1人目のH
ウソじゃないんです。
いくら今日が4月1日だからといって、アタシを疑うなんて、悲しくなっちゃう。
ベルリオーズとホルスト。
この2人の作品つけられている整理番号は、ともにH.。
本当なんです。
まず、ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz 1803-69 フランス)。
金管は咆哮するは大砲はぶっ放されるはって、これは「葬送と勝利の大交響曲」の演奏風景だろう。すっごい髪型で指揮棒を振っているのがベルリオーズである。
ベルリオーズの作品には作曲者自身によるOp.番号が付けられているのだが、おやおや、困ったことにそれが付けられていないものも少なくない。
そこで(たぶんカリフォルニア大学の)カーン・ホロマン(Kern Holoman)が作曲年順に整理番号を作った。それがH.番号である。このHはどう考えてもHolomanのイニシャルからきているのだろう。
例えば幻想交響曲Op.14にはH.48の番号が与えられている。
2人目のH
一方のホルスト(Gustav Holst 1874-1934 イギリス)。
ホルストの場合も事情はベルリオーズと一緒。つまり、Op.番号が付いている作品もあればないものもある。
それを整理したのが、ホルストの娘であり、音楽学者・指揮者・作曲家・鍵盤楽器奏者という、なかなかたいした人だったイモジェン・クレア・ホルスト(Imogen Claire Holst 1907-84)。ブリテンと一緒になって仕事もしたという。
その整理番号H.であり、このHもそう考えてもImogenのイニシャルに違いない。番号順はほぼ作曲年にそっている。
有名な組曲「惑星」Op.32のH.番号は125である。
ちなみに前回紹介したカール・フィリップ・エマヌエル・バッハの作品にもH.とついた番号がある。
威勢が良くて派手な「惑星」はいかが?
ベルリオーズ
さて、日曜日にマンションに戻ると、荷物を降ろしてお茶でも一杯の時間もおかずに早々にディーラーに向かった。
前日の電話のあとサービスの担当者もいろいろ調べてくれたようで、同じような症例はあるそうだ。そして、やはりスイッチの接点の経年摩耗によるという。
手際が良いことに見積書も出来上がっていて、その額は1万ほど。ネットで見かけた3万という額よりは大きく下回っていたので、大いなる痛手ではあるものの、交換修理することにした。
一応現象を見てもらおうと、ライトを点灯。
前方に停めてあった車に反射する光を運転席側から見てもらい、かつ私がヒューズ・ボックスを指して「ここで変な音がするので、同時に注意して聞いて下さい」とお願いする。
いよいよウインカーレバーを上げる。怪奇現象の再現だ。
が……
金曜の夜も、そして翌日は向かいの家の玄関フードのガラスに反射することを利用して何度も確認し、もうウインカーをつけたらライトが消えるのは間違いない状態だったのに、このときは……消えてくれない。
オボカタさんの顔が勝手に頭に浮かぶ。
再現できない。
もちろん異音もしない。
何度繰り返してもだめだ。
私は嘘つきと思われていないだろうか?
そう思うと、焦る。
あれは幻だったのか?
いや、そんなわけあるはずがない。
「病院に着いたとたん、痛みが消えるようなもんですよ」
サービス担当の慰めの言葉に、私は涙が出そうになった。
車は現在入院中である。
というのも月~火は東京出張、木(本日)~土は札幌ということで、あらためて車を持って行ったり取りに行ったりできないからだ。
その間、変な話だが、整備士が試してみたら症状が出ることを祈っている。
サロネン/フィルハーモニア管弦楽団によるベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-69 フランス)の「幻想交響曲(Symphonie fantastique)」Op.14(1830)。
2008年のライヴだが、ライヴとは思えない傷のなさだ。
豊かながら透明感のある響き、緻密で清潔感があるがパワフル。
熱狂型ではないが、冷ややかでもなく、この曲を十分に楽しめる演奏だ。
第1楽章提示部の反復なし。となれば当然のごとく第4楽章のリピートもなし(そもそも、第4楽章のリピートを行なっている演奏は少ない)、第5楽章の鐘はやや安っぽい響きのような気がしないでもない。第2楽章ではコルネットの助奏が加わっている。
signum CLASSICS。
出張の帰り、羽田空港の搭乗待合室前の店で、見知らぬ男性がカツカレーを食べていた。
美味しそうだったなぁ……。でも、もう弁当食べた後だったし、今の私は“腹8分目運動”展開中だからな。
そんな私の昨日の昼食は、ざるそば。
最初、冷やしかしわそばを注文したのだが、おやじさんが「冷やかし、時間みてね!」という。
なんでもいつも運び役をやっているアルバイト従業員が、急きょ休んだそうだ。この店、2階には座敷があり、下から運ぶのはたいへん。
私が行った時間はすでに12時半を過ぎていたが、それでもまだ混んでいて調理滞留中の注文がたくさんあった(カウンターにあった伝票がそれを物語っていた)。おかみさんは汗で夕立にあたった歩行者のようになっていた(手伝ってあげたいという気持を抑えるのが容易でなかった、善人な私。だがわが社は兼職を禁止している)。
私はお店への迷惑ならびに自分に与えられた昼休み時間を考慮し、冷やかしをやめてざるそばに変更したわけだが、これまた健康的な気がした。
ところで、昨日4日の北海道新聞夕刊に先週の金・土に行なわれた札響第569回定期演奏会の評が載っていた。通常は開催から掲載まで1週間以上かかるのに、今回は異例の速さである。
執筆しているのは北海道作曲家協会会長の八木幸三氏(両日聴いたそう)だが、私が違和感を覚えたヴァイオリン協奏曲第2番については、ソリストの加藤知子を絶賛していた。また、「土俗的三連画」と「シンフォニア・タプカーラ」の2曲については、私と同じく高く評価。一方で、「日本狂詩曲」については端正すぎると書いてあった。
にしても、早くCD化されないかなぁ……
久々に夜の通勤電車に乗った。
もちろん出勤するのではなく、家に帰るために。
明るい車内。でも、みんなの表情はアンニュイ。暗い社内の出来事に疲れたのかしらん?
とはいえ、そのアンニュイ度はそれは東京の夜の通勤電車ほどではない感じだ。東京の人たちってホント疲れきってるように見える。
そんな沈滞した雰囲気の乗客たちのなかで、なぜか妙ににやけた若者がいたりするが、その出現頻度も東京に比べれば少ない。
人が増えればそれに比例して調子のよろしくない、いや、行動を理解しがたい人の割合も増えるってわけだ。
私は通路に立っていたのだが、要領よく、いや、幸い座ることのできたおねえさん(左の写真とは一切関係ありません)が、ブルボンのOREOを食べていた。家に帰るまで空腹をがまんできないのだろうか?あるいはどこかで夕食をとったあとのデザート代わりか?
彼女が手にしていたパッケージで私が確認できたのは、“ボン”と“EO”の文字だけだったが、まさかバカボンのクレオパトラじゃあるまい。
そもそも、バカボンのクレオパトラってなんじゃい?
お調子悪いみたい、ボク。
どーでもいいが、そんなわけでベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-1969)のカンタータ「クレオパトラの死(La mort de Cleopatre)」H.36(1829)。
ローマ賞に応募した作品で、詞はP.G.ヴィエイヤール。ここでは以前、ブーレーズ盤を取り上げている。
2つの部分からなり、ここにはのちに序曲「ローマの謝肉祭」や「レリオ」に使われるメロディーが出てくる。
今日はアントナッチのソプラノ、ネゼ=セガン指揮ロッタルダム・フィルの演奏を。
餡とナッツを想起させる名前のアントナッチは、オペラチックな豊かな表現力。やや硬質な声色がこの曲に合っている。
オーケストラも、繊細な弱音からボリューム十分の強音までバランスを崩すことなくしかし積極的に歌手を支えている。
2010録音。BIS(SACD)。
昨日出張から戻ったが、今回の出張で初めてウォークマンに付属していたノイズキャンセル対応ののイヤホン(ヘッドフォン)を使ってみた。もちろん、本体のノイズキャンセラーをONにして。
こういう機能を使うと音自体が悪い方向に変化するかと思い今まで使って来なかったが、こんなに効果があるのかというくらい雑音、騒音が消える。これなら列車の走行音、エンジン音、空調のうるさい音が混じった音楽を聴くより、仮に音の質が低下するとしても(実際のところよくわからなかったのだけど)、ずっといいことがわかった。
もっと早くから勇気を奮って試すべきだった。
昨日イタリアのことが話題に上ったので(上らせたので)、今日もイタリアを引きずろう。
ベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-69 フランス)の交響曲「イタリアのハロルド(Harold en Italie)」Op.16(1834)。
ベルリオーズはローマ大賞を得てイタリアに留学していたときに恋人に裏切られたが、そのときのやるせない日々の体験をバイロンの「チャイルド・ハロルドの遍歴」の主人公に託して標題音楽にしたもの。
パガニーニの依頼で書かれ、独奏楽器としてヴィオラが用いられている。
詳しくはこちらをご覧いただければ別に損にはならないと思う。
ただし、第1楽章が出来上がったときに、ヴィオラがあまり活躍しないことにパガニーニが不満を訴えたため、そのあとはパガニーニのことは考えずにベルリオーズが自由に書き進めた。
今日取り上げるのは、ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル・グルノーブル(グルノーブル・ルーヴル宮音楽隊)による、ピリオド演奏。
冒頭の低弦から滑らかさのないもの。おぉ、ピリオド!
仰々しくなく、サクサクと進んでいく。ハロルドの物語が滞りなく語られている感じで、これはこれでおもしろいし、スピードと切れはエキサイティングでもある。
だが、私としてはもう少し重量感が欲しいところ。
もっともったいぶってねちっこくやって欲しい箇所もある。
ヴィオラはタムスティ。
2011録音。naive。
発売元の売り文句は↓。
ミンコフスキ待望の新譜。ベルリオーズの登場です。当代一の注目ヴィオラ奏者、ミュンヘン国際コンクール優勝者でもあるタムスティ(1979年生まれ)をソリストに迎えた『イタリアのハロルド』、そして2003年レコード・アカデミー大賞に輝いた『ジュリアス・シーザー』と同じ顔合わせとなるオッターとの『夏の夜』というカップリング。ミンコフスキ自身、プログラム的にもアーティスト的にも「これ以上の組み合わせはない」と語る自信作です。
ミンコフスキは、タムスティについて「彼はこの作品を演奏するのに必要な「熱」と類まれなる耳の良さを持っている。パガニーニが現代によみがえってストラディヴァリウスのヴィオラでこの作品を奏でたらきっとこのようになっただろう。これ以上の結果を他で得られるだろうか?」と手放しで称賛しています。夢幻的で時に荒れ狂い、しかし最後は山賊の荒れ狂う騒ぎの中で自ら命を落とすハロルドの姿が眼前に立ち上ってきます。主人公ハロルドが体験する世界を描く管弦楽パートも見事。第1楽章での最後の盛り上がりとキレの良さ、終楽章での回想部分の気分の穏やかさと激しい盛り上がりの対比、最後の狂乱の騒ぎぶりは圧巻です。
(キングインターナショナル)
ベルリオーズって自意識過剰で自己顕示欲が強くて露出狂的だから苦手と感じている人にとっては、きっとお気に召してもらえる演奏だろう。だって私には、最後の狂乱の騒ぎぶりは圧巻じゃなったし……
なおこのCDの「夏の夜」については、すでにここで取り上げていることを、一応はアピールしておく。
再び連休最終日。
私がこの3日間何をしてたのかって?
それはヒ・ミ・ツ、ではなくて、土曜日の朝は朝ご飯を食べて、そのあとハイボール用の炭酸水をドラッグストアに箱買いしに行って、ついでにスーパーにも寄って、そこで急にカレーが食べたくなり食材を買って、昼はやはりスーパーで見切り品になっていた生そばを食べ、午後からはカレーを作り(今回の菌類はエノキダケではなく、シメジにした)、夕方から取引先との新年交霊会、おっとどっこい、交礼会に出席し、そこではほとんど何も食べなかったので帰宅してからカレーを食べ、寝た。
日曜日はいつもどおり朝の5時に目覚めてしまったので、チェンバロ曲を聴きながらブログを更新したり、6時になったら新聞を取りに行き、お決まりごとのように朝はカレーを食べた。
今度の週末はバスで自宅に戻る予定だが、その目的はただ1つ。雪かきである。
先週末には、雪の重みでカーポートの柱がどれもぐんにゃりと大きく変形し、崩壊寸前になっている夢を見た。
今朝は窓ガラスが落ちてきた屋根の雪庇(せっぴ)で窓が圧迫され、割れる恐れがある。それに憂慮している夢を見た。
そんな日々だ。
8月15日である。
今日は先負であり、明日は仏滅である。
今夕、おうちに帰り、大安の土曜日に父ならびに父方の先祖が入居している墓を参りに行く所存。
それはそうと、8月15日はお盆まっただ中であり、由来はよく知らないが盆休のところも多い。私も今日と明日は休みであり、土曜日も休みであり、日曜日は安息の日であり、月曜日は夏休みを取得したが再び寓居に戻る日でもある。
トイレの壁に張ってあるカレンダーには、8月15日の欄に“月遅れ盆”と書いてある。カレンダーの右下の隅には“haru_mi”というロゴが印刷されているが、これはご存知、高橋はるみ北海道知事のこと、ではなくて、年齢の割に実に若々しい栗原はるみのことである。
このカレンダー、妻が買った雑誌の新年号の付録についていたものだが、話をこのまま拡張すると、今月の写真は庭にある白いタイル張りのシンクの上にハーブをさしたガラスのビンが並んでいるが、現実的にはすぐくたっとなるんじゃないかとか、タイルは日々掃除しない限り薄汚れてしまうんじゃないかとか、どこか一般庶民的-庭にシンクがあるところからして-ではないと、毎朝便座の上で考える私である。
そしてまた、本日は終戦記念日でもある。
あんなこんなので、今日はレクイエム。
このところ、ベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-1869 フランス)の「レクイエム(Requiem)」Op.5(1837)を聴くことが多い。
たぶん最近、読み直しを含めカフカ(審判→城→短編集→訴訟)の世界に関わってしまったので、あの当時、同じころにけっこう心を奪われていたこの曲を聴きたくなったのだろう。
だろう、って他人事のようだが、自分のことながら複雑で繊細な男心のことは自分でもよくわからないのだ。 この曲は巨大な編成が要求され、特にそれらすべてが炸裂し大音響が鳴り渡る第2楽章「ディエス・イレ(怒りの日)~トゥバ・ミルム(千のテューバ(掲載譜))」はいやがおうにも聴き手を興奮させる。少なくとも私はコーフンする。第6楽章の「ラクリモサ」もそうだ。
が、唯一独唱が入る第9楽章「サンクトゥス」の透き通った美しさ(ベルリオーズがしばしば使う、大太鼓とシンバルの弱い重ね打ちがまた素敵)、終楽章である第10楽章「アニュス・デイ」の穏やかな慰め……。最初は大音響に身も心も奪われた私だったが、実は大きなオーケストラと合唱団が室内楽的に鳴り、歌うところこそが、この曲の魅力である(大音響箇所ももちろん有り余る魅力があるけれど)。
ベルリオーズのレクイエムに関しては、私はコリン・デイヴィス指揮の演奏があればそれで満足って感じである(でも、ほかはもう聴かなくてもよい、とは言わない)。
1969年録音のロンドン交響楽団、同合唱団、ウォンズ・ワース・スクール少年合唱団、ダウド(テノール独唱)の演奏は、LP時代から私の愛聴盤である。
ピシッとした直線的な演奏で、硬いと言えば硬いが、その硬さがまた良い。
が、デイヴィスがこのときの“至らないところ”をすべて解決したとも言える超名演が、1994年にシュターツカペレ・ドレスデンを振ったもの。ドレスデン爆撃戦没者追悼演奏会のライヴである。
この化け物のような曲を、どうしてこんなにすばらしく仕上げることができたのか、しかもライヴでと、私は不思議でたまらない。と同時に、このような演奏を残してくれたことに深謝する。
「ベルリオーズのレクイエム?あの妄想野郎のやかましいかと思ったら退屈になる長ったらしい曲だろ?」と相手にしていない方は、とにかく、とにかく、兎に角、これを聴くべき!
去る4月に亡くなったC.デイヴィスにとって、今年は初盆でもあるわけだし……
なお、C.デイヴィスは昨年6月にも、この曲をロンドン響と演奏しており、そのライヴも発売されている。私はそれは耳にしたことはないが、どうも買うのを躊躇してしまう。
というのも、LSOライヴだから。このレーベルに私はあまり良い印象がない。録音面で。
もしお聴きになった方がいたら、録音状態がどうなのかお教えいただければと思う。
シュターツカペレ・ドレスデンとの演奏は、合唱がドレスデン国立歌劇場合唱団、ドレスデン・シンフォニー合唱団、ドレスデン・ジングアカデミー。テノール独唱はイカイア=パーディ。
レーベルはProfil。
いまどきのトレンドとしてはややお高いCDだが、値段分の価値はある。いや、お釣りがじゃらじゃら返って来たと思えるのだ。
ブログを始めたときにどうしてしておかなかったのかと、悔やんでいることが私にはある。
カテゴリにベルリオーズを設けなかったことだ。
実は、「もし好きな作曲家を3人あげよ」という質問があったなら(そんな質問は永遠にされないだろうが)、若いころの私は「マーラー、ショスタコーヴィチ、ベルリオーズ」と迷わず、きっぱりと、瞬時に答えたことだろう(自問自答のテスト済み)。
しかし、それよりも少し若くなくなったころに伊福部昭に惹かれ、3人は「マーラー、ショスタコーヴィチ、伊福部昭」と変わり、ベルリオーズは転落してしまったのだった。
が、それに次いで好きな作曲家なわけで、ブログで取り上げる機会も多く、そりゃ大切な読者様のことを思えば、カテゴリ設定しておくべきだったのだ。
ということで、すっごくめんどくさい作業だけど、カテゴリを新設した。ベルリオーズ関係の過去記事を地味に分類していくつもり……
話題としてはやや落ち着いたようだが、矢口真理が自宅に男を連れ込んだという事件。家に男連れ込んで、ベッドの上で愛の二重唱ってことだが、あれって、場合によっちゃ帰って来た夫が怒りのあまり2人を殺す、なんてことにもなりかねないくらいの出来事だ。
前にテレビで観た映画「うなぎ」は、釣りから帰って来くると、妻がまさに浮気相手とふとんの上で快楽運動の真っ最中で、夫がそっと忍び寄って相手の男と妻を刺し殺すというものだった。
ひっどいもんだね。
ベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-69 フランス)の序曲「ローマの謝肉祭(Le carnaval romain)」Op.9(1843)。
この曲は独立した管弦楽として、ベルリオーズの作品のなかでも「幻想交響曲」とならび広く聴かれているが、もともとは歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ(Benvenuto Cellini)」Op.23の第2幕前奏曲として作曲されたものである。このため、オペラのなかの主題が用いられている。
ふつうオペラでは第1幕の前に置かれる序曲がいちばん大きく、そのあとの幕間の前奏曲は短めである。ところがベルリオーズは-これまた新たな試みとして-このオペラで第2幕の前の前奏曲として、この大きめの作品を書いたのだった。
パリ・オペラ座でのオペラの初演(1838)は不評に終わったし、1853年のイギリスでの上演も不評に終わったが、この第2幕前奏曲は好評で、1844年に「ローマの謝肉祭」として独立して初演されることになったのだった。
「ローマの謝肉祭」は、オペラ第1幕の最後の場面、イタリアの舞踊(サンタレッロ)の主題を中心にして書かれた。
激しい序奏のあとにコーラングレが第1主題を吹くが、これは劇中で歌われるベンヴェヌート・チェッリーニと愛人テレーザ・バルドゥッチによる「愛の二重唱」のメロディーである(おぉ、ようやっと冒頭の話にこじつけることができた)。
その後、第1主題の2つの副主題を経て、オーケストラが爆発、序奏で垣間見えたメロディーが激しく奏されるが、これが第2主題となる。
この曲はソナタ形式を変形した形をとっており、提示部のあとに展開部はなく、再現部に突入する。しかし「愛の二重唱」は現れない。第2主題のサンタレッロが高揚する。
長いコーダ(終結部)に入るとファゴット、そしてトロンボーンが「愛の二重唱」を奏する。絶頂ぅぅぅっ!ってもんだ。
このあとクライマックスに向かってどんどん激化し、輝かしく印象的なトレモロで曲は閉じられる。
ロンバール指揮ストラスブール・フィルの演奏を今回は取り上げる。
この組み合わせとしては、LP時代に「イタリアのハロルド」をよく聴いていた。ずいぶん聴いたのに、どんな演奏だったのかあまり記憶にない。ただ、音場が左右のどちらかに偏り気味で(どっちか覚えてない)、自分のステレオ装置がおかしいのかと悩んでいたら、音楽雑誌に同じようなことが書かれていて、若き私の悩みが1つ解決したことは覚えている。
「イタリアのハロルド」はCD化されていないようで入手困難だが、今回「ローマの謝肉祭」をはじめとする序曲が数曲入ったCDを手にし聴いてみた。
悪い演奏ではない。が、まったくもってパンチに欠ける。ソフラン仕上げのようにソフト。
「ハロルド」もこんなんだったのだろうか?
切れ味が悪く、もたつき気味。
1980録音。apex。原盤エラート。
「葬送と勝利の大交響曲」で先日紹介したのと同じCDである。
ベルリオーズの序曲を取り上げたついでに序曲「宗教裁判官(Les fancsjuges)」Op.3(1826)について(これもこのCDに入っている)。
ベルリオーズがこのオペラを書き始めたのは、まだ音楽院の学生だったころ(台本はH.フェラン)。オペラは結局完成しなかったが、このなかの多くがほかの作品、「幻想交響曲」(第4楽章「断頭台への行進」)や「葬送と勝利の大交響曲」(第2楽章「追悼」)などに流用された。そして序曲だけがそのまま残った。
この曲をベルリオーズは気に入っていたようで、ショパンの勧めで4手ピアノ作品に編曲もしている。
また、この曲には少年時代に書いた五重奏曲のメロディーも使われているという。
そしてまた、この序曲こそが、ベルリオーズが初めて大規模な管弦楽の使用を試みた記念すべき作品なのである。
序曲「宗教裁判官」も、そして「ベンヴェヌート・チェッリーニ」の序曲ほかも、ロンバールのCDに収められている。やっぱりほんわか仕上げだが。
ベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-69 フランス)は、交響曲と名のつく作品を4曲残している。
「幻想交響曲」、「葬送と勝利の大交響曲」、交響曲「イタリアのハロルド」、劇的交響曲「ロメオとジュリエット」である。
“交響曲第X番”とするのが一般的かつ常識的な交響曲の名づけ方だとすると、ベルリオーズは特殊で非常識なネーミングの交響曲しか書かなかったことになる。
もっとも、ベートーヴェンには「戦争交響曲」っていうのがあるし、リストには「ファウスト交響曲」や「ダンテ交響曲」っていうのがある。
いずれにしろ、交響曲ではあるが標題音楽あるいは標題音楽的なために、ベルリオーズは自分の交響曲のネーミングをこのようにしたのだろう。
ちなみにベルリオーズの場合、伝統的な交響曲の基本形である4楽章構成の作品は「イタリアのハロルド」だけ。「幻想交響曲」は5楽章から成るし、劇的交響曲というよくワケがわからないたいそうなネーミングの「ロメオとジュリエット」にいたっては7部から成っている。だから、劇なんだろうけど。
「葬送と勝利の大交響曲(Grande symphonie funebre et triomphale)」Op.15(1840/改訂'42)は、3つの楽章から成る吹奏楽のための作品。彼の4つの“交響曲”のなかで最後に書かれたものである。
弦楽器、そして合唱は任意で加えることができる。
なぜ吹奏楽かというと、そもそもが野外で演奏するために書かれたからだ。
フランスの七月革命の10周年にあたる1840年。政府は革命で命を落とした人々をしのび讃えるために、バスティーユ広場で記念式典を行うこととした。この式典にための音楽の作曲依頼がベルリオーズのところにきたわけである。
たぶんベルリオーズは大いに張り切ったと思う。
こうして、管楽器と打楽器のための“交響曲”が完成した。
第1楽章は「葬送行進曲」、第2楽章は「追悼」、第3楽章は「アポテオーズ(栄光の讃歌)」とした。
時間があまりないなかでの作曲となったが、ベルリオーズは父親宛ての手紙で「40時間もかけずに書いた」と伝えている。そうできたのは、おそらく未完の過去の作品から素材を流用したためだとされているが、流用が確認できているのは第2楽章のみ。第2楽章は未完の歌劇「宗教裁判官」のなかの音楽を転用、歌唱部分をトロンボーンのソロに充てた。
両端楽章の由来ははっきりしないが、「フランスの偉人を記念する追悼音楽」の一部が用いられたとする説がある。
「作曲家別名曲解説ライブラリー19 ベルリオーズ」(音楽之友社)になかでは、初演の経緯について、ベルリオーズの「回想録」から以下のように引用している。
1840年の7月が近づいて、フランス政府は1830年の革命(註-7月革命)の10周年を祝い、革命の3日間の英雄的な犠牲者たちをバスティーユ広場に立てられた記念碑の中に改葬するに際して、盛大な記念式を催そうとしていた。この時の内務大臣のド・レミュッサ氏は偶然にも、ド・ガスパラン氏(註-ベルリオーズに《レクイエム》を当初依頼した内務大臣)と同様に音楽の愛好家であった。彼の意見によって、私はこの改葬式のために一つの交響曲を書くことになった。その曲の形式、演奏の形態などはまったくの私の自由で、この仕事に対しては総計1万フランが保障され、そこから写譜と演奏者への支払いをすることになっていた。
私はこうした作品はきわめて単純な構成をとるのがよいと考えたし、それに管楽器の大合奏が、少なくとも初演は野外で演奏されることになっている交響曲にもっとも適していると考えたのであった。私はまずはじめは、葬列の進む間に演奏される暗くまた悲しい行進曲の哀悼に満ちたアクセントの中に、あの有名な3日間の戦いを思い起こさせようとした。遺体が巨大な墓(註-バスティーユ記念碑のこと)の中に降ろされる時には、一種の弔辞、あるいは死者への告別が演奏される。そうして墓石が封をされて閉じられる時には、栄光の讃歌、アポテオーズが歌われ、人々の目は高く記念碑の先端に立ってあたかも自由のために死せる者の魂のように翼を広げて天に向かって飛び立とうとする自由の女神の像に向けられるように構成した。
初演は1840年7月28日に、この目的のとおりにパリの街頭で行なわれた。
軍楽隊はベルリオーズの指揮のもと、ルーヴル通りのサンジエルマン・ログゼロワ教会を出発し、数時間にわたって市内を行進しながらバステューユ広場に到着した。
バスティーユ広場では祈祷のあと、第2楽章の「追悼」が演奏され、そして締めくくりは第3楽章「アポテオーズ」!
が、そのときに傍らで数万人の国民軍の行進が行なわれ、その騒ぎにベルリオーズの音楽はすっかり食われてしまった。
たぶんベルリオーズは大いにがっかりしたと思う。
ただ、その後ホールを会場として、この曲は何度か演奏されている。
また弦楽と合唱がオプションで加えられ(合唱の歌詞はA.デシャン。ちなみに「ロメジュリ」の歌詞を韻文化したのはE.デシャン)、曲名も当初の「軍隊交響曲」から「葬送と勝利の大交響曲」と改められ、作品番号15が付けられたのは1842年のことである。
以前、ドンディーヌ指揮パリ警視庁音楽隊の演奏でこの曲を紹介したが、今日はドンディーヌ指揮パリ警視庁音楽隊による演奏を。
なに?
同じに見える?デシャンデシャンみたくに?
いや、あなたの錯覚でも、私の誤入力でも、悪い冗談でもなんでもない。
前に紹介したのは1976年録音のもの(カリオペ)。
今日紹介するのは1958年録音で、オプションの合唱が加わっているもの。合唱はコラール・ポピュレール・ド・パリ。1958年録音。apex。
古い録音だが、覚悟するほど音は悪くないし、左右の広がりもある。76年盤もサウンドはドライだったが、この58年盤も響きは乾燥気味である。
が、野外で聴けばこんな感じなのかなと、善意な想像をしてしまう。
そうそう、前に取り上げたときに合唱400人と書いたが、200人の誤りだった。ソプラノが2部で80人、テノールが2部で60人、バスが2部で60人。混声6部で計200人。
ウソ言ってすまんかった。
土曜日の11時17分。
地震がきたとき、私はすでにウトウトしていた。
風が強くなってきたのかな?変な音がするな、と半分寝ぼけた状態で思った。そのすぐあとに、強い揺れが来た。どうやらあれは地鳴りだったようだ。
当地は震度5弱。
テレビも炊飯器も本棚も倒れなかったが、CDラック1つとステレオ装置の左のスピーカーが倒れた。
そのラックにはイニシャルがAからIまでの作曲家のCDが収納されていた。
かなりのCDのケースが割れた。ケースから投げ出されたCDもあった。
が、おそらく再生不能になるほど傷ついたものは数枚で済んだと思う。
この地震でわが家の電気温水器上部から水漏れ。
給水コックをひねり洪水になる前に事態を収拾する。去年の8月の地震でも、同じように水漏れしたが、まったくやれやれである。
が、今度はそこの天井から水漏れ。上の階でも同じ状況になっているようで、それが落ちてきたのだ。
上は留守なんだろうか?
とにかく行ってみることにする。
が、エレベーターは止まった状態。
初めて非常階段を使ってみた。
今回の地震で幸いだったのは停電にならなかったことだが、非常階段は真っ暗。電気のスイッチも見当たらない。足元を探りながら上るが、真っ暗なのがちょっぴり怖くもあった(お化けがでないかしらという面で)。
私の部屋の真上の部屋のチャイムを押す。
留守なのか無音。
執念深くいることを祈って待っていると、カシャリとドアが開いた。
それはおばあさんだった。
「水漏れしてませんか?」
「ええ、してるんです」
おばあさんは揺れの恐怖と、水漏れをどうしていいかわからずに困惑していた。背後には同じようにびっくりしたままのような表情のおじいさんもいた。
私は中に入れてもらい、温水器のコックを締めた。
翌朝。
エレベーターは止まったまま。
私は9階から1階まで非常階段を使って新聞を取りに行き、新聞を手にして9階まで階段を上った。
9時過ぎになって、会社に状況を確認しに行ってみる。
またまた非常階段を下りる。 幸い社内に大きな被害はなかった。ビル全体で連動している壁掛け時計が、地震のあった時刻を指したまま止まっていた。
マンションに戻る。しかし、まだエレベーターは止まったまま。9階まで階段を上る。
さすがにふくらはぎが高級な鰹節のように固くなった。
なお、温水器は午後になって設備会社の人が来て直してくれた。
さて、倒れたCDラックは、名前がAからIまでの作曲家のCDが収められていたと書いたが、まったく無傷だったCDが1枚ある。
クレンペラー/フィルハーモニア管弦楽団の演奏によるベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-69)の「幻想交響曲(Symphonie fantastique)」Op.14(1830/31改訂)である。
というのも、記事で取り上げようとラックから出していたからだ。
クレンペラーのレパートリーとしてはいささか意外だが、ベルリオーズの『幻想交響曲』もまた快演と言って良い。比較的速めのテンポで演奏されるため、情緒的には極めてドライな印象が強い。フランス的なものには一切目をくれず、管弦のバランスを殆ど猟奇的に整え、いや、執拗なほどに意を払いと言うべきか、毒墺系の古典派交響曲の風格を持たせている。
こう書いているのは宮下誠である(光文社新書:カラヤンがクラシックを殺した)。
この「幻想」、クレンペラーが残した名演の1つとも言われているもの。
テンポはやや遅め。宮下も書いているように、フランスの香りはまったくと言っていいほどしない。実に丁寧に1つのシンフォニーを再現したという立ち位置のもの。ニュルニュルvsニョロニョロといった対抗配置のヴァイオリンの効果も楽しい。
第1楽章提示部の反復あり。第2楽章のコルネットの助奏あり。第4楽章の反復なし。
鐘の音はオーソドックスだが、満足のいく音色。
1963録音。EMI。
バーンスタインがフランス国立管弦楽団を振ったベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-69 フランス)の「幻想交響曲(Symphonie fantastique)」Op.14(1830/改訂'31)。
実は私、この歳になるまでバーンスタインの「幻想」を聴いたことがなかった。たぶん。だって記憶にないもの……。
なんか「幻想」って、バーンスタインにすっごく合いそうな気がするのに、それを探し、選択し、聴いてみるという視野が完全に欠落していた。
同じベルリオーズでも「イタリアのハロルド」の方は、バーンスタインの2種の演奏を聴いてきているのに、なんで幻想のことに注意が行かなかったのだろう。不思議だ、私って。
で、フランス国立管との演奏は1976年録音(EMI)。
いろいろと調べてみると、この演奏、評判も悪くない。なんか、これまでの人生、少し損した感じ。まぁ、私の人生ってこういう回り道が多いんだけど(他に思う浮かばないが)。
バーンスタインの、ちょいとデフォルメを効かせたような演奏のイメージを持って気負って聴くと、あ~ら肩すかし。
すっごく普通の“交響曲”の演奏。でも、この“普通”っていうのが大切。実はありそうでない、すばらしき偉大なる普通さ。
第1楽章呈示部の“恋人の主題”のリピートなし。
第2楽章のコルネットの助奏なし。
第4楽章でのリピートもなし。
どれもこれも、これらの扱いはひと昔前の当たり前のやりかた。
が、そういうことじゃなく、バーンスタインらしからぬアクも暴走もない演奏。それが私の言う“普通”って意味(“普通”のリピートが多いでしょうか?)。
第5楽章の鐘の音は、高いが薄っぺらではないもの(札響が所有している幻想専用の鐘の音に近い)。これがまた、私にはしっくりくる。
このCD、幻想交響曲の他にに収められているのが、キタエンコのけっこう意外に素敵なフランス物数曲である。
昨日は、新千歳空港が雪のため、羽田からの飛行機が引き返すかもしれないという条件付きの飛行。
なんだかんだで、1時間遅れで到着したが、引き返したり欠航されることを思えば、無事飛んでくれたことに感謝!
日々、普通に運航することって、すごいことなのね。
その昔、パリ音楽院管弦楽団という歴史あるオーケストラがあった。
しかし、いろんな事情、というか問題から解散。それを受けて再結成されて誕生したのがパリ管弦楽団である。
新生オーケストラの最初の演奏会は1967年11月14日。指揮はミュンシュ。
そして、最初に取り上げられた作品がベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-69 フランス)の「幻想交響曲(Symphonie fantastique)」Op.14(1830/改訂'31)であった。
「幻想」がメインとしてプログラムの最後に置かれるのではなく、1曲目でこのシンフォニーが演奏されたのである。
そのライヴ録音を。
ミュンシュ/パリ管の組み合わせによる「幻想交響曲」では、評価が高い同じ1967年のスタジオ録音があるが、それはこのお披露目演奏会の前の月に録られたものである。
狂乱という感じではないものの、かなり暴れた演奏。独特の迫力がある。これはライヴだからというだけではない。ミュンシュの気合のこもった声も入っている。
私の知る限り、ミュンシュの「幻想交響曲」の録音には、ボストン響との録音(1954年と1962年)、上に書いたパリ管とのスタジオ録音とこのライヴ、それにブダペスト響との録音('66年)がある。
実は私、名演と言われるパリ管とのスタジオ録音も遠い昔に聴いただけで、あまり覚えていない。
だから比較することはできないが、この1ヵ月遅れのライヴの演奏はとにかく速い。
女の子を好きになったときに、あまりせっかちに近づくと嫌われることが多いが(過去の週刊「プレイボーイ」情報による)、こんなスピードで好きになったら、相手はひいちゃうのが当たり前って演奏だ。ん?ベルリオーズの狂気に満ちた片思い物語だから、このほうがふさわしいのかもな。
第1楽章の序奏部はごくノーマルなテンポで始まり、瞑想的な雰囲気が漂う。やがて感情の起伏が激しくなり、早くも気迫が感じられる。呈示部に入る直前はテンポの変化が激しい。“恋人の主題”は速めのテンポで進む。反復はなし。そのあとはグングン進んでいく。恋焦がれる情熱がまさにほとばしる。
第2楽章はコルネットのオブリガートなしの演奏。まぁ、昔はこのコルネットなしが、そして第1楽章の反復もないのが当たり前だった。そういう、懐かしさをもこの演奏は感じさせる。
優雅さはあまりない、男子校の体育大会におけるお遊戯の出し物っぽい演奏。ちょっと言いすぎだけど……。たたみかけるような終り方はすごい。
第3楽章も速めのテンポで始まる。コーラングレとオーボエの掛け合いも、「早く応答せよ!」って感じだ。終りのコーラングレもサクサク進むのであまり孤独な感じはしない。
第4楽章。最初の金管から不気味さを醸し出している。断頭台へ引き連れられているというよりも、自ら望んで断頭台へ急ぎ足で進んでいくようだ。ティンパニも大いに暴れる。当然のことながら反復はなし。
第5楽章の開始はやや遅め。が、すぐに速くなる、すっごく。そしてまたテンポを落として……と変化に富んでいる。
鐘の音は甲高い薄っぺらなもの。余韻も少ない。森の鍛冶屋かって感じ。ディエス・イレの旋律も速めに進む。
後半の「魔女のロンド」に入ってもスピードは衰えることがない。そして熱狂が最高潮に達して曲は終わる。
いやぁ、演奏会の1曲目からこんな熱演で、指揮者はもちろん、オケもたいへんだったろうな。
粗い演奏で万人向けとは言えないだろうが、これはかなり興奮させられる。私はかなり好きだ。興奮することがじゃなくて、この演奏が。
このCDは当夜の演奏のすべてを収めたもので、ほかの演奏については別な機会に取り上げるとして、とにかく今ならギーレンのGM3のCD同様、990円で買えるんだから、いやぁ、まいったね。
2枚組。Altus。
さて、今日は赴任先へと帰還する。
この演奏みたく速度を上げ過ぎないように気をつけよう。
天気が良くて、路面も走りやすけりゃいいなぁ……
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