毎年その月になったらやらねばならない、季節的作業というものが、私にはある。
たとえば、10月もしくは11月になったら庭のバラの冬囲いをしなければならない。11月には窓の網戸をはずしてしまいこまなければならない。3月になったら、家の基礎の通気口を開けなければならない。そして5月になったらタイヤ交換を行なう。
昨日、スタッドレスタイヤから夏タイヤに交換した。自転車のことではない。自動車のことだ。
峠越えや夜間の長距離走行がなければ4月に換えたいところだが、連休中に雪が降ることだってあるわけで、去年に続き5月になってからの作業となった。
朝目覚めると、時計の表示がが60Sとなっていた。
一体何が起きたのかと思ったが、デジタルのこの時計が、なぜかさかさまになっていた。夜のうちに悪魔がやってきていたずらしたに違いない。正しく置くと、5:09だった。
そのあとブログをアップしたり、水を飲んだり、体重を測ったり、タバコを吸って、意を決してマンション地下の物置に夏タイヤを取りに行ったのが6:30のこと。
これじゃあまるで、体重を測るのに1時間20分もかかったかのようだ。
タイヤを交換し、ワイパーブレードも交換。空気圧を測って、よりによって4本とも0.2~0.4不足していたので、自転車用の空気入れでエアを入れる。この作業だけで、すでに汗をかいてしまった。
最後にスタッドレスタイヤの溝に挟まっている小石をおおまかに取り除き、物置に収納したのが7:25。なかなか手早い作業だったと自己満足した。起きてからダラダラ過ごしていた時間の方が、なぜか長い。自分でも不思議だ。
ところで、ロシアでは5月といえば白夜らしい。
チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-93 ロシア)の「四季 ― 12の性格的描写(Les saisons - 12 Morceaux caracteristiques)」Op.37b。12曲からなるピアノ小品集で、作曲は第1~2曲が1875,それ以外は1876。
この作品はペテルブルグで発刊された音楽雑誌「ヌーヴェリスト」の各号に、季節にちなんだ詩とともに曲を掲載するという企画のために作曲された。
各曲のタイトルと詩の作者は以下のとおりである。
1月 炉端にて (A.プーシキン)
2月 謝肉祭 (P.A.ヴィアゼムスキー)
3月 ひばりの歌 (A.N.マイコフ)
4月 松雪草 (A.N.マイコフ)
5月 白夜 (A.A.フェート)
6月 舟歌 (A.N.プレシチェエフ)
7月 草刈り人の歌 (A.V.コリツォフ)
8月 収穫 (A.V.コリツォフ)
9月 狩 (A.プーシキン)
10月 秋の歌 (A.K.トルストイ)
11月 トロイカで (N.A.ネクラーソフ)
12月 クリスマス (V.A.ジュコーフスキー)
美空ひばりとか草刈正雄、松雪泰子の顔が脳裏をよぎる人もいるだろうが、それは忘れましょう。
これらのなかでは、第6曲「舟歌」と第11曲「トロイカで」が特に有名で、単独で演奏されることも多い。
なお、当時のロシアでは旧暦(ロシア暦)を使っていたので、現在とはずれがある。
プレトニョフのピアノ演奏で。
上品かつ力強く、技巧的な演奏は、この曲が決して片手間仕事の作品ではないことを教えてくれる。
1994録音。エラート。
「四季」は12曲の曲集として1885年に出版され、作品番号はOp.37bとなった。ちなみにOp.37は、このときいっしょに出版されたピアノ・ソナタ ト長調(1878)である。
上に書いたように、車の衣替えはスムーズに終わった。
と、思ったら午後に出かけたときに予想していなかった事態が明らかになってしまった……
私は大いなるショックを受け、この先どうしたもんだか今最大級に悩んでいる。
チャイコフスキー
先月、札幌に出張に行った際のこと。
帰りの列車に乗る前に、札幌駅ホームの端にある喫煙所でタバコを吸っていたら(わざわざ喫煙所でバナナを食べる人はそういないだろう)、私より年上と思われる女性がそこに入ってきた。
私が新鮮な喜びを感じたのは、その女性が手にしていたタブロイド紙。“週刊 碁”という題字だった。確かに碁だった。墓ではなかった。
こういう新聞もあるんだなぁ。
すごいなぁ。
この女性、碁の名人なのかなぁ。
でも、着ている服のボタンは白でも黒でもなく、黄色だったけどなぁ。
黄色で思い出したが、連休前に“きいろう”という名の居酒屋に行った。
串カツが美味しかった。鶏串もなかなかだった。
店名の由来は、けど、何なんだろうな。看板は黄色だったけど。
それに、個人的には、“きたろう”という名前よりは好感が持てる。
きたろうというと、鬼太郎をまっさきに思い浮かべてしまう私だ。なぜ、喜多郎って思わないのか?きっと喜びの多くない人生を送ってきたからだろう。
きいろう→黄色で、じゃあイエロー・レーベル、すなわちグラモフォンのCDを。
バーンスタイン/ニューヨーク・フィルによるチャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-93 ロシア)の交響曲第5番ホ短調Op.64(1888)。1988年ライヴ(おっ、堤/札響のライヴと同じ年だ)。
これまでこの時期のバーンスタイン/ニューヨーク・フィルによるチャイコフスキーの演奏として、第4番と第6番を紹介したが、この第5番だけが異なったアプローチなわけがなく、やはりクセがあるもの。
肌が合えばこんなに素晴らしい演奏はないと思うだろうし、そうじゃない人には「なにこれ?」ってもの
。
第1楽章の序奏はとても遅いが、第1主題に入るとテンポが上がり、案外サクサク行く。盛り上がりも、パワフルだが炎上!ってほどのものではない。
第2楽章は極めて美しい。この幻想的ともいえる美しさは格別だ。
第3楽章も遅く始まる。第2楽章から気持ちを切り替えられない。
第4楽章。遅くても弛緩しないところはさすがだが、かえって堂々としたところが影を潜める。
ということで、「良い演奏だなぁ」とは思うが、そうそう聴きかえしたいとは、私は思わない。
Amazonのレヴューとかでは、絶賛の声が多々、であるが……
私が特にすばらしいと思ったのは3つの交響曲のうち、第6番のみだったってことになる。
ところで、4月に病院に行ってからというもの、私は食生活にやや気をつけている。
キノコを頻繁に食べるようにしている。
嫌いな生野菜は、ウサギちゃんの気持ちになって、最初に胃袋に収めることにしている。
ごはんは今までの3~5割減らしている。
外食でも、天丼、麺類とご飯物のセットは食べないようにしている。
弁当を食べる場合も、今までは飾りと見なしていった菜っ葉の破片も食べるようにしている。
あぁ、カツカレーが食べたい……
本日は仏滅。にもかかわらず、こどもの日である。
私が子どものころ、家には鯉のぼりがなかった。
小学校5年生で父の転勤で札幌に引っ越し、祖父母と同居するまでは社宅住まいだったので、鯉のぼりがあっても上げる場所がなかったのが、その主たる要因だと思う。そうだと気づくまで、もしかしたら私は女の子なんじゃないかと夜な夜な悩んだ、なんてことはもちろんない。
しかし、かわりに五月人形がひと揃えあった。
けっこう大がかりなものだったが、そんなの飾っても私には興味がなく、刀だの何だのの小物をいじくっては紛失させていたような気がする。
そんな子どものころの私の夢。それは、小さいうちにありがちなお決まりのコースとも言えるが、バスの運転手さんになることだった。そしてかわいい車掌さんと結婚することだった。もちろん想定していた車掌さんは女性である。
でも、人気TV番組“チャコちゃんケンちゃん”のケンちゃんになるのも悪くないな、とも思った。が、私には姉がいないという、この夢を成就させるには致命的な欠陥があった。
それが、小学校3年ころになると鉄道関係の仕事がいいと思うようになった。友だちの1人がたいした立派な鉄道模型を持っていたからだ。
数年後、初めて時刻表というものを目にしたとき、その夢は巨大な妄想と化し、北海道有鉄道を経営したいというワケのわからないものに膨らんだ(その代償行為として、のちに一時期Nゲージにはまった。しかし、お金とスペースの問題でやめてしまった)。
やがて化学者になりたいと思うようになった。図鑑で硫酸銅などの結晶の写真を見たのがきっかけだった。
それが、高校に進むと化学より生物学の方がおもしろいと思うようになってしまい、大学受験のときには、そのころ愛犬が死んだのために獣医になろうとも思ったが、学力不足だし、私立だと金銭不足なのであきらめて、農学系の大学に行った。大人になってふつうのサラリーマンになった。サラリーマンになって洗濯屋ケンちゃんを観ても、洗濯屋になるのも悪くないなとは思わなかった。出演していた女性が好みでなかったからだ。
このように夢なんてはかないものである。
はかなく終わったことには、常に“不足”が関わっている。
チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-93 ロシア)の組曲第2番ハ長調Op.53(1883)。
次の5曲からなる。
1. 音の遊び
2. ワルツ
3. ユーモラスなスケルツォ
4. 子どもの夢
5. 野性的な踊り(ダルゴムィシスキー風に)
チャイコフスキーは管弦楽のための組曲(Suite)を4曲書いている。
このなかでは第4番「モーツァルティアーナ」が有名である。
第2番はチャイコフスキーの特徴がはっきりしている楽曲ながら、ほとんど聴かれることがない。初演された当時はけっこう人気があったそうだが、何か決定的なものが不足しているのだろう。
が、放っておくにはもったいない作品だ。心地よいメロディーが散りばめられているのだから…… スヴェトラーノフ指揮USSR交響楽団の演奏で。
1985録音。メロディア。
昨日の朝。
起きると無風だった。
で、コンクリートの補修をした。
補修前の状況はご覧のように悲惨である。
なんか汚いなと思うかもしれないが、これは先日、ガードラックという防腐剤をやけくそで注ぎ入れた痕跡だ。支柱の下の方が腐りかけていたからだ。 セメントを溶いてプラスチック製のスプーンでひび割れたところやすき間に入れていく。生来、図工が苦手なので私にとっては難しい作業である。
風がないのはいいが、前日枕木に塗ったクレオソートの臭いがあたりに漂う。
いかにも虫が寄って来なさそうな刺激臭だ。
作業を終えたあとの状態がこれだ。
私としては良くできた方だ。これで強度が増したかどうかはまったくわからないが、とにかくやるべきことはやった。達成感がある。
ゴールデン・ウィーク中に催されている子供向けの何かのイベントで、いきなりテレビの取材を受けた子供が「よかったです」と答えるかのように、私はいま感想をインタヴューされたら「よかったです」と答えるだろう。
にしても、細かいひび割れにはどうやってセメントを入れ込むのだろう?
私には不可能なことだった。どう考えても、その方策が見つからなかったからだ。
いまさらながらとしか言いようがないが、「終わらざる夏」の次に読んだ浅田次郎作品は「鉄道員(ぽっぽや)」(集英社文庫。表題作ほか全8篇の短編集)。
巷で言われているように私も涙した、ってことはなかった。
「鉄道員」の舞台は北海道。国鉄、そしてその後のJR北海道の、たぶん名寄あたりを起点とする支線の終着駅に勤める老駅長の話である。
この中で以下のようなくだりがある。
国鉄が分割民営化されたとき、全国のJRはみな同じような社名を名乗った。だが、北海道のそれに、「鉃」という奇妙な文字が採用されたことは余り知られていない。「鉄道」ではなく「鉃道」なのだ。
多くの赤字路線を抱え、はなから困難な経営を強いられたJR北海道は、縁起をかつぐというよりむしろ祈りをこめて、「金を失う」と書く「鉄」の字を避けたのだった。「鉃道」 ― なんとも据わりの悪い字ではある。
みなさんはこのことをご存じだったろうか?
私は知っていたような気がする。「そうだったのか!」ではなく「聞いたことあるな」と思ったので……。たぶん、新聞か何かで読んだんじゃなかろうか?
でも、「鉄道員」を読むまでそのことは忘れていた。失われた記憶……
そんな祈りを込めた社名だったのに、JR北海道はめちゃめちゃの状態になってしまった。金を失うどころか……
JR北海道の車内誌に載っている、JR北海道グループの広告である。
ほらね、先が出てないでしょ?“失”じゃなくて“矢”でしょ?
そういえば、JR北海道では枕木をコンクリート製のものに急ピッチで交換していくらしいけど、となると古い枕木は大放出されるのかな?安けりゃガーデニングでもっと使うんだけど。
あんまり関係ないけど(そして、決して皮肉なんかじゃなく)、チャイコフスキー(Pytr Il'ich Tchaikovsky 1840-93 ロシア)の交響曲第6番ロ短調Op.74「悲愴(Pathetisvh)」Op.74(1893)。
作品についてはこちらをご覧いただければと思うが、今日ご紹介するのはバーンスタイン/ニューヨーク・フィルの演奏。
このシンフォニー、有名なのに自分の好みに合う演奏となるとなかなか探すのがたいへん。帯に短したすきに長し、なんてふだん使わない言葉をつぶやいてしまったりする。 チャイコフスキーなんだからやっぱりロシア(ソヴィエト)の演奏家によるものがいいんじゃないかと思いがちだが、たとえば昔から定評のあるムラヴィンスキー/レニングラード・フィルの録音は、どうも私にはしっくりこない。
「悲愴」というタイトルにこだわる気はあまりないが、演奏がどの程度おセンチかという部分で好みが決まるんじゃないかと思う。
で、バーンスタイン/NYPが「悲愴」(あるいはチャイコフスキー)という組み合わせはなんだかミスマッチのような気がするが、彼らしいドラマティック(一歩間違えれば“くさい”)演奏。
第1楽章もやや遅め(たっぷりと歌う)が、なんといっても第4楽章。通常は11分ほどの演奏時間だが、バーンスタインのこれは17分もかかっている。
それだけみても、正統的というか一般的というかまともな演奏ではなく、典型的な名演とは言えない。もう老牛の歩み。止まる寸前、倒れ込みそう。
しかし、この遅さながらも弛緩してると感じさせないのは、迫真の演技、いや演奏ゆえに違いない。
私は、たとえばムラヴィンスキーの規律正しき冷徹軍隊風アプローチよりも、対極にあるこちらの方がはるかに好きだ。私自身は、そんなに感情どっぷりのものは好まないはずなんだけど、なんか変だな……
1986録音。グラモフォン。
最晩年のベートーヴェンの7番のテンポと同様、このころもうバーンスタインの体調もけっこうすぐれなかったのかもしれない。
いつまで振れるかわからない。だからゆっくりと噛みしめるように……。
って、でも、指定の速度を守ることは、やっぱり大事なことなんじゃないかとは思う。
追加報告
昨日、札幌でずぅ~とかかっている歯科医院の担当衛生士さんと電話で話すことができた。現在私が置かれている状況では、やはり治療に回数と期間を要するだろうということで、こちらの歯科医院で治療する方が良いというアドバイスをいただいた。
ありがとうございます。
そうさせていただきます。
歯医者さん検索をしなきゃ。社の女性社員が自分が通っている良い歯医者があると教えてくれたが、それはセンセーがハンサムだからという理由だった。突き詰めていくと……
でも、ハンサム同士が顔を近づけることはあまりにもビューティフル・シーンになっちゃうから、そこに行くのはやめようと思う。
3連休のドラゴ、いや中日である。
おとといの夜は幸い大きな障害もなく自宅へ帰ってくることができた。
高速道路はずっとほぼドライ。だが路面には障害となるキレもコクもなく運転しやすかった。
節約のために夕張インターで降り(ここで下りた方が早く着くし、料金節約になる)、274号線を少しばかりと走り、さらに抜け道となる道道(北海道だから県道じゃなくて道道)に入り由仁を経由して長沼へ。
この間も道路はドライ。道路わきの雪山もほとんどないではないか!こんなに雪解けが進んでいたのかぁ~。
で、長沼町内のスーパーに寄った。トイレを借りるためである。
だが、トイレだけの借りっぱなしは騎士道に反する。私は騎士でも棋士でもないし、岸と申す者でもないが、紳士ではある。自称だが。
そこで、紳士道に反しないために、帰宅後の晩酌用にと缶ビールを買った。加えてちょっぴり紳士らしくないが、ワゴンセール中の日清のワンタン麺も買った。
が、私の正しき行為は失敗だった。
その店からわが家までは、実はさらに30分ほどかかる。家に着いて缶を開けると、プシュッ!ではなく、プシュー~っというガス漏れのような音がし、カニの泡みたいな(でもビールの泡なのよ)白い泡が大量に出てきた。振動と冷却不足のせいだ。
そしてやっぱり、最悪なことに口にするとすっかりぬるくなっていた。でも、「男は黙って札幌ビール!」って具合にがまんして飲んだ。
そしてまた、夕張でも、由仁でも、長沼でもあんなに雪がなかったのに、わが居住区域はやたら雪が残ってる。どうしたことだろう?自衛隊が雪まつり会場と間違えてわざわざ雪を運んで下さったのでは、と思われるほどだ。幸い自宅前の歩道には雪山はなく、問題なくカーポートに車を入れることはできたが……
連休初日の昨日、私がまずしたことは散髪である。
断髪と読み間違えた方は増税前にメガネを新調することをお勧めしたい。
伸びた髪を切って記者会見に……って、しゃみゅりゃぐぉぅちじゃあるまいし、とにかくスプリング・フェアがあちこちで開催されてるようなので、なんとなくスプリング・ヘアにしてくる。「いつもどおりで」ってバーバーのマスターに言っただけだけど……
あとほんの少し残したまま中断していた浅田次郎の「終わらざる夏」の中巻をようやっと読み終えた。読み始めるとぐんぐん進む。「きことわ」と違って苦痛にならない。ストーリーに引き込まれ、登場人物に魅かれる。
どういう傾向の小説が好きかはもちろん人によって違う。が、いくら芥川賞受賞作とはいえ、私は「きことわ」ですっかりやられた。濃霧の中で理研の記者会見の説明を聞いてるような、つまり退屈、イライラ状態。盛り上がりをみせない、どことなく暗いトーン。そして私は途中棄権。
浅田に戻るとほっとした。
この話、千島列島が舞台となる。
終戦時のソヴィエトの侵攻である。
で、ソヴィエトは今はロシアだが、ウクライナ情勢がいろいろ厄介なことになっている。
大露西亜が小露西亜をにらんでいるわけだ。どっちが正義か私にはわからないが…… チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-93 ロシア)の交響曲第2番ハ短調Op.17「小ロシア(Little Russian)」(1872/改訂1879-80)。
私が思うに、チャイコフスキーのシンフォニーの中ではいちばん田舎テイストの強い作品。というか、6曲中この第2番が異質な存在。そして田舎臭く盛り上がるのだが、それにけっこう興奮させられちゃうのである。
作品についてはこちらをご覧いただくとして、ゲルギエフ/ロンドン交響楽団による演奏はかなり都会的に洗練されたアプローチ。変な言い方だが、かなり本来のチャイコフスキーっぽく仕上がっている。
この曲をここまで格調高く仕上げている演奏は、そうそうないのではないか?
2011年ライヴ録音。LSO Live。SACD。
話が前後しちゃったが、小ロシアというのはウクライナのこと。
覚える必要はないが、ウクライナのことを漢字で烏克蘭、または、宇克蘭と書くそうだ。
「終わらざる夏」の下巻にこれから入る。
あらすじは、
1945年8月15日、玉音放送。国民はそれぞれの思いを抱えながら、日本の無条件降伏を知る。国境の島・占守島では、通訳要員である片岡らが、終戦交渉にやって来るであろう米軍の軍使を待ち受けていた。だが、島に残された日本軍が目にしたのは、中立条約を破棄して上陸してくるソ連軍の姿だった。 ― 美しい北の孤島で、再び始まった「戦争」の真実とは。戦争文学の新たなる金字塔、堂々の完結。
というものだ。
まったく関係ないけど、ウインナーソーセージの袋ってどうして必要以上に大きいんだろう?
マジック・オープン(こちらがわのどこからでも開封できます)で袋を開けて、中から出てくるのは、あらあらたったの5本か6本。あの袋の大きさなら10本は入っていそうな錯覚に襲われる。
毎度のことながらも、慣れることができない。このガッカリ感に……
小和田雅子さんと川嶋紀子さんの運命的なつながり、かどうかはわからないが、当時こういうことに気づき教えてくれた人がいた。
オ ワ ダ マ サ コ
カ ワ シ マ キ コ
このようにお二方のご結婚前の姓名の文字を交互に読んでも、オワダマサコとカワシマキコとなる。
凄い!私は「うぉぉぉぉ~っ!」と驚いたものだ。
これは単なる偶然なのだろうか?っていうか、これって有名な話題だったんでしょうか?
朝吹真理子の「きことわ」。
皇族に関する小説ではまったくないが、タイトルでそのことを思い出したのだった。
「きことわ」は第144回芥川賞受賞作品。
あらすじは、
貴子(きこ)と永遠子(とわこ)。葉山の別荘で、同じ時間を過ごしたふたりの少女。最後に会ったのは、夏だった。25年後、別荘の解体をきっかけに、ふたりは再会する。ときにかみ合い、ときに食い違う、思い出。縺れる記憶、混ざる時間、交錯する夢と現。そうして境は消え、果てに言葉が解けだす―。やわらかな文章で紡がれる、曖昧で、しかし強かな世界のかたち。小説の愉悦に満ちた、芥川賞受賞作。
というもの。
なぜ私がこれを買ったか?
1つは先日紹介した新聞記事で第1位に選ばれていたから。
2つ目は文庫本(新潮)になっていて、定価が税別370円と安かったから(こう考えるとタバコってやたら高いものだ)。
その新聞書評に、「文体のたおやかさは格別にして唯一無二!」とあって、私としてもムニムニしてみたいと思ったのだった。
小説の中に、
Deutsche Grammophonのレコード
っていう記述が出てくる。 いまでももちろんグラモフォンのレコード(CD)はあるが、私にとってグラモフォンといえば高級ブランド、クラシック・レーベルの象徴だった。好きか嫌いかはともかく、有名アーティストを多く抱えていたし。まっ、その筆頭はなんといってもカラヤンだったわけだけど。
学生の身分では廉価盤にしか手を出せないわけで、グラモフォンにも廉価盤はあったが、ほかのレーベルの廉価盤よりも高めの価格設定で、しかもたいした演奏でないものが多かった。
だから私にとってグラモフォンは憧れの縁遠いレーベルだった。
CD時代になってもグラモフォンの廉価盤は、ほかが1200円とか1300円なのに、1800円とか全然廉価じゃないじゃんっていう強気の商売だった。
鈴木淳史の「クラシック 悪魔の辞典【完全版】」(洋泉社)では、こう説明されている(ただしこの本の初版発行は2001年12月)。
DG[ドイツ・グラモフォン]
カラヤンを捕まえるまではペイペイだったくせに、今では権威を音に変えて出荷するレーベルとしてクラシック界に君臨。ほかのレーベルがジャケット・デザインに凝るために、レーベル・アイデンティティを徐々に縮小しているのに、ここだけは昔ながらの黄色いラベルを鎮座させておくという鷹揚さ。ただ、権威的だと言われているわりには曲者アーティストが多い。
今はDGのディスクも他のレーベルとの価格ギャップはあまりなくなったが、それはユニバーサル・ミュージックの一員になってしまったってことが大きいんだろう。もう、グラモフォンだけを特別扱いはできないのだろう。ほかのレーベルも一緒になったのだから。
では、グラモフィンのレギュラー盤のLPを、高校生のときに清水の舞台から飛び降りる気持ちで買った1枚。それもお好きではないカラヤン指揮によるものを。
チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-93 ロシア)の「ロココ風の主題による変奏曲(Variations sur un theme rococo)」Op.33(1876)。
実はこのLPを買った目的はこの曲ではなく、ドヴォルザークのチェロ協奏曲。独奏はロストロポーヴィチで、オーケストラはもちろんベルリン・フィル。
ドヴォ・コンの名盤と言われていたために西友西野店(当時)のミュージックショップ国原で買ったのだった。失礼ながら、こんな店でこんなLPを仕入れるなんて、担当者はかなりの勇気の持ち主か、マーケット・リサーチという概念がないか、カラヤン・ファンだったのだろう。でも、純な少年が買って行ってくれてよかったね。
「ロココ風~」はB面のドヴォ・コンの第3楽章のあとに収められていた。
ドヴォ・コンの方はここで紹介しているように、私としてはカラヤンが棒をフリフリしていることが悔しいが、でもこの曲のいちばんの演奏のように思う。録音は古くなっちゃったにもかかわらず……。だからCD時代になっても、やっぱり買っちゃったわけだ。
で、たぶん(他の演奏をあまり聴いたことがないので、たぶん)「ロココ風~」にとってもこれは名演なんじゃないかと思う。
なお、この曲はその名の通りロココ様式の主題と変奏だが、主題そのものはチャイコフスキーのオリジナルである。
繰り返しになるが、カラヤン指揮ベルリン・フィルの演奏。チェロ独奏はロストロポーヴィチ。
1968録音。イエロー・レーベルことグラモフォン。
で、小説を読んでみてムニムニしたかって?
私にはよくわからなかったな。
たおやかと評される文章は、私にはタラタラに感じた。
こう言っちゃ失礼かもしれないけど、途中で飽きちゃった。で、1/3を残したところで放り投げてしまった(←イメージ表現でございます。そのような乱暴なこと、ワタクシいたしませんで、きちんと本棚の上に静かに放置しております)。
先日出張に行ったときのこと。
昼は何にしようかと考えた結果、某そば店の本店に行くことにした。
が、着いたら“本日定休日”。
そこで、今度は別なそば屋を目指した。
が、そこも“本日定休日”。
結局は道沿いの中華料理店で担担麺を食べたが、担担麺に肉そぼろと温泉玉子がのった小ライス、ザーサイにウーロン茶がついたセットが900円と、そのお安さに驚いた。
味?
美味しかったですよ。けど、細めの麺は私の好みとはビミョーに違っていた。
その日の夜。
現地の方々の話によると、最初に向かった某そば店の本店はあまり美味しくないということだった。二流の味だと酷評する人もいた。
でも、その人たちが口をそろえて言うには、郊外にある支店は美味しいということだった。
本店と支店でそんなに味が違うものかと不思議な感じもしたが、もしかすると口裏を合わせて私たちを騙そうとしたか、あるいは定休日で食べ損ねてかわいそうだと思って慰めてくれたのかもしれない。
翌日、その支店に行って親子そばを食べたが、ふつうだった(ふつうに美味しかったということ)。
さて、演奏によってはダサい二流作品のように聴こえちゃう。
チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-93 ロシア)の交響曲第3番ニ長調「ポーランド(Polish)」Op.29(1875)は、その危険にさらされている作品の1つに思える。ちゃんとしないと(子どもに「ちゃんとしなさい!」と叱るように、けっこう曖昧な感じだが)散漫になってしまう。
前に触れたように「ポーランド」というのは第5楽章(この曲は5つの楽章からなる)に「ポロネーズのテンポで」という指示があることから、イギリスで演奏されたときに付けられた題である。だから音楽そのものにポーランドがどうしたこうしたという意味はない。
ちなみにポロネーズというのはショパンの作品なんかで言葉は有名なので、ボロネーゼのマヨネーズがけと思う人は数人しかいないと思うが、ポーランドの代表的な舞曲である。ただし、民族的なものではなく宮廷の儀式の中で発達したという。
ゲルギエフ/ロンドン交響楽団の演奏は、ハッタリをかましてアドレナリン効果で表面的な興奮をもたらすようなものではなく、豊かな情感でこのシンフォニーの魅力を余すところなく伝えてくれる。
いたずらに重くもなく、かといって軽過ぎず、私としてはとても満たされる演奏だ。とにかく弦の歌い回しが美しい。
2011年ライヴ録音。LSO Live(SACD)。
某そば店の名を知りたいって?
それは書くと本店にご迷惑をおかけしかねないので、遠慮しておく。しかも私自身は本店で食べたことがないのだし……。
先週末は関東を中心に大雪だった。
すごい状況だったし、まだ影響は続いている。
立ち往生している車のドライバーさんたちのことを思うと、気の毒で心が痛む。
それはともかく、先週急に札幌に行く用ができた。だから行って帰ってきた。
と書くと身も蓋もないが、かといってこの出張でロマンティックな出来事もドラマティックな展開もシステマティックな行動もしなかったのでしょうがない。
が、JRに乗ってだらけた態度で座り、ぼーっと窓の外を眺めていたら、雪原にキタキツネがぽつんとたたずんでいるのが見えた。
いや、ただそれだけ。
これでそのキタキツネがこっちに向かって手を振っていたとかだったら驚き目いっぱい、これは幻想に違いないと背筋を伸ばして座り直すところだが、そんなことはなかった。
それと、東追分駅というところで行き合い列車待ち合わせのために臨時停車したときに(毎日そういうダイヤで運行しているんだろうから、臨時でもなんでもないわけだが)、線路脇のススキがシバレていて、やや幻想的だった。
それで携帯電話で撮ってみたが、写真で見るとちっとも幻想的じゃない。ただの凍りついた枯れ草だ。 そんなわけで、チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-1893 ロシア)の交響曲第1番ト短調Op.13「冬の日の幻想(Winter Daydreams)」(第1・2稿1866,第3稿'74)。
作品についてはこちらに書いているが、今日はゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団の演奏で。
どういうわけか、私はゲルギエフというと濃ゆくて脂ギッシュな演奏をイメージし、またそれを期待してしまうのだが、たいていの場合、ゲルギエフはそんな音楽づくりはしていない。
どこでどう私は思い込んじゃったのだろう。
いや、昔のゲルギエフの演奏はもっと野蛮だったのかもしれない(確認してないけど)。
熟しちゃったのね、きっと。
チャイコフスキーの音楽はいまさら言うまでもなく、ロシア5人組よりもはるかに西欧的。あまり土臭さ、野暮ったさがない。洗練されている。
ゲルギエフのこの演奏も実に洗練されたもの。チャイコフスキーの音楽のはかなき美しさ、ちょっと病的なテンションをばっちり押さえた見事な調理。
情感豊か、抒情性たっぷり。最上級の仕上がりだ。
でもほんの、ほ、ほんのちょっとだけど何かが足りない。
塩か?コショウか?みりんか?涙か?
たまには舌先をピリリと刺激するような絶叫箇所があったらなぁ(だって、チャイコフスキーには絶叫、号泣が似合うし)。
遠慮せず取り乱したっていいんだよ、と言いたくなる。
とはいえ、「その要望は却下!」というぐらいすばらしい仕上がり。
2011年ライヴ。LSO Live(SACD)。
CDジャケットとススキの写真。なんとなく、雰囲気が似てません?
今週は東京と札幌へ出張したが、けっこう疲れた。
それは暑さと精神的なものによる。
月曜日の夕方に羽田に到着。
ところが、都心に向かったものの、そのあとの予定の時刻ぎりぎりになってしまったため(精神的疲労その1)、途中、走りはしなかったが相当なはや歩きをした。都民は私がスーツ姿の競歩選手と思ったかもしれない。
荷物もあるので、スーツを脱いで手に持つのも邪魔。
だもんだから、都民のみなさんと違って、クソ暑い中スーツを着たまま動き回ったのだ。
汗が噴き出て、脱水症状になるかと思っているのに、沿道には給水ボランティアがいるはずもなく、冷蔵庫から出して結露している干物のような状態で、その会場についた(暑熱疲労その1)。
が、ほかの人たちも遅れていて、はや歩き損のくたびれ儲け、だった。やれやれ……(精神的疲労その2)。
そのあと、そんな状態でビールを飲んだら、乾いたスポンジに水をかけたかのように急速に吸収されたのか、けっこう酔いが回るのが速かった(暑熱疲労その2)。
しかも、凝りもせず帰りにコンビニで缶ビールを買ったが、ホテルの部屋で飲もうとすると、なんとグラスが置いてない。あるのはマグカップだけだ。
私はマグカップでビールを飲むのが大嫌いだ(缶から直接飲むのはもっと嫌いだ)。
ってことで、しかたなくマグカップにビールを注いで飲んだが、どうも美味しく感じなく、悲しい思いを胸にそのままふて寝した(精神的疲労その3)。
翌日は昼過ぎまで会議。
昼食に弁当が用意されていて、これがなかなか豪華で、これだけでも東京に来たかいがあったわいと思わないでもなかった(一時的幸福その1)。
そのあと今度は羽田から千歳へ飛んだが、飛行機は完璧なまでに定刻通りで自分がパイロットでもないのに、「よし、やったぞ!」という満足感に浸った(一時的幸福その2)。
ところが到着ロビーに出ると、なぜかバスの切符売り場に長蛇の列。
なにかあったのかな、と思ったら、ほんとになにかあったわけで、JRがゲリラ豪雨のためにレールが冠水し運転を見合わせているという。
やれやれ、悲惨だ。いつになると動くのだろう。あるいは、バスに乗れるのはいつのことになるのだろう。東方を向きながら途方に暮れた(精神的疲労その4)
完璧なフライトがぱぁになってしまう。
携帯で-私はスマホとかは持っていない-JRのサイトを知らべると、今まさに運転再開という案内が。
駅に向かうと、すぐに再会後一番列車となる列車が発車するというアナウンスが遠くから聞こえてきた(一時的幸福その3)。
私は走った。前にはおじさんも走っていた。
吹き出す汗をぬぐう暇もなく改札まで行くと、地下のホームからは。一番列車が私もおじさんもおいて、プシュゥ~ッというドアが閉まる音と、ガッタン、ガッタン、ガタン、ガタン、ガタガタガタガタ……という、発車してしまった音がした(暑熱疲労その3と精神的疲労その5によるフーガ)。
悲しい。
が、もう1編成ホームに停まっていた。
それに乗り込む。
一番列車が出たすぐあとなので、まだ座席に空きがあった。
私はそれに乗り込み、座った。
車掌があと10分ほどで発車するという(優越的幸福その1)。
結局、乗り込んでから20分くらい待たされたが-バスの切符売り場での長い列を見たときに、これは長期戦になるかもと、トイレに寄って用を足しておいてよかった-、それでも発車してくれた。アナウンスでは「このあとの列車がくるのは、かなりあとになります」と叫んでいた。私はラッキーだったと言えよう。悲愴感は薄らいだ(優越的幸福その1b)。
「エスカレーターが混みあってます。階段をご利用ください」というアナウンスが流れている。
私が改札を通ったあとも、ホームへの下りエスカレーターに乗ろうとする人たちがだんご状態になっていた。私はもちろん階段を使ったが、なんであんなに混んでるのにエスカレーターに固執する人が多いのか、私には不思議だ(固執する人が多いから混むんだろうけど)。
列車は140分遅れで札幌に到着。140分というのはその列車の本来の発車時刻からということで、私にとっては20分遅れ程度。なんか、ずっと待っていた人に申し訳ないっす(優越的幸福その2と一時的幸福その4によるロンド)。
翌日は朝一番で会議があり、終わったあと、ワケあっていったん自宅に戻り、またすぐに帰るために駅に向かう。
そのときである。
上空からカラスの尿攻撃を受けたのは。
幸い肩をかすめた程度で、水爆弾は歩道のアスファルトを濡らしたが、それでも肩がちょっと濡れたのは大いに憤慨すべき悲しい出来事だった(精神的疲労その6)。
こういうときに限って、帰りの特急の隣の席には女性が座る(精神的疲労その7)。
「この人、カラスのションベン臭いわ」と思われてるんじゃなかろうかと、まさに肩身の狭い思いをしたが、途中の駅から老人の団体ツアー客がどっと乗り込んできて満席状態。
車内は一挙に古いふとんのような臭いに包まれ、おそらくはカラスの臭気は目立たなくなったことだろう(合理化思考その1)。
でも、隣の女性は平気で美味しそうに鮭弁当を食べていたから、そもそも私はカラスのションベン臭くはなかったのかもしれない(合理化思考その2)。
そんなこんなで、総体的には“喜び<悲しみ”という結果だったので、チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-93 ロシア)の交響曲第6番ロ短調Op.74(1893)。
ご存知「悲愴(Pathetique)」である。
作品についてはこちらをご覧いただくとして、本日は若き日のマゼールの力演を。
オーケストラはウィーン・フィルだが、鳴ってる鳴ってる、鳴らしてる!
感情の起伏が大きいが、とはいえ、へんなクセはない。むしろ正統的な情熱的名演。
デッカの録音は、特にこの当時はそのように感じるが、各楽器の音を鮮明に拾い上げようとするもの。音は良いが、反面オーケストラ全体の立体感に不自然さが出るところがある。
大太鼓の音がドライすぎるのが、私には不満。
1963録音。デッカ。
で、帰宅後に恐る恐る問題の箇所に鼻を近づけてみたが、妙なる臭いはしなかった。気が抜けた……(精神的疲労総仕上げ!)。
すでにご承知のとおり、月曜日は朝イチバンで病院に行った。
2か月ごとに行なっている採血のためだ。
私の日常生活が褒められるものであったかどうかの裁決が採血でわかるわけだ。
悪いことをしてるわけじゃないのに(かといって、自慢できるようなことでもない)、気分軽やかってふうにはならない。
チャイコフスキーの“運命の動機”がどこかから聴こえてくる錯覚にとらわれる。
“運命の動機”といっても、交響曲第4番冒頭のファンファーレではなく、第5番冒頭の重い歩みのような“運命の動機”の方だ。
いつもと違い、病院の待合室には他に1人も患者がいなかった。だからすぐに検査室に呼ばれた。
血圧……前回と変わらず。
体重……前回と変わらず。
うん、良い兆候のような気がしないでもない。
そして、いつもは左腕なのに、この日は血管が恥らって姿を見せず、困惑した看護師さんのために替わりに右腕を差し出し、それに感謝する看護師にお注射針を打たれ、注射器2本分の血を捧げた。
結果と診察は午後。
その間に会議。
結果を聞きに行くのは、当然のことながら血抜きのときより足取りが重くなる。
牛歩しながら、私は最近の食生活を今さらながら振り返ってみる。
確かにお酒を飲み過ぎた日々が続いた。
しかし、このところ、朝はご飯茶碗1杯のご飯にとどめてきた。おかわりはしなかった。
とろろこんぶを積極的に摂取した。
野菜ジュースも毎朝飲んだ。
昼だって、ラーメンライスはずっとやめている。
かしわそばや小さいサイズの弁当を選択することも多かった。そのせいで午後2時半には空腹になることも1回や2回でなかった。
夜の席でも食べすぎないようにした。
肝臓に良いかもと、ヘパリーゼも飲んでいる。
が、このところおなかを壊していないということは気がかりだ。
つまりきっちりと消化吸収されているということだから……。消化効率が高まっている可能性がある。肉牛なら喜ばしいことだが、私は肉用種ではない。
そして、運命の時がきた。
医者が検査結果表を取り出す。
中性脂肪の値は前回より上がっているが、それ以外の数値、つまり肝臓に関するものは軒並み下がった。ヘパリーゼ効果か?
そうそう、ネットで「ヘパリーゼを飲み続けると血中の尿酸値が上がる」というのを見かけたが、今回の私の結果を見ると、尿酸値も下がっており、ヘパリーゼで尿酸値が上がるという傾向はみられなかった。もっとも、私は1日に2錠しか飲んでないが(本来は2錠×1日3回ということだ)。
値が下がったのは良いことだが、肝心の中性脂肪が上がったのはいただけない。何年にもわたり上がったり下がったりを繰り返しているのだが、なかなか低位安定しない。
医者は薬の増量もしくは薬の変更を考えていたが、結局現状通りでいくことにした。
病院のドアから外に出ると、同じ5番の“運命の動機”でも、終楽章の輝かしいものが鳴り響くような気分だった。
マゼール/ウィーン・フィルによるチャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-93 ロシア)の交響曲第5番ホ短調Op.64(1888)。1963年の録音。このころはマゼールもまだ若かった。1930年生まれだもん。
ふつうに良い演奏だ。
スラヴ舞曲で見せたような狂気の世界はここにはない。それがちょっと残念だが。
第1楽章は陰鬱すぎない始まり。提示部に入っても足取りは重すぎず、かといって軽々しくもない絶妙なバランス。適度なパワーもある。ロシアっぽさはあまりないが、逆に洗練された美しさがある。
第2楽章は慰めに満ちている。これまた、とても美しい。
第3楽章ではワルツを伸びやかに歌い上げる。
終楽章は堂々としている。ロシアのオケのようなどんちゃん騒ぎに陥らず、さわやかな後味が残る。
デッカ。
話は変わるが、自宅に帰っていた火曜日の朝のこと。
目覚めて、メガネをかけると、正面の壁の上の方にグレーゴル・ザムザ、じゃなかった、ゲジがへばりついているではないか!
なぜ、神聖なわが家に?
私は忍び足で、でも迅速に階下に行き、掃除機を携え戻り、そいつの近くに慎重にホースを近づけ、吸い込んだ。
そのあとはしばらく掃除機のスイッチを入れたままにし-そうすればゴミパックの中で、あいつは強風によって体力を消耗すると思ったからだ-、そのあと外に持っていき、外でゴミパックを取り出し、ゴミ袋のなかに入れた(考えてみれば、パックの吸い込み口の穴をガムテープでふさぐべきだったかもしれない)。そのゴミ袋は、物置の中にある。
にしても、こんなことが起きたからには、せっかく自宅に帰っても安眠できない。
困った。
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