あの半音進行がたまらない
今でも私は「五星戦隊ダイレンジャー」の歌は傑作だと思っている。
もう20年ぐらい前の放送だから、知っている人は少ないと思うけど……
ヴォー、ヴォー、ヴォオ~!って歌わなければならないのだ(カラオケで選曲してしまった場合)。
そして曲が終わったときには肩で息をするくらい疲れるのである(カラオケで歌ってしまった場合)。
ところでクラシック音楽作品の作品番号ではOp.が使われるのが一般的である。
Op.はOpusの略であり、op.という表記が使われることも多いが、私はOp.という表記の方を好む。むかし音楽之友社から毎年出版されていた「レコード総目録」がOp.表記だった影響である。
音楽作品でOp.を使用し始めた最初は、おそらくはバンキエリ(Adriano Banchieri 1568-1634 イタリア)であると考えられている。
交響曲第7番イ長調Op.92(これはベートーヴェン)というように表記するわけだが、もちろん作品番号を知らなくたって聴くことに何の障害もない。が、私がブログで曲を取り上げる場合は、きちんした方がいいという思い込みと余計な親切心から書いてしまうのである。
何らかの理由で作品番号がない場合に誰かが付けたWoO.
ところでOp.ではなくWoO.という作品番号表記がある。
ベートーヴェンの一部の作品にあるWoO.番号は Werke ohne Opuszahl(作品番号なしの作品)の略で、ベートーヴェンの場合はG.キンスキーとH.ハルムが1955年に出版した作品目録の整理番号である。
たとえば「ヘンデルの『ユダス・マカベウス』の『見よ、勇者は帰る』の主題による12の変奏曲」ト長調(1796)はWoO.45である。
WoO.番号が付された作品は他の作曲家にもある。
クレメンティやシューマンなどの一部の作品にWoO.番号が存在する。
ベートーヴェン
ブドウ糖(グルコース)の分子式はC6H12O6である。
ご承知のように、C、つまり炭素を含む化合物のことを有機化合物という。
しかし、私がウイスキーを飲むときに欠かせない炭酸水に含まれる炭酸ガス(二酸化炭素CO2)や、テントの中で練炭を焚いて暖をとるつもりが中毒になってしまう一酸化炭素(CO)、ベーキングパウダーの主成分である重曹(炭酸水素ナトリウムNaHCO3)などは、有機化合物ではなく無機化合物に分類される。このように慣習的に勝手なことをすることが、世間に化学嫌いを増やす一要因となっている可能性もある。
そのブドウ糖を用いた検査、ブドウ糖負荷試験を火曜日に受けたわけだが、要するにおしっこに糖が混じる病気、糖尿病になりかけていないかを調べたのである。
音楽においてはCはハである。
C majorはハ長調であり、C minorはハ短調である。
そんなわけで、ライリー(Terry Riley 1935- アメリカ)の「In C」(1964)。
このCDは前にも紹介しているが60分ほどのすべてがハ長調なんだそうだ。名前にうそ偽りはない。
ロバート・P・モーガン編、長木誠司監訳「西洋の音楽と社会11 現代Ⅱ 世界音楽の時代」(音楽之友社:1997)には、次のような記述がある。
わかりやすさと商品化というジレンマにたいするもうひとつの回答はミニマリズムである。それは結果的に1970、80年代の音楽におけるひとつの新しい焦点を生み出した。最も重要な作品はテリー・ライリーの《イン・C》(1964)であった。この作品では、演奏者は、一連の短い音楽の断片を反復しながら、どのように、そしてどの時点で先に進むかを選択する。《イン・C》の構造は1960年代の開かれた形式の構造に似ている。しかしながら、演奏の仕方は非常に明快で、誰にでも理解できるシンプルな楽譜は録音されたLPのジャケットに掲載されているほどである。さらに《イン・C》の耳に聞こえてくる側面は、多くの宣伝用の広告と同様、この先に何が生じるのかということがすぐわかるものである。変化のないパルス音、限定された音高素材、断片の反復、連打するドローンなどが結び付き、変化ではなく固定し、変わらぬものが示される。このような作品は、全体として大量生産商品となるわけではないが、そうした商品という面をひとつの構成要素としてとり入れているのである。《イン・C》は、ファッションや使い捨て商品に対抗するのではなく、むしろそれらを肯定しており、専門家ではなく消費者という聴衆を要求しているのである。
ここでは「In C」がミニマム・ミュージック誕生の最も重要な作品と位置づけているにもかかわらず、ライリーの名前は、しかしながら井上和男編の「クラシック音楽作品名辞典」(三省堂)には載っていない。グラスやライヒは載っているのに、である。
ライリーはクラシック音楽作品とは見なされていないのか?少なくとも井上氏はそう位置づけているのだろう。 ヨーロピアン・ミュージック・プロジェクトの演奏。2002録音。wergo。
が、これを聴き終わると、クラシック音楽らしい音楽を聴きたくなるのも事実。少なくとも私はそう。
久しぶりに in C しちゃったあと、私が手にしたのはベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調Op.67、いわゆる「運命」のCDだった。
今回はジンマン/チューリヒ・トーンハレ管弦楽団の演奏にした。
落ち着くぅぅぅぅ~。
そして、私はハ長調よりもハ短調の方が好きなのである。曲にもよるが……
人間ドック判定結果報告。
まず私が1ケタ台の順番を得られなかったことについては、不徳の致す限りであります、ではない。胃内視鏡検査を受ける人は、向こうが受診番号を指定するのだ。それだけの話だ。私には何の非もない。
採血し、視力検査のあとは超音波検査。しかしこの検査で私が要した時間は人並みだった。そのとき、今回は好成績が残せるのではないかと、ちょっと期待した。
膵管拡張で引っかかったときは3人前分くらいの時間をかけられたからだ。
さらにその前の採血のときに、保健師が私の腕を触り血管を求めながら、「肌、きれいですね」と言ってくれた。同じ人がそのあとの指導をするかどうかはわからないものの、今日はあまりいじめられない気がした。
バリウム検査をやめてオプションで胃カメラを飲んだが、これもウェウェとなることなくすんなり飲めた。
すべてが良い方向に向かっている予感がした。
私の胃カメラの検査が終わったのは11:30だったが、そのあと30分間は飲食は禁止。昼食は12時からにするよう指示を受けた。
しかし、私とほぼ並行して胃カメラ検査をしていた人が、ドックのロビーに戻るとすぐに用意されていた弁当を食べていたのを見て、私も「そっか、配膳の人たちを遅くまで待たせてることは良くないことだ」と思い(バリウムの人たちは11時から順次昼食をとっている)、11:45に食べ始めた。自らの身を犠牲にしてまで配膳係の人たちのことを優先したのだ。
でも、胃や食道に激痛が走ることはなく、実に貧相な弁当だと心の中でケチをつける余裕さえあった(この美味しくなさにはまさに“閉口”した。腹ペコなはずなのにけっこう残した)。
午後、医師から結果を言い渡される。
再検査はなかった。
萎縮性胃炎や昨年同様の脂肪肝はあったが、再検査を要するものはなかったのだ。
ただ、血液検査の結果は改善されておらず、血糖値が糖尿病まではいっていないがやや上昇、中性脂肪は大幅に上昇していた。私のヘルシア生活はまったく無駄だったのだ。
それでも、医師との面談が終わり、ドアをあけて待合ロビーに出たときの気分はやや華やかで、ジャーーン、トンポンタンランポンティンランタリタリラリラリタリ……というメロディーが私の脳を覆った。
ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)のピアノ協奏曲第5番変ホ長調Op.73「皇帝(Kaiser/Emperor)」(1809)。
局長が尊大、いや、曲調が壮大なためにこの名がついた。つまりベートーヴェン自身が命名したものではない。
あっ、上のトンポンタン……ですぐに「皇帝」の冒頭のメロディーだとわからなかったからといって、落胆する必要はまったくない。書いた私自身が読み返して何のことだかさっぱりわからなかったくらいだ。
今日は、キーシンのピアノ、レヴァイン指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏。
レヴァインの悩みなんてないようなサポートが、良く言えば控えめにピアノを引き立てているが、悪く言えば演奏に気持ちがこもっていないような感じ。
一方、キーシンの完璧ともいえる演奏は私の胃壁を勇気づけるかのようだ。
力強いがきれいに粒立つ音を次から次へと発散する。が、なぜか低音が力不足。
で、すごいキーシンと、悪くはないがとりたてて褒めるところもないレヴァイン率いるオーケストラの関係が、なんだかよそよそしい。
ぼーっと聴いてる分には悪くないんだけど、真剣に聴くと私もよそよそしい気持ちになる。
ソロが上手なだけにもったいない……
1997録音。ソニークラシカル。
そのあとの保健師との面談は友好的に行なわれた。採血のときの人とは別な人だが、去年とは違って、頭ごなしに決めつけることのない指導の仕方だった。
こういう言われ方をすると、「うん、ボクがんばってみる」って気になる。
その保健師さんに「ヘルシアを飲み続けていたのに、アタシの努力は無駄でした」と言うと、ヘルシアを飲んでいるのに中性脂肪やコレステロールの値が上がるという例はいくつかあるそうだ。「合う人と合わない人がいるんですね、きっと」と、差し障りのないことを言っていたが……
そしてまた、人間ドック学会が基準値を見直したことに関しては、そんなことちっぽけな出来事ぐらい私の数値が悪かったので質問できなかった。
昨日クレンペラーの演奏を取り上げたので、今日はエンペラー。ってことではないが、以上でごった煮のような報告を終える。
エンペラーといえば、かつてすすきのにあったマンモス・キャバレー“エンペラー”を思い起こす人もいるだろう。私も2度ほど行ったことがある。けっこう若いころに上司とともに親切なお客様に連れられて。
でも、そのときでさえ思った。なんだか前時代的だなぁ~って。
昨日の朝はJRも定時運転。
この当たり前がうれしい。
私の行程は順調ってわけだ。
ドックも終わったことだし、結果はどうであれ、ここはひとつ豪勢にエスタの四川飯店に行って担担麺に小ライスを食らいたいところだったが(←反省してない!)、昼をまたいでの会議のためそういうわけには全くいかず、出されたちょっと上品であるがゆえに物足りなさが残るお弁当でがまん(注:過去記事に載っている「松の実」はもうありません)。
って、ただで食べさせてもらうのに文句を言えるわけがないし、実のところすごくありがたいと痛感しており、さらにまた、これくらいの量が健康的なのだということにも薄々感づいてはいる。
そう、どう言い訳しようとも、私はふだん食べ過ぎているのだ。
で、夜に行った焼鳥屋では「〆にどうぞ!」とお薦めされていたソバをがまんした。
彼の住まいにはほんとうに驚きました。最初の部屋には2,3台のフリューゲルが、どれも足をはずされて床に寝ていました。そのほかに、身のまわりのものを詰めたトランクと三脚椅子がひとつありました。次の部屋にはベッドがあり、寝具はわらの敷きぶとんと薄い掛けぶとん。これは夏でも冬でも変わりません。それから、もみのテーブルには洗面器があり、床には夜着が落ちていました。
× ×
最初の部屋には閉めきった奥の間があって、そこが彼の寝室になっていた。しかしこの部屋は狭くて暗いため、身じたくをするには隣室つまり客間を使わねばならなかった。不潔・乱雑このうえなしといったありさまをご想像くださればよい。床には水たまりができ、かなり古びたフリューゲルはほこりをかぶり、自筆譜や刻版された楽譜が山と積まれていた。そしてその下には(けっして誇張ではない)空になっていない尿瓶があった。そのかたわらにあるくるみ材の小テーブルは、その上に置いてあるインクつぼがしばしばひっくり返されたあとを歴然ととどめていた。インクでがさがさにこわばったたくさんのペン―そしてまたしても楽譜、楽譜。椅子―たいていはわら底のものだったが―は、どれも昨夜の残飯を満載した皿や衣類などでうずまっていた。
この2つの文は、ベートーヴェンについてのものだ。
ベートーヴェンと言っても、現代のベートーヴェンと呼ばれたらしいミャモーリュ・シャミュリャグォウッチのことではない。
ホンモノの-というのも変な言い方だけど-、癇癪持ちで不潔で女性にふられまくった、でも楽聖と呼ばれるベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)の住まいに関する記述である。
最初のは、詩人ベッティーナ・ブレンターノが1810年に書いた手紙の一部。
2つ目の文は、トレモン男爵の回想の一部である。
この2つはM.ヒュルリマン編「ベートーヴェン訪問」(酒田健一訳:白水社)に収められている(これらを収めている本は他にもあるに違いないだろうけど)。
両方の文に出てくるフリューゲルとは何か?
独身の、しかももてないベートーヴェンの部屋の床に寝てるとなると何とかワイフのような人形と捉えられなくもないが(足が外されている!?)、そうじゃなくてフリューゲルとはフォルテピアノのこと。ドイツ語圏ではフォルテピアノのことを指すのにハンマーフリューゲルとかハンマークラヴィーアの名称が使われていた。
ベートーヴェンの部屋の汚さがわかる絵をそのままジャケットに使っているCDを。
このCDは先日も紹介しているが、今日ご紹介する曲はチェロ・ソナタ第1番ヘ長調Op.5-1とチェロ・ソナタ第2番ト短調Op.5-2。
ともに1796年に作曲されており、またどちらも2楽章構成。
この2曲は演奏旅行先のベルリンで作曲された。チェロの名手だったプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に捧げられている。
ベートーヴェンが捧げた6年ほど前には、モーツァルトもこの王に弦楽四重奏曲を捧げている。「プロイセン王四重奏曲」の通称を持つK.575,589,590の3曲である。
当時チェロは改良が進められていたが、ベートーヴェンはこの楽器の表現力を最大限引き出そうとしたようだ。
第1番は音楽にどことなくぎこちなさを感じるが、第2番はそのようなところがなく、メロディーも印象的だ。
ツィパーリングのチェロ、ヴォデニチャロフのフォルテピアノ。
2011録音。ACCENT。
“現代のベートーヴェン”ご本人にとって、もう世は“現代”じゃなくなってしまったようだが、じゃあ次はポストかってなると、どっちの週刊誌も“老いてますます盛ん”といった特集に力を入れ続けていて、なんだかなぁって感じだ。あれ、なんで週刊誌の話になってしまったのだろう?
そのうち週刊回春なんて出たりして。
何の話でしょ?まったく……
オリンピックが始まった。
とはいえ、私はスポーツというものにほとんど-この“ほとんど”はほとんど“まったく”に近い-関心がない。でも、いつものことながらマスコミは騒ぎすぎはしゃぎすぎのように思うが、日本の選手が活躍するといいなとは私も思っている。
私は生まれてこの方、表彰台に上るなんて機会はまったくなく過ごしてきた。
だから表彰台に上ったときの感動、感激、誇りはわからないが、たぶん恥ずかしがり屋の私は得賞歌が流れる中、自意識過剰の羞恥心によって息がつまりそうになるだろう。
得賞歌。
表彰式で使われる曲だ。
この曲はヘンデル(Georg Friedrich Handel 1685-1759 ドイツ→イギリス)のオラトリオ「ユダス・マカベウス(Judas Maccabaeus)」HWV.63(1746/1747初演)のなかの「見よ、勇者は帰る(See,the conquering hero comes)」である。合唱曲であり詞はT.モレル。
このオラトリオは紀元前2世紀にシリアの支配からユダヤ人が独立する運動を指導したマカバイのユダを扱ったもの。
そして「見よ、勇者は帰る」は、戦に勝って戻ってきた勇者を讃えるもの。そのために世界中で広く表彰式で使われている。
でも、オリンピックなどでは国歌が流れる。
イスラム国家からの反発があるからだそうで、うん、そりゃもっとものことだ。ユダヤの勇者を讃えてるんだから。
で、今日は「見よ、勇者は帰る」そのものではなく、これをこねくり回した作品を。
ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)の「ヘンデルの『ユダ・マカベウス』の『見よ、勇者は帰る』の主題による12の変奏曲(12 Variationen uber das Thema 'See,the conquering hero comes' aus 'Judas Maccabeaus' von G.F.Handel)」ト長調WoO.45(1796)。
長い曲名だが、作品自体は10数分の長さ。リヒノフスキー侯爵夫人のクリスティアーネに献呈された。
なお、WoO.は“作品番号なしの作品(Werk ohne Opuszahl)”の番号。
チェロとピアノのための作品だが、どちらかというとチェロは脇役でピアノが主役。変奏もシンプル。つまりは、時折ある楽聖ベートーヴェンの「あれっ?」的カテゴリーに入る作。しかし、もとの主題が有名なために忘れ去られずにすんでいる。
そしてまた、ここで紹介するツィパーリングのチェロとヴォデニチャロフのフォルテピアノによる演奏は、作品の脆弱性を補うかのごとくエネルギッシュにクライマックスを築き上げる。
ツィパーリングはバロック・チェロとヴィオラ・ダ・ガンバ奏者。フォルテピアノの余韻の乏しさと相まって、変にたっぷりと歌い上げてないところがいい。
2011録音。ACCENT。
お気づきのようにこのところバッハづいている私である。
バカづいてるんだったら、宝くじの1つも当たりそうなものだが、残念ながらそういう予兆すらない。初めて買ってみたロト7で、1つも数字が合致しなかった。これ、ある意味すごいと自虐的に己を賞賛している。
まぁ、バカな奴につきまとわれてないだけ幸せだと考えよう。
バッハの音楽は聞き流すのにも向いているが、気持を入れ替えてちゃんと聴きましょうとなると、かなりの集中力が要求される。しかもきちんと鑑賞すると、そのあとしばらくはあの決してウキウキできないメロディーが頭の中で鳴り続ける。このたびは「王の主題」に私の神経系統が支配されてしまった。
そこで、ちょいと別な音楽で緊張をほぐそうと思うと、それはマーラーやショスタコーヴィチじゃ全然なくて(脳がウニになってしまう!)、古典派とかロマン派(の前期)あたりが候補にあがってくる。
そんなんで、急に聴きたくなったのがベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)の交響曲第7番イ長調Op.92(1811-12)。犬だって胃の調子が悪くなったら草を食べだすように、本能的にこういう曲を欲したのだ。それにベートーヴェンの素行の悪さ、いや、揺るがない強靭な信念は王にも屈しないはずだ。
第7番は“のだめ”で使われてすっかり日本でも広く浸透したが、メロディーもさることながらリズムが際立つ作品。ワーグナーはこの曲を“舞踏の聖化”と言ったという。
ところで今の季節、葡萄の正価は高いのだろうか?
しかも、今回はピリオド演奏じゃなくてモダンのイケイケで力強く、でも爽快な演奏を欲した。
となれば、ショルティ/シカゴ響のものだ。
とにかくうっぷんを晴らしてくれる演奏。
一糸乱れぬアンサンブル、勇壮さ、メタリックではないふくよかな弦の響き。
気分は、心地よくスポーツをしている、、、人を眺めているよう。
もっと評価してほしい演奏だ。
ということで、いったんは頭の中からいびつな真珠を追い出して疲れをとった私だが、ワインガルトナーはこの作品について「他のいかなる曲よりも精神的疲労を生じさせる」と語ったという。
あらまぁ~。
ショルティのエネルギッシュ・セブンは1974録音。デッカ。
先週のある日。
昼は阿古屋係長と2人で道路を渡ったところにある喫茶店へ。
ハンバーグカレーを食べた。私の舌に、ハンバーグは冷凍食品の、カレーはレトルトの風味を惜しげもなく捧げてくれ、そのアンサンブルは食後すぐに不協和音のようなげっぷへと変化し、私を辟易させた。
その夜、私たちは中華料理店で食事をした。
阿古屋係長も一緒だった。私は彼に配慮し、八宝菜は注文からはずした。というのも、昼にハンバーグカレーを食べている私の前で彼が食べていたのは中華丼だったからだ。なんて心配りの出来る人なんだろう!私は。
そしてまた、私と皆の健康を考えて、なんとか菜の炒め物も頼んだ。すばらしい配慮だ。
そうそう、なんだかんだ言って、あと2カ月もすると年に一度のドックの季節だ。
去年、受検者を客とも思わない保健師に腹を立て、1年後は東山のような体になってやると復讐の炎に燃えた私だが、いまだに水枕みたいな腹のままである。
まいった……
実は昨日から出張で札幌に来ているのだが、時間の合間を縫って、かかりつけの病院に行く計画だ。
お薬をもらうためだが、そのためには診察も必至である。
予約の際に、まだ2カ月もあるのにドックが近いからと偉そうな言い訳をして血液検査はパスしたが、あらかじめ自宅で体重を測ったら69.8kgもあった。
不思議である。わずかではあるが毎日腹筋運動をしているのに、変化がない。
もしかして、まだ正月に食べた餅が体内に残っているのだろうか?
きっと今日もそれぐらいの質量があるだろう。
今日の夜のJRで帰る。
駅弁は食べない。がまんする。
ぼくは起き抜けの浴衣姿のまま、下駄をつっかけて玄関を出た。印税の皮算用でもしながら歩けば、たちまちベートーヴェンみたいに気難しい顔になる自身はあった。
浅田次郎の「プリズンホテル 1 夏」(集英社文庫)のなかの一節だ。
ときおり会議で利用する、南北で言えば札幌駅と大通りの途中にある某ホテル(全日空ホテルではないことはお伝えしておこう)。
そこの1階には北海道生まれのコンビニが入っているが、ここは経営者夫婦と思われる中年の男女が店員を務めている。それ以外の、バイトらしき店員はあまり見かけない。きっと人件費をけちっているのだろう。家族経営のこんびに……
そしてこのオヤジ、見るたびにコンビニの店員とは思えないほど気難しい顔をしている。きっと本日の売り上げのことを考えているか、おにぎりが万引きされないか監視の目を緩めないのだろう。それにしたってきょうび、偏屈物のすし屋のおやじだってもう少し愛想がある(そして、奥さんと思われる店員は、全般に機敏さに欠け、どこか貧相だ)。
オヤジの気難しそうな顔は、絶えず世の中に不満を持っている感じだ。
愛想はないが手際が良いかというと否だ。ぱっぱとやろうという姿勢が感じられない。
何より、まず挨拶できない、する気がない。
私は平静を装いながらも、心の中でつぶやく。「挨拶する、すれ、しろ、せよ……」 ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)の弦楽四重奏曲第2番ト長調Op.18-2「挨拶する(Komplimentier)」(1799-1800)。
この通称、ちょいと変ですね。
「挨拶」じゃなくて「挨拶する」だもの。なんか落ち着きが悪い。
マーラーの第2交響曲が「復活」じゃなくて「復活する」だったり、チャイコフスキーの第6交響曲が「悲愴っちゃう」、ハイドンの第103番が「太鼓連打する」とかだったらヤでしょ?
そういう違和感を覚えちゃったりスルのだ。
そんなこと申し立てたところでどうなるものでもないが。
はい、ガマンします。
この通称は第1楽章第1主題が挨拶を交わすような感じがするためにつけられた。
確かにそういわれればそんな風にも聴こえるが、それはともかく爽やかな雰囲気をたたえていて、少なくとも気難しくはない。
なお、Op.18という作品は、6曲の弦楽四重奏曲から成る曲集である。
アルバン・ベルク四重奏団の演奏で。
1981録音。EMI。
さて、続く「プリズンホテル 2 秋」に入った。
入ったというのは、つまり、私の読書が。
花沢支配人は青ざめた。なんの因果か、今宵、我らが「プリズンホテル」に投宿するのは、おなじみ任侠大曽根一家御一行様と警視庁青山警察署の酒グセ最悪の慰安旅行団御一行様。そして、いわくありげな旅まわり元アイドル歌手とその愛人。これは何が起きてもおかしくない……。仲蔵親分の秘めた恋物語も明かされる一泊二日の大騒動。愛憎ぶつかる温泉宿の夜は笑えて、泣けて、眠れない。
花沢……
最近とんとサザエさんを観なくなったな……
日曜日である。
しかし今日の日曜日はふだんの日曜日とは違う。そのことにみなさんはお気づきか?
「11月最後の日曜日でしょ?」って?
見事だ!鋭い!的を得ている!
……っっっって違うのっ!私が言いたいことは。
今日でこのブログが第2222話目を迎えた。
「ニーニーニーニーだってぇ!?」と、今皆さんはまさにビックリ仰天卒倒寸前になったことは容易に想像できるが、この日が来るまでサプライズ効果を狙うべく、私はずっとほのめかすことを我慢していたのだ。
特に苦しかったのは2200回目を迎えたときで、「今日が2200話目である」と書きたい誘惑に打ち勝つのに、私がいかに苦労したか察してほしい。
「あれ?MUUSAN、今日が2200回目じゃないですか?」という鋭い指摘のコメントが入ったらどう対処しようかとひどく心配したが、幸いそのことに気づいた読者はいなかったようだ。
って、1000回目だろうが、2000回目だろうが、そんなん読み手にはカンケーないことだよな。究極の自己満足、自己陶酔、子どものころよくなったのは自家中毒。
とはいえ、皆さんにほんのちょっとでも和の心があるなら、本日の22:22に北極星に向かってそっとつぶやいてほしい。「王様の耳はロバの耳」と。 そうそう。先日出張先で泊まったホテルの部屋が偶然にも222号室だったほどだ。2222号室じゃないが、2階建てなんだからしょうがない。
単に2が並んだだけで、7が並ぶのに比べれば全然祝祭的じゃないが、でも祝おう(先日名刺交換する機会があった人の名は岩雄)。
きっと大好きなマーラーを取り上げるんだろうなって?
いやいや。でも惜しい!象印賞!
こういうときは、ミーハー的に第九。それも元祖「第九」である。
元祖「第九」とはもちろん、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)の交響曲第9番ニ短調Op.125(1822-24)。
言うまでもなく、日本では年末にどこのホールでも鳴り渡る曲。年末に第九を聴くという風習は日本だけのものらしいが、そもそもはオーケストラの団員が年越しの収入を得るために合唱の入る曲を取り上げたのだという。
というのも、地元主体の合唱団のメンバーは「ねえねえ、私の晴れ舞台を観に来て!」とチケットをさばいてくれるので、客席は肉親や知人友人で埋まるって寸法らしい。
それにふさわしい曲が「第九」だったわけだ。もう10年近く私は第九公演に出かけていないので最近の様子は知らないが、なんとなく第九の演奏会は客層が違うのはそのためであり、今でもそれは変わらないんじゃないだろうか?
なぜ「第九」じゃなきゃならなかったのか?
たぶんレクイエムとかだったら縁起悪いと思う人もいるだろうし、やっぱり「歓びの歌」は1年を締めくくるにふさわしいのだろう。たとえ、楽しいことがなかった1年だったとしても。
とはいえ、私はこの2222という節目に、やはりマーラーを無視することはできない。そこで折衷的にマーラー編曲による「第九」 。
「第九」はスコア通りに演奏してもうまく鳴り響かないといわれる。だから、指揮者たちはスコアに手を入れるわけだが、大指揮者だったマーラーもビシバシとやってくれている。
それがマーラー版「第九」ってわけで、当然、オケの音が大きくなるように補強されている。
おもしろいといえばとてもおもしろいし、ちょっとゲテモノっぽくない?と言われればそれもそのとおり。
第2楽章の「つーららたったたったたった つーららたったたったたった」のところなんて(これじゃどこかわかんないだろうけど)、金管ががっつりと補強されている。
いつも聴く第九と違うところはたくさんあるが、私には第2楽章がいちばん印象的だった。
発売元からのセールス・メッセージは以下のとおり。
首席指揮者クリスチャン・ヤルヴィ&名門トーンキュンストラー管
ベートーヴェンの「第9」マーラー版
ハイドンの「パリ・セット」(PRCD.90765)につづく、プライザーの「トーンキュンストラー・ライヴ」第2弾は、首席指揮者クリスチャン・ヤルヴィによるベートーヴェンの「第9」。2006年秋に、ウィーンのムジークフェラインザールで行われた演奏会の模様を収めたものです。
■マーラー編曲版によるベートーヴェンの「第9」
「ベートーヴェンの交響曲は、たいていの指揮者にとって単純には解決できない問題をもたらす。そのことをわたしはいよいよ見抜くのだ。ベートーヴェンの交響曲は間違いなく、解釈と改訂が必要なのだ。」1900年の冬、マーラーは友人のナタリー・バウアー=レヒナーに向けてこのように述べています。ひとりの指揮者として、そしてひとりの作曲家として、マーラーはベートーヴェンの「第9」を、当時すでに確立されていた演奏方法に遵って演奏することがどうしてもできませんでした。マーラーは、ベートーヴェンの時代とみずからの時代との間に起きた途方も無い、オーケストラ組織全体における技術の発展を考慮したうえで、作曲当時のオリジナルの音響バランスを想定し、「第9」のオーケストレーションをやり直すことに決めました。すなわち、オーケストレーションを増強し、具体的には、ブラス・パート改良された技術上の発展性に適合させて、倍管をはじめ、さまざまなパートの人数を倍にしたり、フレージングとアーティキュレーションを強めたりと手を加えています。
■「新クリティカル・マーラー・エディション」にもとづく最初の録音
ベートーヴェンの交響曲といえば、先ごろクリスチャンの兄パーヴォがドイツ・カンマー・フィルとの顔合わせで全集録音を完成させており、2008年に収録された「第9」はベーレンライター版による演奏でした。これに対して、おなじく“作品のオリジナルの姿”に立ち返るという立場でも、弟クリスチャンがここでマーラーによる編曲版の楽譜を選択しているのはたいへん興味深いところです。第1弾のハイドンでも、モダン楽器使用の手兵を相手に、持ち前のリズム感のよさと懐の深いアプローチを聞かせていただけに、たとえばアダージョのすいこまれるような美しさやフィナーレでのドラマづくりなど、このたびの「第9」の出来ばえにもおおいに期待が高まります。なお、当アルバムは、国際グスタフ・マーラー協会の公認した、ウィーンのウニフェルサル・エディションとの協力により、音楽出版社ヨゼフ・ワインベルガーによる「新クリティカル・マーラー・エディション」にもとづく最初の録音になります。
■黄金のホール、ムジークフェラインザールでの録音
さらに、当アルバムのポイントといえるのが、前作に引き続き「黄金のホール」と謳われるムジークフェラインの大ホールにおけるレコーディングである点。このたびは、SACDハイブリッド仕様ということで、美しいホールトーンが、よりいっそうご堪能いただけるつくりとなっています。
ただしですね、クリスチャン・ヤルヴィの演奏はどーも軽い。「ほぅりゃっ!ベートーヴェンだぜぇ!」という押しつけがましさが希薄。
マーラーはもっとがっしりしたものをホールに繰り広げようと思ったはずだ。
別な演奏で聴きたくなる版である。
独唱はフォンターナ(S),ヘルツル(A),ベズイエン(T),マイヤー(Bs)。オーケストラはウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団。そして、スロヴァキア・フィルハーモニー合唱団。
2006年ライヴ。PREISER(SACD)。
ベートーヴェンの「第九」の第4楽章では、それまでの第1~3楽章のメロディーの断片が出てくる。そしてそのあとに「おお友よ、こんな調べではなく……」と歌われる。
つまり、それまでに出て来たものを全否定するわけだ。第4楽章の「歓びの歌」が出てくるのをお尻の痛さを我慢してじっと待っていた人たちにとっては、あまりにも気の毒なことだ。じゃあ最初っから第4楽章をやってくれと言いたくなるだろうが、その人たちはそもそもこのベートーヴェンのサド的手法に気づいてないかもしれない。
「今回「『第九』を取り上げたってことは、MUUSANは過去の記事を全否定して新たな境地に入るつもりなのか」って考える人が居ないでもないかもしれない。が、それは深読みってもの。私はなーんも考えてない。
明日もまた成長のかけらもみられない文を書いちゃうのである。
とはいえ、みさきが運転する車の助手席に座っている家福が聴く可能性があるのは、バロックではなくベートーヴェンの弦楽四重奏曲なんだそうだ。
村上春樹の「ドライブ・マイ・カー」のことである。
帰り道はだいたいベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴いた。彼がベートーヴェンの弦楽四重奏曲を好むのは、それが基本的に聴き飽きしない音楽であり、しかも聴きながら考え事をするのに、あるいはまったく何も考えないことに、適しているからだった。
そうなんですかね?ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)のクワルテットって?
じゃあ、あえて彼の弦楽四重奏曲の中でも、おそらく最も“聴きながら考え事をしたりmまったく何も考えないことに”適していない曲を取り上げちゃおう。←なに、かわい子ぶってんだか……
弦楽四重奏曲第11番ヘ短調Op.95「セリオーソ(Serioso)」(1810)。
そういえば、今年は庭のボーダーに使っている枕木にケミソートを1度も塗らなかったな。まずいな……
「セリオーソ」というのは、その言葉通りにとれば、“厳粛な”、“まじめな”ということになる。が、そーゆーんじゃなくて、何かをヴァーっと吐き出したかったんじゃないか、ベートーヴェンは。不機嫌なストレス発散みたいに。
セリオーソの表記が付けられているのは第3楽章。ふつうなら第3楽章にはスケルツォがくるのだが、ベートーヴェンは天邪鬼(あまのじゃく)のように、あるいは偏屈者のように、ここに厳粛な音楽を据えたのだった。
また、当初はこの曲全体にセリオーソという表示を与えようとしたらしいが、出版の際には削られていた。
弦楽四重奏曲の前作、第10番変ホ長調Op.74「ハープ(Harfe)」(1809)-この曲は第1楽章のピッツィカートからこの名で呼ばれる-は緊張から解放された優しいものだが、ベートーヴェンはすぐに扱いにくいおっさんに戻ってしまったわけだ。
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の中では最もコンパクトだが、そのコンパクトさはブラックホールに引き込まれて押しつぶされ凝縮してしまったたぐいのもの。しょっぱなから非常事態宣言されるのだ。
楽器がメロディーを歌い回すといった場面は少なく、最初から最後まで気を抜けない。疲れる音楽なのだ。そっか、緊急自動車の中でかけるには合っているかも。
アルバン・ベルク弦楽四重奏団の演奏によるディスクを。
いや、私はこの曲におかれましては、このCDしか持っていないだけだ。
1978録音。EMI。
木曜日。
出張でべリンスキー侯とアルフレッド氏(両名については私の札幌勤務時代の取引であることは、知っている人なら知っている)、ならびに私は初めて会う渋柿さんが当地に来た。
夜は一緒に食事をした。
久しぶりの再会に話は盛り上がったが、はて、いざここで報告しようと思ったら、なんにも書くことがない。たぶんまったく中身がなかったのか、あったとしてもあまりに軽薄だったので昇華しちゃったのだろう。
ただ、牛のもも肉を使った料理が出て来たときに、べリンスキー侯が横目で店員の女性の反応をうかがいながら自分の太ももを手のひらでパンパンと打ち、しかも「太もも、太もも」と口に出していたところは、「ベリ侯さんも変わってないな、何よりだな」、訳せば「進歩してないな」と、私には実に印象的であった。
そうそう、べリンスキー侯は来春で定年を迎えるそうだ。
そうしたら神奈川に帰るわけだが、そうなると好物の崎陽軒のシウマイを毎日でも食べられることになる。
一冬の辛抱だ。
近ごろずいぶんと見かけるTV-CMの1つにクックドゥのものがある。
お父さんとお母さんと娘っ子が家の中でそれぞれ10円を見つけて、計30円。これでもやしが買えると喜びに打ち震えているやつだ。ご覧になっている人もいと多しだろう。
なぜもやしなのか?
そのクックドゥは、豚肉ともやしの炒め物用だからだ。だからもやしがなければ始まらない。
よかったね、もやしを買うことができて……
でもさぁ、クックドゥを買うお金はどうするわけ?あと、よく知らんけど、豚肉に関して言えばどのように解釈すればいいのだろう?買う必要はないのか?
CMの最後に娘っ子が100円玉を見つけるけど、100円じゃクックドゥは買えないでしょ?
そもそも家の中にそんなに小銭が埋もれているのって変じゃない?
母さん、ちゃんと掃除しろよぉ~!
30円じゃなくて、1桁違う300円だったが、先日玉光堂4丁目店の中古CDコーナーで、山田一雄指揮札幌交響楽団の演奏による、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827 ドイツ)の交響曲第9番ニ短調Op.125(1822-24)のCDを見つけた。いわゆる「第九」である。すなわち「合唱付き」である。
中古ではない。未開封の新品だ。何枚も置かれていたが、要するに廃盤となったものの在庫処分なんだろう。でも、定価は2,500円だから、これはお得!と買ってしまった。
山田は1989年4月の定期演奏会から、3年間にわたる計9回のベートーヴェン・シリーズを開始した。この「第9」はシリーズ7回目のものだが、この日のステージを最後に、山田が札響の定期を振ることはなかった。あと2回を残し、完結することなくこの世を去ったのだった。
山田らしい気迫のこもった演奏だ。
しかし、これまた山田らしいが、粗い部分、前のめりになる部分がある。
加えて、ホールが、音が良くないと言われる北海道厚生年金会館(今のニトリ文化ホール)のせいか、デッドな響きで各楽器の音に艶やかさがない。
でも、繰り返すが、力演であることは確かだ。
ソリストは大島洋子(S)、西明美(Ms)、大野徹也(T)、木村俊光(Bs)。合唱は札幌アカデミー合唱団、札幌放送合唱団。
1991年5月20日第325回定期演奏会のライヴ。
ファンダンゴ。
初めて西明美を見たとき、ちあきなおみに似てると思った少年時代の私……
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