先日、十勝は大樹町の、それもほとんど広尾との町境の、国道沿いに意外と唐突に建っているラーメン屋“赤門”に立ち寄った。
私の上司の話によると、この店、ずっと前からあるラーメン屋だという。
こんな場所で、ずっと営業し続けていられるということは、美味しいに違いない。
ということで、食べたのだが、私好みの昔風で、かなり気に入ってしまった。
しかも値段は、醤油ラーメンで650円とお安い。野菜ラーメンにしたとしても、+50円という良心的設定。
店を切り盛りしているのは女性ばかり。
くわえたばこのおっさんが、自分に襲い掛かる煙に目を細めながら麺を茹でるなんていう、信じがたいがそこそこ現実にありうるような光景は、ここでは無縁。
ということで、お薦め!
って、なかなか行ける場所でないけどね。
別に赤い門が建っているわけでもないのに、なんで“赤門”なんだろう?
東大と関係があるのか?
それとも単に、店主の姓が“赤門”っていうのか?
まあいいけど、こってり系のラーメンが苦手な私には、かなりポイントの高い味。しかも単にあっさりしているだけじゃなく-そういうラーメンにライスをつけると、けっこう味気なくてつらい-深いコクがある(ような気がする)。
クラシック音楽作品で“門”といえば、みなさんは何を思い浮かべるだろうか?
たぶん、たぶんですよ、ムソルグスキーの「キエフの大きな門(La grande porte de Kiev)」なんじゃないでしょうか?(←いくぶん、様子伺いでトーンダウン)。
そうでしょ?
TVの“ナニコレ珍百景”でも使われたりしてるし。
よし。
決めた! 本日はムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky 1839-81 ロシア)の組曲「展覧会の絵(Tableaux d'une exposition)」(1874)。
そう、終曲が「キエフの大きな門」である。
ムソルグスキーの友人の画家・V.ハルトマンが1873年に39歳で亡くなり、その追悼展が'74年に開かれたが、この曲はそのときの印象をもとに書かれたという。
ピアノ独奏曲だが、ラヴェルによる管弦楽編曲のほか、いくつもの編曲版が生まれた。
とはいえ、ご多分に漏れず、ここで取り上げるのはラヴェル編のもの。
演奏はスヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団。1974録音。メロディア。
いかにもロシア、いかにもスヴェトラーノフっていう演奏。
録音が古くなったのに加え(とはいっても、1974年ならまだまだ新しいのだが)、とても良いとは言い難いメロディアの録音なので、音は苦しい。
そして、ときに粗暴ともいえるパワーと土臭さ。
ここに響き渡るのは間違いなくムソルグスキーの音楽。ラヴェルの華麗な施術は触媒のように前面には出てこない。
録音された当時は大絶賛されたに違いないと思うが、このワイルドさは現代にはちょいと野暮ったく感じられるかもしれない。
ラーメンといえば、ウチには期限切れのインスタントラーメンがたくさん残ってる。
まいったなぁ……
グルメ
月曜、火曜と釧路・根室方面に出張に行ったが、向こうの支社の人たちと話していると、この両地区をまとめて呼ぶ場合に“根釧”と言うか、それとも“釧根”と言うかでけっこう微妙に張り詰めた空気になることがあるそうだ。
日中か中日かと同じことだ。
あっ、北海道以外の人はなかなか読めないだろうからお節介に書いておくと、“にっちゅう”と“ちゅうにち”である。
いや、冗談ですって、だんな!
“こんせん”と“せんこん”です。
月曜の昼に釧路に着いたので、かきそばで有名な玉川庵という店に行った。
が、はっきり言って私の場合、かきは内部が炭化するくらい完全に火が通っていないと嚥下拒否反応がでるので、この店がかきそばで超有名であるにもかかわらず、天かしわそばを頼んだ。
天かしわそばもなかなか美味しかった。天かしわそばというのは、札幌あたりではあまり見かけないメニューだが、かしわそばに天ぷらも入ったものである。
そのあと根室方面に行き、翌日は朝早くに現地を出て帰ってきたのだが、当初のもくろみでは足寄あたりで何かを食べようと思ったものの昼前に帰着してしまったため、昼はまたまた阿古屋係長の所望により、彼とヤマダ課長と一緒に長寿庵へ行った。
が、出足が遅かったので店内は午前8:30の中央線車内には及ばないものの、なかなかびっちり。なんとかわれわれは座れたものの、ご飯物は時間がかかると言われ、それまでは今日は玉子丼セットにしようと一途に思っていたのに、このように事実上のオーダー拒否を言い渡され、とっさに口に出たのがかしわ天そばという品名。
2日続けてかしわ天そばを食べることになったのだが、こちらの店のかしわ天そばも前の日のかしわ天そばに勝るとも劣らないものであった。
さらに翌水曜日。今度は根室ではなく芽室に行く用事があり、昼はそば屋に寄った。
ここにはかしわ天そばはなかったが、どっちにしろ3日連続で昼にそばを食べたわけで、日本人に生まれてよかったと思ったわけだ。
さて玉川庵だが、この名で思い出したのが玉川カルテットであった。
えっ?ご存知ない?
「♪金も要らなきゃ女もいらぬぅ、あたしゃも少し背がほしいぃ~っ」ってギャグ、有名でしょ? まぁ、いい。カルテットはとどのつまり、四重奏(四重唱)ってことだ。
ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の弦楽四重奏曲第15番変ホ短調Op.144(1974)。
ショスタコーヴィチが書いた最後の弦楽四重奏曲であり、完成したのは死の前年。
形も特異で、6楽章から成るが、すべてアダージョ。そしてこれらは続けて演奏される。
6つの楽章には標題がついており、それは、エレジー/セレナード/間奏曲/ノクターン/葬送行進曲/エピローグ、である。
第5楽章の「葬送行進曲」では、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「月光」の第1楽章の音型が現われるが、これは弦楽四重奏曲第11番にも出て来たものである。
お盆向きのしっとりとした、あるいは、怪談に合いそうな重く厳しい音楽である。
エマーソン弦楽四重奏団の演奏で。
1994録音。ライヴ。グラモフォン。
さて、木曜の昼だが、インデアンで彼を食べ、いやんっ!、カレーを食べた。
なんだか、昼はカレーとそばしか食べていないかのような私である。
よし!次はラーメンだ!
と、思いきや、金曜日は親子丼(コンビニの弁当)を食べたのだった。
先週は月曜日が祝日だったために、出勤しなければならない日は火曜日から金曜日までの4日間だけだった。
なのに、ひどく疲れた。
どうしてなんだろう?
火曜日の昼は担々麺を食べたかったのに店が休みで、別な店でチキンカツ定食を食べる羽目になった。
水曜日の昼は、前日の痛手から外へ出張る意欲がわかず、ビル内の食堂でカレーライスを食べたが、いつになく肉が少なかった。意地悪されたようでちょっと悲しい気分になった。
木曜日の昼はデパ地下で弁当を品定め。その結果「これだ!」とインスピレーションを得て買ったハンバーグ弁当が、味は今一つだし、ご飯がメッコごはんぽくて、それはそれはたいそう胃に悪そうな代物だった。
金曜日は、珍しいことになんとなく朝からおなかがニヤニヤと痛くて、また地下の食堂に行き、かしわそばにした。そばは消化に良くないとはいうが、それはうどんと比較したらということであって、カツカレーよりは消化に良いだろうから、そのような視点からかしわそばにしたのだった。が、週末のせいか、連日煮込まれ繰り越し在庫となっていた鶏肉が、かなり本格的にしょっぱくて、おいおい、これじゃ1月6日ころの雑煮の残り汁の中の鶏肉みたいだわい、と残念に思った。
にしても、腹痛が起こると私は尿路結石ではないかと戦々恐々とする。今回はおなかが下っていたので、「あぁ、よかった。きっと石じゃない」と、不幸の中で幸福を感じた。
そんなストレスが重なって、ひどく長い4日間に感じたのだろう。企業戦士、お疲れモードって感じである。いや、自称です、企業戦士…… だが、貴重でうれしい体験をすることもできた。
木曜日の夕方に、取引先と打合せするために十勝北部のある町に出向いたのだが、先方が「たまには夕食でも」と、街にあるお寿司屋さんに連れて行ってくれたのだ。そのお寿司屋さん、ミシュランガイドの北海道版に載っているお店で、実際、たいへん美味しかった(翌日私が腹痛になったこととは、まったく因果関係はない。同行した他の2人はまったく問題なかったから)。
ここのお店の特徴は、北海道ではあまり供されないコハダなど江戸前寿司のようなネタも加わっていること。ご存知のように、寿司はそこそこ好きだが、刺身は苦手な私。そんな私でも、刺身は美味しくいただいたし、寿司もけっこう頬張った(が、血中尿酸値の上昇を回避するため、これまた珍しいアンキモの握りはパスした。アンキモ、もともとけっこう苦手だし)。あっ、あの原因はもしかして食べ過ぎ……?
他人様が食べる料理の写真なんて見たくないだろうが、ご覧あそばせ。ちなみにこれ、6人前。なぜ6人前かというと、6人で行ったからである。えっ?店の名前?“みどり鮨”である。
さて、先週は車を車検に出した。
平成14年車で、走行距離9万9000km。
予想通りかかった。費用が。
タイミングベルト交換を筆頭に、いくつかのベルト類交換。ブーツ1箇所交換、各種パッキン交換ってことで、
でも、いつタイミングベルトが切れてしまうかという不安から解放されたことは、精神衛生上極めて重要なことだ。
土曜日には大野農園に行ってきた。
今年はぜひとも購入したいと思っていた“レディ・エマ・ハミルトン”は春先に行ったときにはすでに品切れ。
今回は前から気になっていた“ゴールデン・ウィングス”を購入。予想してなかったが、時期的にすでに2割引きになっていて、すっごく儲けた気分になる。
店の人曰く、“レディ・エマ・ハミルトン”は5月の開店早々売り切れたそうだ。理由はわからないが、今年は黄色~オレンジ系のバラが人気だったそう。私は来春の予約をこの場でしてきた。
さて月曜日である。多くの方が先週よりは1日多く働かなければならないだろう。
なんか元気が出そうな曲にしよう。
珍しくワーグナー(Richard Wagner 1813-83 ドイツ)を選択。
楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー(Die Meistersinger von Nurnberg)」(1862-67/1868初演)の第1幕前奏曲。
けっこう有名な曲だ。なんかしらんけど、豪華で威勢が良くて、バブリーさが漂う曲だ。マイスタージンガーは名歌手という意味。
ワーグナーは今年200歳。いや、生誕200年だが、その後世の中はどう今年を祝おうとしているのだろう?
「ニユルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲は、私にとって初ワーグナーとなった曲。
最初に聴いたときからとても気に入ったが、にもかかわらず、私がその後ワーグナーへの道に進まなかったのは、おそらくは鑑賞環境による。
エアチェックでクラシック音楽の鑑賞レパートリーを広げていた私にとって、ワーグナーの長大なオペラや楽劇に親しむということは困難だった。年末のバイロイト音楽祭を録音する気力も、カセットテープを大量に買い込む経済力もなかったし……
コンヴィチュニー/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で。
1960録音。スプラフォン。
古い録音だが、巨匠コンヴィチュニーの演奏はまったく色あせていない。官能的だ。まっ、ワーグナーってもともと官能的な音楽なわけで、そこいらはこの演奏はバッチリ。
1962年に亡くなったコンヴィチュニーのことは、当然私はリアルタイムで知らない指揮者だ。まったく同時代の人ではないが、昔エアチェックしたベートーヴェンの「レオノーレ」の序曲第1番をずいぶん聴き返した経験があって、なんだか身近に感じる指揮者だ。名前だけは。
古き良き時代みたいな雰囲気のある、温かな血が通った音づくりだ(CDジャケットの写真はコンヴィチュニーではなくマタチッチだアッチッチ!)。
ところでお詫びと訂正。
一週間前の7月15日の記事で、私がかつて岩城宏之の指揮でヴェーベルンが編曲したバッハの「6声のリチェルカーレ」を聴いたことがあると書いた。
記憶違いだった。
それはパスカル編の「フーガの技法」だった。
すまない。みなさんには多大なるご迷惑はかけていないだろうが、誠実な私としては一言お詫び申し上げる次第である。
あのそば屋が昼も営業していたなんて知らなかった。
思い込みで、夜だけの営業と思っていたのだ。
昨年紹介した、“すたみな”そばがある店のことだ。
そば粉がどうだのとか、手打ちであーだのという威圧的な能書きが一切ない、そして値段もバカ高くない、ごくフツーのそば屋だが、このフツーのそばって突然食べたい衝動に駆られるものだ。だから、こういうそば屋って、貴重だ。そばは庶民の食べ物であるはずだもん。
すっごくこだわっていて、味もすばらしいとなればそりゃ魅力だけど、ざるそばで1000円近くもして、量も少ないとなれば、年に数回しか食べられない。庶民の味方じゃない。
だから、こういうそば屋さんにがんばってもらわねば。
この店は会社から歩いて5~6分のところにある。
“すたみな”がどれほど豪華なそばだったかは、はっきり覚えていない。目撃したときは酔っていたし、時も経過してしまった。去るそばは日々に疎し。
でも、あのとき私は確かに「すごい!」とおったまげた。
この店のメニューにある品のありとあらゆる具材がトッピングされていたような記憶がある。
そしてまた、それにふさわしく、価格も最高峰に位置している(でも1100円)。
そばはカロリーが少なくてヘルシーということで、私を含むおっさんがたに人気があるが、この“すたみな”はその名の通りスタミナがつくに違いない。つまりヘルシーではない。
ということで、スメタナ。なんかスタミナと似てるから。
スメタナ(Bedrich Smetana 1824-84 ボヘミア)の6曲からなる連作交響詩「わが祖国(Ma vlast)」(1872-79)。
この曲の演奏で定番というか定評のある盤となると、ノイマンとかアンチェルってことになるのだろう。いわゆるお国ものの演奏。
が、そういう演奏ばかりだと印象が偏ってしまう。いえ、偏っても全然いいんですけど。
ここでは、ドラティ指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団というハンガリー&オランダ勢による演奏をご紹介。
第1曲「ヴィシェフラド(高い城)」の冒頭。
ここはハープのソロで始まるが、その音が非常に美しい。私のように美しすぎる。そう、この演奏、しょっぱなのハープで私をとろけさせる。
もう数秒で「参りました!」。
全曲を通して響きが清く透明。
郷土愛はこの曲の命。が、そこを控え目にしたスッキリしたこの演奏は、スメタナの曲ってこんなに美しかったんだぁ、とあらためて認識させてくれる。
1986録音。デッカ。
昨日のドヴォルザークに続き、チェコの作品をチェコっぽくなく演奏しているCDを紹介してしまったが、ここ数日チェコに嫌な印象を持ったとか、千恵子に意地悪されたとかいうのではない。偶然である。千恵子って誰か知らないけど……
で、あのそば屋に昼に行ってみた。ヤマダ課長と。
私はかしわそばを頼んだ。600円。
ふつうに美味しかった。
かしわそばといえば、小学校3年生のとき、私は夕食を1人で食べなければならないことがあった。ママは夕方からお出かけだったのだ。弟を連れて。
出かける前に母親は私に、近くの“更科”というそば屋に行って食べるようお金を置いて行った。かしわそば代120円である。
くどくど書く必要はないだろうが、当時かしわそばは、少なくとも“更科”では120円だったのだ。
“更科”へは何度か親と行ったことがあったし、出前をとることもあった。
だからそこのおばさんのことは知っていたし、おばさんもかわいらしい私のことを知っていた。
その日の夕方、私はのれんをくぐり引き戸を開け、店の中に入った。
客は他に誰もいなかった。
「かしわそばクダサイ」と私はおばさんに行った。
そのあと、ポケットに入っている有り金全部をテーブルに出した。10円玉12枚。……のはずが、11枚しかない。どうしてだろう?どれだけポケットの中で手を動かしても、残りの玉の感触はない。それ以上やると、別の玉をまさぐってしまいそうだったので、あきらめる。
メニューを見る。
110円で食べられるのは月見だ。
「す、すいません。やっぱり月見にしてください」
おばさんは、実は私がかしわ好きなのを知っていた。そして、「どうしたの?」と言いながら、テーブルの上の小銭を見た。そして11枚しかないのを知った。
「いいよいいよ。かしわを作ってあげる」
こんなに優しくされて、もし私が成人男性だったなら「お、おくさんっ!」って抱きついたかもしれない。
おばさんは奥へ引っ込み、やがてかしわそばを持ってきた。
感動のあまり泣いてしまった、というのはウソだけど、いまでも忘れない私の“一杯のかしわそば”物語である。
でも、考えてみれば、110円あるからといって110円の月見に変更した私も愚かだった。だって、生卵は苦手だから。
そういう意味では、おばさんには二重に感謝だ。
一昨日に引き続き、今日もSymphony No.4。
本日はジンマン指揮によるマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第4番ト長調(1892,'99-1901/改訂1901-10)。
この作品については、例えばここのように過去に何度も取り上げているので、うんだらかんだらと書かない。
そこで脱線。
またJR北海道が事故?というのではなく、話を脱線させる。
語りたいことがあるのだ。読んでくれ。全然たいした話ではないが。
先日、“笑笑”が帯広駅前近くに店をオープンさせた。
全国共通の赤地に白抜きの文字の電飾看板。周りは黄色い電球で囲われ、それが回転するように点灯する。
この看板ができただけで、ずいぶんと夜の駅前通りが華やかになった気がする。
私は笑笑がけっこう好きである。白木屋よりも好きだ。まだ行ってないが、そのうちぜひ訪問し、ウィンナー揚げを食べてみたいと思っている。
そしてまた、ほぼ同じタイミングで和民もオープンした。
実は私、和民を利用したことがない。札幌でも、出張先でも。
最近は企業的にあまりイメージが良くないようだが、そんなことを気にする必要はないとは思うものの、なんとなく嫌な感じなのでここには行ってみたくない。
どうです?全然たいした話じゃなかったでしょ?
十勝での店舗数が多い“鳥せい”。
唐揚げと炭火焼が有名なチェーン店である。
発祥の地は十勝清水町。ちなみに十勝清水町は“第九の町”である。
札幌にいるときに何度か利用したことがあるが、こちらに来てからは一度も行ったことがなかった。
が、先日仕事帰りに総勢5名で行ってみた。
唐揚げと炭火焼を頼む。
私としては断然唐揚げの方が美味しいと感じる。炭火焼の方がヘルシーなんだろうが、炭というか燻されたフレーバーが強すぎる。慰撫してくれるならウェルカムなのだが……
他の豊富でないメニューから、串焼きを何種類か頼んでみる。
つくね……
これはいただけない代物だった。
鶏専門店でしょ、ここ?
なのに出て来たものは、見た目は小型の抹茶ういろうを串に刺したようなもの。
食べてみると、案の定まったく肉々しくない。ほとんど肉が入ってない、“つなぎ”が主役になってしまった仕出し弁当の片隅に置かれているシューマイのような味だ。
これなら同じチェーンでも、居酒屋の方がずっとましなつくねを出す。
驚いたねぇ。
本線に戻らなきゃ。
ジンマンのこの4番の演奏、正直言って私の好きなタイプではない。
遅めのテンポで進むが、じっくり聴かせるというよりも、弛緩した感じ。投げやりに進めている(よく言えば「気負いなく」ってことになるのか?)-もちろん綿密な計算の上でのアプローチだが-ようにさえ聴こえる。
流れが滞りそうになる場面もあるが、これももちろんワザとだ。
もともと大音響が鳴り渡る箇所の少ない作品だが、コンパクトにまとめた響きで、まさに“古典的”スタイルの曲作り。
この曲は、“本当は怖いグリム童話”のように、実は悪魔チックなところがあるはず。ジンマンの演奏では、そこがあまりに軽視されているように思える。
毒が無さすぎるのだ。
きれいな演奏なのはこの4番でも同じなので、毒だの退廃だの皮肉だのが好みでない、善良な人柄の人向きか?
メルヘンチックで夢のような世界といえばそうかもしれないが、瞳の輝きをすでに失った純情無垢とは言い難い最近の私には、この4番は肌に合わない。
2006録音。RCA。
で、髪洗ってんのかい?このお姉さん。
あっ、ソプラノ独唱はオルゴナソヴァ。
少し前の話になってしまうが、忌まわしいA定食売り切れ事件があった翌日のこと。
その日の私たちの昼食は、近所の寿司屋に決まった(私が昼を食べそびるハメになる2日前のことである)。
昼から寿司屋とはずいぶんと羽振りがいいじゃないかと、いわれのないイヤミの1つも言われそうだ。しかし、この寿司屋、毎週その曜日は生ちらしが27%引きになるのだ。
なぜ27%なのか、その根拠がよくわからないが、とにかくお得な価格になるわけで(ふだんよりは)、私はそんなに生ちらしは好きな男の子じゃないんだけど(むしろやや苦手)、きっぱり「私は皆さんと行動を別にして、独りラーメンを食べに行きます」ともやっぱり言えず(その曜日は、発作的にラーメンが食べたくなっていたが、ほぼ決めていた店は定休日だということを思い出したこともある)同行した。
A定食のときに書いたが、社員食堂とか職員食堂ってどうしてあんなに幸福感がないのだろう。殺伐としているほどだ。
その点、この日行った寿司屋は、社食とはやはりまったく違う、とはまったく言えないほど、けっこう幸福感がなかった。
12時過ぎに行ったのに、まだ客を受け入れる準備が整っていない(なんと、今まさに暖簾を出すところだった)。店内は薄暗く、しかもうすら寒い。
なんかなぁ~。
なまものを扱っているわけですけど、そこんとこは大丈夫なんでしょうね、と心の中で思ったりする。
つまりだ。店の戸を開けた瞬間に「あぁ、ここに来たかったの!」って気分にさせてもらえないわけだ。
これなら、特急列車の車内販売の雰囲気と弁当を買って広げるときの気分の方が、はるかに幸福かつ充実しているように思える。
生ちらしの出来上がりを待っている間(生ちらしの日と銘打っているくせに、出てくるのが遅い!しかも基本的に火を使わない料理だから、「今やってまっせ」みたいな、調理音がまったく聞こえてこない。だから進捗状況がわからない)、われわれは会話するのにも飽き、窓の外をぼーっと眺めたり、私は私で爪楊枝入れのなかの爪楊枝の数を数えたりしていた。16本だった。
にしても、いかに前向きに考えようとしても、照度も雰囲気も暗い寿司屋だ。
せめて、熱帯魚でも飼って欲しい。
そして、いっそのこと店内を真っ暗にして、水槽の青白い光に照らされたグッピーでも眺めながら寿司を食うっていうのはどうだ?
シューマン(Robert Alexander Schumann 1810-1856 ドイツ)の「クライスレリアーナ(Kreisleriana)」Op.16(1838)。8つの幻想曲から成るピアノ曲でシューマンの代表作でもある。ショパンに献呈された。
クライスレリアーナという名は、“クライスラーのこと”といった意味。
E.T.A.ホフマンが書いた「牡猫ムルの人生観」に登場する楽長の名前がクライスラーで、またホフマンは、自身のペンネームとしても使っていたらしい。
ホフマンに傾倒していたシューマンだったが、ここでクライスラーを描いたわけではない。当時クララとの結婚に反対されて苦しんでいたが、そのクララのことを想いながら作曲したという。やるぅ~!
標題的要素はなく絶対音楽であり、悩める時期であると同時に最もノリにノッていた時期に生み出されたシューマンのピアノ曲を代表する傑作だ。
ポリーニの演奏で。2001録音。
寿司屋の翌日の昼。
この日私は皆とつるむこともなく、単独行動をとった。なぜならば、出張などでみんなそれぞれ不在だったからだ。
私はデパ地下に行き弁当を買った。
おにぎり弁当である。
これはウソではないのだが、昔ならこれにミニサイズのカップ麺をつけなければ2時間後には腹ペコになっていたのだが、今はこれだけでも十分である。痩せる予感……うふっ!
食べながら本を読んだが、もちろん揚げ物(この日はイカリングフライだった)の衣の微粒子が本のページに飛ばないよう細心の注意を払った。
醤油は、袋の切り方が不十分なために水鉄砲のようにネクタイに飛んでくることがないよう、深めに切れ目を入れた。
ミートボールは箸でつかみ損なって机の上を転がることがないよう、中心部に向かって慎重に箸を刺して食べた。
完璧かつ上品な食べ方だったというのが私の自己評価。
おかげで食後30分間の自由時間を創出できたことをご報告申し上げる。
先週、私はヤマチ係長とともに本別町に行ってきた。
レジャーではない。もちろん仕事だ。
本別町の某所の某氏と打ち合わせがあったのだ。
この本別行きは2週間ほど前から決まっていた。
だから私は、この日はどうしても本別でラーメンを食べたいとヤマチ係長に泣きすがり、希望を受け入れてもらった。
そのラーメンというのは、“黒マメ味噌ラーメン”である。
この文字を雑誌で初めて目にしたときは、黒豆が入った味噌ラーメンか、黒色のマメ味噌ラーメンかと思ったが、少なくとも後者については、マメ味噌ラーメンというものを自分の中で連想することができず、可能性として却下した。
でも黒豆が入った味噌ラーメンっていうのも誤りで、黒豆で作った味噌を材料に使った味噌ラーメンだったわけだ。なんといっても本別は豆の大産地なのである。
勝手にけっこうボリュームあるラーメンを予想していたのだが(値段も820円となかなかだったし)、来てみるとごく普通の盛り。 味噌の味は、う~ン、黒豆の味が……と唸りたいところだったが、よくわからんかった。
が、味噌ラーメンのスープとしてはなかなかのお味。
そしてもう1つの特徴は、けっこう太い麺だということ。
箸が割り箸ではなく塗り箸だったので、麺を持ち上げにくく、かつ、一度はビョンと滑り落ちて黒マメ味噌ラーメンスープの滴が見事な放物線を描き、メガネのレンズをかわし、私の愛らしい左目に入ったのが難点だったが、摂食的にはこの麺がけっこう腹にズシンと来るもので、見た目以上におなかいっぱいになった(と言いつつも、小ライスを付けてしまったが)。
にしても、麺の黄色とネギの緑、赤い糸状の唐辛子の色合いがよろしいことで……
ツィンマーマン(Bernd Alois Zimmermann 1918-70 ドイツ)の「黄色なるものと緑なるもの(Das Gelb und das Grun)」(1952)。
この作品について、私はほとんど何の情報も持ち合わせていない。なんだか、ちょいと刺激がある曲を聴いてみたいな、たまにはツィンマーマンのCDでも買ってみっぺかと、注文したに過ぎない。実に危険な遊び、いや、賭けだ。 CDに付いている日本語表記による作品名などが書かれているのを見ると、「黄色なるものと緑なるもの」は、F.シュネッケンブルガーの人形劇劇場のための音楽だそうで、プロローグ/ブルレスケ/小さなワルツ/幻影的魅力/行進/エピローグの6曲から成る。9分ほどの曲である。
このCDには他に3つの作品が収められている。
「ほんのわずかの無――(Un petit rien--)」(1964)は「マルセル・エイメの『月の鳥』にちなんだ、明るく三日月形で、鳥類学的な音楽」という副題を持つ、7曲から成る6分強の作品。
その7曲は、夜の女序曲/月による変身Ⅰ/軍人たちのやかましい足音/月のプティット・ヴァルス/小鳥を強制的に眠らせる子守唄/月による変身Ⅱ/月の光のブギ・ウギ、である。
その添付の紙によると、
「月の鳥」は、フランス童話界の重鎮、エイメによる物語。月の光によって不思議な力を得て、自分のきらいな人を鳥に変身させることができるという、風変わりな先生のお話です。ツィンマーマンは、バレエ音楽としてこの作品を発表しました。メルヘンチックな雰囲気の作品ですが、風変わりな先生がなにやらあやしげな奇術をつかっているさまが目に浮かぶような曲です。
とのことだが、私には、それほどメルヘンチックな世界とは思えなかった。
「オムニア・テンプス・ハーベント(Omnia Tempus Habent)」(1957)は、ソプラノ独唱と17楽器のためのカンタータで、高度なセリー音楽。なるほどノーマルな世界ではない。
収録されている4曲のうち、最も聴きごたえがありノーマル臭が強いのは「メタモルフォーゼ(Metamorphose)」(1954)。これはなかなかの収穫。
ツィンマーマンは晩年になって自分の音楽が理解されなくなったとしてピストル自殺している。1960年代後半からの彼の作品は聴きづらい、聴衆にとっては嫌がらせではないかというような音楽に変わっていったが、ここに収められている4作品はそのような変化が起こる前のもの。耳になじみやすいと言う気はないが、「ある若い詩人のためのレクイエム」のような、「うん、こりゃ自殺するのもなんとなくわかる」という病んだ音楽ではない。
ヒルシュ指揮コレギウム・ノヴム・チューリッヒによる演奏。
2003録音。WERGO。
ラーメンを食べたあと、おしっこがレモン色になったわい。
あっ、黒マメ味噌ラーメンは本別町の“道の駅ステラ★ほんべつ”内の中華レストラン“秀華”の一品である。
指揮者の小松一彦氏が亡くなった。65歳。
小松一彦は若いころから“ほくでんファミリーコンサート”などを札響を振りに来ていたが、のちに札響の専属指揮者(よくわからん立場ではある)に就いた。
日本基督教団西宮教会で葬儀が行われるそうだが、私は彼の指揮するCDをあまり持ってないので、キリスト教に反するかも知れぬ伊福部昭の「釈迦」の初演時ライヴを昨日聴いたことをご報告する。
魔が差して買ってしまったものの、家で食べると全然美味しいと感じないのに、弁当を買ったときに入っているとすごくうれしくて準主役とさえ思えてしまう。それが赤ウインナーである。
実に面白いものである。
あと、弁当において私に地味に喜びをもたらすのは、ダイコンの味噌漬け。あの薄っぺらなオレンジ色した漬物だが、乗っけられたところのご飯が変色し味が少し移行していると幸せな気持ちになる。あの味噌漬け、薄切りでないと美味しくないのはなぜだろう?
先週のある日に買った生姜焼き弁当には赤ウィンナー1本と2枚のダイコン味噌漬けが入っていて、主役の生姜焼き3枚よりもむしろこちらの方が嬉しかったくらいだ。
そんなこんなだが、この1週間を振り返ってみると(もちろん昼食のことです)、月曜日はカツ丼(弁当。デパートの惣菜コーナーでの一品。冷めていたというより、なぜか異常に冷え切っていた)。火曜日は醤油ラーメン、水曜日は天ぷらそば、木曜日と金曜日はカレーライスでしかも同じ店、ってわけで反省点が多々ある。
その1つはいくら面倒だからと言って、同じ店で2日続けてカレーライスを食べたことすっごく美味しい自慢のカレーならともかく、全然ふつうだし(ふつうも大切なこととは言えるが)。せめてどちらかの日は目玉カレーにすべきだった、ってなことではないな……。
それとカツ丼なんて食べちゃいけない。それも冷たいやつを(案外と味が良かったのが悔しい)。
天ぷらそばじゃなくかしわそばにすべき。
醤油ラーメンは、まあ良しとしよう……。
にしても、金曜日にカレーを食べていた時に入ってきた中年女性の客。結局は鍋焼きうどんを頼んでいたけど、入って来て席に着き、注文するまでの態度が落ち着かないというか挙動不審というか、へんだったなぁ。 さて、私がいま読み始めたのは、貴志祐介の「黒い家」(角川ホラー文庫)。
1997年に単行本が刊行され、文庫化はその翌年。私が買ったのは2012年発行の31刷。
表4に書かれているストーリーは、
若槻慎二は、生命保険会社の京都支社で保険金の支払い査定に忙殺されていた。ある日、顧客の家に呼び出され、子供の首吊り死体の第一発見者になってしまう。ほどなく死亡保険金が請求されるが、顧客の不審な態度から他殺を確信していた若槻は、独自調査に乗り出す。信じられない悪夢が待ち受けていることも知らずに……。恐怖の連続、桁外れのサスペンス。読者を未だ曾てない戦慄の境地へと導く衝撃のノンストップ長編
というもの。
まだ読み始めたばかりなので感想は書けないが、本当に桁外れで未だ曾てなくてノンストップなのか楽しみである。昨日、ノンステップ仕様の路線バスを見かけたし。
そんなこんなで、ヤナーチェク(Leos Janacek 1854-1928 チェコ)の歌劇「死の家から(From The House Of The Dead/Z mrtveho domu)」(1927-28/1930初演)。
ドストエフスキーの「死の家の記録」からヤナーチェク自身が台本を作った3幕のオペラで、作曲者の死の2カ月前に完成された。ドストエフスキーの実体験に基づいていると言われるシベリア流刑地での囚人の様子を描いた物語である。
今日は3曲から成る管弦楽組曲をご紹介。
私が持っているCDは、アルミンク指揮ヤナーチェク・フィルハーモ二ー管弦楽団の演奏。
1999録音。アルテノヴァ・クラシックス。 今日はこれから“家”に帰る。
朝イチのJRで。
早いもので12月も今日で3日だ。
1日の土曜日。
私は仕事をし、そのご褒美として会議で弁当が与えられ、「ワンワンッ!」と喜び勇んでふたを開けたものの、皮がピンク色で味も食感も本物とは縁もゆかりもないような原材料不明のシュウマイや、年配者だったら尻尾を振って喜びそうなフキとしみ豆腐の煮物、蒸し焼きしたコンガリ感のない鮭の切り身のそれも半切れがメインで、ザンギは1個だし、エビフライは寒くて縮みあがったの?というくらい細かったし、このての弁当には欠かせない切れ目の入った赤いウインナーは入っていなかったわけで、ちょっと不満が残った。
なお、ザンギというのは鶏のから揚げの北海道における愛称である。
仕事を終えて会社に車を置きに戻り、その帰り道に駅のみどりの窓口にネット予約しておいた今週の出張の指定券を受け取りに行ったが、肝心の予約番号を控えた紙を持ってくるのを忘れて目的を達せず、はてさて、それにしても全国のみどりの窓口にはみどりさんという名の女性はいったい何人くらいいるのだろうと、またどーしようもない疑問を思いついてしまった。
家に着くと、数日前にメールが届いていたソニーのポータブル・カーナビの地図更新キャンペーンのお知らせに従って、新しい地図データをダウンロードしたが、案内に書かれているように本当に2時間近くかかってしまって、その正直な姿勢に感銘したものの、終わった時には夕食の時間になってしまっていた。
以上を簡潔にまとめると、朝ごはんを食べて仕事に出かけ、昼食の弁当を食べて、みどりとの間に後味の悪い行き違いをしたまま帰宅し、じっと張りついている必要はないのにダウンロードの残り時間が表示されるパソコンの画面をを凝視したあと、また食事をした。それが私の2012年の12月1日だった。
1935年の12月1日。
この日、マドリードでプロコフィエフ(Sergei Prokofiev 1891-1953 ソヴィエト)のヴァイオリン協奏曲第2番ト短調Op.63(1935)が初演されている。
プロコフィエフはロシア革命のあと祖国から離れたが、1933年に戻った。
帰国した後のプロコフィエフの音楽は、かつての前衛的なものから、ソ連の体制に合った、大衆に迎えられるような作風にかわった。
このヴァイオリン協奏曲第2番も、従来のプロコフィエフの挑発的な態度、未来を思わせるような新しさは影を潜めている。逆に、非常に親しみやすいとまでは言えないものの、古典的な形式(聴いてる分には古典的には感じないが)や民謡風のメロディーの多用によって、どこか懐かしさを感じさせる。
実際、この作品はプロコフィエフの後期のスタートを飾る傑作とされている。
ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲(2曲)や、同じくプロコフィエフの第1番のコンチェルトと並び、この曲は20世紀を代表するヴァイオリン協奏曲の名曲ではあるが、録音を探すと、意外と私の意にかなうCDがない。私の検索条件は、奏者に期待できる&録音が新しい&価格がバカ高くない、である。
今回、モルドコヴィチの独奏、N.ヤルヴィ指揮スコティッシュ・ナショナル管弦楽団の演奏のCDを聴いたが、これは良かった。
抒情性に富む一方で、鋭角的なプロコフィエフの本質を埋没させることのない-この曲にも彼の鋼鉄的作風はもちろん残っている-刺激的な演奏だ。一歩間違えるとこの曲、引き込まれないうちにちょっと騒がしかったけどなんとなく終わってしまって、「ばあさんや、よくわからんうちに終わっとるわい」「あら、まぁ、ほんとに、まぁ」ってはめになるのだが、この演奏にはそういうところがない。
当初予算計画よりも価格は上だったが、買って良かったと満足している。
1988録音。シャンドス。
えっ?1988年って全然新しくないって?
いえいえ、私には十分新しく思えます。
さて、昨日の12月2日は朝ご飯を食べて、昼はレトルトカレーを食べて(新得のサホロカレーっていうご当地ものだが、肉がたっぷり。しかもレトルトっぽくない味でたいへん美味しかった)、夜は豚肉を焼いて食べた。
サホロカレーはぜひとも皆さんにもお薦めしたいが、Amazonなんかでも扱っていないようだ。かわいそうに(みなさんが)。
そんなこんなで、年末に向け毎日が過ぎていく。
札幌の老舗ギョーザ・チェーンは“みよしの”である。
かつてはけっこうあちこちに店舗があったような気がするが、いまはあまり見かけない。それでも調べてみると札幌や旭川などで全部で20店舗以上はある。
それこそ、私が小学校5年から住んでいた札幌市西区西野にかつてそびえ立っていた一大ショッピング・ビル“カスタム・パルコ”の地下飲食店街にもあったように記憶している。
ここでの珍しいメニューは-といっても、札幌市民をはじめ“みよしの”を知っているひとにとっては当たり前のようになじんでいるギョーザカレーである。
カツカレーのカツのかわりに、エビフライカレーのエビフライのかわりに、カレーライスの上にギョーザがのっている。
私は最初にこれを知ったとき、信じられないという気分だった。だってカレーにギョーザですよ。実際には美味しいのかもしれないが-長年の定番メニューとなっているのがそれを証明している-私はいまだ食べたことも、食べようと思ったこともない。
“みよしの”は現在では道内のスーパーのチルド品コーナーに当たり前のように並んでいる。
店で食べるというよりは、ご家庭で美味しいギョーザを、って方向性が主流になっている。
ギョーザのチェーンといえば、私の頭に思い浮かぶのは“餃子の王将”である。数年前に北海道にも上陸したようだ。ただ。私は食べたことがない。
先日、新聞にその広告が載っていた。
「おっ、いよいよ餃子の王将も通販に乗り出したか」と、感慨無量にまではならなかったが、ほほうと思った。のも束の間、よく見れば“王将”ではなく“王国”だった。 “餃子の王国”のギョーザが美味しいのかどうか、メジャーなのかどうか、私はまったくもって知らないが、広告としては紛らわしいだろう。それとも、そう思うのは偉大なる“餃子の王国”を知らなかった私だけか?
こういうのって、あまり誠意を感じないなぁ。私的は。だって、“王国”ってのを前面に打ち出していないもの。
“王国”っていう字のデザインを見て、似てはいないんだけど、私はあの“ローマの泉”の“ロ”の字を思い起こしちゃった。
それにしても、ギョーザの王国ですよ。どんな国なんでしょ?
ドヴォルザーク(Antonin Dvorak 1841-1904 チェコ)の序曲「自然の王国で(V prirode)」Op.91,B.168(1891)。
3曲から成る序曲集「自然と人生と愛(Priroda,zivot a laska)」の第1曲である。
ただし「自然の王国で」という邦題は誤りで、原意に近いのは「自然の中で」というタイトルだと言われる。そうなると、餃子の王国と遠縁になってしまうので、私としては無理して「自然の王国で」を採用してしまった。
すまない。
渡米前に書かれたこの作品は、その名の通りチェコ(ボヘミア)の自然を讃える壮大かつ美しい音楽。
はっきり言ってあまり聴かれることがないこのような曲でも、ドヴォルザークの音楽は魅惑的なメロディーにあふれ、精気に富んでいる。
私が持っているCDはガンゲンハウザー指揮BBCフィルの演奏によるもの。
1992録音。ナクソス。
あの広告には中途半端な大きさで“食欲の秋”って書かれているが、今日、この地には雪が降っている。
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