昨日、バスが札幌駅に着いたのは、12:15だった。
前日の晩に、長男から家に帰って来たという連絡があり、妻が「だったら雪かきをしてくれていると助かる」と頼み、さらに昨日の朝には物置の鍵のありかはどこかという電話があったので、少しは雪かきをしてくれているという期待が持てた。
札幌駅に着くと、自分たちと息子の昼食のためにESTAの地下で弁当を買い、自宅へと帰った。
家の前に辿りついたとき、私が目にした光景は、ウサギのダンスをしたくなるようなとても喜ぶべきものだった。
というのも、長男はカーポートの上で雪おろしの真っ最中だったのだ。それもほぼ終わろうとしていた。
物置の屋根の上も、ベランダも、すでに雪下ろし済みだった。
長男は疲労のせいで苦渋の表情を浮かばせていた。
私たちの姿を見ても、笑顔もなく、厳しい顔をしていた。
「弁当を買ってきたから下りてきて。あとはお父様がやるから、終りにしていいよ」
このように私は心から感謝して言った。
家に入った彼は、ソファにしばし呆然と座っていた。
「フーガの技法」の全曲を無理やり聴かされた、クラシック嫌いの青年のように。
私は自分の弁当の、鶏の唐揚げとクリームコロッケを譲渡してあげた。
このとき父親としてできることは、これくらいしかなかったのだ。
バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)の「フーガの技法(Die Kunst der Fuge)」BWV.1080(1745-50/1751刊)。過去にも書いたように、全19曲からなるバッハの対位法の極致を示すものと言われる作品で、第19曲は未完。第18曲が2台のクラヴィアで演奏する以外、演奏楽器の指定がない。 私は室内合奏で演奏した物の方が好きだが、チェンバロのみで演奏したもので例外的にひどくひきつけられるのはレオンハルトのものだ。
この演奏、頑としていて権威的だが、それでいて聴く者を威圧したり、愛想なく拒絶したりしない。
適度な緊張感と冷静さは、レオンハルトの解釈が、食品でよく言われる「安全・安心」を聴き手に与えてくれる。
なお、未完のフーガは「フーガの技法」に含まれないというレオンハルトの持論から、ここでは演奏されていない。
1969録音。第2チェンバロはアスペレン。
ドイツ・ハルモニア・ムンディ。
弁当を食べたあと、今度は私がカーポートの屋根に上った。
全体の9割が終わっており、私は残り1割分を下ろし、さらに庭に積み上がった雪山(写真)を少し崩して低くし、あたりに散らばった雪を近くの空き地まで運んだ。
この作業は14:15から始めたが、終わったのは16:10だった。
息子はというと、8:30から始め、私たちが帰宅した13:40までやっていたそうだ。
ということは、たとえ今日の午前中を考えても、私1人ならすべての作業は無理だったということだ。
いやいや、持つべきものは息子である。
この次も、ぜひお願いしたいものだ。
そして、2時間の、最後の仕上げ作業しかしていないのに、私の身体は今朝、あちこちが痛い。
J.S.バッハ
先日バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)の「イタリア協奏曲」を取り上げた。レオンハルトの演奏のDHM(ドイツ・ハルモニア・ムンディ←そう書くなら最初から略すねって感じである)盤である。取り上げたのにたいして褒めなかったことに申し訳なさを感じている。
そんなレオンハルトさんとイタリアの次はフランスを体験してみよう。ホトケさんじゃないですよ。
その前にこんな曲集のタイトルを。
クラヴィーア練習曲集。前奏曲、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジッグ、メヌエット、その他の典雅な楽曲を含む。愛好人士の心の憂いを晴らし、喜びをもたらさんことを願って、ザクセン=ヴァイセンフェルス公宮廷現任楽長ならびにライプツィヒ市音楽監督ヨーハン・セバスティアン・バッハ作曲。作品Ⅰ 自家蔵版 1731年
これはバッハのクラヴィア練習曲集第1部の表題で、収められているのは「6つのパルティータ(6 Partiten)」BWV.825-830である。
愛好人士の心の憂いを晴らす上に喜びまでもたらすってのがすごい。
この4年後の1735年、続く第2部が刊行された。
その標題は次のとおり。 クラヴィーア練習曲集 第2部。イタリア趣味による協奏曲とフランス様式による序曲各1曲、いずれも二段鍵盤のクラヴィツィンベル(チェンバロ)のための楽曲を含む。愛好人士の心の憂いを晴らし、喜びをもたらさんことを願って、ザクセン=ヴァイセンフェルス公宮廷楽長ならびにライプツィヒ市音楽監督ヨーハン・セバスティアン・バッハ作曲……
再び心の憂いを晴らしてくれようとしてくれたのだ。
この練習曲集第2部には「イタリア協奏曲」と「フランス風序曲(パルティータ)」(Ouverture(Partita))ロ短調BWV.831(1734?)が収められている。
で、今日は「フランス風序曲」。
名前が似ているが、「フランス風序曲」は「フランス組曲」BWV.812-817(1724頃)とは別な作品であることを、念のためここに記しておこう(全6曲からなる「フランス組曲」の第1~5番は「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳」第1巻に含まれる)。
そして、「フランス風序曲」の原形は「パルティータ第2番」ハ短調BWV.826なのである。
当時はイタリア同様、フランスもドイツよりも音楽先進国だったが、バッハがフランスの様式を用いてこの作品を書いた。
《フランス風序曲ロ短調》のほうは、やはりフランスのモデルに従っているバッハの管弦楽組曲を思い起こさせる。しかしここでは楽曲構成が拡大されて、全部で11になっている。序曲-クーラント-ガヴォットⅠとⅡ-パスピエⅠとⅡ-サラバンド-ブーレーⅠとⅡ-ジッグ-エコー。組曲として考えられるすべての可能性が投入されている観がある。伝統的な終結楽曲であるジッグに、なお1曲のエコー楽曲が付け加えられているが、そこには舞踏音楽の背景から全く切り離された、デリケートな音楽の残照がかそけき夕暮れにこだまするのである。
レオンハルトの演奏は優雅、典雅というよりは、凍てつくような感じがある。
その厳しさは、バッハの肖像画の顔のようである。
1967録音。ドイツ・ハルモニア・ムンディ。
なお、緑色の文字の部分はW.フェーリクスの「バッハ 生涯と作品」(杉山好訳。講談社学術文庫)からの引用である(←なに威張ってんだか……)。
「イタリア協奏曲」では、私はロスの演奏が好きだ。マイクが小鳥のさえずりを拾っているのが何とも微笑ましい。
ピザの中で私が最も好きなのは“ミックスピザ”だ。
こういうのはイタ飯屋のメニューにはない。宅配ピザ店のメニューには似たようなものがあるのかもしれないが、“ミックスピザ”は冷凍食品の専売的商品だろう。
ちょうどトースターレンジに収まる絶妙な直径!
何よりうれしいのはサラミがのっかっていることだ。
サラミがなければミックスピザとは呼べない。
が、いったい何がミックスなのだろう?
よくわからない。
が、無性に食べたくなってきた。
先日のマラチオン事件による写真入り社告を見て、そう思っている私である。
私はイタリアに行ったことはない。
イタリアに、というよりも、イタリアも行ったことがないと言った方が正しい。
でも、別に行きたいと思わない。
その地にはきっとミックスピザはないだろうから。
言葉が通じないイタリアに旅行してもストレスがたまるだけだ。
気分だけイタリアに浸るだけで十分である。
J.S.バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)の「イタリア協奏曲(Italienisches Konzert)」ヘ長調BWV 971(1734)。
1735年に出版された「クラヴィア練習曲集第2巻」の中の1曲である。原題は「イタリア趣味によるコンチェルト(Concerto nach Italienischem Gusto)」。
イタリア趣味ってどんなんかというと、「へぃ、そこの彼女、お暇なら今夜ボクとコンチェルトしちゃわな~い?」っていう女ったらし趣味ではたぶんなくて、当時はドイツよりも音楽先進国だったイタリアの様式を模範にしているとのことだ。
その様式とは協奏曲形式。
ただし、バッハのこの作品は3楽章からなるクラヴィア独奏曲。
じゃあ何で協奏曲なのかというと、チェンバロの2段ある鍵盤の機能を使って対比させることで(フォルテとピアノの強弱の指示もある)、イタリア風の合奏協奏曲を模倣しているからである。
レオンハルトの1965年録音の演奏は、彼らしく強靭で現代的な演奏。かっこいいし、威厳がある。
が、音が悪い。
左右の音が広がっておらず、ちょっとイライラ。
それが残念だ。
さっ、2014年の仕事始めだ。
自分の気持ちをごまかすために、心が癒される音楽を聴こう。
J.S.バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)の「平均律クラヴィア曲集 24の前奏曲とフーガ(Das wohltemperierte Clavier, 24 Praludien und Fugen)」。2部からなり、第1部BWV.846-869は1722完成。第2部BWV.870-893の完成は1738-42。
第1部、第2部とも曲の配列は、ハ長調、ハ短調、嬰ハ長調、嬰ハ短調、ニ長調、ニ短調、変ホ長調、変ホ短調、ホ長調、ホ短調、ヘ長調、へ短調、嬰ヘ長調、嬰へ短調、ト長調、ト短調、変イ長調、嬰ト短調、イ長調、イ短調、変ロ長調、変ロ短調、ロ長調、ロ短調。
バロック時代になり鍵盤楽器が隆盛した。そこで鍵盤楽器にもあらゆる調性への対応が求められるようになったが、平均律とはオクターヴを均等な12音程に分割して純正律の近似値を作りだしたものである。まっ、むずかしいことは私に頼らず、自分で何とか解決していただきたい。 全曲48曲を朝のうちに聴くことは困難である。
遅刻する。いや、それ以前に二度寝してしまう。
今朝聴いたのは、第1部の第1曲と第24曲。
第1部第1曲は、グノー(Charles Francois Gounod 1818-93 フランス)が「アヴェ・マリア(Ave Maria)」(1859)で用いたもの。
この曲には「バッハの第1前奏曲に付けられた宗教的歌曲(Melodie religieuse adaptee au 1er prelude de Bach)」という副題がついている。
つまり、バッハの平均律の第1曲ハ長調BWV.846の前奏曲部分に、グノーが歌(のメロディー)を付けたのだ。
また第24曲ロ短調BWV.869は、私が若かったロング・ロング・アゴーの時代、日曜日の朝にNHK-FMで放送されていた“名演奏家の時間”のテーマ曲-だだし編曲されていた-に使われていたもので、ひじょーに懐かしい。
って、これを聴いたら、また仕事に行く気が失せてきた。今日が日曜だったらなぁ……
この曲の演奏では、やっぱりレオンハルトのもの最高ではないだろうか?
バッハの厳しくも美しく、崇高な音楽が宝石のように光を放っている。。
草なんか食ってる場合じゃないぞ、草食系ダンシよ!
なんとなく、そんなイメージの演奏。
全48曲を。
第1部の録音は1972-73。第2部は1967録音。ドイツ・ハルモニア・ムンディ。
さあ、今日は大安だ!
正月中、夜ふかしで寝不足気味って方は、そのままふとんに潜りこめばいいさ。
逆に、この正月は寝正月でしたって人は、夜ちゃんと眠れなくて苦しんでいるんじゃないでしょうか?真剣に心配はしてないけど。
そんなわけでタイミングがいいのかどうかはわからないが、重くないってこともあって、J.S.バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)の「ゴルトベルク変奏曲(Goldberg-Variationen)」ト長調BWV.988(1741/1742出版)。原題は「さまざまな変奏をもつアリア(Aria mit verschiedenen)」。
曲についてはここをご覧いただくとして、バッハの弟子のゴルトベルクが仕えていたカイザーリンク伯爵の不眠症を治すために作曲された(これを聴いて眠りにおちてしまいましょう!)と言われている。
眠気は別として、お正月で疲れた胃腸をすっきりさせるために、また、1年のしょっぱなから末広がりだなんだと大曲を聴いてしまいゲップが出そうになっている中和剤として、レオンハルトの定評ある演奏で、耳も心も胃も大腸も腰も癒しましょう(誰に向かって言ってるんでしょうね?)。
1976録音。ドイツ・ハルモニア・ムンディ。
“GUSTAV LEONHARDT PLAYS BACH"(10枚組)の1枚。
さて、別に知りたくもないだろうが、教えてあ・げ・る!私の今年の目標を。
それはロト6で高額当選を果たすことだ。
だが、そのためにはロト6を欠かさずに購入し続けなければならない。
目標達成の前に、持久力が続かない予感が早くもしている。
もう1つ。
こちらは現実的に、CDの整理処分。
きちんと数えていないが、私が持っているCDは1200~1300枚だろう。 このうち、もうほとんど聴くことがないものがけっこうある。
収納にも困る。
地震が来たら悲惨になる。去年の2月、震度5弱のあとの状態がこれだ。なぜか“いんてりせんす”という血圧計の箱が目立っているが……
CD1枚当たりの平均収録時間を1時間として、1000枚なら鑑賞に要する時間は1000時間。
1日2時間を鑑賞時間に充てるとして-現実的には無理だが-全部聴き返すには500日を要する。
まぁ、そんなことできないわな。
そこで今年は、ほとんど聴かないものを処分(でも、もったいないというか、愛娘を集団就職に出すような気分だ)、そうねぇ、少しずつオークションに出そうかしら、と思っている。
なんか後ろ向きな目標だなぁ。
ところで、導眠向け作品を紹介しておきながら恐縮だが、昨日目が覚めるような出来事があった(すでに目覚めていたが)。
午前9時前のことである。 リビングの窓辺に座って、TVで他人事のように-実際他人事である-箱根駅伝で苦しそうに走り続ける若者を観ているときに、窓の外で小さな毛玉がチョロッチョロッとややかったるそうに動くのが目に入った。
モジャ公かと思ったが、それは小さなネズミだった(窓越しだったので、極小のヒグマを見まちがった可能性もある)。
そいつは庭の角のナツツバキの根元から、雪の下に潜り込んで行った。
そのあとに撮った足跡がこれだ。
「かわいい足跡だこと」って?冗談じゃない。
雪の下を、やつはかったるそうに、しかし貪欲に突き進み、その先の私がかわいがっているバラたちの幹の皮をきれいにかじっている可能性が極めて大きいのだ。
私は降り積もった雪の上に頭を出している冬囲いの支柱を、別な竹の棒でカンカンと叩いた。音と振動で驚かせ、反省を促し、二度と近寄らないようにするためだ。
午後。
妻が窓辺の椅子に座っていると、今度はナツツバキの根元から出てきて、どこかへピョコッピョコッと歩いて行ったそうだ。
てことは、今までお食事をしてたというのか?
ネズミの食害は、“北海道樹木病害虫獣図鑑”によると、加害時期は積雪下でとくに融雪期と書いてあったが、どうやらこいつは“とくに”にこだわってないようだ。
ん?そっか!
樹皮を食べられないようにするためには、他にもっと美味しいものを与えればいいのだ。トゲのあるバラを噛むよりも、ずっと安全だろうし。
そう考え、家にあった海外みやげでもらったピーナッツをナツツバキの根元にバラまいてやろうと思いついた。
すばらしいひらめきだ。
が、妻の激しい反対にあってしまい、断念した。
確かに1匹どころじゃなかったら、呪われた屋敷のようになってしまう。
そして、今日、雪の下でどのような悲劇が起こっているのか気にしつつも勤務地へと戻る。
……僕は幸いなことに生まれてから一度も肩凝りを経験したことがないのだが、それでもなんとなく身体がいびつになったような気がしたものだ。そういうときには毎日体操をしたが、体操くらいでは間に合わないときには、ピアノに向かってバッハの「二声のためのインヴェンション」を弾くことにしていた。とはいっても僕はピアノを弾けるというほどは弾けない。その昔習っていたときのことを思い出しながら、ちょぼちょぼと楽譜を辿るだけである。でも、それは効いた。もし同じような症状に悩んでおられる方がいらっしゃったら試してみられるといいと思う。これは効きます。
バッハのインヴェンションというのは、ご存じのように、左手と右手とをまったく均等に動かすように設定されている。その点にかけては本当にもう異様なくらい徹底している。だから僕は……
村上春樹の「雑文集」(新潮社)のなかの「バッハとオースターの効用」の一部である。
「試してみられるといい」って書いてるけど、そしてほんとに効くのかもしれないけど、私のこ とを言うならば、この肩凝り対処法を実行に移す前に、何年にもわたってピアノ教室に通わなくてはならないだろう。
簡単に、さらっと言ってくれるが、バッハのインヴェンションを弾くのと、サロンパスを貼るのとはわけが違うんだから。
いやいや、サロンパスだって角が丸まってくっつき合っちゃっうっていうトラブルが起こりがちであって、4つの角をきれいままに、また途中にしわが寄らないようにするのはけっこう難易度が高い作業だ。
これだって、あーだこーだやってるうちに、肩凝りをさらに悪化させる恐れがある。
あーよかった。私、肩凝り持ちでなくて。
バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)の「2声のインヴェンション(Inventione a 2)」BWV.772-786(1723)は、バッハの長男であるヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのクラヴィーアの練習用に作られた15曲から成る練習曲である。
練習曲といっても、鑑賞するに十分に値する作品。私がバッハ好きになるきっかけとなった曲の1つである。
この曲のLPレコードも私の音楽鑑賞歴のごく初期に購入したが、近所のいわゆる“街のレコード・ショップ”にもこの曲のLPがあったのは、ピアノを習うご令嬢を持つ母親を意識していたせいだろう。
実際、そのLPは音楽愛好者向けののものではなく、演奏見本としてのもので、ピアノを弾いていたのは田村宏。解説には楽譜がいくつも載っていて、鑑賞の手引きではなく、轢き方のポイントが書かれてあった。
村上春樹が「左手と右手をまったく均等に動かすように設定されている」と書いているように、2声というのは2つの声部(旋律線)が同時に進行していくわけで、まったく均等かどうかは私にはわからないが、右手と左手が主と従の関係にないのは間違いない。
この作品の次のステップアップ版練習曲として、同じく長男のために作られた「3声のためのインヴェンション(シンフォニア)」BWV.787-801(1723)があるが、これは3つの声部が同時に進行する。手が2本しかないのに3つのメロディーラインを弾くわけで、右手左手ではなく、10本の指が3つの声部のどこかに割り振られながら進むわけだ。
が、10を3つに分けるには端数がでる。割り切れない。ってことは、「3声のインヴェンション」を弾くと、バランスを崩して肩凝りが悪化してしまうんじゃなかろうか?と素人の私は考えてしまう。
チェンバロのために書かれた曲は、できるだけチェンバロによる演奏で聴きたいというのが私の基本方針。
だから、インヴェンションもピアノではなくチェンバロのものを選ぶ(私がこの曲を初めて聴いたときのエアチェックした演奏はチェンバロによるもので、だから田村宏のLPはほとんど聴かなかった)。
今日はこの曲の王道的演奏とも言うべきレオンハルトのものを。もちろんチェンバロによるもの。
1974録音。SEON。
ところで、なぜ“インヴェンション”という名前がついているのか?
バッハの言葉によれば、2声と3声を合せた30曲は単なる練習曲ではなく、そのための創意を養い、歌う力をつけ、作曲への関心を喚起する効用を持つのだという。
いずれにしろ、聴く者に対して鑑賞意欲を喚起する作品だ。
月曜日は4時間ほど運転したので、車内でCDを聴いた(あのときはまだ「これから紅葉だわい」と言っていたのに、わずか2日後に冬になるとは)。
運転しながらクラシック音楽を聴くことはあまりしない。というのも、エンジン音や走行音でよく聴こえないからだ。
が、長い時間雑音まじりのラジオをかけっぱなしにしているのもどうかと思い-OFFにすればいいって?なるほどぉ~-、今回はあらかじめお泊り道具と一緒に持ってきたCDをかけた。特にラジオの入りが絶望的な1時間ほどの間だけだけど。
曲はバッハ(Johann Sebastian Bach )の管弦楽組曲の第1番から第3番。
バッハは管弦楽組曲(Suite)と呼ばれている作品を4曲書いている。昔は5曲だったのだが、第5番は疑作と見なされるようになり、現在はバッハの手になる物は第1番~第4番とされている。
また、バッハ自身はこれらを「組曲」ではなく「序曲(Ouverture)」と呼んでいたという。序曲から始まる音楽作品といった意味である。そのため、現在では「序曲」という曲名を用いることも増えてきている。
4曲の中で最も有名なのは第2番。
“優雅”と評される名曲だが、個人的にはどこか“優雅”と思えないところがある。だって、全体に陰な曲だから。上品なのは間違いない。けどどこか物憂げなところがあって、日本語としては正しいのかもしれないが、“優雅”ってこういうものなんだろうかと、余計なことを考えてしまう。これはあまりドライブに向かない。
第2番と並んで有名なのは第3番。第2曲がとりわけ有名な「エア(アリア)」。編曲されて「G線上のアリア」とされたときから、むちゃくちゃ有名になった。ずっと昔の話だが。
第3番は金管が入っていて華麗。が、やややかましいところもあって、やはり運転向きとは言えない。
そんな私の最近のお気に入りは第1番ハ長調BWV.1066(1717-1723頃)である。
この曲こそ優雅って感じがするのだが……
第1番は次の7曲から成る。
1. 序曲
2. クーラント
3. ガヴォット
4. フォルラーヌ
5. メヌエット
6. ブーレ
7. パスピエ
このうち、ガヴォット、メヌエット、ブーレ、パスピエの4曲はⅠとⅡに分けられる2つの部分がペアになっている。
なお、クーラントの語句を目にして車の冷却水を思い浮かべた人は、私と同じ発想レベルだと反省した方がいい。ちなみにウチの車のクーラントは緑色の方である。
編成は独奏楽器的に扱われる2ob,fgと弦楽群、通奏低音。つまり合奏協奏曲の性格を持っている。
今日ご紹介するのはブランデンブルク協奏曲の演奏同様、独創的なカザルスの演奏。オーケストラはマールボロ音楽祭管弦楽団。
札幌の地下鉄。
札幌ドームがある福住駅。
ファイターズの試合があるときは、券売機のところに“大変混雑しますのでお帰りの切符は先にお買い求めください”みたいな内容の張り紙が貼られる。
これが、なぜか毛筆で書いたような手書きの文字なのだ。
カザルスの演奏はこの文字を私に思わせる。
がっちりとしていて、力強くて、意気込みが感じられる。が、どこかが、何かが違う……
良い演奏なんだけど、良くも悪くもどこかビミョーに異質だ。
でも、騒音にさらされる車内で聴くには実に良いし、もちろんきちんと聴く分にも“ひと味もふた味も違うものを耳にしちゃってる”っていう、ちょっぴりいけないことをしているようなワクワクドキドキ感がある。
1966録音。ソニー・クラシカル。
その月曜日。
高速道路を順調に走ったが、途中ちょっと先がつまって低速になったとき。
またまた起きた、ノッキング。
タコメーターが1500回転の目盛あたりを中心にウィンウィンと上下に振れた。アクセルを踏み込むと直るのだが、そんなことが数回起こった。
これっていったいなんなんだろう?
お久しぶりです。彩です。覚えていますか??
一度お会いしたんですが、あの時からずっとあなたの事を考えていました。
あれから何年経ちましたかね。
私も色々とあり、現在は自分で輸入関連の会社を経営する事になりました。
今度お食事でもいかがですか?
お誘いがご迷惑でないなら、今度一緒にお食事をしながら昔のお話でも出来たらと思っています。
お忙しいと思いますが、お返事お待ちしています。
彩
お久しぶりも何も、あなた誰?
“彩”で思い出すのは、小学生のとき使っていた水彩絵具がギターペイントだったってことぐらい。
それぐらい私は彩のない人生をおくって来たのだ。いや、だから彩という女性がいなかったという意味じゃなく、イロドリがなかったってこと。ふんっ!
そういえば先日妻が実家に電話をかけたところ、父親が出たそうだ。
「もしもし、わたし」
「わたしって誰だ?」
父親の反応は決しておかしくない。わからないのだから。
器楽曲をオーケストラ用に編曲して彩りを鮮やかにしようという試みは、これまで少なからずある。
ラヴェルがムソルグスキーのピアノ曲「展覧会の絵」をオーケストレーションしたものは、原曲よりも聴かれる機会が多い、オーケストレーションの最たる成功例だろう。 ストコフスキーはJ.S.バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)のオルガン曲、有名な「トッカータとフーガ ニ短調」「小フーガ ト短調」「パッサカリアとフーガ ハ短調」をオーケストラ編曲している。
これが原曲の良さを損なう余計な産物なのか、それともオーケストラにとって価値あるレパートリーの拡大となったのか?とらえ方は人によってさまざまだろうが、私は「どーもなぁー」って感じてしまう。
例えば、ウェーベルンのリチェルカーレ編曲ではそういう気持ちにならなかったんだけど、ここには何の新鮮味も、目新しさも、革新性も感じ取れないのだ。
ってことは、私はバッハの作品の管弦楽化というものに拒否感があるのではなく、ストコフスキーの編曲が嫌いなんだろう。
ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏を。
先日私が大絶賛した「春の祭典」とのカップリング。
2013録音。グラモフォン。
お久しぶりといえば、先週、なんと世の中は狭いものだと言わざるを得ない再会があった。
人口が1万人を切っている、とある町。
その日私たちはここを訪問し、この町にある取引先と会議があった。
夕方の5時過ぎに会議は終わり、あらかじめ予定していた懇親会を、町内の飲食店で紳士的に行なった。
帰るときにレジの横を通ると、後ろ姿になんとなく見覚えのある人が……
近づいてみると、右頬に見覚えがあるような……
果たしてそれはルパソさんだった。
現在札幌に勤務しているルパソさんは、これまた彼は彼なりの出張でこの町を、そしてこの店を訪れていたのだった。顔を見るのは3年ぶりぐらいになる。
が、ルパソさんは輸入関連の会社は経営していない。そこが彩とは違うところだ。
「何してるの?」
私を私と認めたルパソさんの第1声はこれだった。無感動な人だ。
「そっちこそ」
「いや、こっちで会議があって」
「私も。ところでルパソさん、携帯の番号変わってない?」
「変わった。あとから電話しとくわ」
こうして別れたが、翌朝見慣れぬ携帯の着信番号に、前夜のことをすっかり忘れてワン切りだと思い込んだ私は、思わず削除しそうになった。
ごめんね、ルパソさん。
でも、すんでのところで消さずにすんだから。
さて、金曜日に自宅に戻り、土曜日はプルーンの木の枝の剪定を中心にガーデニング作業。 高く上に伸びた枝を、スライド式アルミポールの先にはさみがついた道具で切った。
このたぐいの商品は、「これで高いところの枝も楽々カット」などとときどきテレビ通販などでも紹介されている。軽くてご婦人にも手軽に扱えるというのもセールス・ポイントだ。
ウチのアルミ製の軽量タイプ。でも10分もやってるうちに腕がプルプルしてくる。楽々なのはごくごく最初のうちだけだ。それとも私はご婦人よりもか弱いのかもしれない。
庭ではまだしぶとく咲いてくれているバラも何種類かある。
写真は“ブルー・フォー・ユー”という品種。今年購入したものだ。
花が終わりかけている写真で申し訳ないが、つぼみを見るとなかなかブルーである(「なんでぇ、紫じゃないか」なんていう人を、私は好きになれない)。
日常の一コマで、人に対して「ブルー・フォー・ユー!」なんて言うと、「人を落ち込ませる気か?」と叱られるに決まっているのに、バラの名前だとオサレになるのが不思議だ。
“アプリコット・ネクター”も整った花を咲かせていた。不二家ネクターを飲みたくなった。
せっかくおうちに帰って来ているというのに、昨日は雨。
朝起きたときは-それは6時前のことだったが-まるでとんでもない不吉なことが起こるんじゃないかというくらいに暗く、50年くらい使いつづけている敷布団の中から出て来そうな汚い鉛色の雲が重く全天を覆っていた。
幻想交響曲の第3楽章のように遠くから雷鳴が聞こえ、こりゃまずいと思い、雨が降り出す前にコンビニに朝刊を買いに行ったが、お約束してかのように帰り道はどしゃ降り。やっぱ新聞を袋に入れてもらえばよかったわい。
そのあとは雷鳴も近くなり、ゲリラ豪雨とまではいかないがゴリラ豪雨くらいの強い降り。
そんななか床屋に行ったが、散髪中に巨大な音がした。雷が近くに落ちたようだが驚いた床屋の主人がびくっとして、危ない危ない、はさみの先が私の頭皮に刺さったらどうするの?って状況だった。
前日の土曜日の夕方に確認したところ、バラたちの花に青やら茶色のイモムシがついていて、また病気で葉の色がおかしくなっているのもあって、ぜひとも殺虫剤と殺菌剤をかけたいのだが、これじゃ何にもできない。
私の気分は、あの雲のように重い。
そんなときは気分転換だ。
コープマンの「ブランデンブルク協奏曲」。
バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)のブランデンブルク協奏曲については、最近のマイ・ブームのせいでマゼール盤とカザルス盤を取り上げたばかりだが、今日はコープマン/アムステルダム・バロック管弦楽団による古楽器演奏。
発売元はこう主張している。
現代におけるバッハ演奏の第一人者コープマンによるこの録音は、様々な楽器奏者の多彩な名人技、愉悦感と生命力に溢れた音楽が素晴らしく、数多い録音の中でも推奨すべき名演奏の筆頭として、多くの識者からの絶賛を受け続けている名盤です。コープマンの即興的なチェンバロも聴きものです。
発売元が推奨すると言っているのだ。
これ以上に信頼できる言葉はあるまい。
いや実際、この演奏を聴くと沈んだ気持ちも少しは浮かび上がる、元気はつらつ、心躍るような演奏だ。
各楽器のバランスもよく、すべての音が輝いている。
特に、第5番のコープマンのチェンバロ独奏は、やみつきになるほど刺激的。
また、第3番の第2楽章として「トッカータ ト長調」BWV.916のアダージョが演奏されているのも考え抜かれた結果だろうし、第2番のトランペットがこれほど他の楽器と自然に融合している演奏も珍しい。
少なくとも私が知っているブランデンブルク協奏曲の録音ではイチオシである。
1983録音。エラート。
今朝はというと、おやおやおやおや、また雨降りだ。
イモムシや毛虫どもよ、バラを食ってバラの体臭を発散し、モテモテになるがいいさ。
痛恨の極みのまま、午後に勤務地へと戻る。
コープマンのこのCDを聴きながら、痛恨が痛快に変わるに違いないと思い込みながら帰ろう。
「『ブランデンブルク』ね?」と彼女は言った。
「好きなの?」
「ええ、大好きよ。いつも聴いてるわ。カール・リヒターのものがいちばん良いと思うけど、これはわりに新しい録音ね。えーと、誰かしら?」
「トレヴァー・ピノック」と私は言った。
「ピノックが好きなの?」
「いや、べつに」と私は言った。「目についたから買ったんだ。でも悪くないよ」
「パブロ・カザルスの『ブランデンブルク』は聴いたことある?」
「ない」
「あれは一度聴いてみるべきね。正統的とは言えないにしてもなかなかの凄味があるわよ」
「今度聴いてみる」と言ったが、そんな暇があるものかどうか私にはわからなかった。
前にも取り上げたことがあるが、これは村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(新潮文庫)の第35章。
“私”が借りたレンタカーに“彼女”が乗ったときの会話である。
チェロの巨匠カザルス(1876-1973)が指揮をしたJ.S.バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)のブランデンブルク協奏曲(全6曲)。
結論から言えば、彼女の言うとおり正統的とは言えないし、なかなかどころかかなり凄味がある。
ちなみにここに出てくるピノックのブランデンブルクは1982年の録音。昭和でいうと57年。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」が最初に出版されたのは昭和60年である。
カザルスのブランデンブルクはブランデンブルクじゃないみたいだ。大きな編成(だと思われる)から出てくる厚ぼったい響き。ひどく速いかと思えば、鈍い足取りになったりするテンポ。第1番第4楽章で突然出てくる酔っ払いのゲップのような声-たぶんカザルスのものだろうが-にも驚かされる。
そして、第1、第4、第5番ではチェンバロではなくピアノを用いている(ピアノには意外とそれほど違和感がないチェンバロにこしたことないけど。ペライアもピアノで第5番を弾いていた)。これも、はっきり言って、正統的ではない。
ちなみにこのCDの帯に書かれている文は、「カザルスはバッハ演奏にひときわ身を捧げてきました。(ここには)偉大な音楽家カザルスの人間味に溢れた無上の世界観が示されています。『スタイル』や『様式』といったものにしばられることがなく、いままさに音楽が創造され、その喜びに満ち溢れた演奏として聴き手を魅了します」というもの。
うん。
つまりは、好き勝手しているんですよ、と読み取れなくもない。
私はこの演奏、好きかと言われると好きではない。数多い大絶賛の声もわかるが、全面的には共感できない。
が、だからといって見捨てられるかと言うと、見捨てられない。自分の鑑賞リストから削除するにはもったいなさすぎる演奏だ。
すっごく人間臭い。明るいか暗いか別として、そして決して足取りは軽くはないが生命力が溢れている。
最高のキワモノ・ブランデンブルク。もう化石かもしれないが、かなり価値ある化石である。
でも、録音に入っている声って、けっこう私、好きである。 冬眠中とは事情が違うのだ。
昨夜の都内での泊まりは、シングルルームどころか、そしてシングルのツイン・ユースなんて冗談を言ってるどころえはなく、ツインノシングル・ユースだった。
そして、ロビーにはこの日を含む都内でのヴェルディのオペラ公演のポスターが貼られており、その横にはこんなんが。
常識的に考えれば、ドゥダメルがここに泊まっているということだろう。
まさか、こんな手の込んだ宣伝をするとは思えない。公演当日だし。
日本語しか話せないのが(もちろん私が)残念だった。
待ち伏せするほどの根性は生来ないし……
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