とある道東の町。
国道38号線沿いの道の駅、に隣接する食堂に日向山課長と立ち寄り、昼食を食べたのは去年の5月のことだった。
前の日に飲み過ぎた、もしくはおなかを冷やした、あるいは悪いものを食べたせいで、私のおなかはゴロゴロQって感じだったが、なぜかカツカレーを注文してしまった。
しばしば起こる、体と頭が相互リンクしていない状況に陥ったのだった。
だから、実際はどうかわからないが、そのときは美味しく感じられなかった。
会計を終え店を出ると、その玄関先に鉢植えが1つ放置されていた。
その土の上には小龍包くらいの大きさの緑色の球根があり、頂から枯れかけた葉が伸びていた。
そして、球根の横には多数の小さな球根が付着していた。
この植物、中学生のころに育てていたことがある。
当時、となりの家のおばあさん(とっくに没)がくれた。おばあさんは名前は“アオダマ”だって言っていたが、どう考えてもウソとしか思えなかった。青い球。そのまんまもいーところだ。しかも青じゃなくて緑だし。
その後、北大植物園に行ったときに、温室に同じ植物があって、アルパカと書かれた名札がついていた。
さて、久しぶりに目にした瀕死のアオダマ。
思うに、この先も世話されそうにないので、私は横についている小さな球根を1つ取ってポケットに入れた。
す、す、すいません、つ、つい、魔がさしてしまって。
で、でも、あのままだときっとじっと死を待つだけだったと思うのです。私は救い主なのです。だからお赦しください。
……
あれから8か月余り。
土の上に転がしておいた子球から最初は糸のような葉が出てきて、いまや球根は倍の大きさになり葉も葉らしくなった。
この球根の、うす皮の下の緑色がなんとも魅力的だ。銀杏を思い起こさせる。 が、ネットで“アルパカ”と検索しても、ウマみたいなものが出て来るばかり。
そこで、球根とか緑とか観賞植物とかテキトーにやっているうちに、やっとヒットした。
この植物、ニセカイソウ(偽海葱。Ornithogalum caudatum)というらしい。
コモチカイソウ、コモチランという別名もあるようだ。トックリランと書いているサイトもあったが、どうもニセカイソウとトックリランは科からして違うみたいだ。
偽ってくらいだから、本物もある。
カイソウ(海葱。Urginea maritima)である。
偽物(ってわけじゃないが)とホンモノの違いは、カイソウの子球は土の中に生まれるが、ニセカイソウは球根の側面にできる。また、カイソウの花は白一色だがニセカイソウは花びらに緑色のラインが入るのだそうだ。
そうだ。思い出したぞ。
むかし育てていたとき、確かに花が咲いたことがあった。
でも、けっこう肥大したあの球根、どうしたんだっけな?タマネギと間違えて食っちまったか? いずれにしろ、大きくさせてみせる!
そこで、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-91 オーストリア)の歌劇「にせの女庭師(La finta giardiniera)」K.196(1775初演)。
バイエルン剪定、いや選帝侯の依頼によって書かれた、ペトロセッリーニの台本による3幕からなるオペラ。
“偽物の女、の庭師”(ってことは、バカボンのパパのような男の庭師だ)が現われたり、女性の偽物の庭師が庭木をずたずたにするという内容ではなく、ベルフィオーレ伯爵に裏切られたヴィオランテはサンドリーナと名前を変えて市長の家の庭師をしていたが、市長が彼女に恋をする。しかし、ベルフィオーレが現われ2人は元の鞘に納まる、ってもの。
なんなんだよ、いったい!
序曲をアーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏で。
1991録音。テルデック。
この序曲は「交響曲ニ長調K.196+121」でも用いられている。
序曲にフィナーレとしてK.121(207a)(1774-75)を加えたもので、通し番号はついていない。
私はポンマー指揮ハンブルグ・カメラータの演奏を(ごくたまに)聴いている(1999録音。アルテノヴァ)。
にしても、あの時見た“アルパカ”っていう名札は何だったのだろう。
幻覚だったような気がしてきた。
さて、木曜日にかかりつけの病院に定期診断に行ってきたわけだが、電話予約時の約束は無視され採血もされた。
そりゃそうだよな。ドックが近いといっても4月のことだから、やはり採血免除の理由にならなかったわけだ。結果は次回通院時に教えてもらうことにしたが、あまりにも異常な数値があった場合には電話が来ることになっている。昨日までコールされなかったから、明らかな異常はなかったと判断できるだろう。
で、褒められたことがある。
体重が69.2kgだったのだ。
お医者さんが言うには、正月のあとだっていうのに年前と比べ増加してないのが評価できるということだ。
褒められて調子に乗って「いやぁ、もっと低いところで安定してくれればいいんですがね。アハアハアハ!」と言ってしまった。余計だった。次回に向け、自ら首を絞めるようなことを言い放ってしまった。
にしても……。そっかいつもは朝一番に行って体重も測るが、今回は11時過ぎだった。
腹が減っていた分、軽くなっていたってことなのかもしれない。
ガーデニング
このあいだの日曜日、Homacに買い物に行った。
「あっ、そう……」ってもんですよね?あなたにとっては。
でも聞いてください。何を買ったのかと。
まず、冬用ワイパー。
雪があまり降らない、例えば東京やハワイに住んでいる人にはわからないかもしれないが、積雪厳寒地帯ではタイヤと同じようにワイパーも交換する。強いグリップ力を持つワイパー、ではなく、ゴムが柔らかいワイパーだ。
そうじゃないとゴム自体が寒さで硬くなって凍てついたフロントガラスをうまく拭き取れないし、雪が降っているときでも夏用ワイパーではうまくよけられないのだ。
この冬用ワイパーってのがけっこう高くて、私の車の場合運転席側と助手席側の2本で5000円である。だからリアウィンド用のものまで買うお金がなく、そこは常夏状態のままだ。
ウインドウォッシャー液。
ふつうの青い色をしたものではなく、ガラコを買った。撥水効果のあるやつだ。
フロントガラスの水滴が、まさにシズクとなって飛び去って行くのは快感だ。
問題は、いま普通のウォッシャー液が入っているウォッシャータンクをいかに空にし、いったん水ですすぎ、そのあと晴れてガラコを入れるかということだ。
ずっとウォッシャー液を出し続けてもモーターは焼けないのだろうか?
殺鼠剤。
つまりネズミ殺しの薬である。
殺すつもりは私にはない。「うわっ、毒だ!」とネズミが近寄らなければそれでいいのだ。
でも、買ったのは殺鼠剤である。
これを庭に置かねばならない。前回、冬の間にバラや桜の根元の樹皮がきれいに噛み剥がされていたからだ。現場を目撃したわけではないが、きっとネズミのせいに違いない。
こういうことをするのはエゾヤチネズミだそうだ。
が、購入した殺鼠剤のパッケージに書かれている殺戮対象にはイエネズミやドブネズミはあっても、エゾヤチネズミはない。エゾヤチネズミは草食性であるから、見向きもしないかもしれない。そう考えると心が落ち着かない。
そんなわけで、冬に向けた買い物をしたわけだ。
実は今日自宅に戻る。今回はプライベートな用件だ。
本日利用するのは都市間高速バスである。
明日は無駄骨に終わるかも知れぬ殺鼠剤を仕掛けることにする。
そしてまた、同じく無駄骨かもしれないが、“怒帝王”を植え付けることとする。そう、ひっくり返ったヒトデみたいに写っていたやつだ。
あの怒帝王が腐った鉢は、実はアロエ・ディコトマのものだ。ディコトマの土の上に仮置きしていて、やっぱり腐ったのだった。今回は別な小さな鉢に植えてみようと思うが、もしこれで復活したら、ディコトマに毒素を放たれていたかもしれないと疑う余地はある。
そのディコトマは、現在のところ元気。
現地ではけっこうな巨木になるらしい。にしても、この青緑っぽい葉がなんとも素敵だ。 それはそうと、水曜日の記事で日の出前の真っ暗な街路でにGM4を聴いたと書いた。
その演奏は第2番でけなしてしまったクレーの指揮のものだった。
ベルンハルト・クレー指揮ベルリン放送交響楽団、マティスのアルト独唱によるマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第4番ト長調(1892,99-1901/改訂1901-10)。
1984年のライヴ録音である。
この演奏は第1番より良いと思うし、第2番よりははるかに良いのは間違いない。
ひと昔前のこの曲対する演奏アプローチだと思うが、それでも毒っ気をそこそこ放っていて、曲の本質を突いている。
聴いて損した気分にはならない。うん、悪くない。むしろ、お薦めかも。
私が不満だったのは第2楽章。コンサートマスターの弾く独奏で、私が勝手に“悪魔のかしわ手”と称している強いピッツィカートが目立たないのが残念である。
この交響曲の、平穏のようでいて実はそうではない世界。そこもクレーは伝えてくれる。
Altus。
わが庭だって、平和そうに見えて、実は心ない人によって毒が置かれているのだ。
エゾヤチネズミにもぜひそこんとこを勘づいていただきたい。
月曜日の朝。
私は自宅を朝早くに出発し、駅まで歩き、JRに乗り、新千歳空港へと向かった。
写真のように前日の日中に融けかかった路上の氷は、写真を撮る余裕がないくらいに再びカッチコッチと古時計の針の音のようになり、私は少なくとも4回足を滑らせ、転びそうになった。が、なんとか踏みとどまった。
そうそう、何でも先週アルフレッド氏が飲んだ帰りにブラック・アイスバーンで滑って転び、肋骨の骨を折ったそうだ。1日も早い復活を願う(あまり真剣に心配してないけど)。
前に報告した、茎の切り口が蛍光オレンジ色のような不気味な色彩を呈していたアロエの“怒帝王(イカリテイオウ)”は、その鮮やかなキモ色を保ったながらも傷口は乾いた。乾燥剤、いや、石灰の効果があったのだろうか?
もう少し、干からびるくらいまで乾燥させたあと土に挿してみようと思っているが、こちらの復活については強く願っている。 「復活」といえば、先日クレー指揮の復活できるのかっていう録音を紹介したが、お耳直しに今日は別な演奏を。
マゼール指揮フィルハーモニア管弦楽団によるマーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の交響曲第2番ハ短調「復活(Auferstehung)」(1887-94/改訂1903)。
2011年ライヴ。
マゼールのことだから、「あっ!」「おぉっ!」「うげっ!」てことをしてくれそうなものだが、なーんもしてくれない。
ごくふつうの良くできた演奏。それだってたいへんなことではあるんだけど……
さすがに大巨匠だけあって、ライヴであってもほとんど破綻なし。そこがクレーとの大きな違い。が、録音のせいか、どうも音がこもっている感じリアルな響きっぽくなくて物足りなさが残る。
独唱も変なところはないが、かといってこれといった長所が見当たらない。
「うわっ!すっげぇ~」「じぇじぇじぇ~」と引き込まれることがないのが残念である。演奏である。
この演奏、聴衆がスタンディング・オヴェーションだったというが(数十人か、過半数か、ほぼ全員か、1人ぽっちだったかは不明)、CDでは拍手はカットされている。
Signum。第1番から第3番までのセット。
そういえば今から20年ぐらい前に、文庫本の「イヴァンの馬鹿」を買って読んだ。
「イワンのバカ」に似ていて間違えやすいが、林家木久蔵(今の名は木久扇)が歌ってたのは、「♪イヤァ~ン、バカぁ~ん」である。
「イヴァンの馬鹿」という話は、たぶん、子供のときにもどこかで読んだことがあり、青年になってから懐かしく思って文庫を買ったのだが、はて、どんな話だったか今となってはまったく思い出せない。
そこで茶色に焼けたページをめくってみた。
出だしは、
昔ある国のある所に、金持ちの百しょうが住んでいました。この金持ちの百しょうには三人の息子がありました。軍人のセミョーンと、布袋腹のタラスと、馬鹿のイヴァン、そのほかにマラーニャという唖(おし)の娘でした。軍人のセミョーンは王様につかえて、戦争に出、布袋腹のタラスは商売をするために町の商人のところへ行き、馬鹿のイヴァンは妹といっしょに家に残って、こつこつと働いていました。……
ってもの。
布袋腹ってどんなんだ?なんとなく想像つくけど。
唖って、いまや使ってはいけない言葉じゃなかろうか?
そして終わりは、
イヴァンは今でも生きていて、人はみんなその王国におしかけて来ます。二人の兄もやって来ましたが、イヴァンはそれを養っています。誰かやって来て、「おれを養ってくれ」と言うと、「なに、いいさ、くらすがいい。おれたちのとこには何でもどっさりあるから」と答えます。ただ一つこの国にはしきたりがあって、手にまめのあるものはテーブルにつかせてもらえるが、まめのないものは食べ残りをあてがわれるのです。
というわけで、人生ゲームはとんでもない結末を迎えたようだ。
にしても、タイトルはなぜ“馬鹿なイワン”じゃなく“イワンの馬鹿”なんだろう。
「MUUSANの馬鹿っ!」みたいな、罵りなんだろうか? 気になるけど、まっいいや……
プロコフィエフ(Sergei Sergeevich Prokofiev 1891-1953 ソヴィエト)の「イワン雷帝(Iwan the Terrible)」。S.エイゼンシュタイン監督が1944年から46年にかけて制作した映画のための音楽である。
イワン雷帝と呼ばれたイヴァン4世の生涯を描いた映画で、当初は全3部構成となる予定だった。第1部はスターリンからお褒めをいただいたものの、第2部がスターリンを暗に批判していたために上映禁止となり、結局第3部は完成されなかった。
ストーリーはともかくとして、プロコフィエフの音楽は、彼らしく無愛想な機械的なものかと思ったら突然お花畑に放り出されたかのように心地良いものに変わったり(私は義剛の顔を目にすると心地よくなくなる)、コサックダンスを踊りたくなるようなものが出てきたり(私は踊れません)、そしてまたチャイコフスキーの「1812年」にも使われている正教会聖歌「神よ汝の民を救い」も出てきたりして、この季節にはうれしい具だくさんのおでんのよう。たいていおでんは具だくさんだけどね。
はちゃめちゃとシリアス、ユーモアと皮肉が同居している、今のNHK朝ドラ「ごちそうさん」の西門家のようである。
ムーティ指揮フィルハーモニア管弦楽団、アンブロジアン合唱団、アルキポヴァ(Ms),モクレンコ(Br),モルグノフ(語り)による演奏で。
1977録音。EMI。 ところで怒帝王のその後であるが、極めて絶望的だ。
地下部が腐ったために、まだ健康そうな地上部だけを切り残し土に置いておいたのだが、今回土に接している部分がまた腐り出していた。
そこで、さらに腐敗した部分を切り落としたが、おやおや、なんて気持ち悪いいろなんでしょう!切り口は鮮やかなオレンジ色になった。
テントウムシのゲロみたいな色だ。
一応この部分に、消毒の意味で石灰を塗った。園芸用の石灰を切らしていたので、海苔の缶の中のなかの乾燥剤を使った。もちろん石灰の乾燥剤である。シリカゲルじゃ何にもならない。
そしてまた、切り口がよく乾いたら、しつこく土に挿すつもりである。
アボガドが死んだ。
葉が落ち、竹ひご並みに細い幹がシワシワになり、さらには褐変し、日ごろの私のように生気がまったく感じられなくなった。
種から育てたアボガドは枯れた。
旺盛に繁茂し、やがては実をたわわにつけ、マグロの刺身代わりにわさび醤油で食べる。そんなトロピカルな食生活をおくるという空想、妄想、幻想はついえた。
そこでベルリオーズ(Hector Berlioz 1803-69 フランス)の「幻想交響曲(Symphonie fantastique)」Op.14,H.48(1830/改訂1831)。
シルヴェストリ指揮パリ音楽院管弦楽団の演奏で。
1961録音。EMI。
シルヴェストリの他の作品の演奏同様たくましい。全曲を通して体育会系の力強さがある。
急にテンポを上げたりアクセントを強調したりして、聴き手のスケベ心をくすぐってくれるが、人によってはクセぇことしやがってと思うかも。
でも、この演奏が発するオーラもまた、古き良き時代を感じさせる心温まるものでもある。 第1楽章提示部の反復なし。第2楽章のコルネット助奏なし、かつ、終盤でアンサンブルが怪しい箇所あり。第4楽章の反復もなし。
第5楽章の鐘の音は、ありきたりのようでいてけっこう深みある余韻を残す。
にしても、水栽培ではあんなに生育が旺盛だったアボガド。
土に植えてしばらくして枯れたということは、前のバラの一件(いや二件か)も考えあわせるに、百均で買った土が悪いとしか思えない。
私の栽培管理には問題はなかったはずだ。やや放置プレイ的ではあったが……
でも、それほどアボガドが好きなわけじゃないから、いや、ほとんど全然好きじゃないから、収穫できなくなったってことは-そもそも育ったところで実がつくのだろうか?-全然残念じゃない。いや、強がりじゃなく、ほんとうに。
育てていた植物を枯らせてしまったということが、私のプライドをひどく傷つけるのであった。
ただし、である。
Wikipediaには次のような記述がある。
“冬には葉が枝ごと落ちて、乾いた茎だけになって完全に枯れたように見える状態になる場合もあるが、翌年5月頃までには再び芽吹くことが多いので、それまで諦めず経過を観察した方が良い”。
さて、みなさん、どう思います?
村上春樹のエッセー集に「むずかしいアボカド」っていうのがあるが、まったく思った以上にむずかしいやつだ……。んっ?アボガドじゃなくて、アボカド?
皆さんは気になっていることだろう。“怒帝王”のその後のことを。
最近の姿をお見せしよう。
土の中の状態がどうなっているか、すなわち根が出ているのか、張っているのかはわからないが、地上部を見る限りかなり健康に見える。腐敗の難から逃れることができたようだ。
居候させてくれているディコトマ(茎しか写っていないが)の、同属の回復にさぞかし喜んでいる、と同時に、熾烈な養分の奪い合いをしていることだろう。
さらに、妻の実家にあった鉢植えから数節の葉をもぎ取って、そのまま土の上に置いておいたシャコバかカニバのサボテン。節の間から毛がにの毛のように根が出てきている。こいつも新たな株立ちに向けて着実に前進しているようだ。おまけに、いちばん先に蕾さえもっているではないか!
怒帝王の元気そうな顔色を記念して、今日はハイドン(Franz Joseph Haydn 1732-1809 オーストリア)の交響曲第50番ハ長調Hob.Ⅰ-50(1771頃)。
疾風怒濤期(シュトゥルム・ウント・ドラング=Sturm und Drang)におけるハイドンの作品の1つである。
シュトゥルム・ウント・ドラングというのは1767年から1785年(1769-1786あるいは1765-1795という見方もある)にドイツに起こった革新的な文学運動。
理性よりも感情に重きをおくことを訴え、のちのロマン主義へとつながった。
ハイドンの交響曲の創作時期では、1766年から73年までをシュトゥルム・ウント・ドラング期と呼ぶ習慣があるようで、単純に考えれば、1770年頃に作曲されたとされる第41番から1773年の第50番までが該当することになる(第51番は1774年以前の作曲とされており、ビミョー)。
エラート・レーベルのコープマン指揮による第44、45、49番が収められたCDには、“疾風怒濤期の交響曲集”という、わかりやすくて直接的だが、ちょっとなぁ~ってタイトルがついている。
実は(ってことではないが)、交響曲第50番は譜断片のみが残っている序劇「神々の怒り(Der Gotterrat)」(1773)Hob.ⅩⅩⅨa-1aの序曲に転用されたという。
ほら、怒涛に怒りだ。怒帝王もさぞかし喜ぶことだろう。
ヴァイル指揮ターフェルムジーク・バロック管弦楽団による激しい演奏を。
1993録音。VIVARTE。
まっ、曲としてはそんなにドトーしてはいないし、ワクワクもしないんだけどね……
先日シルヴェストリによるショスタコの交響曲第5番を取り上げたが、今日はショルティを。
立て続けにこの2つの演奏を聴くと、録音技術の進歩をあらためて思い知らされた。
そのショルティ指揮ウィーン・フィルによるショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-75 ソヴィエト)の交響曲第5番ニ短調Op.47(1937)。
たとえばシルヴェストリの演奏とはずいぶん違う。アクがない。“七味とうがらし”さんがショルティのショスタコ演奏を直線的と表現していたが、まさに言い得て妙。
あんまり難しいこと考えなくてもいいんじゃない?このメロディー、このサウンドに心ふるわせましょうよ、って演奏。とはいえ、無機質でドライなわけじゃない。小ぎれいな店で、それなりに美味しい料理を味わっているような感じ。 重厚な響きから透明な弦の歌まで、どこをとっても美しい。
アプローチも素直と言えるのだろう。
ただし、「なんかさぁ、ショスタコっぽくなくね?」と感じる人もいるだろう。
この演奏を標準盤にしていると、ショスタコの別な面、裏の顔がいつまでも見えてこないかもしれない。
でも、これはこれで名演だと私は思う。個人的にはかなりコーフンするです。いけないですか?機能美の極み。
1993録音。デッカ(TOWER RECORDS VINTAGE COLLECTION Vol.10)。 このディスクにはカップリングで交響曲第1番ヘ短調Op.10(1924-25)が収められているが、若々しさ炸裂の演奏。ショスタコもこの曲を書いたときは、余計かつ深刻な騒動に巻き込まれるなど考えていなかったわけで、そういう点ではショルティのイケイケ演奏がはまっている。
こちらのオーケストラはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団。
1991録音。ライヴ。
さて、昨日は幸い天気も崩れず、冬に向けての庭の準備をすることができた。
たまたまこの日の北海道新聞朝刊に冬囲いのことが載っていて、耐寒力をつけるためにも囲うのは11月下旬が良い、ただし土がしばれて(=凍って)支柱を刺しにくくなることもあるので、支柱を先に立てておくと良い、と書いてあった。 そうだよな。まだネットで覆うのは早いよな。
にしても、このソヴィエトのおばさんがた、寒さには強そうだよな。
そしてまた、支柱などをとめるには結束バンドを使うと便利と書いてあった。
なるほど!確かに便利だ。ロープと違って、ネットの網目を通すのも簡単だ。安いし。
床屋に行った帰りに、その筋向いのスーパーの中にあるダイソーで結束バンドを買った。
安かった。といっても均一価格の105円だが。
こうして、すべてではないが支柱立てを終えた。
庭の様子のビフォー&アフターが載せた写真である。言わんくてもわかるだろうが、上がビフォー、下がアフター、中が結束バンドを使った様子である。
つーことで、それでもふだん体を動かしてないせいか、昨日の夜から筋肉痛である。
だが、今日は朝から雨が降っている。無理して働いて良かったではないか!
このあいだの土日に自宅に帰ったときに咲いていたバラ。
その写真を自己満足的にご覧いただいたが、まだいくつもの株がつぼみを持っていた。
で、毎年この季節、それらも開くだろうと期待してしまうのだが、ある日急に冷え込み、そのつぼみは固く閉ざされたまま石のようになり、やがて落ちてしまう。
ということは、もう良くは出さないで、株に力をつけさせるためにつぼみを切り落としてしまえばいいのだが、でも、欲深い私にはそれができない。
プロコフィエフ(Sergei Prokofiev 1891-1953 ソヴィエト)のバレエ「石の花(The Stone Flower)」Op.118(1948-49)。
「ロメオとジュリエット」、「シンデレラ」に続くバレエで、プロコフィエフにとって最後となったバレエである。
ストーリーはバジョーフによるウラル民話集「孔雀石の小箱」のなかの「石の花」と「山の女 神」によっており、孔雀石の花瓶に飾るための石の花を彫ろうと、石工のダニーロは婚約者のカテリーナを残して山に入るが、そこいいる銅山の女王が彼を誘惑する。誘惑に応じないダニーロ、そしてやっかいな男に言い寄られた迷惑千万を被り、「待ってらんないわよ」とばかり意を決して山に彼を迎えにくるカテリーナ。2人の愛を強さを目の当たりにした女王は2人を祝福して無事、地上に帰す。
なんていうか、あらすじだけを読むとやれやれって感じであるが、銅山の女王って決して悪い奴じゃないことがわかる気がするような気配を感じる。銅山に女王が居るってこと自体、ちょっぴり滑稽だけど。
“石の花”っていう言葉だけ聞くと、おっかない女王がお怒りになって花に息を吹きかけると花は石になってしまいました。まぁ、怖い!っていうような話かと思っちゃうが、それは単に私が雪女の話とごっちゃになっているからか?
あるいは温泉好きなら湯の花をまっさきに思い浮かべるだろう。これからの季節、紅葉をみながら温泉なんていいんじゃない?私は湯あたり体質なので、温泉は苦手だけど。
あっ、そうそう、せっかくの機会だから皆さんにお願いしておこう。 もし私が意思を表明できないような病を患ったとき、医者が温泉で療養してくださいと命じても、私に成り代わって断固拒否していただきたい。
でないと、湯船の中で鼻血を出して倒れるだろう。
そういえば、「ごっちゃ」で思い出したが、先日あるスーパーの惣菜売り場で“ごった煮”と表示された、おでん様のものが売られていた。
わからんでもないが、“ごった煮”と正々堂々書かれると、なんか購買意欲が冷めてしまう。
「石の花」でプロコフィエフは「ロメオ~」や「シンデレラ」以上に民族色を強めている。もちろん原作のせいもあるのだろうが、作曲したころにまたまたリアリズム批判を受けたことが大きい。
なお、この作品はプロコフィエフの生前に演奏されることはなく終わった。
全4幕から成るが、ここでは抜粋盤(7曲)を(私は全曲を聴いたことがない)。
N.ヤルヴィ指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏。
1992録音。シャンドス。
あの「十月革命20周年カンタータ」とのカップリング。
石の花じゃないが、今年植えた芽キャベツは結局1個の収穫もなく終わった。
肥料をあまりやらなかったこと、農薬をかけなかったことによる食害が原因だろう。
わかりにくいかもしれないが、ブルーベリーくらいの大きさの“芽”のまま石のように固まってしまった。
なんつーか、ただただアオムシを養殖してやった感じだ。
農薬をかけなかったのは、たまたまアブラナ科植物に薬害が出るといわれるスミチオンしか手元になかったからで、無農薬栽培に目覚めたわけでは、全然ない。
来年はマラソン乳剤をバンバンかけてやる!
村上春樹氏、例年のごとく騒がれていたけど、ノーベル賞はとれなかったですね。
勝手に騒がれるの、嫌でしょうね、本人は。
根がデロンロンデロンに腐ってしまった“怒帝王”。
心配してくださっている読者の方もいらっしゃって、皆さんが私自身のことよりこのアロエの方を気にかけられておられるようなのがちょっとプンプンだが、そこはそんな了見の狭いことではいけないわけで、ともかくも腐敗が根だけでおさまっていたためにそれを切断、再生のために挿し木(挿し芽or挿し株?)して安静状態に放置した。その様子の写真を載せておく。
これだけ見るとすっかり根を張って元気に生育しているように思えるが、ぜーんぜん。ただ土の中に茎を挿し入れているだけである。
この鉢が置かれている部屋は、これまで単に“和室”と呼ばれていたが、今では“怒りの間”と命名された。みなさんにおかれましても、元気になることを祈っていただくよう強要する次第だが、私としてもうさんくさいと思わなくもないが、部屋にモーツァルトの、それもとびっきり健康的な曲を流すという音楽療法を試みた。
きっと肌で、トゲで、感じてくれたことだろう。 音楽療法ではないが、私が中学生のころ、「サボテンがしゃべった」っていう本を買ってしまった。なぜなら、サボテンが好きで、そのころはいくつもの鉢を持っていたからだ。
が、冷静に考えれば明らか、明白、自明の理なのだが、サボテンが「やぁ!おはよう」などと話すわけがなく-だいたいにして口がないではないか!-、要は刺激を与えれば微細な電気反応が起こるといった内容だった。
ねえねえ、こういう書名って許されるの?
今になって文句を言ってもしょうがないけど。
そんなことはとにかく、クーベリック指揮ウィーン・フィルによるモーツァルト(Wolfgang A-madeus Mozart 1756-91 オーストリア)の交響曲第35番ニ長調「ハフナー(Haffner)」K.385(1782)。名前の由来はここに書いてあるので、ご参考に。
この演奏はLPレコード、うんこ色のジャケットのセラフィムの廉価盤で聴いていたものだが、すまないが最近とみに、昔親しんだ演奏が懐かしく思われるのである。
あらためて聴くと、淡く残っている記憶とは違って、けっこうシャープでたるみのない演奏だ。あのころは私の腹だってたるみがなかったと思うと、ちょっぴり涙が出ちゃう。
録音は古いが、演奏は今聴いても意外と古臭くない。
もっとネトネトまぁ~たりしていたような-そういうモーツァルト演奏が主流だった-気がしたのは、うん、きっと別な演奏だ。
交響曲第41番「ジュピター」とのカップリング。
このジュピターも贅肉なしの引き締まった演奏と言えるだろう。
1961録音。EMI。
にしても、ハフナーって憂鬱な気持ちや不安といった負の感情を吹き飛ばしてくれる曲だ。
ん?となると、怒りも消しちゃう?
“怒帝王”に聴かせるにはむしろ毒だったりして……
ネゼ=セガンが指揮するブルックナー(Anton Bruckner 1824-96 オーストリア)の交響曲第8番ハ短調WAB.108。1889-90年第2稿のハース版による演奏。
とてもソフトタッチなサウンド。ソフラン仕上げのような演奏。とにかくメロディーを美しく、そして感情豊かに歌い上げる。
ブルックナーじゃないみたいだけど、やっぱりこれもブルックナー。
好きずきが分かれるな、これ。私はもっと骨っぽいのがいい。
「春の祭典」ではあんなに私好みの演奏をしてくれていたのに、意地悪ね、ぷんぷん。
にしてもこの指揮者、果たして私好みなのかどうか、さっぱりわからんくなってきた。
2009録音。ATMA。
ところで日曜日に自宅に帰ると、“怒帝王”はくさっていた。
しばらくご主人にかまってもらえなくて機嫌を損ねていたのではなく、本当に腐っていた。根元から。それはピータンの白身部分がいよいよもって腐ったような色合いだった。
鉢の土は乾いていたので水のやりすぎによる根腐れではない。
どう考えても病気だろう。それとも2年続けて花を咲かせたので、もういいやって気分になったのだろうか?
かろうじて株立ちのなかの2つが、根は腐っていたものの、まだ地上部の茎にまで異変が上がって来ていなかったのでカットして挿し木してみた。
この次帰ったときにはどんなふうになっているのか……
- 今日:
- 昨日:
- 累計:
- 12音音楽
- J.S.バッハ
- JR・鉄道
- お出かけ・旅行
- オルガン曲
- オーディオ
- ガーデニング
- コンビニ弁当・実用系弁当
- サボテン・多肉植物・観葉植物
- シュニトケ
- ショスタコーヴィチ
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