バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)の「ブランデンブルク協奏曲(Brandenburgisches Konzert)」。
1721年にブランデンブルク辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒに捧げられた6曲の協奏曲の通称。ただし、実際に作曲された年はさまざまな時期またがる。また曲名の原綴はConcertoのみで、「ブランデンブルク協奏曲」の通称はあとでつけられた。
さて、シュニトケのコンチェルト・グロッソ第6番のときに触れた、コンチェルト・グロッソについて、である(日本語、変あるか?)。
音楽之友社の「音楽中辞典」(どうでもよいが、いま打ち間違ったら“音楽中耳炎”ってなった。面白いですね)の「ブランデンブルク協奏曲」の項には、“第1、第3、第6番は独奏楽器を持たないコンチェルト・シンフォニア、第2、第4、第5番はコンチェルト・グロッソである”と書かれている。
コンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)という形式についてはシュニトケの記事で書いたが、ここに新たにコンチェルト・シンフォニアなる言葉が現れた。
これについては「音楽中辞典」には項目がない。大辞典じゃなきゃだめなのか?
まずは、この6曲の作曲年(ベッセラー教授の研究による)と、編成について。
第1番ヘ長調BWV.1046(1718/19頃)
2狩猟hrn,3ob,fag,vn-picc,str(2vn,va,vc),BC
第2番ヘ長調BWV.1047(1719頃)
trp,Bfl,ob,vn,str(2vn,va,vc,ヴィオローネ),BC
第3番ト長調BWV.1048(1718頃)
str(3vn,3va,3vc),BC
第4番ト長調BWV.1049(1719/20頃)
vn,2Bfl,str(2vn,va,ヴィオローネ,vc),BC
第5番ニ長調BWV.1050(1720/21頃)
Fl-traverso,vn,str(vn,va,vc,ヴィオローネ),cemb
第6番変ロ長調BWV.1051(1718頃)
2va-da-braccio,2va-da-gamba,vc,ヴィオローネ,cemb
注) BCは通奏低音。ヴィオラ・ダ・ブラッチョはヴィオラの、ヴィオラ・ダ・ガンバはチェロの前身となる楽器。フラウト・トラヴェルソはフルートの、ヴィオローネはコントラバスの前身となる楽器。ヴィオリーノ・ピッコロ(ピッコロ・ヴァイオリン)はヴァイオリンよりも高音を出せる楽器。Bflはブロックフレーテ(=リコーダー)の、cembはチェンバロ(ハープシコード)のこと
作曲年を見ると、コンチェルト・シンフォニアとされている3曲の方が、6曲中でも先に書かれており、コンチェルト・グロッソの第2、第4、第5番はそれよりもあとに書かれていることがわかる。
つまり、ソロとトゥッティ(合奏)の区別がまったく見られない第3番と、同じくソロとトゥッティの対比がない上に古風な楽器を用いている第6番は、6曲の中でも様式的に古い。
また、第1番については楽器編成が他の5曲と比べ異質で、協奏曲と組曲の要素が混在しており、やはりソロとトゥッティの対比も見られない。
そののちに書かれた3曲(2番、4番、5番)になって、はっきりとした合奏協奏曲の形になったのである。
さて、結論。
コンチェルト・シンフォニアというのは、いくつかの対等な楽器群が協奏するものなんだそうである(全音のこの曲のスコアにある角倉一郎の解説による)。
ってことは、オーケストラの中の楽器が場面場面でソロを担ったり、パート同士が協奏する意味だからこそ、バルトークの傑作「管弦楽のための協奏曲」は、“管弦楽のための協奏曲”って名になったんだろう。
マゼール指揮ベルリン放送交響楽団の演奏を。
独奏の面々は、豊田耕児(vn)、デボスト(fl)、アンドレ(trp)など豪華。
1965録音。デッカ(TOWER RECORDS COLLECTION Vol.16)。
この演奏-もちろんモダン演奏-を聴くと、ブランデンブルク協奏曲を聴ける喜びに満たされる。クラシック音楽に出会えてよかったと思える至福のひとときである。
伸びやかながら締まりのある演奏。心地よいというのは、まさにこういう気分だ。
なんでもその昔、吉田秀和が、このマゼールの演奏を絶賛したんだそうである。
音楽が素晴らしすぎるせいだろう。この曲の場合、たいていの演奏で裏切られることはないが、マゼールの演奏はモダン演奏のなかでもかなり優れた演奏だと思う。
1日に指揮者の堤俊作が亡くなった。かつて高関健、小松一彦とともに札響の専属指揮者だった人だ。堤が1988年5月の札響定期で演奏したチャイコフスキーの交響曲第5番はすばらしいものだった(CD化された)。
2日には作曲家の諸井誠が亡くなった。
実は私、諸井誠の音楽作品をいまだ耳にしたことがない。が、この人が書いた音楽に関する書籍はいろいろと読ませてもらい、役立たせてもらった。
お二人のご冥福をお祈りいたします。
J.S.バッハ
どんな本でも必ずと言っていいほど賞賛されているヴァイオリン・コンチェルトがある。
これだけ皆がみな、褒めているのは褒め殺しをたくらんでるんじゃないかと思えるほどだ。
それはバッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)の3つのヴァイオリン協奏曲だ。
たとえば、かなり前に書かれたものではあるが、宇野功芳センセは、第2番のコンチェルトについて、「この曲はバッハの存命中、さらには彼の音楽がまったく忘れさられていた時代にも、しばしば演奏された珍しい例であり、もちろん現代でも『第1番』や『2つのヴァイオリンのための協奏曲』以上に愛奏、愛聴されている。その理由としては、作風がもっとも近代的であり、ヴァイオリンの歌う性質を強調し、旋律的で、複音楽的な要素が少なく、独奏楽器の個性を生かしている点などが挙げられよう」と書いており、第1番については、「『第2番』ほどポピュラーではないが、第1楽章が短いとはいえ、その魅力の点では決して劣るものではない」としている。
「2つのヴァイオリンのための協奏曲」では、「形態的には合奏協奏曲の名残であるが、この曲の場合、2つのヴァイオリンは合奏部と対立するのではなく、むしろ互いにからみ合い、合奏部は独奏部の伴奏をするという形式で、従来の合奏協奏曲よるは遥かに進んだものといえよう。特に第2楽章は美しい姉妹の仲睦まじい語らい、と評されるほど親密な情趣にあふれている」と述べている(以上、音楽之友社「最新レコード名鑑 協奏曲編」)。
その3曲は、
ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調BWV.1041(1717⇔23)
ヴァイオリン協奏曲第2番ホ長調BWV.1042(1717⇔23)
2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調BWV.1043(1717⇔23)
なお、第1番はチェンバロ協奏曲第7番BWV.1058に編曲されている。
W.フェーリクス「バッハ 生涯と作品」(杉山好 訳。講談社学術文庫)には、次のように書かれている。
独奏オブリガート楽器による協奏曲の中では、《ヴァイオリン協奏曲イ短調》および《同ホ長調》、さらに《2つのヴァイオリンと弦楽オーケストラのための協奏曲ニ短調》がたいそう広く愛好されている。これらの曲を見ても、オーケストラ全奏部と独奏協奏部とのあいだに生き生きとした緊張関係をうち立てていきながら、しかも弦楽オーケストラのリトルネルロ(反復回帰部
)と独奏オブリガートのエピソード(挿入的間奏句)のあいだにあくまで強固な関連性をもたせているバッハの協奏曲技法が鮮やかに示される。しかし、バッハは同一の主題を絶えず反復回帰させる手法のみに決して固執することなく、全奏部と独奏協奏部をモティーフ的、主題的に明確に区分し対置させることによってきっちりと解決を生み出すすべをもまた心得ている。
なんか堅苦しい話だが、要するにバッハはすごいということを言っている、といえよう。
協奏曲(concerto)の語源はラテン語の「闘争する」。イタリア語では「調和させる」という意味がある。
もともと、器楽の協奏曲は合奏協奏曲(コンチェルト・グロッソ)が最初。
その後、1つ(あるいは2~3)の独奏楽器とオーケストラが協奏するという形がトレッリの作品に登場。さらにヴィヴァルディがそれを受け継いだ。
バッハはヴィヴァルディの協奏曲を研究し、近代的な形へと発展した、といえよう。
門馬直衛著「音楽形式」(音楽之友社)では、協奏曲を3つに分けている。
バロック協奏曲、合奏協奏曲、クラシック協奏曲である(この本は権威的な言い回しのくせにそこはかとなく胡散くさく、また、しばしばプッツンし投げやりな表現が出てきて笑える)。
バロック協奏曲は、「独奏楽器を1つまたはそれ以上持っていて、独奏者の技巧を発揮させると同時に、独奏と合奏の変化と対比を興味の中心として重んじている」もの。
ただし、この時代はソナタ形式そのものが確立されていないため、急-緩-急という3楽章構成であっても、のちの協奏曲のようなソナタ形式の楽章は含まれていない。 合奏協奏曲(コンチェルト・グロッソ)も時代的にはバロック期の概念。独奏楽器が複数で、その独奏楽器群(小協奏部=コンチェルティーノ)に対して合奏部(大協奏部=コンチェルト・グロッソ(またはトゥッティ、リピエーノ))が対置されるもの。バッハのブランデンブルク協奏曲の第2、4、5番は合奏協奏曲の代表的作品と言える。
クラシック協奏曲はいわば古典派時代に確立されたもの。「クラシック音楽の協奏曲は、みんなクラシック協奏曲だろう?」ってご意見もあるだろうが、はいはい、わかりましたよ。
つまりは第1楽章にソナタ形式を採用したもの。通常、第2楽章は歌曲形式、第3楽章はロンド形式となっている。
さて、今日はモダン演奏ののびのびとした演奏のバッハのヴァイオリン協奏曲を。
ジャケットの写真がバッハの作品にそぐわなくて気に入らないが、まぁ、「タイスの瞑想曲」とか「スペイン交響曲」まで入ったセットなので仕方ない。
ムターのヴァイオリン独奏(2vnのためのコンチェルトは指揮のアッカルドが担当)、アッカルド指揮イギリス室内管弦楽団による演奏。
1982録音。EMI。
タバコを買うときは、自動販売機よりは駅の売店やコンビニでのことが多い。
人好きなわけではなく、自販機にお金を入れたのに“売ってあげます”という各ボタンのランプがつかず、おや?と思っていると、案の定100円玉1枚が引っかからずに釣銭口に落ちていて料金不足になっていたり、タスポをタッチするのが面倒だからだ。
が、先日はスーパーの店先にある自販機で、浮気もせずにずっと吸いつづけているセブンスターを買った。なぜセブンスターが410円ではなく440円なのかずっと口に出せない疑問と不満を心に抱えているが、いまそのことはどうでもいい。
500円玉を入れると、今回は何のエラーもなく機械に飲み込まれ、セブンスターのボタンを押すとカタンという排出された音がし、続いてチャリンと釣銭が落ちる音がした。昔の自販機なら、例えば60円のお釣りなら、50円玉1枚と10円玉1枚が、チャリン、(ギュイィィ~ン)、チャリンと2回落ちる音がしたが、そして運が悪い場合は、チャリン、チャリン、チャリン、チャリン、チャリン、チャリン(ギュイィィ~ンは省略)と10円玉で6枚ってことがあって、自分が日本一不幸に見舞われたような気分になったものだが、今の機械はコインがいっぺんに落ちるので、チャリン1回である。それを知らずに、まだ全部出てきていないなとたたずんでいると、とんだ無駄な時間を費やすことになってしまう。
釣銭話でずいぶんと行を費やしてしまったが、さて、老人のように腰をかがめてタバコを取り出そうとすると、なぜか感触が違う。
薄汚れた透明のカバーを開けて取り出し口の中を見ると、なんとセブンスターのほかに2個のタバコがある。メビウス(旧姓マイルドセブン)の10mgと6mgだった。
取り忘れだろうか?
ふつう2個まとめ買いするとしたら、同じ銘柄を2個買うものだ。ところが、同じメビウスながらも、別な種類だ。
では、10mgと6mgはそれぞれ別な人が買い、それぞれが偶然にも取り忘れて行ったのか?
まさか……
私はセブンスター以外の銘柄は吸わない。が、メビウスはセブンスターの近縁だから吸っても違和感はあまりないかもなと、この瞬間前向きな気持ちになった。
さぁて、このまま自分のものにしてしまおうか?
いや、そんなことは犯罪だ。
小学生のときに300円が入った財布を拾って交番に届け、褒められたことがあったっけ。
でも、このタバコ2個で820円だ。あの時の約3倍の拾いものだ。
いいのか、そんなことをして。
あのときの、私の人生における輝点である善行を、ここで無にしてよいのか?
と同時に、別な疑念がわいてきた。
これは罠じゃないか?
最近、パンの中から針が出てきたっていう犯罪が多いではないか?
昔は“毒入り危険 食べたら死ぬで!”っていう菓子が置かれていた事件もあった。
青酸入りコーラを飲んで死んだ人もいた。
宮部みゆきの「名もなき毒」もTVドラマ化された。
つまり、このタバコは毒が入っていたり、あるいは爆竹が埋め込まれていたりするのではないか?そういえば、よく見ると6mgの方のパッケージの角が1つつぶれている。
もし毒が入っていたとしたら、それはたいそう健康に悪い。下手すれば死に至るほど悪い。ただでさえ体によくない嗜好品なのだ。取り返しのつかないことになるだろう。
そんなわけで、私はスーパーのカウンターに行き、「これタバコの自販機に残ってました。取り忘れのようです」と届けた。
なんて正直者!なんて小心者!なんて疑い深い男!
店員は「そうですか。ありがとうございます!」と言ったが、愉快犯による犯行の可能性があるなんてこれっぽっちも思っていないようだった。なんか不愉快になった。
J.S.バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)の「私はしばしばパイプによいタバコをつめて(So oft ich meine Tabakspfeife mit gutem Knaster angefullt)」BWV.515。「『アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳第2巻』よりのアリアと歌曲(Arien und Lieder aus dem zweiten Notenbuch der Anna Magdalena Bach)」BWV.508-518の中の1曲である。
バッハは1707年にマリア・バルバラと結婚した。彼女との間には、今日でも作曲家として名が残っているヴィルヘルム・フィリーデマンとカール・フィリップ・エマヌエルが生まれている。しかし、マリア・バルバラは1720年に急死してしまう。
その翌年にバッハが再婚した相手がアンナ・マグダレーナで、宮廷歌手であり音楽の才能も高かったという。彼女との間には13人の子が生まれたが、そのなかではヨハン・クリスティアンが有名である。
バッハはアンナ・マグダレーナのために音楽帳(楽譜集)を作ったが、それは家庭内で演奏を楽しむためだったようだ。そしてまた、ここに収められた作品はバッハ自身の作だけではない。いろいろなところで使われている有名なメヌエットもこの音楽帳に含まれている。
独唱と通奏低音のための11曲のアリアと歌曲(BWV.508-518)は1725~40年の作とされているが、このうちBWV.515から518は疑作、すなわちバッハの作かどうか疑問とされている(BWV.515については、ゴットフリート・ベルンハルト・バッハ(J.S.バッハとマリア・バルバラの間に生まれた第4子)の作とも言われる)。
この「パイプのタバコ」の第1節の歌詞(英訳されたもの)は以下の通り。
Whene'er my trusty pipe
With fine tabacco I fill,
And look forward to passing a pleasant hour
Then it shows me a dismal picture,
And adds the sobering moral
That I'm really not up to much.
要するに、タバコを吸う歓びを歌い上げているわけで、もちろんバッハは愛煙家であった。
ところでBWV.515には、BWV.515aと515bという2つの作品がある。515aの方はクラヴィーア曲で、515bは歌詞入り伴奏版だそうだが、私が持っているCDはチェンバロの伴奏でバリトンが歌っているにもかかわらず、CDでの表記はBWV.515aとなっている。
リンデのバリトン、レオンハルトのチェンバロ。
1966録音。ドイツ・ハルモニア・ムンディ。
さて、今日で連休も終わりである。
なんという世紀末的気分なのだろう。
ところで今日はなんで休みなの?
えっ、海の日?
海の日ってむかしはもっとあと、20日過ぎじゃなかったっけ?地球温暖化の影響で早くなったの?
むかーしむかし、日曜日の夜、NHK-FMで“現代の音楽”という番組をやっていた。
そのオープニング音楽を耳にすると、「明日からまた地獄の1週間が始まるのか。次の日曜日まで体が持つだろうか」と、若いくせに精神的肉体的な不安を強く感じ、絶望的な気分になったものだ。
その音楽、確かに暗いのだ。
だって、J.S.バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)の特殊な作品「音楽の捧げ物(Musikalisches Opfer)」BWV.1079(1747。一部はそれ以前の作と考えられている)のなかの「6声のリチェルカーレ(Ricercare a 6)」だもん。これを聴いて、心ウキウキなんて人がいたらぜひ見てみたいものだ(いや、名乗りでなくて結構!)。
そしてそれは、“現代の音楽”にふさわしく、ヴェーベルン(Anton von Webern 1883-1945 オーストリア)が管弦楽に編曲したもの。
このただでさえ暗~い楽想のバッハの音楽が、ネットリと不安度を増強した姿で始まるのだ。
どうして、「明日は溌剌と学校に行こう」なんて思えるものか!
きっと当時、このリスナーだったサラリーマンだって、明日会社に行きたくないなと絶対に思ったはずだ。農家のおじさんは、明日は畑に行きたくないなと、漁師は船を出すのやめようかと、考えたに違いない。
NHKもかなり意地悪だといえば意地悪だ。が、なんて言っても“現代の音楽”だからな。そして、ウェーベルンのこの編曲は、実に見事なのである。
日曜日の夜遅くに聴いて(それも一部)、すっかり良くない印象を持たされてしまった人も巷にはそこそこいると思うが、そんなトラウマから解放されて聴いたら、けっこうゾクゾクする音楽なのだ。
ヴェーベルンはシェーンベルクの弟子であり、師と共に20世紀初頭の無調音楽、第1次大戦後の12音音楽の開拓者となった。彼の音楽-音列技法-は第2次大戦後の前衛音楽に大きな影響を及ぼした。彼が無調的技法を採用したのは1909年からで、12音技法は1925年に最初に用い、以降の作品は12音技法で書かれた。そして、このリチェルカーレの管弦楽編曲は1934-35年に行なわれている。どういう経緯で書かれたのか、私は知らないが……
そうそう、この曲、岩城宏之指揮札響の演奏会で聴いたことがある。岩城氏がマイクを持ってステージに現われ、演奏前にこの曲についてあれこれ話したが、プレトークとかいうものではなく、当日配られたプログラムの解説に間違いがあるのでワタシが正しいお話をしましょう、というようなものだった。
それはともかく、バッハの複雑に絡みあうメロディーをさらに細分化し各楽器に割り当てているが、停滞するところはない。熟練職人の切り貼り技だ。私としては、ベリオのすさまじい編曲テクと双璧を成すと思っている。
クラフト指揮21世紀古典アンサンブルの演奏を。
2008録音。ナクソス。
なお、CDジャケットには“Ricercata”と書かれているが、これは誤植ではなく、このようにも書く(呼ばれる)のである。そうそう、リチェルカーレというのは簡単に言うと、フーガの前身である。
先日紹介した中町信の「模倣の殺意」。その表紙に“The Plagiarized Fugue”って英文のタイトルが書かれているのに気づいただろうか?
いや、だから、その、模倣……
フーガ(伊:fuga/英・仏:fugue/独:Fuge)というのは、“一定の法則に基づいて、1つの主題の規則的な模倣反復を中心に構成される対位法的楽曲”のことである。
ところでヴェーベルンの最期は悲惨だった。
ベランダでタバコに火をつけたところをアメリカ兵によって射殺されたのだ。
ヴェーベルンの娘婿が元ナチス親衛隊で闇取引に関わっていた。タバコの火が闇取引の合図であると誤解され、誤って撃たれてしまったのだった。
で、今夜聴くかって?
いや、やめとく。
さて、今日は昼ごろになったら勤務地へ戻る。
今夜のために、どこかで炭酸水を買って帰らにゃ。
炭酸水はサツドラが安い!
先月の第2週の末に、長男は病院に行ってきたそうである。
その2日前、仕事中に頭が重く気分が悪くなり、それは少し休んだら治ったというが、念のために医者に診てもらったのだった。
CT検査の結果、脳には異常なし。
ただし、首が少し腫れており、医師曰く、追突事故の衝撃で首の状態が悪くなり症状が出ていると思われる、とのことだった。
事故から1週間後に症状が出たわけだ。
翌週の火曜日、午前10時ころに先方の保険会社に電話をする。
状況を説明し折り返しの電話を待つ。
その間に私が加入している保険会社(セゾンのおとなの保険)に電話をする。こちらの応対は親切丁寧。一方、先方の〇〇〇〇日動は事故直後の応対の遅さもあって、はなから色眼鏡で見るのはよくないことだが、被害者の身なのに電話をかけること自体が憂鬱だったし、いつ電話が来るのか不安。
午後になってようやく〇〇日動から電話がかかってきたが、今回電話を寄こした人は前回とは違う部署の人で、当たり前と言えば当たり前だが、誠意が感じられた(前回の女性も話している分には誠意はあるのだが、どうも信頼感、安心感を持つには至らなかった)。
ということで、検査治療代は全額負担してもらうこととなったし、見舞金などについての書類も送られてくる(セゾン側からは、その額が自社の査定額と異なる場合に差額をだしてくれるらしい)。
幸い息子の状態は医者にかかったときにすでに腫れも引き始めており、通院も不要ということで、一安心。私としても、医療費だけ出してもらえればそれでいいと思っている。
でも、怖いね。
いや、あとから症状が出ることもそうだが、相手方もあとから痛みが出たって知らされるのたまらんだろうな。逆の立場だったらと思うとぞっとする。
にしても、息子の話を聞いて、私も首が痛いような気がしてきたのは、たぶん気のせいだろう。
ぞっとするような雰囲気があるのが、ブリュッヘンがフラウト・トラヴェルソ(フルートの前身の横笛)を吹いているJ.S.バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)の「無伴奏フルート・ソナタ(パルティータ)(Solo pour la flute traversiere)イ短調」BWV.1013(1720頃)の演奏だ。
ぞっとすると書くと、悪い印象を持たれちゃうかもしれないが、そうではなく、この渋み、深み、ゾクゾク来るのだ。フルートによる演奏ももちろんいいが、この艶消しの音色はこの曲にぴったり。特に低音がたまらない。
また、このCDではリコーダーやチェンバロ、チェロによるこの作品の演奏も収録されている。リコーダー(ブロックフレーテ)はブリュッヘン、チェロはビルスマ、チェンバロはレオンハルトだが、チェンバロやチェロによる「パルティータ」は「フーガの技法」や「音楽の捧げ物」のような表情を見せ、とても面白い。
1975録音。ソニークラシカル(原盤Seon)。
バッハやC.P.E.バッハ、シュターミツなどのフルート作品集。
販売元の商品情報は、以下のとおり。 「Disc1~4」は、フラウト・トラヴェルソの名手、バルトルド・クイケンによる演奏。「Disc1」は、18世紀ドイツのフルート協奏曲集。バロックから古典派に移行する独特なニュアンスは、現代フルートでは味わえない深さが感じられる演奏です。「Disc2~3」は、C・P・E・バッハのフラウト・トラヴェルソとオブリガート・チェンバロのためのソナタ全集となります。バロック・ロココ調の旋律は父バッハとは全く異なり、グレンザー製作の温かい木管フルートの音色とチェンバロとの絶妙な掛け合いと上趣味な装飾が聴きどころです。「Disc4」ではフリードリヒ大王の宮廷音楽。フリードリヒ大王が音楽的な趣味に長けていたことは広く知られており、大王の宮廷には、当時の第一級の音楽家たちが集り、大王自身も演奏しフルートの音色や表現力を好んだと言われています。ブリリアントで、色彩感豊かで、華やかな仕上げられた演奏です。「Disc5~6」は、巨匠フランス・ブリュッヘンによるバッハのソナタ集。ブリュッヘンしか出し得ないタンキングと呼吸法。ブリュッヘンの自由奔放な演奏とレオンハルトの懐の深いチェンバロがバッハの世界を見事に表現されている名盤です。「パルティータBWV.1013」を、ヴィオラ、チェンバロ、チェロ・ピッコロ、ブロックフレーテ、ヴァイオリンで演奏した版。「ソナタBWV.1030」第1楽章の途中までを、「ブランデンブルク協奏曲第6番」風に再現を試みた演奏も収録。 ソニー・ミュージック
1980年ころ、東芝(オーレックス)が“アドレス”というノイズ・リダクションの機械を発売した。ドルビーよりもすごい効果が得られるというもので、私はお金もないのにそれを買った。AIWAのカセットデッキも同時に買った。高校を卒業し、数少ない就職組の1人に電器店に就職した奴がいて、そいつになんとか売り上げ実績を作らせてくれと頼まれ買ったのだった。
AIWAのカセットデッキは、その後のaiwaになってからの根性なしの時代とは異なり、高級感あふれる非常に性能の良いものだった。アンプとデッキの間にアドレスを経由するように配線し、録音再生すると、それまで聴いていた音が拭き取りの悪いワイパーを交換したときのようにすっきりくっきりした。
その装置を使って初日に録音した作品のなかに、この「パルティータ」があった。
いや、単なる個人的なささいな思い出です。
さて、事故の保険の最終的な話はまた今度。
家の納戸で探し物をしていたら、昔のカセットテープが出てきた。
今から30数年前のものだ。なんかこのデザイン(特にTDKの)すっごく懐かしい。
私がクラシックを聴くようになったのは1973年の春のことだ。てことは今年で40年目となる。満で言えば39年。当時はまだ、声変わりもしていない頃のことだ。あのころは、たとえばちょっと胸が痛いと“家庭の医学”を取り出してきて「あぁ、心臓弁膜症の症状に見事に一致する。もう長生きは出来ない。若くして死ぬのだ」なんて思っていたのに、あれから39年も生き続けているのね。すごいことだわ、ミトコンドリア!
聴き始めのころは音楽のことは何にもわからなくて、長調とか短調とかいうものが一体何種類あるのかすらも知らなかった。学校での音楽の授業は苦痛かつ成績は悪かった。
FM放送でアナウンサーが作品名を言うときや、本などで曲名を表記するときになぜ〇〇調と添えるのが必要なのか、単なる音楽愛聴家としてはそんな素朴な疑問を抱いたまま40年経った。
少なくとも私にはト短調とかヘ長調と言われなくても、聴くことには何の支障もなければ寄与もしない。
ただこのように書くのがしきたりのようだし(もちろん意味もあるのだろうけど)、私も当然のごとく40年にわたってそう書いたり言ったりしている。だから、今となっては、たとえば交響曲第1番とだけならストレスを感じるくらい中途半端に思ってしまう。
たとえば、「ベートーヴェンの交響曲第7番」でよさそうなものなのに、「交響曲第7番イ長調作品92」て言わなきゃならないんでしょう?きっと、みんな親切で丁寧なんだからだろうな。
この長きにわたる年月。。
カセットテープは今やほぼ絶滅し、当時羨望の的だったオープンリールデッキは振り返ってみると買わなくて(買えなくて)よかったってことになった。エルカセットは日の目を見ぬまま絶滅した。
LPレコードはCDに替わっていったが、そのCDもダウンロードとやらにやられてきている。MDも事実上消滅した。VHSだって消滅した。
やれやれ、私も歳をとるわけだ。 いまでもあとから気づいてすっごく恥ずかしい思いをしたのだが、カセットテープのインデックスに「トッカータとフーガ2短調」と書いていたことがある。
もちろん、他の人に見られたわけではないが、2短調なんてものがこの世にあるわけもなく(2つの短い調べって、どこかにありそうでもあるが)、あてずっぽにしても何てことをしてしまったんだと、薄暗い夕方の自室で涙したほどだ。
その思い出深いバッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)の「トッカータとフーガ ニ短調」BWV.565(1708以前)。
クラシック音楽を聴き始めたころの私にとって、バッハの音楽-「2声のインヴェンション」や「ブランデンブルグ協奏曲」、そして「トッカータとフーガ ニ短調」-は、どれもすぐさま心を捕えられたが、なかでもこの有名なオルガン曲がクラシック音楽の作品であるとわかったとき、私はクラシック音楽を知って良かったと心から思ったものだ。
のちにこの作品がJ.S.バッハの作ではなく偽作ではないかという説も知ったが、それでもこの作品の魅力は失われていない。
今日はコープマンによる、装飾音豊かな演奏を。
私の少ない経験の記憶では、70年代、あるいはそれ以前の録音で、これだけ攻撃的な印象の演奏はなかったと思う。好き嫌いの分かれるところだろうけど。
INTERDISK TRADING。1986~90年の録音らしい。
昨日何回も流れていた、大飯原発のストレステストについて見解を発表した原子力安全委員会のニュース映像。
私が、その見解を妥当と思うのか、好きだと感じるのか、そういうことはともかく、すごく違和感を覚えた。それはこの見解に対し反対を叫び詰め寄る“住民”の姿に対してである。
というのも、よく見ると、大騒ぎしているのは2人か3人なのだ。あるいは私が間違っているのかもしれないが、特殊な部隊だけが反対を叫んでいるように思えてくる。ニュースを見ていると、すごく多くの人が大反対で大騒ぎしているように印象付けられるが、よく見ると(どの局も同じような映像で、同じ人を映している)騒いでいるのは若干名なのだ。映像以外のことは知る由もないので真実はよくわからないけど。
この話は、これで終わり。
宮部みゆきの「今夜は眠れない」(角川文庫)。
主人公は中学1年生の少年。平和な彼の家に巻き起こった騒動は、母親に昔知り合いだったという人物から、5億円が遺贈されるというもの。なぜ、その人物は母に大金を残したのか?突然5億円を手にした家庭が受けた世間からの視線、そして父の家出……
宮部みゆきが得意とする、“子供”が主人公となっている作品だが、彼女はなぜこうも子供を主役に、あるいは子供をキーマンにするのか?気にしなくてもよいことかもしれないが、でも私は疑問に感じていた。なんでだろ、って。みゆきさんはほっといてくれ、と思うんだろうけど。
でも、「ステップファザー・ステップ」の巻末にちょっとだけ載っていた、あるインタビューに対する次のような答えで、ちょっとわかったような気がした。
男性や少年が主人公だと、ある程度“こうあってほしい”というのが素直に出て、理想化できるんです。
多分、私の中に子どもの部分があって、それがうまく出ると、いいキャラクターが書けるんだろうと思うんです。だから、今どきの子どもを書いているんじゃなくて、自分の子ども時代を振り返って書いている。多分、今の子どもに比べると、同じ年齢でも少し幼いと思います。
そうなのか。わかった気がしますよ。ちょっとだけだけど……
宮部みゆきってちびまる子と同じ世代だな。あんな感じの子供時代を過ごしたのかな?
さて、「今夜は眠れない」だが、もちろん宮部作品なので、単なる騒動で物語が終わるはずがなく、ストーリーはいくつもの出来事が絡み合うことになる。ただし、彼女のほかの作品に比べるとポリフォニック度は低く、それであまり頭を深刻に悩ますことなく楽しめるともいえる。
って、生意気なことを書いてるけど、私ならばこんなふうにストーリーを構成することなんて土台無理。やっぱりすごい。あまりポリフォニック的じゃないなんて生意気なことを書いてすまぬ。
ストーリーの中で、主人公の“僕”(といっても、村上春樹の小説にでてくる“僕”と違って、すぐに女の子とねんごろになったりしない、とっても良い子)が、“こっくりさん”に参加させられる場面がある。
“こっくりさん”。
懐かしいねぇ。
いまの子供たちも“こっくりさん”ってやるんだろうか?
小説での“こっくりさん”は割り箸を使って行なっているが、私は10円玉を使ってしかやったことがない。確か最初に「向こう河原の大明神様」とかと唱えたように思う。
私はそのころ(小学校高学年から中学前半)から、心霊現象というものについて、怖いがゆえになんとか科学的に納得(つまりは否定)できないかと思っていて、「恐怖の心霊写真集」を買ったり、この“こっくりさん”についても、あのころこの道では第一人者だった中岡俊哉氏が書いた「狐狗狸さんの秘密」って本も買って読んだ(写真集も中岡俊哉氏による)。心霊現象を科学的に帰納法で証明しようと試みたのだ(なわけがない)。
で、結局のところは「心霊現象はない。すべて科学的あるいは医学的に説明できる」という私にとってはありがたい説明に出会うことができず、より恐怖が高まっただけだった。
そりゃそうだ。
心霊研究家の中岡氏が「心霊現象なんてありません」って書くわけがない。おまんま食い上げになっちゃうもん。にしても、「恐怖の心霊写真集」なんて、“続”も“続々”も買ってしまった。そのせいで背筋がゾクゾクしちまった。アホだねぇ。
“こっくりさん”は、確かそのころ「うしろの百太郎」という漫画でも題材になっていて(「恐怖新聞」だったかもしれない)、こっくりさんの途中で指を離してしまい祟られるような、それはそれは純粋な少年の心を恐怖のどん底に落とすには十分な内容だった。私も最中に(って書くと、やらしっぽい?)指を離してしまい、毎夜、天井に狐の影が映るのではないかとそりゃ怯えたものだ。しかし、飼い犬が騒がないから大丈夫か、と案外幼稚に納得したりもしていた。
なぜ、“こっくりさん”の10円玉は動くのだろう?
無理な指の姿勢と緊張感から微振動で動くというのが科学的解釈だが、それだけでは説得力に欠ける。もちろんこっくり様が降りてきているというのはもっと説得力に欠ける(ような気がする)。それに、「MUUSANの好きな女の子は誰ですか?」と質問し、それで「と…め…こ…」と10円玉が動いたなら、絶対誰かがわざと誘導しているなってギャグ的に解釈できるが(全国のトメコさんすいません。悪意はありません。とめ子は当時まだご存命でありました私の祖母の名であります)、それが、少なくとも今のコックリ・メンバーは知らないはずなのに、図星である「じ…ゃ…っ…く…り…ぃ…ん…」とご丁寧に7文字をわたり動いたあげくに鳥居の絵のところまで戻ってしまった暁には、そりゃ驚くし畏怖の念を抱かずにはいられない。
全校生徒が体育館に椅子持込みで集まって生徒会の集会だかなんだかがあったときのこと。生徒会行事なので先生たちもうるさくなかったし、あんまり退屈なので前後にいた川島君と会田君と“こっくりさん”をやったことがある。
誰がなぜにこっくりさんの用紙を持っていたのかきわめて疑問だが、とにかくやった。
川島君が「志望校に入れますか」と聞くと、10円玉は「い…い…え…」と文字をなぞった。会田君はそれで大笑いをし、こともあろうことか指を話してしまった。
その瞬間、見事なまでに偶然のタイミングで停電となり、体育館の天井の水銀灯が消えた(宮部ワールドなら、実は会田君は友人の久森君に頼んでその瞬間にスイッチを切るようにしていた、ってこともありうる)。停電は1分ほどで収まったが、水銀灯だからすぐにはフル発光しない。薄暗い中での川島君のデカ顔なのに目にはうっすらと涙、という光景はいまでもちょっとだけ覚えている。
川島君は高校受験に失敗したし……
こんなことを書いていても、なんら解決はしないのでは話を変えよう。
じゃあ、今日のキーワードは「ぽ…り…ふ…ぉ…に…ぃ…」。だから、ポリフォニーのことだ。
ポリフォニー(polyphony)というのは“多声音楽”のこと。“多くの声”を意味するギリシア語の“ポリュフォーニア”が語源だという。
ポリフォニーは「複数の声部が、それぞれの独立性を保持しつつ動向する様態」を意味している。こうなってくると、いくつかの声部(パート。この場合は「オーケストラのオーボエのパート」という意味ではなく、独立性を保った各旋律線の意味)を絡み合わせちゃえって考えが生まれてくるが、その技法が“対位法”である。 掲載した楽譜は音楽之友社刊のJ.S.バッハの「音楽の捧げ物」BWV.1079の「3声のリチェルカーレ」だが(チェンバロ(1奏者)で演奏される場合が多い)、第1の声部で始まり、10小節目(楽譜2段目)に第2の声部が加わり、23小節目(楽譜4段目の3小節目)に第3の声部が加わる。この3つの声部が以降、複雑に絡み合っていく。
にしても、独立した3つのパートを1人で弾くなんて(それは珍しいことではないんだけど)、なんつーこったろう!
ルネサンス期やバロック時代の作品には作品名に「〇〇声部の」とついているものが少なくない。
今日は、トレルリ(トレッリ。Giuseppe Torelli 1658-1709 イタリア)の「トランペット,弦楽と通奏低音のための5声のソナタ(協奏曲)第1番」ニ長調G.1(G.はギーグリング(Fr.Giegling)の作品目録による番号)。
実はこの作品、私がクラシック音楽を聴き始めたかなり初期段階に聴いて萌えて以来、ずっとCDを探していたのだが、先日CD発見!
とはいえ、曲は間違いなくこれなのだが、詳しい作品名がこれで本当に正しいのか確証はない。昔の自分の録音帳にはこの作品名が書いてあるのだが、購入したCDには詳しく曲名が書かれていないし、「クラシック音楽作品名辞典」にも載っていない。 まあ、この作品名だと信じておくことにしよう。いつかはっきりすることもあるだろう。
さて、ここでいう5声部というのは、しかし、独立した旋律線の意味ではない。
2つのヴァイオリン、トランペット、ヴィオラ、バスの5つの声部による作品ということだ。これに通奏低音(チェンバロ)が加わるが、通奏低音は声部の数には含めない。通奏する低音だもの……
Hungerのトランペット、シモーネ指揮イ・ソリスティ・ヴェネティの演奏。
1966録音。ソニークラシカル。
バロック~古典派のトランペット協奏曲集のなかの1曲。
さて、ポリフォニーに対する概念はホモフォニーである。
各旋律線を独立したものとする、つまり水平的な書法が主眼となるポリフォニーに対し、ホモフォニーは縦の響きの規整に重点を置く。しかし、この相対する概念は、実際には作品のなかでは共存することが多い。
この録音は、1975年に最初に発表されたとき、けっこうな話題になったそうだ。
アルバムのタイトルは「バッハ=高橋悠治編 フーガの『電子』技法」である。
バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)の「フーガの技法(Die Kunst der Fuge)」BWV.1080は1745年から50年にかけて作曲され、未完に終わった作品。全19曲のうち、第18曲以外に演奏楽器の指定はなく、最後の第19曲はバッハの絶筆で239小節のところで終わっている。
その「フーガの技法」を、ピアニストであり作曲家でもある高橋悠治がシンセサイザーを使って編曲、演奏しているのがこの録音である。
取り上げられているのは7曲。
うん。オーディオ的には面白い。
が、当時のことは知らないが、いま聴いてみるとどうも悪趣味っぽく思える。
1975録音。DENON。
昨日、NHKの受信料について書いたら、NNさんという方から親切なコメントが届いた。
その内容を一言で言うと、NHKを観ていなくても受信機(TV)があれば払わなきゃならないという掟がある、ということだった。
やはりそうだったのか。
実は今回、TVをほとんど観ない私は、TVを家に置くかどうか相当迷った。
いらないと思った。
でも、ある日突然、無性に古館伊知郎の顔が見たくなるかもしれないと思い(イメージ表現。別に彼が好きなわけでは全然ない)、小さなTVを購入したのだった。
しかしだ。こういう掟が日本国にあるのならば、日本国民らしく私は対処しなくてはならない。すなわちハラキリぃ~、ではなく、払うか、TVを撤去するかだ。
多くの方は信じないだろうが、私はTVを本宅(という言い方が正しいのだろうか?つまりここではなく札幌の自宅だ)に送ってしまうこともまっこと真剣に今考えている。TVがなくたって生活に支障はでない。紀子様が育ったご家庭にもTVはなかったというではないか!
いずれにせよ、少なくともずっと掟を破り続ける気はないので、どうかご安心いただきたい。NHKの契約推進の方々にも、実際、とても一生懸命だと敬意を表したいくらいだし。
で、良心的なコメントを寄せてくれたNNさんに俺を、いや、お礼を。
スパムメールねたも楽しみにしていただいているというので、有栖川さんなる方から昨日来た、季節感あふれるメールをご紹介。
もう3月になりましたが、ご連絡頂けないんでしょうか?
http://cfadwpofa.info/m/recive.php?dis=****&meno=*****&adid=1
いやぁ、3月に入ったことを実感しましたわぁ!
でも、有栖川って誰?
クリスマスが近い。
近いどころか今度の日曜日だ。
それが過ぎるとあっという間に正月だ。
早い……
ということで、先週の金曜日の北海道新聞夕刊にクリスマスにちなんだ記事が載っていた。
十勝は士幌町の「きくや旅館」というところで、七面鳥の燻製作り真っ盛りというものだ。この旅館、七面鳥料理が名物だという。
そこでクリスマスに向け、燻製作りに追われているのだそうだ(もう予約でいっぱいだそう)。
で、記事の写真のキャプションにご注目。
「後藤さん(右)」って書いてある。
「右」って書かなくたってわかりますけどぉ~。左手前とか上段中央とかって思いませんけどぉ~。
それにしても、七面鳥の燻製って妙にいろっぽい。エッチとさえ言えないだろか? そう思いながら私はバッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)の「クリスマス・オラトリオ(Weihnachts-Oratorium)BWV.248(1734)を聴いた。
全6部を聴き通す体力も気力も時間もなかったので、第1部と第2部だけだけど……
今回聴いた演奏は、前にも取り上げたリリング指揮シュトゥットガルト・バッハ・コレギウム他の演奏によるCD。
1987録音。ヘンスラー。
たまには現代奏法のバッハもいい。すっごくスカッとする(リリングが自分の演奏に古楽奏法を取り入れたのは2000年以降だという)。
このCDは現在廃盤。
でも、とは言え、やっぱり私の気持ちは心の底からはスカッとするまでには至っていない。
悩み多き年末である。
やれやれ……
短くてすまんです。
えっ、この方がうれしいって?
ぷんぷん!
そうそう、昨夜はベリンスキー侯とムッカマール氏とで忘年会。
ベリンスキー侯が社内でダジャレを言っても誰も笑ってくれないという、とても悲しくて切ない話題もあったけど、概ね笑い通した宴会であった。
月曜日。
私はピョン太リーダーと鉋さんと共に東京に出張したが、夜は食事をとりながら関係先の方と打ち合わせをした。
選んだ店は丸ビルの“グリル満天星”。
男だけで食事をするにはあまり適した場所とは言い難いが、東京勤務時代には私もよく使った店で安心感があるのでここにした。
それにここのメンチカツ(のデミソース)は美味しいし……
で、打ち合わせを終え、帰り際にトイレに寄ろうとしたら、トイレの近くの通路でスーツ姿の若者が通路におっちゃんこしている。いや、おっちゃんこというよりは半分寝そべったような格好だ。そして彼の前にもう少し年上と思われる男が2~3人立って、彼を見下ろしている。
はっきりと言っていることは聞こえなかったが、寝そべっている男を叱責しているような、あるいはいじめているような感じだ。一方、寝そべった男は、しかしながらえへらえへらして、でも涙目になって、「そうなことないですよぉ」みたいなことを言っている。
言われていることに抵抗しているのだ。
職場の同僚のようにも見えたが、なんとも不可思議な光景だった。
洋食屋でおいしい料理を食べ、しかも丸ビルというシチュエーションなのに、その光景は極めて異質だった。イメージとしては、それまで店内や館内に流れていたバロック音楽が、急に演歌か軍歌になったかのようなしらけた気分になってしまった。
気分直しにバロック音楽を。
J.S.バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750 ドイツ)のヴァイオリン協奏曲。
彼が残したヴァイオリンのための協奏曲は3曲である。
1717年から'23年の間に書かれた第1番イ短調BWV.1041。この曲はチェンバロ協奏曲第7番BWV.1058に編曲されている。
第1番と同じ期間に書かれた第2番ホ長調BWV.1042。そして、これまた同じ期間に書かれた2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調BWV.1043。この3曲である。
ほかにもヴァイオリン協奏曲があったようで、それらはチェンバロ協奏曲に編曲されているが、そもそもの原曲が不明であったり、さらにはバッハの真作かどうかも疑問である。
3曲のヴァイオリン協奏曲は、当時バッハが仕えたレオポルト公は17名から成るオーケストラを持っていたが、ここのヴァイオリンの首席奏者J.シュピースのためにこれらのコンチェルトが書かれたようだ。
このうち、第2番が最もポピュラーであるが、それは特に独奏楽器がメロディーを“歌う”からだろう。
バッハのヴァイオリン協奏曲では、前にコープマンのCDを取り上げたが、今日はあまり演奏者がよくわからないものを。
独奏はLautenbacherとVolholz。指揮はKehr。オーケストラはMainz室内管弦楽団。Allegroレーベル。録音は1987年ころだと思われる。
コープマンなどと違って、モダン・スタイルの爽快な演奏。
たまにはこういうのもいい。
このCD、今や絶対に入手できないかと思っていたら、驚き桃の木サンショの木って具合に、国内盤で出ていた。コロンビアから。
「よくわからない」なんて書いてすまんかった……
あのサラリーマン集団、何にもめていたのだろう。
女性っぽく抵抗していた、赤いネクタイの男はその後どうなったのだろう?
気になるな。
やれやれ……
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