先日紹介した乾くるみの「クラリネット症候群」(徳間文庫)には、「マリオネット症候群」という小説も併録されている。
クラリネット症候群とマリオネット症候群の違いは、クラリとマリオである。共通する“ネット症候群”は巷に氾濫していると言われるが、私はこれに罹患していないと、この際申し上げておく。
その「マリオネット症候群」の内容は、うん、まだわからない。というのも、まだ読んでいないからだ。
それよりも、乾くるみって女性作家だとばかり思っていたが、男なんだって。がっかりだな……(←なんで?)。
マリオネットって何だろう?
考えてみれば、たいへん個人的なことではあるが、言葉は知っているのに、はて、いざ「マリオネットになに?」と自問自答してみると、何のことかわからなかった。
なになに……?操り人形のこと。あっ、そっか。
もっと別なこと-己の生きざまを問うような-を自問自答してみたいものだが……
マリオネットから私が辿りついたのが、グラズノフ(Alexander Konstantinovich Glazunov 1865-1936 ロシア)のバレエ「恋愛合戦(Les Ruses d'amour)」Op.61(1898/1900初演)。 正式な名は「お嬢さん女中,または女の試み(恋愛合戦)」である。
グラズノフは3曲のバレエ音楽を残しているが、「恋愛合戦」は1897年の「ライモンダ」と1899年の「四季」の間に書かれたことになる。そして、このサンドイッチで言えばもっとも重要となる、具であるべき真ん中が、いちばん知られていない。
いや、この3曲、ちょっとの差なのだ。カステラサンドのように……
バレエの筋は、公爵家の娘イザベラが、婚約者の真の愛を確かめるために、小間使いに変装して誘惑するという話。
どーしよーもないな、イザベラ……。
ほとんど知られてないが、しかしこの曲、出てくるメロディーのどれもがなかなか親しみやすいし、洒落ている。埋もれたままにしておくには、価値ある石器を掘り出さないがごとく、もったいない。とりわけ「マリオネットの踊り」は、リャードフのどうしようもないほどチャーミングな「音楽玉手箱」を彷彿とさせる。
ただし、この作品の弱さは、メリハリに欠けるという点。
これはグラズノフの他の作品にも言えることだが、山場がなくなだらかな丘陵のままで終わってしまう。バレエが伴えばまた違うのかもしれないが、音楽だけだとカステラサンドのように飽きが来る(カステラサンドが大好物の方、すいません)。
でも、聴いておく価値がある作品だと、私は思っている。
アンドレースク指揮ヤシ・モルドバ・フィルの演奏の録音を(なんだか怪しげなオーケストラ名だ)。
曲は、 序奏と情景Ⅰ/レチタティーフとマイム/サラバンド/ファランドールと情景Ⅱ/マリオネットの踊り/情景Ⅲ/情景Ⅳ&Ⅴ/ヴァリアシオン/情景Ⅵ、行進曲/情景Ⅶ、大ワルツ/情景Ⅷ&ⅩⅠ/農夫と農婦の舞踏曲/グラン・パ・ド・フィアンセ/ヴァリアシオン/ラ・フリカッセ
から成る。
この録音はかつてはMARCO POLOレーベルから出ていたもの。
1986録音。ナクソス。
このCDの帯には“名曲「四季」を凌ぐ”と書かれているが、んー、そりゃないと思うな……
いやぁ、庭はジャングル状態。
きれいにするのに、かなり作業に時間がかかりそうだ。
ガーデニング
たまたま種(タネ)の機嫌がよかったのか、その後もアボガドは順調に育っている。
葉の色の緑色に深みはないが、これは日光不足と栄養素不足だろう。そろそろ肥料を与え、そしてまた害虫がつきやすくなるのが難点だが、ベランダに出してやればいいのかもしれない。
ところで、光文社古典新訳文庫のダーウィンの「種の起源」(渡辺政隆訳)を読み始めた。
古典新訳文庫といえば、発刊当初は私もずいぶんとひいきにしいろいろと読んだが、最近は遠ざかっていた。久々の購入である。
こう見えても-見たことのある人はあまりいないだろうが-、私が大学で植物育種を専攻していた。そんなわけで、その知識はいまの仕事に全然関係ないし、急に関係しても何も覚えていないのだが、「種の起源」を読むのは楽しみである。
アボガドは元気だし、パパイヤもミニ・パイナップルもベンジャミンも気が狂ったように生育が旺盛である。このような熱帯系植物はマンション生活に向いているのかもしれない。 一方、札幌の本宅の庭。
前回帰ったときに確認できた悲しい出来事は、昨年植えつけたしだれ桜が枯れていたということだ。花まで咲かせていたのに、まったくの予想外である。
ただ、幸いにも地際からあたらしい枝が数本出てきている。こちらの枝にがんばってもらうしかないが、この調子だと来年はまったく花は見込めない。
桜ともベンジャミンにも関係ないが、交響的絵画「西洋杉と棕櫚(Le Cedre et le Palmier)」。カリンニコフ(Vasily Kalinnikov 1866-1901 ロシア)が1897年から98年にかけて作曲した作品である。
この曲はハイネ(A.N.マイコフ訳)の詩にインスピレーションを得て書かれたという。詩が訴えていることは、ある女性を好きになったが、それはかなわぬ恋だったという悲しみらしい。
その詩は、以下の通り(これはA.S.Klineという人が英訳したもの)。 A single fir-tree, lonely,
On a northern mountain height,
Sleeps in a white blanket,
Draped in snow and ice.
His dreams are of a palm-tree,
Who, far in eastern lands.
Weeps, all alone and silent.
Among the burning sands.
つまり、毛布の色は白かったというわけだ。
スヴェトラーノフ/ソヴィエト国立交響楽団の演奏で。
1987録音。メロディア。
えっ?なになに?“棕櫚”ってなんて読むかわからないって?
“しゅろ”なんです。
話はちょっとずれるが、最近流されているマキタの充電式草刈り機のCMは傑作だ。
このような作業機械にミスマッチな正装した人物、それもそれが草刈正雄ということころがすごい。
そして最後の笑顔が、またいい(その後、動画のリンクが切れたので削除した)。
さて、今日の昼の便で北海道に戻る。
昼はカレーライスの気分だ。
早めに羽田空港に行って……食べよう。
このあいだの日曜日の話である。
前日の夜、妻がたまに豚丼も悪くない、とぼそっと言った。
この日の新聞に載っていた、“ぶた八”という店が土用の丑の日に合わせ、うなぎのかば焼き風の豚丼を出すという記事を読んだからだった。
ケチをつけるわけじゃないが、十勝の豚丼というのはもともとうな重をヒントに作り上げられたものなので、いまさらかば焼き風と言われても奇妙な気がするが、とにかくそういうものを出すということだった。
じゃあどこがふつうの豚丼と違うのかというと、記事によるとウナギのかば焼きのように豚肉を炭火で香ばしく焼き上げたんだそうだ。なるほど!ちっともわからん。
でも、日曜日に“ぶた八”に向かった。 実はそのかば焼き風豚丼は、土用の丑の日である翌22日からのメニューと書いてあったので、はなっからそれは食べられないことはわかっていたのだが、説明になってない新メニューを食べるよりは定番を頼んだ方が無難だと思い、たまにはふつうの豚丼を食べるべく、暑いなか行ってみたのだった。
が、店の前まで行って、私はふとスープカレーが食べたくなった。
妻に提案すると、妻もそっちの方がよいという。
計画はあっさりと変更。
豚問屋ならぬ豚丼屋の前を通り過ぎ、前からチェックしていたスープカレー屋へと向かった。チェックしていたといっても、評判がどうなのかは知らず、そこにスープカレー屋があることを知っていたという程度の話である。
が、である。
店の扉には“人手不足のため本日臨時休業いたします”と書いた張り紙が……
なんてこったい……
人手不足って理由が意表をついている。
休みであることにがっかりするよりも、「たいへんですね……」と同情してしまった。 その足で街中へ戻り、“みすゞ”というなかなか美味しいラーメン屋に入る。
豚丼からスープカレー、そして行き着いた先はラーメン店という、この変遷。われながら感心する。
私はその名も“みすずラーメン”の醤油をを、妻はふつうの“ラーメン”の塩を頼む。
さらに豚丼風握りという、豚丼肉の軍艦巻きを1皿頼む(2貫)。あくまでも豚丼を意識の中から捨てきることはできなかったのだ。
ここに入るのは2回目だが、確かに美味しい。“みすゞラーメン”が680円、ふつうのラーメンが650円と値段も良心的。
が、ラーメンが運ばれてきたあとに、私は悔やんだ。
上の写真が“みすゞラーメン(醤油)”だが、ご覧のようにトッピングは炒めたもやしと青ネギ程度。あと100円出して“こだわりみすゞ”にすれば、チャーシューとメンマものってくるのだ。あぁ、ちゃんとメニューを見るべきだった。
話は変わる。
いま、わが家の庭に、名前がわからない宿根草が花を咲かせている。
おととしに園芸店で買ったものだが、そのときは確かに品種名をどこかに控えた。が、問題は、それがどこか不明なったことだ。
名のわからない植物を育てるのはなんとなく落ち着かない。気ものらない。ポチとかシロとか呼ぶわけにもいくまい。
どなたか、この花の名を知っている人がいたらぜひともお教え願いたい。 そんなこんなで、ラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937 フランス)のピアノ小曲「ハイドンの名によるメヌエット(Menuet sur le nom d'Haydn)」(1909)。
ハイドンの没後100年となる1909年に、パリの音楽雑誌“レヴュー・ミュジカル」が6人の作曲家に依頼したピアノ曲の1つ。
ラヴェル以外に依頼されたのは、ドビュッシー、デュカス、アーン、ダンディ、ヴィドール。
作曲に当たっては条件があり、それはHAYDNの5つの文字に対応する音列の動機を用いること。音名はCDEFGAB(H)だが、それをもとにアルファベット全文字の対応表を作り、音列が作られた。その出来上がった音列はBADDGである(このあたりの規則はウィキペディアに書かれている)。
私が持っているCDはアースの演奏によるもの。
1968録音。エラート。
ということで、あの宿根草の名を誰か私に教えておくれ。
じゃないと、ハイドンって呼んじゃうことになりそうだ(花も、ポチと呼ばれるよりは喜んでくれるだろうし)。
日曜日に期日前投票に行って来た。
投票所の係りの人たちは皆、どうしてあんなに愛想が良くて丁寧で親切なんだろう。最近はだいぶ良くなったものの、区役所の窓口係とはえらい違いだ。同じ市職員とは思えない。いや、そういう人たちも選挙の手伝いに来ているのかもしれない。となると、場面場面で態度を使い分けしているのだろうか?
とすれば、こういうところにいる女性に惚れないよう用心した方がいい。きっと家庭内では別人のように無愛想になるだろうから。もっとも、投票所には若い女性はいなかったので、私が若い男性のために余計な心配をする必要もないか……。それに、バイトがほとんどかもしれないし。
投票を終えて外へ出ると、某新聞社を名のる人にアンケートを書かされた。出口調査である。
多くの人にとっては説明は必要ないだろうが、読者の中には1万分の1の確率で出口調査を知らないという人がいないとも限らない。だから説明すると、出口調査というのは投票後、どの出口から外へ出たかを調べるものではなくて、出口で待ち構えたマスコミの調査員が「あんた、いったい誰に投票したの?」と調べるものである。これによって精度の高い開票速報を出すことが可能になるわけだ。
「開票率はまだ0%ですが、投票所の出口調査の結果MUUSANが入れたと言っていましたので、当選確実をださせていただきました」っていうようなコメントを、あなたも耳にしたことがあるだろう。
でも、案外とラフな調査で、例えばウソを答えても調べようがない。きっと日本人はみんな正直なんだろう。
帰宅して庭を見回ると、相変わらず生意気な態度でバラを荒らしているヤツがいる。
コガネムシだ。
バラを栽培していていちばん厄介な敵は、私の場合はコガネムシである。
病気も怖い。特に肝臓がんやクモ膜下出血は致命的だが、幸いバラには肝臓もクモ膜もない。黒星(黒点)病やうどんこ病は避けられない病気だが、でも殺菌剤である程度予防できるし治療もできる。何より枯死に至ることはない。根頭ガンシュ病というのはかなり怖い病気で、私の経験では枯死に至るが(本によっては枯れることはないと書かれている)、頻発するものではない。
害虫はというと、アブラムシはもうしょうがない。が、こいつにはいろんな薬剤が有効だから、見苦しいのは困るがあまり恐れる必要はない。カミキリムシは防除のしようがないというが、幸い私は被害に遭ったことはない。
なんといってもコガネムシだ。土中にいる幼虫にはダイアジノン粒剤が効果的だというが、成虫は予防のしようがない。写真のように、花に飛んできては穴だらけに食い散らすし、セレブ気取りで花の中で優雅に後背位でコトの最中って始末だ。
こいつらをやっつけるには、その場で薬を直接噴霧するしかない。
そこで、私はご苦労様なことに、屋外でわいせつ行為をしているやからがいないかパトロールするわけだ(一時期、わざわざクモの網に引っかけてやるということもしたが、あまりにも非効率的なのでやめた。クモも憎いし)。
私が試した結果、いちばん効くのはゴキブリ用のスプレー(コックローチなど)だ。それを体めがけてほんのちょっとシュッとしてやれば、2秒後ぐらいからもがき苦しみ、地面に落ち、あがき、死ぬ。しかしゴキブリ用のスプレー殺虫剤は、ゴキブリがほとんどいない北海道ではなかなか店頭では入手困難である。
次に効くのはアリの巣退治用のスプレー剤。これもゴキブリ用に遜色のない効果がある。
ハエ用のスプレー缶も効果はあるが、やや長めに噴霧してやることが必要。でないと、苦しんだふりをした直後に飛んで行ってしまうことがある。それにハエ用のものはスプレーのみで、局所向けのノズルがついていないのも欠点だ。 にしても、コガネムシも少しは怯えてはどうかと思う。あいつらにはネットワークがないのだろうか?もしアリだったら、少しは情報交換するような気がする。「あの界隈に行ったら危険だよ」みたいに。
なのにコガネムシは、次から次へとこの危険地帯に、スプレー缶を持った殺人鬼がパトロールをしているこの私有地に、次から次へとやって来る。
こんなやつらだから、たとえ「黄金虫、立ち入りを禁ず」という立て看板を設置したところで、 誰も守ろうとしないだろう。字も読めないだろうし。
コガネムシといえば、ドヴォルザーク(Antonin Dvorak 1841-1904 チェコ)の交響曲第8番ト長調Op.88,B.163(1889)。第9番「新世界より」よりも優れていると言うファンも多い。
前にも書いたが、私にはこの曲の第4楽章に出てくるメロディー(掲載譜。このスコアは全音楽譜出版社のもの)が、「♪コガネムシは金持ちだぁ~」とオーバーラップするのである。
今日はレヴァイン指揮ドレスデン国立管弦楽団の、ちょっと刺激的で、ノリがいいけど、どっか違うんじゃない?っていう演奏を。まあ、このジャケット写真がそのまま音楽で表現されているような……
えっ?おしゃれで素敵な写真だって?
そういうあなたなら、きっと感動できると思います。
1990録音。グラモフォン。
パトロールができない間は、あいつら好き勝手やってるんだろうな……
会議やら打合せがあって、9日から出張で札幌に来ている。
そんでもって、本日は休みをいただき、ガーデニング作業-相も変わらずバラの剪定作業と雑草取り-に意欲的に取り組む態勢にある。
頼まれてはいないが親切に時系列的に整理すると、9日~11日が出張で、本日は休暇。特段、整理したことになってないか……
ということは、明日からの3連休もそのままわが自宅に滞在することができるということだ。
当初の予定では、今日は現地-いまの赴任地-で会議があるという、姑のいじめのようなスケジュールが組まれていたが、神が微笑んだのかその会議は延期となった。
これが意味するところは、11日の夕方に赴任先の寓居に戻って翌日の会議に出て、その日の夜に再び自宅へ帰るという、その1往復分がそっくりなくなったわけで、ありがたいことに理想的な形になったのである。
今日はガーデニング作業だけではなく、午後にはカーポート建て替えの打合せをすることにもした。
見積額が予想よりも高く、押しの弱い私としてはどこまで値引き交渉ができるか不安であり、そのことを考えると早くも胃が痛むくらいだが、幸い食欲は落ちていない。
だが、良い話題もある。
今回は相当程度の覚悟を持って帰宅したのだが、不思議なことにアリの出没がまったく見られないのである。9日の帰宅時、わざわざ”瞬殺 侵入防止 アリフマキラー”を購入して構えて家に入ったのに、これは杞憂に終わった(が、まだ油断は一物、いや、禁物だ)。
庭は、前回帰って来たときに、私のできる範囲内で小ぎれいにしたが(上の写真)、2週間の時の移ろいによって、2枚目の写真のようにまたうっそうとしてしまった。まあ、植物にとっては、「いつ生い茂るの?」、「今でしょ!」ってことで、喜ばしいことではある(もう旬が過ぎたこと使ってごめんなさい)。 ハイドン(Franz Joseph Haydn 1732-1809 オーストリア)の交響曲第64番イ長調Hob.Ⅰ-64(1773?以前)。この曲には「時の移ろい(Tempora mutantur)」という名がついているが、ハイドン自身が付けたものではないし、なぜこのような名が付いたのかもよくわかっていない。
不安定な移ろうような雰囲気がないでもないが、屈託のない明るさを備えた作品だ。
ヴァイル指揮ターフェルムジーク・バロック管弦楽団の演奏で。
この曲、たぶん昔のような甘く音を引っ張るような演奏だと退屈しちゃうと思う。が、このヴァイルのようにビシバシやられると、ハイドンってなかなかすごい作曲家だったんだなって感心させられる。
1993録音。ソニークラシカル。 さて、時が移ろい、ハイドンの死後100数年経った1917年のこと。
この年、「もしハイドンが今でも生きてたら、こんな曲を書いただろう」との狙いで書かれた作品がある。
プロコフイエフ(Sergei Prokofiev 1891-1953 ソヴィエト)の「古典交響曲(Classical Symphony)」、すなわち交響曲第1番ニ長調Op.25(1916-17)である。
この交響曲はいつ聴いても心が躍る。
瑞々しい輝き放つ、親しみやすい曲だ。
が、軽快さを強調すると薄っぺらなものになる。その点、若き日のアバドがロンドン響と残した録音は名演だ。
1969録音。デッカ。
さて、楽しくもあり苦痛でもある雑草取り。
そんなときに来たメール。
【【マスター奴隷】恵梨香】さんから新着メールが届きました!!
【メールタイトル】
永続的に奴隷としてお仕えさせてください。私のすべてを貴方様のために捧げます。
じゃあ、頼むから雑草取りしてくれよ……
おっと、アリが台所の辺りに出なくなったと、しごく当然のことに異様なほど満足感を得た私だが、翌日の10日、さらに翌々日の11日に、私は不幸と言っても許されるであろう経験をするのである。
金曜日の夜、仕事が終わったあとに妻と2人で車で自宅に戻った。
主(ここでは“しゅ”とか“ぬし”ではなく“あるじ”と読むことを推奨)がいない家の中で、アリがわがもの顔で隊列行進の練習ならびに本番をしていたらどうしたものだろうかとか、あの虚弱なくせにすばしっこくてグロテスクなゲジが壁面でくつろいでいたらどうしようかと不安で不安でしょうがなかったが、昨冬の雪の重みでかなり傾いてしまったカーポートに車を入れて降りた瞬間に、アリとかゲジ以前のこととして、クモの網に引っ掛かり、「ひぇぇぇぇ~っ!」となってしまった。
人質犯が立てこもっている中へ突入する機動部隊のごとく、の心構えで、家の中に入ったが、アリンコ1匹いなかった。 これは良きことである。
って、すまして書いているけど、ほんとほっとした。
翌日は起床してまずはブログをアップし、セイコーマートに朝刊と100円総菜を買いに行き-さんまの塩焼きときんぴらごぼうを買った-、家に戻って朝食をとり、そのあとお外へ。
例年だと、バラが咲き始めるのはこの時期なものの、たいていはオールド・ブラッシュ・チャイナが先行開花で、ほかの品種は7月に入ってからのような気がする。
ところが今年は、雪が多くて溶けるのが遅く、また4月は低温だったのに、もう何種類ものバラが咲いている。
宿根草も、雑草も、そしてバラもけっこう伸びて、庭の状態は1~2枚目の写真のような状 態。
これをなんとかするのが私のお仕事。
3枚目の写真は“オールド・ブラッシュ・チャイナ”、4枚目は“メニー・ハッピー・リターンズ”、5枚目は“ウィンチェスター・キャセドラル”である。
繁茂したオダマキやサルビアなどを少し整理し、バラの枝も少し整理し、伸びた枝を誘引。
そうこうしているうちに、あっという間に9時になってしまった。
作業を中断し、シャワーを浴び、お出かけ。
10時に床屋を予約していたのだ。
いまの若いモンは“床屋”とは言わないのかもしれない。そもそもあらためて眺めるに、床屋って変な文字だ。ベッド販売店を和訳したかのようじゃないか。あっ、ふとんでも構わないですけど。
が、じゃあほかになんていうのだろう?「理容室に行って来る」とでも言うのだろうか?
ウチの子どもがどうだったか考えてみると、理容室の店名を言っていたような気がする。「明日“髪切虫”に行くから、金ちょうーだい」みたいに。
そういえば大阪にいたときは、私が床屋に行くと、課の女性が「散髪行きはったんですか?」と聞いてきたりした。散髪っていうのも不思議な言葉だ。髪を散らす……歌舞伎役者が頭をぐるぐる回すみたいじゃないか。
それにしても10時に床屋に行くのは、私としては不本意だった。
いつも朝イチ、つまり9時を目指しているからだ。しかし、今回は3日も前に電話したのに、 すでに9時からの予約はとれなかった。誰かが私の邪魔をしている……
10時前に行くと、店内の2つの椅子に2人が座っていた。いや、重なっていたのではなく、それぞれの椅子に1人ずつ座り、1人は洗髪中、1人は最終仕上げ中だった。
9時からはすでに埋まっているという店主の言葉はウソでなかったようだ。ウソをつかれていなかったことに、なんだかほっとする。
予定より5分遅れで私の頭髪は処理され始め、その間の退屈で苦痛な時間を大過なく過ごしたあと、床屋の横のスーパーに寄り、40リットルのゴミ袋を買い、家に帰る。
庭仕事の続きだ。
それにしても、床屋の椅子に座り、マントを巻きつけられた直後に、なぜ首が痒くなるのだ ろう?あれはけっこう辛い。
雑草抜きや伸びすぎた庭木の枝をはらったりして-途中、昼食のために20分ほど休憩した。昼食は冷食のナポリタンにした-、なんだかんだひと段落したのは15時だった。まだまだ雑草は点在していたが、もう限界だ。これ以上やるとまた震えが来たり、明日歩行困難になる恐れがある。
作業後の庭は6枚目の写真のとおり。
なに?作業前と変わらない?
ふんっ!
冬からやっと来た春。そして曖昧なうちにバラの季節になってしまった。
バラの開花を見ると初夏だなぁと実感する。昨日は寒かったけど。
そりゃそうだ。今日から7月だもの。
四季の国、ニッポン! ヴィヴァルディ(Antonio Vivaldi 1678-1741 イタリア)のヴァイオリン協奏曲集Op.8-1~4「四季(La quattro stagioni(The Four Seasons))」。厳密に言うと、協奏曲集Op.8「和声と創意への試み(Il cimento dell'armonia e dell'invenzione)」(1724頃出版)の第1~4曲。
第1曲 「春」 変ホ長調RV.269
第2曲 「夏」 ト短調RV.315
第3曲 「秋」 ヘ長調RV.293
第4曲 「冬」 ヘ短調RV.297 (RV.はリオム(P.Ryom)による番号)
ムターのヴァイオリン、カラヤン指揮ウィーン・フィルの演奏で。1984録音。
なぜカラヤンを好んでいない私がって?
だって3枚組のCDの1枚だったからしょがないじゃん。そう、ついこのあいだ、モーツァルトの協奏交響曲で取り上げたものの1枚。
よくわからないが、「四季」って日本では最もよく知られているクラシック音楽の1つじゃ
ないだろうか?
ムターは子どものころから天才ぶりを発揮し数多くのコンクールにおいて賞に輝いたが、13 歳のときにカラヤンからお声をかけられベルリン・フィルと共演、国際的な地位を確立した。なにせ、少女にしてカラヤンに見染められたのだ。
カラヤンは彼女を存在を広く世界に知らしめ、スターにした人物なわけで、その“豪華な”組み合わせによる「四季」となると、なんだか商業主義的臭いがプンプンする。
「四季」をカラヤンの指揮で、それもオケがウィーン・フィルだなんて、新聞配達するのに高級外車を使ってるような感じではないか。
肝心の演奏だが、まずはオーケストラ。
うん、柔らかで包容力のある響きは、まさしくウィーン・フィルの音だ(と思うような気がする)。心地良い響きだ。でも、これがヴィヴァルディなのかというと、どうなのかな?恰幅の良い赤毛の司祭って感じ。
ムターのソロはというと、もともとこの作品が名人芸披露のコンチェルトではないにしても-むしろ合奏協奏曲的-、それにしても音が前に出てこない。際立たない。線が細すぎる。
乱暴な言い方をすれば、「ムター、ムター」と独奏者名を強調する必要なしって感じだ。あっ、それじゃ売れ行きに影響があるか……
まっ、毛色の違う「四季」なので、イ・ムジチ合奏団の演奏なんかでげっぷが出ている人には新鮮かも。スカッとはしないだろうけど。
さて、傾いたカーポートだが、申請した結果火災保険がおりることになった。
「火事でもないのになぜ火災保険?」と思われるかもしれない。私もまったく知らなかった。
しかし、家を建てたときに-そのときは住宅金融公庫でローンを組んだ-強制的に加入しなければならない火災保険は、家本体だけではなく敷地内の建造物にも適用になるんだそうだ。それも火事じゃなくて、今回のような雪による被害でも。
けっこう知らない人が多いんじゃないかな、この適用範囲。
いちばん下の写真2枚は宿根草の“ゲウム・ミセス・ブラッドショー”。
朱色が鮮やかで庭のアクセントになる。
が、直訳すると“奥さまの血祭りショー”ってことか?(←違うと思う)。
今回は家屋内にアリの侵入はなかったものの、念のために外回りにアリの忌避剤をまいた。が、これ、シナモンも入っているという。
あまりまくと、シナモンが苦手な私も家に近づけなくなる恐れがある。
今日は午後から会議である。
土曜日の朝、帯広市は久しぶりの雨。
私は、釧路地方で地震が起きて津波警報が出ているにも関わらず、それを見ようとして幣舞橋(ぬさまいばし)の上に来て、本人はそんなこと言われてるなんて知る由もないだろうが、NHKの中継で「いまの幣舞橋の様子です。すでに津波の到達予想時刻を過ぎておりますが、まだ潮位に変化は見られません。しかし、いつ津波が来るかわかりません。予想時刻よりも遅くやって来ることも考えられます。橋の上にいる方は危険ですのですみやかに非難してください」とアナウンサーに言われてる野次馬のごとく、別に今朝出さなくてもいいのに空のペットボトル数本が入ったビニール袋を資源ごみの収集場に持って行った。つまり、どのくらいの雨かを体感したかったからである。
で、行ってみると窓から見るよリもずっと大粒の激しい雨で、一瞬にして、いやぁけっこうな濡れネズミ状態になってしまい、部屋に戻るときにポストから取った朝刊も濡れた手のせいでふにゃふにゃの古新聞のようになり、バカなことを試みたものだと反省した。
そのあと、面倒でのちのち邪魔になるので嫌だったが、仕方がないので傘をさして駅に向かった。 駅の中のコンビニで小ぶりの幕の内弁当を買い、ちょうど回送で入線したスーパーとかち2号に乗り込み、まだ人けが少ないうちに弁当を平らげたが、食べ終えたときはまだ発車の5分前だった。
これで、あとはゆっくりと音楽を聴きながら本を読んで行けるわけだ。走行中の車両の中で、弁当に入ってる醤油の封を切ろうとして、振動で手が滑って醤油をシャツに味あわせるといった危険性も完璧に回避できたわけだ。
列車は定刻に発車した。
移動時間をも有意義な時間にするときが到来したのだ。
ウォークマンを取り出すと、驚いたことにバッテリーの残量を示すアイコンが最後の1本になっている。これはまいった。でもしょうがない。力尽きるまでがんばってもらうことにする。
今回携えてきた本は、「伊福部昭綴る」という、あわてんぼの村上春樹ファンなら多崎つくると聞き間違えそうなものと、あと「審判」に続き、若き日に読んだカフカの「城」である。
本を読み始めたが、ところどころウトウトしてしまい、挙句の果てに新得からトマムまでの記 憶はまったくない。いや、失神したのではなくて、不覚にも深い眠りに一瞬にして落ちてしまったのだ。
どうやらその間に車掌さんが検札に来たようだが、私は完璧に覚えていない。車掌さんは私の美しい寝顔を偶然にもただで拝める幸運に遭遇したってことだ。
また、ワゴンサービスのお嬢さんも私のうっとりするような寝顔に見とれることができた(はずだ)。目が覚めてからも何度かその車内販売のお嬢さんがやってきたが、ワゴンを押しながら私の方を一瞥もしなかったのは、あの輝かしいほどの寝顔の持ち主に、畏敬のあまり視線を向けられなかったと解釈せざるを得ない。
つまり私がここで言いたいことは、熟睡したりウトウトしたせいで、読書が進まなかったということと、寝ている間も無駄に耳に音楽を送り続けたにもかかわらず、結果的にバッテリーは最後までもったということである。
家に着いたのは10:30すぎであった。
こちらも雨。
おやおや、これじゃガーデニングができない。ガーデニングといっても、この日はどう考えて も雑草取りに終始することは明らかだったので、雨で作業ができないのもそんなに苦痛に思わなかった。むしろ雨で運動会が中止になったかのように、じわりとした喜びがあった(私は運動が苦手なのだ)。
ところが午後になってすっかり雨が上がってしまった。
となると、根がまじめな私は熱心な働きアリのようにじっとしてられなくなる。
庭の状況だが、バラたちは1つを除き元気に生育している。元気がないのは“ドックローズ”と俗に呼ばれる品種で、正式には“ロサ・カニナ”というノイバラの一種である。日本におけるハマナスのように、もともとヨーロッパに自生する原種で、ゲーテの詩「野ばら」のモデルと言われている。
これはつい最近サカタのタネから通販で買ったもので、500円とハーブ扱いの価格。原種だから強いはずなのだが、すっかりうどんこ病である。薬をかけねば。
バラが開花するのはわが庭では早くて6月末。すでにいくつもの株がつぼみをもっている。で、いま開花しているのは宿根草や樹木である。 上の写真2枚は昨年購入した宿根草。ちょっとマニアックな草種だが、なんという名前だったか、いまはそのメモが手元にない。後日きちんと報告する。
3枚目の写真はハーブのチャイブである。バラの病気を防ぐ効果があるということで、コンパニオン・プランツとして私は何か所かに植えている(というか、最初は2株だったものがこぼれ種で増えてしまった)。
4枚目はオオデマリ。今後散った花びらを掃除するのが厄介である。
5枚目はコデマリ。オオデマリ、コデマリとあるのだから、この際選挙前の立て看板のように、天地真理のポスターでも掲げよう、と思う気持ちはまったくない。
ほかにもフウロソウやらオダマキやらライラックやらブルーベリーやらアロニアやらが咲いている。
花の展覧会シーズンがいよいよ到来したわけだ。
カッコウも鳴いてるし。 ムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky 1839-81 ロシア)作曲、ラヴェル編による組曲「展覧会の絵(Tableaux d'une exposition)」(原曲1874/ラヴェル編曲1922)。
今日は名盤とされているマルケヴィチ指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による演奏。
でも、この演奏、なんでそんなに評価が高いの?鬼才と言われたマルケヴィチだが、この演奏には鬼才という言葉がちっとも似合わない。私にはフツーに聴こえる。おもしろみがない。
それに「ヴィドロ」のテューバの音、情けないほど貧相。そういう解釈で吹かせてみた?そうかもしれないが、私の豊富な偏った人生経験において、あんなテューバの音は聴いたことがない。最もお気に召さない「ヴィドロ」だ。テューバというあだ名をつけられた別な楽器じゃないの?
まあいいや。
1973録音。ドイツ・シャルプラッテン。
で、土曜日の夕方になって、風もほとんどなくなったので、バラたちに殺虫剤と殺菌剤を噴霧した。今回はサプロールとアクテリックの混合液。いうまでもなく、ドックローズに見られた病気の治療。加えて、アブラムシもすでにいくつもの株に付いていたので、その退治。
6月15日は北海道神宮祭。
不思議なことに、毎年神宮祭の頃になると春先からの強い風の傾向が収まる。薬かけにはもってこいになるのだ。でも隣近所に迷惑にならないように配慮しているつもり。
で、今日は午後から会議である。
あっ、さっき言ったか……
日曜日の朝は6時ころに1階のポストに新聞を取りに行った。すると遠くのあちこちから花火の音が聞こえてきた。運動会なのだろう。
そうだよな。私の経験からすれば、運動会って土曜日よりは日曜日の行事だった。いまはどっちが多いのだろう?
で、6:20に家を出て駅に向かう。といっても、私の住むマンションから駅までは徒歩で5分もかからない(無駄に青信号を2回くらいパスしてたたずまない限り)。駅に向かって歩いている と、ちょうど私が乗る列車が回送でホームに入って行くところが見えた。
出発時刻までまだ30分弱あるが、こういうのを見るとなぜか気が急く。
駅に行き、朝食のおにぎり1個とミネラルウォーターを買い、おしっこを済ませ乗車。
列車は順調に進み、定刻に札幌駅に到着。
家に着く前にスーパーで、当夜のおかずやアルコール類を購入。
家に着いたのは11時。やはりスーパーで買ってきたおにぎりとポテトサラダを昼食とし、その あと徒競争でスタートする少年のように庭に飛び出た。
本日のメイン作業は芝刈り。
芝はすっかり雑草の侵入によってまだらになっているが、去年からバラを植えるスペースを増やすために、すでに芝は徐々に撤去し始めている。厄介なのは残っている芝が弱ってきているせいで早く花を咲かせようと細い穂が乱立していること。こうなると手押しの芝刈り機の刃からしなやかに逃れ、なかなかカットできない。ということで、床屋さんになった気持ちで芝刈りはさみで手刈り。
いやぁ、またまた手が疲れた。
庭では、前回見たときはまだつぼみだったシダレザクラ(八重紅枝垂という品種)がちょうど咲いていた。
ちょうど見ごろに帰って来られて満足。
また、ユーフォルビアも黄色く色づいた。 バラたちもご覧のように元気である。ただし、結局この冬は地植えのもの2本と冬の間届いた鉢植えのバラ2本が枯死した。
クレマチスのドクター・ラッペルもやたら元気である。
いよいよ北海道も花の季節だ。
私が一人さびしく庭仕事をしている間(大勢でキャッキャッ騒ぎながらするものでもないが)、隣の家では野菜の苗の植え付けをしていた。
土いじりはいいなぁ。みんなウキウキしてるんだなぁ。
ところでこの日の朝、列車で聴いた曲は、そりゃいくつかあるが、そのうちの1つがレスピーギ(Ottorino Respighi 1879-1936 イタリア)の「弦楽のための組曲(Sute for strings)」P.41 (1902?。ヴィットリオ復元完成)。
ほとんど知られていない作品だが、しっとりした感触がとても良い。名曲となるにはいろいろな要素が欠けているのかもしれないが、無視するのは惜しい。
ラ・ヴェッキア指揮ローマ交響楽団の演奏で聴くことができる。
2009録音。ブリリアントクラシックス。
さて、そんなわけで今日の午前中の列車で勤務地へと戻る。
ちょうど昼がかかるので問題となることがある。
そう、昼食をどうするかだ。
深刻なほどたいへんな悩みだ。 お弁当を買って車内で食べる……この旅人の特権としか言いようのない楽しみは極めて魅惑的だ。しかし、もし隣の席に誰かが座っていたら、どうも気が引ける。
弁当を買い込んで乗ったはいいが、隣に見知らぬ客が来て-見知ってる客が来るなんてことは奇跡的だし、奇跡が起こったとしてもその顔見知りと友好関係にあるとは限らない-弁当を開けられぬまま目的地に着いてしまった、という経験も私はしたことがある。
さて、今日はどうしよう。
向こうに着いてからも時間はないし……
非常に悩んでいる。
えっ?血液検査の結果?
それはまた今度。
ちょっと前の話だが、芸能情報にはとんと疎い私は、ネットで“カエラ妊娠”というタイトルを観て、なんのこっちゃ?どこぞの有名なカエルが妊娠したんかい?と不思議に思ったのだが、不思議なのは、もっとはっきり言えば変なのは、この私であった。
自分のなかで解決できて幸いなり、であった。
不思議といえば、米澤穂信の「ボトルネック」(新潮文庫)は不思議な話だ。
亡くなった恋人を追悼するため東尋坊を訪れていたぼくは、何かに誘われるように断崖から墜落した……はずだった。ところが気がつくと見慣れた金沢の街にいる。不可解な思いで自宅へ戻ったぼくを迎えたのは、見知らぬ「姉」。もしやここでは、ぼくは「生まれなかった」人間なのか。世界のすべてと折り合えず、自分に対して臆病。そんな「若さ」の影を描き切る、青春ミステリの金字塔。
SF小説チックにストーリーが進み始める。
面白いかといえばそうでもないし、じゃあつまらないとも言い切れない。
青春ミステリと書かれているが、ミステリーの様相は強くない。
ボトルネック……タイトルが示しているのは、主人公の少年がネックになっているということで、それはちょいとかわいそう。
私としては、なぜ別世界に行ってしまったのか、そしてまた帰ってこれたのかどうももやもやしたままだし、2つの世界の対比が意味があるようなないような……。なんか納得いかないんだけど、作り話に目くじらたてるここともないのかな。
内容深き小説かっていうと、ハテナだった。
この小説に漂う厭世観は、しかし、「大地の歌」の世界を思わせる。
小説の主人公の少年は、絶望的に暗いけど。
マーラー(Gustav Mahler 1860-1911 オーストリア)の「大地の歌(Das Lied von der Erde)」(1908-09)。 今日はライナー/シカゴ響の演奏。
ライナーといっても、よく知られている1959録音のもの-この録音は私にとっても非常に大きな影響を与えられた演奏-ではなく、あまり知られていない1958年2月のライヴ。
1959年録音でのメゾ・ソプラノ独唱はフォレスターだが、58年ライヴではルートヴィッヒがアルト独唱を務めている。テノールは両方ともルイス。
モノラル録音で、まぁこんなものだろうという音質だが、演奏自体はなかなかよい。
こういう場を経て59年の録音がなされたわけで、アプローチは同じだ。
ということは、59年盤があればわざわざモノラル録音の58年盤を買うこともないってことになるんだけど……(モノラル録音の貧乏ったらしい音を聴いてると、厭世観が強まる感じはするが)。
あらためて書くと、ルートヴィッヒのアルト、ルイスのテノール、ライナー指揮シカゴ交響楽団。
ARCHIPEL。
上に書いたようにライナーの「大地の歌」(59年録音)は、忘れることのできない1枚。
近くあらためて取り上げる。
話は全然替わるが、私は肉体的に疲れたとき、というか、筋肉痛のようなものが起こっている状態のとき、何かの拍子で異様な震えに襲われることがある。 土曜日の日中、庭仕事をした。主に雑草取りである。
夕方には股関節、ふくらはぎ、背中から腰が痛くなった。中腰でいる時間が長かったからだ。同時に、草取りでカニ用フォークを大きくしたような道具をずっと使っていたため、右の手のひらも、手首も、腕も痛くなった。
そんなとき、ちょっと用があって外に出た。
そんなに寒かったわけではなかったが、風がふゅーと吹いた瞬間、猛烈な震え-悪寒-に襲われた。全身ガタガタ。歯もガチガチ。人が見たら志村けん演じるばあさんの真似をしてふざけていると思うかもしれないくらいだ。
厚着をして-服を重ね着するのも難儀するくらいの震えなのだ-30分ほどで治まったが、これって何なんだろう?
筋肉中に乳酸過多?
で、これが日曜日時点でのシダレザクラの状態である。
クモは嫌いである。
雲じゃなく蜘蛛のことだ。
漢字だと虫へんだが、昆虫ではない。昆虫でさえ苦手なのに、昆虫もどきなのだ。苦手どころの騒ぎではない。
貴志祐介の「狐火の家」を取り上げたときにそのことを書いた。
だからバラいじりをはじめとする、ガーデニング作業では、私はかなりの緊張を強いられる。
ただ、その記事のときは黙っていたが、「狐火の家」の文庫本に収められている「黒い牙」は、読んでいて背中が氷河期になるほど私にはぞっとする描写と内容だった。
と書くと、まだお読みになっていない人は、「もしかして『黒い牙』ってクモが絡む内容なの?」と気づかれてしまうかもしれない。そうなんです。くもの、クモの、蜘蛛の話なんです。だから私は苦も感じたわけ。うん、つまんないな。
ごめんね、書いちゃって。弁護士の青砥純子は依頼人のペットの話を聞きながら、猫のことだと思っていたのだが、ペットちゃんは蜘蛛だったのである。
クラシック音楽作品にもクモが主役の曲がある。
ルーセル(Albert Roussel 1869-1937 フランス)のバレエ「蜘蛛の饗宴(Le festin de l'araignee)」Op.17(1912)。
ルーセルは25歳まで海軍の軍人だったが、その後作曲を学んだ。当初の作風は印象主義の影響を受けていたが、ストラヴィンスキーのバーバリズム(原始主義)を経たあと、新古典主義に達した作曲家。
「蜘蛛の饗宴」はルーセルの作曲家としての名声を確立した作品。台本はヴォアザンで、ファーブルの「昆虫記」を基にしている。
バレエのあらすじは、庭の片隅で大きな蜘蛛が網を張って獲物を待ち構えている。そこへ蝶がやって来て捕えられる。蜘蛛は喜びのダンスを踊る。そんなとき木の上からリンゴが落ちてくる。2匹のイモムシとカマキリがこのリンゴの争奪戦を繰り広げるが、蜘蛛は今度は争奪戦に夢中になっているこいつらを一気に捕え、饗宴の準備を始める。ところがその準備で目を離したすきに、カマキリは甲虫に助けられ、蜘蛛を逆襲し殺してしまう。庭には平和が訪れ、その出来事の間に一生を終えたカゲロウの葬式が行なわれる、というもの。
いやだね。
蜘蛛の饗宴というよりは蜘蛛の虐殺って感じだが、いずれにせよ、虫および虫もどき嫌いの私としてはぞっとする。
が、音楽は印象主義の響きで、美しくかつ濃厚なもの。
でも、かつてLP時代に出ていたマルティノン盤は、ジャケットに蜘蛛の写真が載っていて、そりゃあ気色が悪かったものだ。なんでそんなデザインにするんだよっ!
このバレエ、主役(?)の蜘蛛に選ばれたダンサーは心中複雑だろうな。
ルーセルは12曲から成るこのバレエ音楽を、7曲から成る演奏会用組曲に編曲した(ルーセルは“交響的断章”と呼んだ)が、今回は勇気を奮って全曲盤を。
ドヌーヴ指揮ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団の演奏で。
2010録音。ナクソス。
ところで、たぶん多くの皆さんは、間違って触れてしまったら不快きわまりなく、そしてクモが体にへばりついてないかとパニックに襲われる、あの網を“クモの巣”と称しているだろう。私もそうだ。
が、「いや、あれは蜘蛛の網だ。クモの“巣”ではない」という奴がいた。
高校のときの生物部にいた男だ。
どーでもいいじゃん。あいつ、めんどくさい奴だったな。 北海道には野生のカマキリはいない。
いや、いるという人もいるが、少なくとも私は見たことがない。
大阪支社勤務のときは、出張で何度か広島に行った。
支社の担当エリアには広島県も含まれていた。
真夏のくそ暑い日、広島市郊外の自然豊かな場所にある取引先に向かって歩いていたら、歩道横の草むらからいきなりカマキリが飛び出してきた。
初めてではないが、ナマのカマキリを見ることなんてほとんど経験がなかった。
が、暑すぎて私には驚く気力もなかった。
あのときの生カマキリが、生の五月みどりだったとしたら……まったくときめきなんかなかったろうな。年上という概念を超越するくらい年上だもん。 あぁ、かまきり夫人……
金曜日の夜に自宅に戻り、土曜日の朝は冷たい風が吹いていて、お空もご機嫌斜め。
「あぁ、またがぁでにんぐができない」と思ったが、10時ころから暖かくなり、11時から庭に出動。
ノネズミにかじられたと思わるバラたちもなんとか芽吹き(写真はコンパッションというバラだが、けなげに新芽が1つだけ株元から出てきた)、残念ながらお亡くなりになった株は2つにとどまった。シダレザクラもつぼみをもっている(まだ咲いていない。もう6月になろうとしてるのに)。
それでもご覧のように、ようやっと春らしい色合いになってきた。
今日の昼すぎに、再び赴任地に向け3時間のドライブだ。
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