ込みを入れたくなる。が、小心者の私は、それを心の奥底でつぶやくだけである。
「☓☓したのは言うまでもあるまい」?
確かに、それじゃあ言わなくてもいいよな……
で、私は昨日JRで移動したわけで、その結果、車内で読書したのは言うまでもあるまい。
浅田次郎の「蒼穹の昴」第4巻(講談社文庫)。
前回の都市間移動の際に、計算ミスで携えた本を早々に読み終えてしまい、割り込みで急きょ購入した「珍妃の井戸」を読んだが、やっと連続ものの最終巻に入ることができた。
人間の力をもってしても変えられぬ宿命など、あってたまるものか―紫禁城に渦巻く権力への野望、憂国の熱き想いはついに臨界点を超えた。天下を覆さんとする策謀が、春児を、文秀を、そして中華四億の命すべてを翻弄する。この道の行方を知るものは、天命のみしるし“龍玉”のみ。感動巨編ここに完結!
なのである。あらすじは。
ところで、「~と思うのは私だけだろうか」とか「☓☓したのは言うまでもあるまい」なんていう言い回しの文章を書く音楽批評家っているよな。誰とは言わないけど。
確かに、その人の書く評論や批評って、上から目線の姿勢がとても強く滲み出ていて、私も好きじゃない。
これって、つまりは、私がおじさんである証拠にほかならないと思うのは、私だけだろうか?(←そーだ、そーだ!) ショルティ/シカゴ響によるショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第10番ホ短調Op.93(1953)。
1990年のライヴ。
ショルティが指揮したタコ10と、おじさんが嫌いな言葉と、中華四億の命になんら関係がないことは言うまでもあるまい。
おじさんどころか、1912年生れのショルティがこの演奏をしたのは、あと何年かで80歳になろかというとき。もうおじいさんと呼べる歳であったのは言うまでもあるまい。
なのに、信じられない!この若々しさ、スピード感。いったい何種類のサプリメントを飲んでたんだ?と思わずにはいられない。
速すぎるんじゃないかとさえ思ってしまう。が、これがショルティなのだ。
そしてピシッとした締まりと筋肉質の歯ごたえ。放し飼いで育てた国産鶏のもも肉のようだ(もちろん偽装していないやつ)。
第9番と一緒に収められているのもいい。軽食のような(でも毒のある)第9番があったからこそ、そのあとにこの第10番の“重さ”が生きる(気がしないでもない)。
デッカ(タワレコ・ヴィンテージ・コレクション No.10)。
日曜日の午後、昼寝をしようといろっぽいオットセイのようなポーズで横になって本を読んでいた。
浅田次郎の「蒼穹の昴」(講談社文庫)の第2巻である。
中国人の登場人物の名がどうにもたまに残らず、実に難儀して読んでいるが、第2巻のあらすじはカバー裏の記載によれば、こんなものである。
官吏となり政治の中枢へと進んだ文秀。一方の春児は、宦官として後宮へ仕官する機会を待ちながら、鍛錬の日々を過ごしていた。この時、大清国に君臨していた西太后は、観劇と飽食とに明けくれながらも、人知れず国の行く末を憂えていた。権力を巡る人々の思いは、やがて紫禁城内に守旧派と改革派の対立を呼ぶ。
で、まぶたが重くなってきて、呼吸がスリーピング・モードになってきたのが自分でもわかったときに、いきなり携帯電話が鳴った。まぁ、予告後に鳴るってことはあまり経験がないが……
それは会社貸与ではなく個人の携帯電話の方。この番号を知っているのは家族だけだ。
が、背面ディスプレイには登録した家族の名ではなく、着信番号が表示されている。
こういうわけで、私は警戒し、マクドナルドのバイトなら即刻クビになるような愛想っ気のない声ででる。
「はい……」
「もしもし、ヤマだけど?」
「はい[E:up]?」
「えっ、あっ?オレ、間違ってる?」
「私、ボブだけど」(実際にはボブではなく危険を冒して実の姓を言った)。
「あら、間違ってるかもしんないね。いや、オレ、間違った。ごめんなさ~い」
こうして切れた。
なんか、私の心の中を疾風が通り過ぎたような感じだった。
そんなことがあったという報告を終わる。
で、「蒼穹の昴」のあらすじに改革派って文字があったから、今日はショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-1975 ソヴィエト)の交響曲第5番ニ短調Op.47(1937)。
なんでかっていうと、「革命」の通称があるから。といっても、この曲が「革命」と呼ばれることはずいぶんと少なくなった。 ボックス・セットを買っちゃったものだから、最近登場回数の多いシルヴェストリを今回も取り上げる。
オーケストラはウィーン・フィル。1960録音。
全体に音ががさついているが、演奏自体はそんなに変態的なことはしていない。
重々しい第1楽章の開始にはなかなかひきつけられるものがあるし、第2楽章も茶目っ気というより貫録がある。
第3楽章ではアンサンブルが危うい箇所があるが、逆にそこでの音の絡み合いが万華鏡をぐるぐる回して見ているかのような面白さがある。
第4楽章の驚くほどの高速で始まる。間違って一味唐辛子をなめてしまった幼児が大衝撃でバタバタとあたりを早足で歩きまわるかのよう。
そして、この曲自体はやっぱり良い曲だと、なぜか納得させられる、不思議なパワーを秘めた味のある演奏だ。
まぁ、ぜひとも聴いとかなきゃならない1枚に位置づけることはないだろうけど。
ただ、お買い得セットの1枚だから、損した気分にはならないはずだ。
EMI。
ところで、文秀は“ふみひで”じゃなくて“ウエンシウ”。春児は“はるじ”じゃなくて“チユンル”と読む。
春児は宦官を目指しているが、宦官とは去勢された官吏である。
20日の記事で、なんかこいつ、奇妙な趣味があるのかなと、あれだけ断ったのに、それでも思った方もいるかもしれないが、この小説を読んでああいう表現になったのである。
つまり、ああは書いたものの、私には去勢された男性の知り合いはいないということを、重ねて申し上げておく。
この写真は木曜日の朝に撮ったものだ。
朝焼けで鮭桃色、かっこつけて言うならサーモンピンクに染まった雪まみれの山々である。
マンションの窓からのこの眺めは、1階に朝刊を取りに行くのを躊躇させるに十分だが、めんどくさいので上半身は半袖Tシャツのまま部屋を出た。幸い、思ったほど寒くなかったので助かった。まっ、外に出るわけじゃないからね。これがゴミだしだったら、ちゃんと長い袖のあるものを羽織ります、私だって。
この地でも、そして札幌でも、郊外の山が初冠雪したときの風景は毎年変わり映えしないのに、なんとなく新鮮に感じる。良い意味で、ではあまりないが……
朝の通勤時はまだコートを着るほどではないが、かといってコートを着てても周りから大笑いされるような気温でもないが、にしてもオープンカーが走っていたのには驚いた。本来なら指差しして大笑いしたいところだが、運転手にやっつけられたらいやだし、なにか想像もつかない深い事情があって寒風の中オープンカーに乗っているのかもしれないから(運転しているのが氷男とか……)、私は無気力な通行人のままをとおした。
氷男のことご存じない?
村上春樹の短編小説である。「レキシントンの幽霊」(文春文庫)に収められている。
それはともかく、山々というか、谷の曲。
鉄琴の最初の音から最後の1打まで一気に聴かせてしまう。
4楽章・40分があっという間に過ぎ、聴き終わったあと、私は40分ぶん歳を重ねてしまっている。
ショルティ/シカゴ響によるショスタコの交響曲第15番の演奏のことだ。
ところがこちらは冒頭の鐘の音から、曲の最後の鐘の音までがやったら長く感じる。
いや、冒頭の鐘の音が鳴るまでも長くがまんしなければならない。 同じショルティ/シカゴ響によるショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第13番変ロ短調Op.113「バビ・ヤール(Babi Yar)」。
作品についてはこちらでやや詳しく書いているが、エフトゥシェンコの詩によるバス独唱、バス合唱が加わる交響曲。バビ・ヤール(バービ・ヤール)とはウクライナのキエフ地方にある峡谷の名で、ここでナチスによるユダヤ人虐殺が行なわれたのだった。
曲は5つの楽章からなり、それぞれのタイトルは「バビ・ヤール」「ユーモア」「商店で」「恐怖」「出世」。第1楽章のタイトルがこの交響曲の通称となっている。
で、この録音がなぜ長く感じるのか?
実際長いからだ。私に言わせるなら、“余計な物”のせいで。
第1楽章と第2楽章と第3楽章の前に詩が朗読されるのだ。朗読の時間はそれぞれ3'47",1'57",5'24"。
第3楽章から第5楽章までは切れ目なく演奏されるので、第3楽章の前で3~5楽章の3つの詩が朗読される。だから意識がもうろうとなるくらい長く感じる。
演奏自体はショルティには珍しく硬質ではなくしっとりした食感。肌触りのよいタオルケットのよう。ショルティは室内楽的な響きとすることを強く意識してオーケストラをコントロールしている感じだ。
朗読しているのはA.ホプキンス。
でも、ホプキンスだろうと金襴緞子だろうと、朗読は要らない。どうしても朗読をサービスしたいなら、曲の演奏とは分けて収録すべきだ。めんどうだが、朗読をとばして聴くようにプレイヤーの再生トラックの指定しなきゃならない(秘技・プログラム演奏)。
しかし、その手間をかけてでも聴く価値十分の演奏ではある。悲惨さを強調するような演奏ではないが、さりげなさにジーンとさせられる。
バス独唱はアレクサーシキン、男声合唱はシカゴ交響合唱団。
1995録音。デッカ(TOWER RECORDS VINTAGE COLLECTION No.10)。
そういえば、昔NHK-FMで“朗読の時間”って番組があったな。
クラシック音楽の番組-“家庭音楽鑑賞”だったか?-が終わって、暗い声の「朗読の時間です」っていうアナウンサーの声で始まっていたと思う。
なんで朗読をFMで流してたのか、いまだによくわからん。
今日は土曜日。しかし私は朝から朗読、いや、労働しなくてはならない。
仕事である。
行ってくるである。
「回想ドラマ、はじまり、はじまりぃ~」、と幕が上がるのを告げるような最初のグロッケンの2打から(私は葬式のときに導師が式場に入ってくるときに鳴らす鈴(りん)の音を思い出す)、曲の最後のすべてが終わり消滅するようなグロッケンの1打まで、あっという間に聴き終わってしまう。
すっかり演奏に引き込まれてしまって曲が短く感じる。それほどの魅力、引力、牽引力があるだ。
ショルティ/シカゴ響によるショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第15番イ長調Op.141(1971)。
私は悩んじゃっている。
この曲の録音ではザンデルリンク/クリーヴランド管(1991録音。エラート)を超える演奏はないと(もちろん名演という意味で)という確たる信念を、私は頑固じじいのように持っていたのだが、最近このショルティの演奏を聴いて、融通がきく善人に改心すべきかと悩んでいる。
じくじく、めそめそしていない15番だ。主観的な印象のあるザンデルリンクに対し、ショルティのは-これがこの人の良いところ-客観的だ。
全曲中でも数少ないオケの強奏箇所でもスマート。スネ夫の気に障る言いぐさのようなイヤミがない。といって、つまらないのではまったくない。この不思議触感作品を、実に知的に破たんなく一つ一つの音を紡いでくれている。この冷艶な表現が、私に、この曲に対する畏敬の念をかえって増強させる。
子どものころにショスタコが体験したおもちゃ屋のイメージという「ウィイリアム・テル」序曲だって、さりげない。もう、昔の思い出に感傷的に浸っていられる状況じゃないってことか?
第2楽章の最初もおどろおどろしい表情はなく、むしろほんのりと温かい。この音楽はたとえキリンが逆立ちしようとも明るいとは分類しようがない類のものだが、ショルティの表現は底なし沼的ではなく、女々しく泣くようなものではない(女性の方、すいません)。
第3楽章も苦々しい軽妙さを伴っている。不自然な快活さ、高速度が、この曲の作為的とも言える不器用な表情を妖しいものにする。
終楽章。速く先へ進まなきゃもう残された時間はないというかのように、切迫した速度。よどみなく淡々と進む。そして、第7番第1楽章を思い出させようとしているに違いないリズムが実に効果的に響く。
そして、すべてが昇華する。どこまでも美しく……
ショルティのショスタコについては、まだ8番と9番しかここでは取り上げていないが、切迫気分で言ってしまうなら、この15番の演奏が最もすばらしいと私は感じている。
ただし、曲自体が不思議オーラ大放出ってもんなわけで、じゃあショルティの演奏が決定打か?これさえあれば他の演奏は忘れていいか?となると、コトはそれほど単純ではない。
上に書いたザンデルリンク盤は、私としてはみなさんにぜひとも聴いてほしい演奏だし、ほかにも名演がたくさんある。 ということは、この曲はそこそこの演奏でもきちんと聴こえる傑作ってことになるんだろうか?
私は10種類以上の演奏を聴いているが、ショルティ、ザンデルリンクは大推薦としても、他の演奏もどれも推薦に値する演奏だと思う(ただし、ザンデルリンクでもベルリン放送響との録音は、ちょいと満足度に劣る。また、スロヴァークが指揮したナクソス盤は、腹立たしいほどスカスカで音楽的じゃない)。
話の収拾がつかなくなってきたので、とにかくショルティ、やってくれるぅ!ってことで……
1997録音。デッカ。
ショルティ/ウィーン・フィルによるショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第9番変ホ長調Op.70(1945)。
この“第九”は、ここで書いているように大いなる期待が持たれたものの、確信犯的ににショスタコがその期待を裏切り、人々が口ぐちにアッチョンプリケ!と嘆いた作品だ。
私はこの曲の演奏(録音)をいろいろ聴いてきたが、このショルティの演奏はかなりのお気に。
とにかく痛快だ。
少なからずの演奏が、必要以上に室内楽的に仕上げようとしたり、過度に深刻な表情を打ちだそうとするが、ショルティの演奏は「なに、しみったれてんだよ!どんまい、どんまい!」とばかり。そして、ほんとうにドンマイしちゃって起死回生の逆転ホームランを打ってくれる。
とにかく新鮮なのだ。
「こんな曲のはずじゃなかったのに」と唖然とし困惑する御来賓の方々を尻目に、やんちゃしちゃおうっていうショスタコの狙いがあったとしたら、こういう演奏こそが的を得ていると言えるのではないか?
芝居がかって退屈にさせられることが多い緩徐楽章も、音楽が生き生きとしているし、第3楽章の暴れ馬のようなスピードの速さと躍動感にもスッキリさせられる。
かといってノーテンキなのではなく、がっちりしたショルティらしい筋肉質な演奏(ネゼ=セガンのブル8を聴いた後だと、こっちの方がパワフルで、ありゃぁ~と思ってしまう)。
コンパクトなこの交響曲のスケールが、ムクムクとひと回り大きくなった感じだ。
1990年のライヴだが、聴衆のブラボーの叫びにも納得がいく。
そしてまた、ライブとは思えない完璧な演奏と音の良さである。
私がいちばん好きな指揮者はショルティである。たぶん。
ショルティによってマーラーのすばらしさを知り、またデッカ(当時の日本でのレーベルはLONDON)のすさまじい音に魅了された。だから、可能ならば-経済的に余裕があってそのLPが買えるなら-ショルティのものを選んだものだ。
が、私はこれまた大好きな作曲家であるショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)をショルティが演奏したものはといえば、じぇじぇ、これまで聴いたことがなかった。いやいや、避けていたのではなく、そういうタイミングを失っていただけ。だって、避ける理由なんてないもの。
そもそもショルティがショスタコを録音し始めたのは1990年に近くなってから。で、LP時代には彼のショスタコは存在していなかったし、CD時代になってもどーもショルティとショスタコが結びつかなかった。
そんなわけで、運命のいたずらでこれまで疎遠だった。
最近になってようやっとショスタコ by ショルティを聴いた。
今日はショルティにとって初のショスタコ録音となった交響曲第8番ハ短調Op.65(1943)。
さすがショルティ!そしてシカゴ響!加えてデッカ!
ライヴ録音なのに完璧なまでのアンサンブル。そして、硬質な爆発的演奏だ。
超名演奏、名録音といって間違いない。
この曲には2つの演奏パターンがある。
「ショスタコは深刻な顔とは裏腹に本当は腹の中で下を出してるんだもんね」という脱力タイプ。
コフマンやペトレンコ、インバルにヤンソンスなんかのアプローチがこれ。アシュケナージも多分そう。なんか中途半端だけど。
その反対は、自虐的爆発タイプ、もしくは純粋炸裂タイプ。
ムラヴィンスキーやヤルヴィ、プレヴィンなんかがそう。
もちろんショルティはショスタコが描いたオーケストレーションをめいっぱい鳴り響かせる純粋炸裂タイプ。それでも、ロシアのオーケストラがしばしば陥ってしまうような、混濁した絶叫はない。そこは見事。
さらに、これまたショルティの良いところでもあるのだが、体操部員を鍛え統率する監督のように実に合理的機能的機械的。監督じゃなくてトレーニング・マシーンそのものかも。
そこから生み出される機能美!そして音に酔える!
だからここには皮肉、嘲笑はない。ショスタコのポートレートに見られる、眼鏡の奥から厳しくこちらを見ているAB型人間のまなざしようにクールだ(ショスタコの血液型がなんだったかは知らないけど)。
いずれにしろこれほどまでの演奏はそうそうないのは間違いない。
作曲の背景?スターリン?当時の政治の状況?
そんなのしちめんどくさい。鼓膜がビンビンする大音響から、うぶ毛がかすかに動くほどのフルートのフラッター・タンギングまで堪能したい。そういう方には、この演奏ほどしっくりいくものはないだろう。
そしてまた、これが感動をもたらすということは、ソヴィエトのめちゃくちゃな時代に翻弄され、そして巧みにそれを欺いたショスタコの姿を知らずとも、つまり純粋な交響曲として聴いてもまったく問題のない傑作であることの証明でもあろう。
1989録音。ライヴ。デッカ(TOWER RECORDS VINTAGE COLLECTION No.10)。
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