協会ではなかった。
だからといって、教会でもなかった。
境界だった。で、教戒を医者から施された。
ブドウ糖負荷試験の結果である。
悪けりゃ電話で報せてくるはずで、連絡が来ないから大丈夫だったか、あるいは中途半端に悪かったかだと思っていたが、ちぇっ、中途半端に悪かったわい。
医師に呼ばれて診察室に入ると、「MUUSAN、この間の結果だけど、なんでもなくはなかったわ」と言われた。
バチがあったのだ。若杉のマーラーのブドウをけなしたから、そのバチがあたったのだ。
今回の検査では4回採血したのだが、コトを簡単に説明すると、血糖負荷前、つまり空腹時血糖の値は105mg/dl。正常者は100未満、糖尿病だと126以上である。つまり、わたしはその間に収納される。
一方、最後の採血(負荷後120分後)の結果は138。140未満なら正常で、200以上なら糖尿。ということで、私の場合は正常値。 これらの結果から、私は正常型にも糖尿病型にも属さない境界型という判定を下された。ただ、ネット情報によると、空腹時血糖が110未満なら正常という説もある。こちらの説でいくと、私は正常型に仲間入りできることになるのだが……
また、負荷後30分後、60分後の値の動きから、医者が言うには「MUUSANの場合は遺伝的なものであることは間違いない。年齢とともに、それがでてきたのだろう」という。
遺伝と言われた日にゃ、ぐうの音もでない。
私の母親は堂々たる糖尿病患者である。甘く呪われた血統なわけだ。
となると、ウチの2人の息子にも遺伝するのか?
いや母親からの遺伝ということは、その糖尿遺伝子はX染色体上にあるわけだから、息子には遺伝しない。非難されずに済みそうでよかった。
医者には体重はもうこれ以上落とさなくても良いと言われた(この日は65.4kg。もっともっと褒めてくれるかと思ったが、しっぽを振る暇もなくスルーされてしまった)。薬はなし。運動する ように言われた。運動嫌いの私としては、歩くことを増やすしかない。ちなみに、今朝は雨なので、余計な歩行は回避するつもり……
そのあと自宅に帰ると、キッチンの床にアリが数匹動き回っていた。
甘い私が帰って来るのを待ち伏せしてたのか?
だがたった数匹だけで、列を成しているわけではないので、侵入経路がわからない。
土曜日も朝に2匹発見したが、その後は出没せず。
こういうのがいちばんストレスになる。チクショー!どこから入りこんで来てるんだ?
庭では春先に移植したライラックが、花を咲かせながらも葉がすっかりしおれていた。移植後満足に雨が降っていないせいだ。もうだめかと思ったが、一応たっぷりと水を与えたら翌朝は少しまともになっていた。回復してくれることを願う。
オオデマリやコデマリは元気に開花。この2つの名を書くと、どうしても頭の中で大出真理とか古出万里とかいう女性の名前の漢字が思い浮かんで困る。そんな人、全然知らないんだけど。
バラは今年買ったレディ・エマ・ハミルトンが他のものより大きなつぼみをもっている。例年最初に咲くのはオールド・ブラッシュ・チャイナなのだが、今年はわからんな……。 昨日に続いて、岩城/都響による伊福部昭(Ifukube,Akira 1914-2006 北海道)の作品を。
マリンバの安倍圭子を迎えて「オーケストラとマリンバのための『ラウダ・コンチェルタータ(Lauda concertata)』(1976/'79初演)。
この演奏でも岩城はオーケストラを大爆発させるような鳴らせ方はしていない。
岩城宏之は子供のころ木琴を弾いていた。そして打楽器奏者を目指したが指揮者に転向したわけで、打楽器、とりわけマリンバのことは良くわかっていたはずだ。だからマリンバがオケに埋もれないようバランスに配慮しているのだろう。
とはいえ、力不足ということではまったくない。パワフルだが節度をもったオケの鳴らせ方である。
昨日紹介した「文藝別冊」で、井上道義は次のように語っている。
安倍圭子さんは《ラウダ・コンチェルタータ》の最初のコンサートで、オケに対してマリンバが弱い音しか出せなくて、それが自分としては情けなくて、腹立たしかったそうなんですよ。そんな思いもあって、伊福部さんの許しを得て、自分でどんどん音を足していくようになったものだから、カデンツァなんか楽譜に書いてある音と全然違う。指揮者としては「ええーっ!?」と思うんだけど(笑)、安倍さん曰く「こうじゃないとみっともないから」「伊福部さんにはちょっと怒られるけど、やっちゃうのよ」って。
そんなことしてるとは……
安倍圭子さん、すごい……
1990年ライヴ。フォンテック。
ガーデニング
あくまで好きずきの問題だ。それを踏まえて上で言うと、私には若杉/都響によるマーラーシリーズのCDジャケット・デザインは「なんだかなぁ」である。
日本人による演奏であり、国内盤であるからして、大きな日本語で書いて当然のことだ。という発想、感覚、企画はよく理解できるが、でも「なんだかなぁ~」なのである。それとも輸出したときは逆にうけるのか?これをそのままTシャツにプリントしたら、外国人にウケたりして……
このブドウのイラストもなんだかなぁ、である。イラストそのものは写実主義的によく書かれている。が、ボンっと一房のデザインはどうなのかなぁ……。
これ、サントリーホールが日本で初めてのブドウ畑形式の客席配置-ステージに向けてブドウの段々畑のようになっている-だから、その象徴としてブドウのイラストがドカンと描かれているんだろうけど、これ茶ブドウかな?いずれにしろ、あんまり美味しくなさそう。仏壇の前に供えられているもののような……
いえ、あくまで個人の好みの問題です。
ただ、一回だけ言ってみたかっただけです。
マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第4番ト長調(1892,1899-1901/改訂1901-10)。
いまではほとんどなくなったが、この曲、かつては販売に当たって「大いなる喜びへの賛歌」と書かれた帯をつけたLPやCDが少なくなかった。大いなる喜びへの賛歌……。英語ならOde to heavenly joy。余談だが、ウチの庭のコニファー、ブルーヘヴンは雪害で悲しげな姿になったが……
そしてまた、このCDの帯にも書かれている(こちらは“讃歌”)。
ここがまた、なんというかダサい感じがするし、良く知らない購入者には誤解を与える。
マーラー自身がこのようなタイトルをつけたことはない。第4楽章で「天上の生活」が歌われるが、その歌詞からこういう名を誰かがつけたのだろう。喜びといっても、歌詞の内容はけっこう身勝手で残酷なものなんだけど。
そうそう、昨日の車を入院させているディーラーから電話がきた。
「現象が再現できました!」
良かった。
ぜひとも見て欲しかったのだ。私がウソをついていると思われないためにも。私は大いに喜んだ。
さて、若杉弘/東京都交響楽団、豊田喜代美による1990年ライヴだが、どうもパピッとしない。
すごく丁寧に作りあげられた演奏なのは第6番と同じだが、抑制され過ぎている感がある。だから、良い演奏だとは思うものの、心に浸みこんで来ない。
ただ、1000円の価値はある(現在66%オフのセール中なので1000円で手に入れることができる)。
また、豊田の歌はノーテンキとかかわいらしいといったものじゃなくて、天上の生活のすばらしさを皮肉っぽく表現していて、私は好きだ。
フォンテック。
ラティスパネルの支柱がアリに食われているのを発見。
ここ2年ほどガードラックを塗っていなかったので、防蟻効果がなくなり、すっかり住環境に適してしまったようだ。
スプレー式のアリの巣退治薬を噴霧。そのあと、たっぷりと塗ってやった。
とはいえ、このパネルもすでに建ててから10年以上が経過。
あらゆるものが崩壊の危機にさらされている。
そんなこんなで、今日の夕方勤務地へと戻る。
夕方には車の修理も終わっている予定。
結局どこが悪かったかって?
やっぱりウインカー・スイッチだったと、電話口の彼は言っておりました。
おっ、花火の音が。
今日は近くの小学校の運動会らしい。
さあ、仕事である。
休み明けだから気配を消して地味に1日をやり過ごしたいところだが、今日は会議があるし、外勤もしなくてはならないので、気力転身!がんばる所存である。
で、地味な存在ながら、相当の名演奏と思えるものを。
K.ザンデルリンク/ベルリン交響楽団によるマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の「大地の歌(Das Lied von der Erde)」(1908-09)。独唱はシュライアー(T),フィニレ(A)。
「大地の歌」で同じく地味な存在として、2カ月ほど前にバーンスタイン/IPO盤を紹介しているが、ザンデルリンクのはとても美しい。その美しさは機能美と正反対のもので、唯美的。しかし、オーケストラの音は繊細さと重厚さのバランスが見事。かつ鈍重にならない。
小細工することなく、正面から(良い意味で)淡々と音楽を進めて行くが、心にしみわたる演奏というのはこういうのを言うのだろう。わざとらしさがない、真摯なアプローチに好感がもてる。
そしてまた、独唱の2人の歌がうまい!シュライアーは表情豊かに熱唱、フィニレはしっとりした落ち着きをもった歌声。この2人がすばらしい“大地の歌”を歌い上げる。 「大地の歌」には数々の名盤があるが、これはぜひとも聴いていただきたい1枚だ。
1983録音。BERLIN Classics。
この連休中は風が強いことが多く、例年植えている野菜苗の購入は見送った。
野菜苗といっても、トマトぐらいだが……
また、今回購入したバラはレディ・エマ・ハミルトン。
花はもちろん、香りが良いバラだ。
風にめげず、しっかりと大地に根づいて欲しいものだ。いや、根づいてくれなきゃ困る。
にしても、昨日の朝刊に載っていた広告、“緊急守護霊インタビュー!”って、すごい……
池にちぎった麩を投げ入れると、うじゃうじゃと錦鯉が集まって来る。揃いも揃ってその口をパクパクさせている姿は、錦鯉の美しさなど吹っ飛んでしまい、その本能と欲望の発露におぞましいを感じる。
このクレンペラーの写真を最初に目にしたときは、そんな情景を思い出してしまった。この顔、怖い……
ところで、男の子がいらっしゃり、今年も鯉をのぼらせたご家庭におかれましては、本日お片付けすることとお察しいたします。
クレンペラー様のお写真で麩にがっつく鯉を思い浮かべるなんて失礼極まりないとおっしゃる方もいるだろう。
じゃあ、会社の泊まりがけの慰安旅行の夜の宴会なんかで、行なわれがちなゲームだとどうだろう?
男性社員が口を開けて、女性社員が投げるマシュマロをキャッチ!
なぜか男が投げ役で、女性が受け役というケースは少ない。
そのときの、なんでこんなに真剣になるの?と思わずにはいられない、日ごろは目立たず仕事の切れ味が悪い男性が、妙に張りきって口をパクパクさせている光景が頭に浮かぶ(ただしこういう場合、通常は後ろ手にしなくてはならない)。
このとき限りの幹事の独断で編成された班だが、こういうときに負けじと高得点を得ようとしてパクパクしちゃうんだろうけど、そんなんなら日ごろから課の業績アップのことを考えて欲しいものだ。
私は宴会のゲーム、特に羊羹やみかんの早食いとか、ラムネやコーラの一気飲みといった、ゲームが大嫌いである。吐きそうになってしまう。そもそも宴会芸は見ているだけに限らせてほしい。
そのクレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団による、ストラヴィンスキー(Igor Fyodorovich Stravinsky 1882-1971 ロシア→アメリカ)のバレエ「ペトルーシュカ(Petrouchka)」(1910-11/改訂'47)。クレンペラーの演奏は1947年改訂版(3管)である。
ペトルーシュカというのはバレエの主人公である人形の名前であり人形の見世物小屋での出来事が描かれるわけだが、クレンペラーの演奏だと人形たちはぎくしゃくと動く。
ほとんどの演奏が流麗にこの音楽を進めて行くし、そういう演奏が多くの聴き手にとってそれが常識かつ良い演奏。
ところがクレンペラーの演奏はぎこちない。全体のテンポは遅めだが、それもおやってところでアクセルを踏んだり、かと思ったらブレーキを効かす。他には聴けない刺激的なアレンジもある。最初は面食らうが、次第にやみつきになる。ここに淀む毒がクセになる。 出だしのフルートからして、もう他にはない独自のペトルーシュカの世界が広がる。
1967録音。テスタメント。
録音も良い。
クレンペラーのブラックホールのような口。
同じような光景を、連休中に庭で発見した。
アーティチョークを植えていたところが、穴になっていた。
地表にぽっかりと暗黒の世界への入口ができていた。
間違いなくノネズミのせいだ。アーティチョーク好きなんて、なかなかおしゃれじゃないか!
ふつうは若いつぼみを食用にするはずだが、あいつは根が好きだったようだ。
そして、悲しい。
この悲しさを胸に抱きながら、本日帰る。
昨日は予定通り床屋に行った。
帰って来て、ラティス・フェンスの支柱のうち、壊れた1箇所の束石をセメントで固めるつもりだったが、やめた。
その理由ははかない気持ちになったから、ではなく、風がとても強く、それによって微妙に支柱がグラグラと煽られるだろうから、セメントでがっちりと固められないと判断したからだ。ついでに言えば、床屋のマスターが「素人がセメントでいろいろやっても、結局は1年でまただめになるんですよね」という、消極的な応援メッセージも心にしみた。
が、1年でもいい。かちかちに固まってほしい。無駄だと思っても、私はやる。
この連休中に少なくとも半日、風が収まる日があればいいのだが……
セメントごっこの替わりに行なった作業は、枕木に防腐剤を塗ることだった。
クレオソートが発がん性があるということで販売されなくなり、全然効果があるように感じられないケミソートを何度か塗って来たが、先日ホーマックに行くとクレオソートが売っているではないか! しかも“環境配慮型”って書いてある。
臭いは以前のものと同じでその点の環境には配慮されたいない気もするが、きっと安全性が増したのだろう。
この作業はしかし、思った以上に時間がかかり、10時半くらいから始めたものの、そして途中雑草取りなんかもしたし、お気づきになった方はたいしたものだと思うが、ニラを植えかえたりして、13時になっても枕木全体の半分程度しか終わらなかった。
だが、かがんでの作業は私の股間、私の腰にひどく負担をかけるのでここで中断。
昼食を食べようとしたら、思った以上に手に臭いがついていて、シャワーを浴びる。
そのあと昼食を食べたら、疲れがどっと押し寄せ、この日の作業は終えることにした。 が、見てみたまえ。この黒光りする枕木を。
で、唐突に関係ない話を。
荻原真氏は書いている。
近年の演奏を聴いていると、洗練されすぎているような印象を覚えてならない。フルトヴェングラーは、彼を「百姓のような、意固地な、気位の偏った、子供っぽい、頼りなげな人間」と呼んでいたのだった。 (許光俊編著「絶対!クラシックのキモ」:青弓社)。
そうでしょうそうでしょう。
まぁ、この本自体もう出版されてからだいぶ経つので、“近年”のその後で様相が変わっているかもしれないが……
それでも、最近クレンペラーやヨッフムのブルックナーをあらためて聴くようになって、私は先の主張に共感している。
ブルックナー(Anton Bruckner 1824-96 オーストリア)の交響曲第9番ニ短調WAB.109(1891-96。未完)。
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団の演奏。
1884年ノヴァーク版との表記があるが、これ意味不明。だってブルックナーが第九の作曲に着手したのは1887年8月のことだもの。
「そうでしょう、そうでしょう」と大げさに納得している割に矛盾しているように思うだろうが、この演奏、どんくさいイメージがむしろない。
昔の指揮者にこう感じるのも不思議だが、現代的に響く。そしてブルックナーってこんなに過激な音楽を書いていたのねと、あらためて認識させられる。
それでいて、宗教的な面は失われていないし、深みもある。
こういう演奏、確かに今はないかも…… 1970録音。ワーナー・クラシックス。
先日ヨッフムによる第3番を取り上げた記事で、ブルックナーの拍のズレについて触れた。
クレンペラーの場合は、演奏でしばしば乱れる。この第9番の演奏でもそうだ。
宮下誠氏はこう書いている。
極めて本質的な問題として強調して置きたいのは、クレンペラーの、必ずしも正確とは言えない大まかなアインザッツに対して、頻繁に出来するオーケストラの微妙な「ズレ」である。カラヤンやケーゲルの演奏ではまず考えられない、オーケストラのあるかなきかの微かな乱れが、常にと言っても構わない頻度でクレンペラーの音楽には現れる。皮肉にも逆説的にも冗談のようにも聞こえるかもしれないが、これがクレンペラーの音楽を壮大玄妙なものにしている当のものなのだ。
精密なスコアリーディングは怠りなく行いながら、いざそれを音楽的現象としてリアライズする、即ち演奏する際には、そのような基礎的なことは忘れ、いや横に置き、音楽の構造的核心に直接的に肉薄するような鋭さと、鉈で太い枝を断ち割るような乾坤一擲の大胆さと気迫で立ち向かう。その勢いが音楽に波紋を与え、荒削りの大理石のような圭角を生み出し、結果として魁偉なブロック建築がそそり立つのだ。
これはアマチュアのオーケストラが、技術的には到底プロのオーケストラに適わないにも拘らず、ごく稀にだが、感動的な音楽を産み出すのに似ていなくもない。偉大なるアマチュアリズムと肉体的運動性のマイナスがクレンペラーの音楽に凄みと崇高さを与えるのだ。ここにも音楽の悪魔が身を潜めている。恐るべきことではある。(「カラヤンがクラシックを殺した」:光文社新書)
本質的な問題として、この文章、平易な言い回しでなくてごめんね。
ボク、誠さんに代わって謝ります。
“出来”は“しゅったい”って読んでね。事件が起こるって意味なんだって。私がいつもやらかしてるのは失態だけど、それはまぁ置いときましょう。
“乾坤一擲”は一見“いぬいしんいちろう”さんみたいだけど、違うんです。“けんこんいってき”と読みます。乗るかそるか、いちかばちかの勝負をすることなんだそうです。
アインザッツは音楽用語。休止のあとに再び奏しはじめる瞬間を言います。ドイツ語です。で、アイスバインはお好き?
こんな小難しい書き方とは反対に、諸井誠氏は「音楽の聴きどころ『交響曲』」(音楽之友社)のなかで、この演奏についておじさん臭い対話形式でこう書いている。
英子 「あの演奏は怖いみたい。とくに第3楽章のアダージョで、思わず身ぶるいしたことがありますのよ、聴いていて……」
諸井 「たしかに、慄然とする所のある名演だな、あれは……」
これだけで、英子さんて、ちょっと一般的じゃない気配を感じる。
リケジョならぬ、アダジョ……
ゴールデンウィークだっていうのに、知り合いの知り合いの友だちがウイルス性腸炎になってしまったという。
下痢ピーピーで、たいへんだったらしい。
わかるわかる。
私も昔キャンピロバクターによる食中毒になったとき、眠れなかった。ウトウトして緊張が失われると、もらしてしまうのだ。いや、もらすというか、出てしまうのだ。
ひどかったなぁ。
その知り合いの知り合いの友だち(はっきり言えばほとんど知らない人ということになる)は、日常生活において不潔にしていたわけじゃないだろう。でも、みなさんも油断せずに手洗いを励行しましょう(なお、写真はイメージです。“とかるね”にて)。
昔、水洗化の前って、こういうの便所に置いてる家ってなかったです?
一方、先日阿古屋係長とあるところで食べた“ガリ”、つまり生姜の酢漬け。
料理の付け合せだったのだが、なんだか妙に味がにゅるっとしていた。香りは、良く言えば芳醇。実にかぐわしい。が、正直に言えば犬の肛門がまぶたに浮かぶようなもの。
言葉を濁して言うなら、過熟。はっきり言うならやや傷んでいるのではないか?
酢漬けゆえの運命で、傷んで酸っぱくなっているのかどうか判断不可能。これは事を厄介にしている。
私は味見で5mm角ぐらいしか食べなかったから、その後腹痛に襲われることはなかった。
なお、店の人は「ウチのはこういう味付けなんです」と答えた。ウソっぽいが信じるしかなかった。
阿古屋係長もおなかを壊した形跡はない。やっぱり、お店の人は本当のことを言っていたのだろう…………
さて今日、私は仕事が終わったあと自宅へ向かう。
途中、音更で昨年のうちに予約しておいたバラ苗を受け取って帰る。
庭のバラたちをノネズミにずたずたにされ、それを思い出すたびにホルンによる重い“運命の主題”が頭の中で再三鳴り響いている私だが、この新たな株を植え付けることをきっかけに、立ち直れればよいなと思っている(って、完全に精神が芝居がかっている)。
ホルンによる“運命の主題”だから、そう、チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-93 ロシア)の交響曲第4番ヘ短調Op.36(1877-78)。
バーンスタイン/ニューヨーク・フィルの演奏では、この冒頭のホルンが暗い、重い、救われない。
この演奏、ツボにはまる人も多いはずだ。確かに熱演だ。
このころ、つまり晩年のバーンスタイン特有の、テンポが遅く、メロディーを愛おしそうにたっぷり歌わせるもの。
この3年前に録音された第6番「悲愴」ほどイッチャッテないが、このもったいぶらせ方は個人的には長ったらしく感じる。「悲愴」では心打たれたアプローチも、第4番では感心しなかったと、偉そうな思想をもっている私である。
特異な名演と言えるだろう。
1989年ライヴ。グラモフォン。
にしても、あれが“仕様”なら、特異なガリと言えるだろう。
といっても、今さら野球チームで目立つ存在になろうという野心を抱いたわけではない。
日向山課長の課で歓送迎会があった。新入社員の歓迎会である。かつ、結婚退社する社員の送別会である。それは、焼き肉屋で催行された。
私の斜め向かいに日向山課長が座った。
「いやぁ、疲れがたまってる」と、彼はだるそうな表情で言った。
仕事が忙しくて疲れ気味なんだそうだが、会うたびにそう言っている気もする。それに私なんか、生まれてこの方エブリディ疲れたままである。
が、疲れていると言いながらも、最近テニスを始めたともいう。 「やっぱり運動しなきゃだめですよ。テニスを始めたんですが、これがいいんですよ」
いいよという“これ”が具体的に何をさしているのか、始めた動機は何か、それでもって活動をしているのか、すごく興味があったわけではないが聞こうと思った。しかし、折悪く、私と彼の間にある炭火焼風コンロの上でホルモンがジュージュー唸り、さらに煙が立ち上ったので、彼の顔は観察しにくくなり、声も遠のいた。
たぶんあちこちのテニス部に道場破りに行っているのではなく、週に1回どこかでテニスをしているようなことを言っていた。燃えていた。ホルモンが。
遠のくといえば、バーンスタイン/イスラエル・フィルによるチャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-93 ロシア)の序曲「1812年」Op.49(1880)。 ご存知の通りこの曲にはカノン砲が加わる。
バーンスタインのこの録音、カノン砲が入るとオーケストラが遠のくように、その音量が下がる。つまり、カノン砲の音を前面に出すためにミキシングの段階でオーケストラの音を絞ったのだ。
これはひどい!
オケに対する冒瀆だ。
どこの世界にこんな操作を喜ぶ人がいるのだろう。いるんだろうけど……
「まぁまぁ、こういう曲なんだからいいじゃないの」という声も、私の小脳の片隅になくはないが、これやっぱり耐えがたいな。熱い演奏には間違いないが。
へんてこ操作以外の部分も、オーケストラの響きにあまり奥行きがない。天下のイエロー・レーベルがこんなことしてちゃダメでしょ。
ただ、カノン砲好きにはたまらない1枚かも。 1984年ライヴ。グラモフォン。
出張で札幌に来たついでに、慌ただしくまだはずせずにいたバラの冬囲いをはずした。
ノネズミの食害は想像以上。軒並みやられていた。
また、積雪量が多かったために、雪の重みで冬囲い自体が崩壊しかかっていたものも少なくなく、重みで多数の枝が折れていた。
樹皮がなくなり、枝が折れまくり。
まるで墓場のようだ。
私の心の中も墓地化している。
が、そんな中、なんとか株元で新たな芽を出そうとしている株もすでにある。
このように復活してくれる株が、このあと「先輩に続け!」とばかり、続いてくれることを切に願っている。
そして、庭の一角に不思議な造作物を発見。 ビニールロープを細かく糸状にして球に仕立てたもの。そしてその周りにはほかの箇所に比べて枯葉が多い。もしかすると、これが雪の下でノネズミが快適に過ごした基地なのではないか?いや、そうに違いない。
あー、腹立つ!
うぅっ、悲しい!
この私のやるせない気持ちはどうしたら収まるのだろう。
カノン砲を打ちたいところだがそれはないし、カノン法は難しくてわからないうえ作曲できないし。
テニスを始めろって?
やなこった!
焼肉とえいえば、キッコーマンの焼肉のたれのCMで「コッペリア」が使われているけど、なかなか合うもんだな、と思ってる。
庭の雪もかなりなくなったので、一部のバラの冬囲いを日曜日にはずした。
恐れていた現象が起こっていた。2つ。
1つは雪の重さで枝が、それも根元近くから折れていたということ。
もう1つは、やはりノネズミに食われていたことである。
2つというのは被害の現象であり、数ではない。
すべての冬囲いをはずしたとき、自分が悔しさのあまりひざまずいてしまう姿が目に見えるようだ。
それでも、赤い新芽を目にすると、心が赤い新芽を見たときのようにうれしくなる。 にしても、ノネズミの被害をどのように防げばいいのだろう?
積雪前に庭の何か所かに置いておいた紙袋入りの殺鼠(さっそ)剤は、まったく無傷で残っていた。
殺鼠剤よりもバラの樹皮の方が美味しいということだ。私も試してみたくなる。
撒き餌(実は毒入り)に見向きもしないとなると、この際、猫を飼うしかないのか?
でも、そのためには外で飼わなきゃ意味がない。
猫が私になつくとは思えないし、私も猫になつけるような気がしない。姑との同居に耐えるがごとく、猫と同居したとしても、こいつがネズミを追いかけてくれるという保証はない。私の方がネズミ捕りを命ぜられるかもしれない。ミヤゥッ!って。
そもそも私は犬の方がはるかに好きだ。こんな私にも媚をうってくれるドッグが好きだ。あんたなんて私より劣っているのよみたいな目で私を見る猫は苦手なのである。
どうしたらよいか、難しい問題だ。
ただ、私は雪の中、あんなに寒いにも関わらず、そしてクマさんなんか冬眠中でおとなしくしている期間なのに、アクティヴにピョコピョコと庭を横切っていたモジャ公の姿を思い出し、何らかの罰を与え、処刑しなければならないと心の底から思っている。
処刑といっても残酷なことは私にはできない。せいぜい、頼むからどっかに行ってくれと説得工作を試みるしかない。
ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)のバラード「ステパン・ラージンの処刑(The Execution of Stepan Razin)」Op.119(1964)。 この作品については過去記事をご覧いただきたいが、ムソルグスキーの影響を受けているとされる。そのためかどうかはわからないが、未開民族の宗教儀式で唱えられる、人間の奥底に潜む野蛮なエネルギーが吐き出されるような音楽である。処刑が題材なので、緊張感と恐怖が全編に横たわっているが、曲の閉じ方がやや中途半端な印象である。
今日はアシュケナージ指揮ヘルシンキ・フィル、ラトヴィア国立合唱団、シェンヤン(バス)の演奏を。
2013録音。ONDINE。
このCD、「ステパン・ラージンの処刑」の次には「ゾーヤ(Zoya)」の組曲が収められているが、その平和的な始まりとのギャップが大きい。海苔わさびおかきを食べたあとに森永マミーを飲んだような感じである。ご理解してもらえないかもしれないが……
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-96 オーストリア)の交響曲第6番イ長調WAB.106(1879-81)。
昨日の記事がエンペラーだったから今日はクレンペラー、なのではない。
グーゼンってやつだ。
さて、今回札幌の会議で一緒になった某支社の某さんが、「これからの人生、もうペラペラな薄っぺらいものになってしまった」と、ボロボロに落ち込んでいた。
ドックで膵管拡張が見つかったことは2週間ほど前に聞いていた。そのとき、「私も4年前に引っかかり、おまけに継続特典のように翌年の3年前にも引っかかったけど、再検査でなんとか大丈夫だったよ」と心から大丈夫に違いないと勇気づけたのだったが、再検のCTの結果は慢性膵炎。今後は1滴たりともお酒を飲んではいけないと宣告されたということだ。
さらに受けたMRIの検査結果はまだ出てないというが、私の場合は超音波内視鏡検査もしたというと、自分はそれを言われていないと不安そうな表情になってしまって、余計なことを言ってしまったかなと、ちょっぴり思った。
で、「あれは麻酔のせいで検査後もけっこう長い時間棒に振るから、お医者さんも段階を踏んでるんでるのかも……」と、慰めてんだか追い込んでるのかわからないようなことも言ってしまった。が、いずれにしろやっぱりなんでもなかったという結果になることを祈ってる。 今回の出張では久しぶりに自宅に宿泊したが(って言い方は実に妙だ)、玄関前アプローチの雪はすっかりなくなっていたものの、庭にはまだけっこう雪が残っていた。熟語でいうと残雪ってやつだ。熟女でいうと、はて?
ということで、バラたちの幹は雪ノ下。ノネズミの被害に遭っていないかどうかは不明のままだ。
また、積雪の影響で端正な容姿が崩れつつあったコニファーは(加齢の影響で端正な容姿が崩れつつある自分の姿とオーバーラップする)、地際からの幹が開脚状態。下部の枝は雪で折れてボロボロだ。
にしても、2月の雪かき中に手を滑らせて雪の中に見失ってしまったミネラルウォーターの
ペットボトルが、雪解けが進んだ今もまだ発見されていない。実に不思議だ。
ところで、フィルハーモニア管弦楽団とニュー・フィルハーモニア管弦楽団の違いはご存知?
「ニューがついてるのと、ついてないの」
はいはい、そのとおりですよ、おじょうちゃん。
でもね、これからは“・”のことも見落とさないようにようにね。
では、大人向けの箇条書き説明。
1945 フィルハーモニア管弦楽団がEMIのディレクターだったレッグによって創設。
1964 財政難からレッグが解散を宣言
名称をニュー・フィルハーモニア管弦楽団として自主運営オケとして再スタート。
終身指揮者はクレンペラー。
1977 “ニュー”をとり、再びフィルハーモニア管弦楽団の名称に戻る。
ということなのである。 初代フィルハーモニア管は当初、カラヤンの指揮で多くのレコーディングを行なった。しかし、途中でベルリン・フィルの常任指揮者になったため、カラヤンとの関係は疎遠となった。そのカラヤンののあとに招かれたのがクレンペラーで、1959年から終身指揮者となっていた。
またニュー・フィルハーモニア管は1972年に客演したムーティをすぐさま首席指揮者にした。
さて、ブルックナーの第6交響曲は彼の他のシンフォニーに比べ、ちょっと女性的である。女っぽいんじゃないですよ。女性的なんです。その存在はベートーヴェンの第6交響曲に似ているように私は思う。
が、クレンペラーの演奏を聴くと、やっぱこれ、ブルックナー以外の何物でもないじゃんってものになる。
この曲がこれほど大きなスケールで鳴り響く演奏は、なかなかほかにない。
風格を感じる。
岩でできた要塞のようにガッシリしている。
重量感抜群。そのさま、体当たりしてもびくともしない女性力士のごとく……
金管の響きもうれしいくらいビンビンで伸びやか。
1964録音。1881年稿ハース版。 時おり胃にキリキリとした痛みが走る。
気のせいではない。間違いなく。
カメラで委縮性胃炎が発見されたのだから当然だが、その判定が痛みを喚起しているような気がしないではない。
日々委縮した生活をしていると胃炎ですら委縮性のものになるのだろうか?
まあ、とにかく今日は出張から戻るが、朝から雨かよ……
気持ちが縮む……
私の腹もだらっとしてしばらくなるが、自宅庭のコニファー“ブルーヘヴン”もだらっとしてしまっている。
しかし、ブルーヘヴンの場合は本人が摂生していないとか、運動不足だとか、食べ過ぎ飲みすぎだとか、そういう自己責任の欠如に起因しているのではない。そこが育て主である私と根本的に違う。
金曜日に出張で札幌に来て、そして本日赴任地に戻るが、前回すでに気づいていたものの、このコニファーのことで私は不安を感じ、苦悩を抱えたのだった。
えっ?セイコーマート?
それは関係ない。
ただ昨日の朝、朝刊を買いに行ったのだが、まだ薄暗いなか、燦然と輝くオレンジ色の看板が頼もしかったので写真に撮ってみただけのこと。朝刊だけのつもりだったが、ついでに100円総菜のキムチも買ってしまった。
店に向かう途中、犬を散歩させている人とすれ違ったが、私のように犬もアナコンダも連れずただ1人歩いている姿は不審者に思われるのではないだろうかと、いつもバツの悪い思いをする。今度こういう機会があったら、新聞調達中と書いたはちまきでもして行こうと、心にもないことを思っている。 さて、コニファーのことである。
実は昨冬も同じような状況になったのだが、今年はさらにひどい。
写真のように地表近くの幹の枝分かれ部分に入り込んだ雪のせいで、針葉樹なのにだらしなく横に広がってしまっているのである。
コニファーといったら、すらっとまっすぐに伸びていていなければならない。
それがこの有様だ。
上に書いたように、コニファー自体が悪いのではない。私と違って……
降り積もる雪が、それに加えてそこにベランダからの雪を放り投げる私が、加えて積雪前に枝をロープでまとめなかった私が再三にわたって悪いのだ。
にしても、まっすぐなまともな状態のときは気づかなかったが、こんなに何本もの幹によって 成り立っていたとは。
これは春になれば自然とまとまってくれるのだろうか?
色合いを見ると、おまえはもう死んでいるっぽい気がしないでもないが……。お願いだからヘヴンに行かんでおくれ!
そんななか明るい話題もあった。
去年の秋に妻の実家から一節無断でもぎとってきたクジャクサボテン。
取って来た節そのものはだらしのない昆布のような感じだが、新芽が出てきたのだ。
クジャクサボテンはあまり好きじゃないが、まあ花を咲かせてみるのもいいだろうと、ミリ単位の新芽を見て早くも開花を夢見ている。
ちなみに奥は、同じくもぎとってきたシャコバサボテン。土に置いておいたら細い根がたくさん出ている。たぶんこの子も新しい芽を出してくれるだろう。
右側はあの“怒帝王”の腋芽である。本体はセイコーマートの看板のように変色した揚句にぐにゃらと死んでしまったが、そのとき隔離し土に植えた腋芽(というか株分かれ苗)はまだ生き残っているのだ。トゲがなくて全然“怒帝王”の姿はしていないが…… オリンピックも終わるし、そしてまたコニファーとアングリー・エンペラーの復活を願って、つまりはロシアと復活という強引な出会いということで、リムスキー=コルサコフ(Nikolai Andreevich Rimsky-Korsakov 1844-1908 ロシア)の序曲「ロシアの復活祭(Russian Easter festival overture)」Op.36(1888)。
作品についてはこちらをご覧いただければと思う。
今日は先日ボロディンの交響曲第2番の演奏を取り上げたフェドートフ/サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団の演奏を。
ボロディンでは物足りなさを感じたが、録音の問題は多少あるものの、この「ロシアの復活祭」では色彩豊かで生き生きとした演奏が繰り広げられ、なかなかな盛り上がりを見せる。
録音年不明。Classical Records。
さてと、ロシア産の鮭の切り身でも焼くとするか……
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